父に軽トラで追いかけられる三時間前、僕は出奔した。
二十一世紀最初の春、夜明け前はまだ底冷えするほどだったが、ただひとり僕だけは燃えるような気持ちを抱えていた。解放感が胸を埋め、道の先にやって来た太陽が未来を示しているような気がする、そんな朝だった。
「あーあ? そないに急がんでもえぇやろが……」
「なぁんもう、善は急げぇ言いろうが」
「はぁ……シいては事をセ損じるぅ……」
「急いては事を仕損じる」
「なぁ、細かいなぁ。これだけぇ、優等生は」
「間違っとるのを直しただけだで! それよりぃ、ノリは大阪行くだぁ? 泊めてぇよ、なぁ」
「あぁ?」
てくてくとただひたすらになれた山道を降り、僕が最初に尋ねたのは郡家の筺原だった。筺原は今でも繊維問屋を続けているが、嘉平さんの養父の次の代で大阪に移転しているので、郡家の筺原に住んでいるのは会社を引退したご隠居夫婦とその孫、筺原哲之だけである。
今朝、僕が店に辿り着いた時、ご隠居は早くも店を開け、半纏を着込んで縁台に腰を掛け、ぷかぷかとたばこをふかしていた。そして僕を見るとしわしわと相好を崩し、おおいと手を振った。
心の底から嫌だという顔をして、哲之はメガネの向こうから僕を睨んだ。寝ているところを叩き起こしたこともあり、あまり機嫌は良くないらしい。
「ええやん」
「なんでぇ。なんで尾古なんぞ泊めにゃいかんねや……」
「ええやろ、友達おらんくせに。さみしいで」
「ああ?」
嘉平さんは死ぬまで筺原の姓を名乗っていたし、墓も筺原に入ったが、大阪で生まれた祖父は姓を尾古に戻した後、村に帰ってしまった。嘉平さんを含む家族全員が流行病で死んで、祖父が一人残されたからだ。治郎吉さんは祖父の面倒を見るのもやぶさかではなかった様子だが、祖父はまだ存命だった祖父の祖母、つまり僕の高祖母のもとにどうしても帰りたがったので、泣く泣く手放したのだった。
なぜそれほどまでに祖父が村に帰りたがったのか、僕は知らない。筺原に世話になったほうが裕福な生活はおくれただろうし、治郎吉さんも店のものも祖父のことは生まれた時から知っていたのだから、親なしなどとはいじめなかったはずだ。もしかすると本家から戻ってくるように催促されたのかもしれないが、祖父はそのことを自分の中から消してしまった。ひょい、ひょいと記憶を消す癖のあった祖父なので、僕は彼がいったいどんな人物だったのか、いまだはっきりとわからないでいる。
ともあれ村に戻った祖父と筺原の関係は細く続いたが、父の代あたりからほとんど交流はなくなってしまっていた。それでどうして僕が筺原家に入り浸っているかといえば――平たく言えば高校に入学した時に、三従兄弟に当たる筺原哲之が同じクラスにいたからである。
「いやじゃ、誰が泊めるか」
にべもない拒否である。
「なんでぇ。飯も作るし洗濯、掃除もやったるよ、な」
「いやじゃ言うたらいやじゃ」
「ええがな、ひとりやったら寂しいで」
「ひとりでないもん」
「なんでぇ。かあちゃんくるだか」
「あほか! 都会出てったらまず彼女やろが。彼女作ってうぇーいうぇーいじゃ」
両手を天井に向けて妙なポーズを取った哲之である。顔は真顔である。そういう男なのである。
「ほんな、すぐに彼女なんぞできるかいな、ノリがぁ」
できるわい、とすげなく哲之は言い、つらそうに鼻から息を吐いて枕を抱え直した。
哲之は中学までは両親と一緒に大阪で暮らしていて、本人曰くエリートだったそうだが、なにをどう道を間違ったのやら高校はこの片田舎に進学した。理由は知らない。本人が語らないからだ。
ちょうど同じタイミングで会社の会長職を退いたご隠居、筺原源太郎さんが田舎にひっこむと言い始めたのだけは確かで、その面倒を見るため――どちらかというと面倒を見てもらっているようにしか思えないが――というのが表向きの理由ではある。意外に祖父母っ子の哲之なので表向きの理由も嘘ではないのだろうが、あまり大阪の話をしない哲之の胸の中に一物があることくらい、僕もわかっていた。世の中には聞かないほうがよいこともあるものだ。
さて、そんな哲之に面倒を見てもらっている――というよりは面倒を見てやっている源太郎さん夫妻は、祖父の従兄弟にあたる。祖父と五つ、六つ程度歳の差のある源太郎さんは生前の祖父とはかなり仲がよかったらしく、僕よりもずっと祖父のことには詳しい。祖父の話になると目をしわしわとさせ口をだらしなくほころばせながら訥々と話をするので、僕は彼のことが好きだ。
「ノリんとこがだめなんやったらどうしようかなぁ……どうにかして都会に出られんもんかね、いつまでもここにおるわけにもいかんしぃ」
「バイトせぇ」
「ここは村から近すぎるがな。もっと麓に降りにゃ」
そりゃそうやな、と哲之は顎を撫でた。
僕に一人暮らしを始めるだけの資産がないことは哲之もよく知っている。僕と父の確執をこの三年間、一番間近に見てきたのは哲之だったからだ。はじめはよくわからんと不機嫌そうにしていた哲之だったが、最近はさっさと見切りをつけて逃げるなら逃げたほうがいい、などと言うようになった。
あれは話し合ってどうにかなるような相手でない、とっとと違う場所に行ったほうがええこともあるよ。彼がなにやら悟ったような表情でポツリと言った日のことは、今も覚えている。僕たちは三階の窓から校庭を迂回して流れる鮮やかな傘の群れを見ていた。窓ガラスを雨が撫で、景色がゆがんでいた。
「麓で住み込みでもすれぇ」
「住みこみってなにかあるかなぁ」
「なんでもあるやろ。工場とか皿洗いとかぁ。なぁ、何も考えんで出てきぃよったんか? まったくぅ」
「あそこいったってなぁんもできんもん。高校行かんようになったらまっすます町におりづら――」
「おう、来ぃよったぞ」
ふ、と顔を挙げた哲之は枕を抱えたまま目を丸くした。しかしそれにしてもパンツ一丁にTシャツでまったく様にならない姿だ。これでなにが彼女だと僕は心のなかで毒づいた。
「来ようたってなにがぁ」
「自分の親父に決まっとるじゃろが」
「なに? もう?」
耳をそばだてる。確かに階下からは何やらがやがやと声がしている。あれは源太郎さんの奥さんの声だ。源太郎さんも何やらかすれた声で喚いているが、ひとり低い声が紛れ込んでいるのが僕の耳にも聞こえた。
まずい。
僕は飛び上がって素早く辺りを見回した。まずい。
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