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私が知る母のすべて

プルーストが読みきれない(第7話)

高橋文樹

エセー

11,841文字

介護をしながら働いてきた人はこれまでもいた。しかし、中年男性という近代日本社会の「イエ」において最も優遇されてきた人がよりによって介護者になる、しかも大量に、というのは未曾有の事態だ。私の体験を綴った本書がそうした人々を少しでも救うことを祈る。

あとがきに替えて、私の母について思いつく限り書き残しておきたい。そうすることをきっと母も望んだろうし、そんなものを書く人間は私以外にきっといないだろうから。

昭和のフェミニスト

母は一九四八年、昭和天皇と同じ誕生日に永松家の次女として生を受けた。千葉県茂原市が本籍地だが、父親、つまり私の祖父が日立に勤める転勤族で、よく引っ越したようだ。中学ぐらいで土浦に引越し、土浦一高に進学した。土浦一高は旧制土浦中学を前身とする茨城県南の名門校で、当時から県内有数の進学校だった。そもそも一九六〇年代に女子が地方の名門県立高校に進み、そこから早稲田大学第一文学部へ進学したというだけで、母が当時としてはかなり例外的な位置にいたことはわかる。その後、両親とともに小金井市に移り住んだ。

団塊世代で早稲田在学ということもあり、学生運動にも当然参加した。デモにも積極的に参加していたようで、ヘルメットをかぶってゲバ字のプラカードを持ち叫んでいる(やや演劇的な)写真も残っている。母が所属していた劇団の一人が内ゲバ殺人の犠牲者になったということを昔に聞いた覚えがあり、これはもしかしたら有名な川口大三郎なのかもしれないと調べたが、時系列的にはもう少し前の話のようだ。母の大学生時代には第一次羽田闘争、東大安田講堂事件、新宿騒乱事件、よど号ハイジャック事件などの重要な事件が起きているし、中核派や革マル派、民青なども幅を利かせていた。母はノンポリ、つまり団体に所属していなかったらしいが、こうした「左翼的なところ」は私もよく覚えていて、生協にもよく行ったし、何らかの集会にも参加させられた。記憶に刻まれているのは、おそらく第二次三里塚闘争の支援集会だと思うのだが、ワゴン車に乗ってやたらに遠くまで連れて行かれたことだ。姉は「途中で自衛隊みたいな人に車を止められて検問されたのが怖かった」と言っていたから、姉弟の二人に異常な体験として記憶されているのだろう。ヘルメットをかぶった人が多く参加し、拡声器で喚いていた。原っぱにはビニールシートが敷いてあって、私はその上で非常に退屈な思いをしたのを覚えている。唯一の娯楽は弁当を食べることだけだった。とはいえ、私はその記憶自体を悪いことだとは思っていない。いろんな人がいろんなことをやった結果にいまがあるんだな、ぐらいの受け止め方をしている。

母の大学卒業後のキャリアはあまりはっきりと聞いたことがない。いくつかの編プロを渡り歩いて仕事をしていたらしく、今でいうフリーランサーや非正規雇用といったところだろう。しかし、時代を考えると女性の働く方法がそれ以外にたくさんあったとも思えない。二九歳の時に同じ大学で三歳上の父と結婚し、私と姉の二児をもうけたが、その後もずっと働いていた。私と姉は保育園で夜七時近くまで預けられていて、一番遅くまで残っている児童だった。小さい頃の記憶としては「とにかく暇だった」というのが正直なところだ。Bブロックという子供が誤飲することのない大きなブロックで巨大なオブジェを築き上げていた。遅くまで家の外にいることが多かった私は、四歳の時に三輪車で二キロ離れた団地の友人の家まで一人で出かけ、周囲の大人を驚かせたりしていた。家にあるおやつも勝手に食べて、ブクブクと太っていた。あとになって知ったのだが、母は一九八四年、つまり私が五歳の時に『われ女修羅となりて』という本を旧姓の永松三恵子名義で北宋社(すでに倒産)から出版している。これは団地新聞『ファミリー』(二〇〇八年廃刊)に長く連載していた明治時代のバリキャリ女性十一人の――当時はバリキャリ自体が存在しなかったのでその苦難は想像するにあまりあるが――評伝集である。あとがきには橋本治、末井昭などとの仕事で知られる高橋丁未子への謝辞もある。母は三つ年下の高橋に向けて「若く美しい編集長」と賛辞を送っている。二〇二六年であれば、書店の「フェミニズム」の棚にもう少し目立つ形で陳列されていたかもしれない。

