第一編 ここにいるよ
彼女にはとても素敵な名前がある。気の遠くなるような年月をかけて作られた氷河の断面の淡い青――たとえば、そんな色が浮かびもする。色ではなく、他の形容をすることも可能だ。匂いや、形や、風景や、音や……。
だが、それを積み重ねていったところで、その名の持つ美しさのすべてを表したことにはならないだろう。分解も、還元もできない、不壊なるもの――それが彼女の名前を美しく響かせる。他でもないこの私にとって。
この狭い終の棲家で、彼女の名前を呟いてみる。閉じた唇を開いて、穏やかな楕円を作る。それから、緊張した舌先を口蓋の上へチョンと当てる。たった二音節の短い言葉だ。その名前は、他の退屈な言葉(たとえば、愛)が口から発されるとすぐに空々しく消えてしまうのとは違って、消える前、私の胸にいくつかの思い出をもたらす。そして、私はその名前が消えていく時、まるで自分の肉体の一部が消えてしまうかのような悲しみを覚える。
呼び覚まされる記憶の断片や、私が感じた悲しみ、ほの温かく胸を照らす想い――そういったものの中には、私にとって彼女を彼女足らしめていたもの、つまり、存在の核とでも呼ぶべきものがあるはずだけれども、うまく掴むことはできない。それは決して壊れることがないはずなのだが……たぶん、時間の経過がもたらした感覚のズレが、微妙な陰影、それも、もっとも重要なニュアンスを隠してしまうのだろう。ちょうど、川底に眠る美しい石が、時間と共に退屈な丸みを帯びてしまうように。
ある意味で、それも当然かもしれない。彼女の名前はとてもありふれたもので、凡庸といってもいい。電話帳でも、芸能人の名前でも、なんでもいい、探しさえすれば、すぐにでもみつかるだろう。実際、私はある必要から、彼女の名前を求めて電話帳を繰ってみたことがあった。まったくの同性同名は、その電話帳だけで十九人もいた。それぐらい、よくある名前だ。
しかし、彼女という人間を一挙に捉えることのできる言葉を、私はその凡庸な名前以外に知らない。その名前でしか呼ぶことができない。まあ、名前とはそもそもそういうものなんだろう。誰かが誰かであることを、根本的に保証してくれるものなんてない。最終的には、名乗ること、そして、名を呼ぶこと――それ以外の方法はない。
ありふれた名前を特別なもののように語ることは、開き直りだろうか。無人島に漂着した男が、どこにでもある木を神木としてあがめる――それと同じように、やがて訪れるだろう死を前にして、ありもしない「彼女の本質」などというものを思い描き、退屈な名を愛でているのかもしれない。本当は語るに値しないにもかかわらず。
無駄に言葉を重ねることは望まない。けれど、大事な人について語るとき、その唯一性を直接的に表現できるだろうか、例えば、少年が「王様は裸だ!」と言ったぐらい明快に。たぶん、できない。一番煩雑で、迂遠で、たどたどしい方法しかないだろう。私もいつか死んでしまい、そうしたら、彼女に関する想いもすべてなかったことになってしまうのに、遠回りな道しかないのだ。
『愛するものについて、人は常に語りそこなう』――そんなことを書いた哲学者がいたような気がする。名前は忘れてしまった。今、ふと思い出したので書いてみた。
……もう寄り道を始めている。でも、それはいい兆候かもしれない。うっかり道草を食うということは、その道が遠回りだということ、そして、それゆえに正しい道であることの証拠だから。
M、と彼女の名前を記そう。理由はいくつかある。まず、私みたいな人間が名前を書くと迷惑をかけるだろうということ。次に、彼女の名前を明らかにして、よくある名前だと思われるのは嫌なこと。そして、頭文字は複数を示しうるということ。
これから、Mについて書いていく。うまく終わる保証はない。というより、たぶんうまく終わらない。死の宣告は決まって気まぐれだからだ。明日かもしれないし、何年か先かもしれない。
いや、それでいい。本当に大事なものを巡る言葉は、他に終わらせようなんてないから。
*
まずは、彼女との出会いについて。
その年は、東京で毒ガスがまかれ、神戸で大地震が起き、日本中がうんざりした気分につつまれた年だった。当時のぼくは(あえて「ぼく」と書こう。私はその頃の自分を「ぼく」としてしか思い出すことができない)、そうした大事件の直接的な被害を受けず、また、親元を離れて東京に出てきていたこともあって、それ相応に大学生活を謳歌していた。年を取った猫みたいに人懐っこい彼女もいたし、悪ノリの限度を知らない愉快な友人にも恵まれた。ぼくは無知で、楽観主義者だった。
学生の問題はいつも金だ。毎月十一万の仕送りを貰っていたが、生活費だけで使ってしまっていた。父に頼みこめば仕送りの額を増やしてもらえたんだろうけど、プライドがそれを許さず、他の皆がそうするように、小遣い稼ぎのバイトをしていた。下宿のすぐ近く、N駅の側にあった「シュロース」という喫茶店のウェイターだ。
ドイツ語で「城」という意味の名を関するその店はとても小さく、みすぼらしかった。なぜそんなところで働いていたのかというと、当時のぼくはカフカの小説をかなり切実に読んでいたからである。彼の小説のタイトルにもある「城」という名称は、自分の職場の名前としてうってつけだった。
もちろん、他にも愛すべき点はあった。例えば、名前の割にみすぼらしい外観なんかも、微笑ましい矛盾として気に入っていた。そのちぐはぐな印象を大事にしたくて、あえてその店を「城」と呼んだ。その名称はなかなか浸透しなかったけれど、わざと隠語めかして「城」と呼び続けた。
マスターはドイツの狂った哲学者のような髭を生やしていて、とても物静かな人だった。たまに喋ったかと思っても、もごもごと口を動かすだけで、何を言ったのかはよくわからない。