直木賞作家の妻になる

私が幼い頃、父は家にいて執筆をしていたはずだが、作家の働く姿が偉大だと思ったことは一度もなかった。朝は私が学校を出るまで寝ていて、夜はアパートの奥の部屋にずっとこもっていた。たまに遊びに連れて行かれた記憶もあるが、印象に残っているのは三つ。一つは千葉市緑区土気に住む父方の祖母宅を訪れた時に竹藪でザリガニ釣りをしたとき、父が釣り糸の取り付けに苦労していたのだが、ちょうどそのときうんこ座りをしていたその尻の下に野糞があったこと。もう一つは私と父で自転車で遠出をした帰りで、私の家の近くにはかつて開催されていた国際千葉駅伝で「心臓破りの坂」と呼ばれた急峻な坂――東京大学検見川総合運動場のすぐ脇である――を登っている途中、私は転倒して膝を擦りむいてしまったのだが、父は振り返ることもなくずんずん家に帰っていってしまったこと。そして、父の草野球の集まりに連れて行かれ、夜遅くまで居酒屋で笑い合っている大人たちを尻目にテレビを見ていたことである。父は今、山形郷土館にゆかりの作家として展示をされている偉い作家ではあるが、私はかなり幼い頃からなんとなく「ちゃんと働いていないのでは」という印象を抱いていた。文藝春秋の編集者からの電話を取りつごうとしたら「いまいないって言っとけ」と得意げに言われ、「いまお父さんはいません」と答えさせられたりしていたのだから、それも仕方ない。

そんな一般的な家庭とはだいぶ異なる父は、私が三歳の頃、つまり一九八二年に長野県の木島平に別荘を借りた。別荘といってもなんのことはない、山奥にある廃屋となった保育園を月一万円だかで借りたのだ。なぜ私が四〇年以上も前のことをこんなにはっきり書けるかというと、なんのことはない、父がそれを本に書いているからである。物心つく前ということもあり、私にとっては夏になると木島平に二ヶ月ほど滞在するのが当たり前だった。木島平といえばいまでこそスキーリゾートとして名を知る人も多いだろうが、その「すみれ保育園」は村の中心部からもけっこう離れていて、ぐねぐね曲がった道の先にある秘境と呼ぶにふさわしい場所だった。保育園の裏手にある坂を降りると馬曲川があり、三メートルほどの滝もあった。カラスアゲハが群れをなして滝に止まり水を飲んでいることもあって、一匹ずつが黒い翅をきらきらと翻す様は黒々とした巨塊の生き物を見ているようで恐ろしかった。裏手の川は冷たく澄んでいて、水遊びもよくした。川底になぜか人糞とトイレットペーパーが落ちていてびっくりした覚えがある。園庭には大きなプールがあったものの、整備されていないので底部のコーティングが剥がれ、膝をぶつけると擦りむいて出血した。メインホールの大きな一面のガラス窓には青々とした雨蛙が張り付いて喉を鳴らしていた。トイレはボットン便所で、下に溜まった糞尿の表面をカマドウマが跳ねていた。もし落ちたらとても這い上がれない高さで、夜のトイレはとてもいけたものではなかった。たしか、このときの生活はテレビで放映され、けっこう話題になった気がする。その後、私が六歳ぐらいのとき、木島平に馬曲温泉というのが掘り当てられた。当初は十畳ぐらいの狭い湯船で混浴だったのだが、行政が開発に本腰を入れることになったようで保育園は道路拡張のため取り壊されることになる。このときの父にとって田舎暮らしはなくてはならないものになっていたようで、山形県西川町をあらたな候補地として見つけ出した。山の中腹にある茅葺き屋根の家で、夜に電灯をつけておくとカブトムシがバンバン窓にぶつかって気絶して朝には取り放題だった。玄関前には近所の人が野菜を置いていったし、百メートルぐらい下った家には牛が寂しげに繋がれていた。いちばん近い商店にも歩いて三十分ぐらいかかったし、子供の心踊るような売り物はなかった。私の記憶では離れには一人暮らし用の小さな小屋があって、なんのためにあるのかよくわからなかったが、後年になって深澤七郎『東北の神武たち』を読み、「そういうことだったのか」と合点した覚えがある。この貧乏ライターの田舎暮らしは『田舎暮らしの探求』(草思社、一九八四年)や『ムラの家・ふるさと体験 月山の麓で暮らす』(徳間文庫、一九八七年)として出版され、「田舎暮らしの発信者」として少しずつ注目を浴びるようになる。父が大手版元から小説を出すようになったのもこの頃だ。出版パーティーが木島平で開催され、イナゴの佃煮を食べさせられたことは強烈な記憶として残っている。この頃の父は『黄塵日記』(講談社、一九八八)や『北緯50度に消ゆ』(新潮社、一九九〇)などの五木寛之風国際ミステリー物を書いていたが、徐々に郷土史時代劇『秘宝月山丸』(新潮社、一九八九)へとシフトしていき、時代劇作家になっていく。最後に西川町を訪れたのがいつだったか、私の記憶は曖昧だ。小学校高学年が最後だったと思う。木島平や西川町にはいつもボロボロの白いセダンで長時間かけて向かった。運転するのは母で、というのは父が免許を持っていなかったからであるが、いま思うとかなりハードなドライブだったろう。いつだったか、帰りの長時間のドライブの最中、母が胆石となり、脂汗を流しながら真っ青な顔で運転を続けた。そして、家に着くなり倒れて救急車を呼んだのである。それ以降、西川町にはほとんど行かなくなった気がする。家族としては行かなくなったが、父は一人で行っていたので数ヶ月家にいないこともザラになった。

© 2026 高橋文樹 ( 2026年6月21日公開

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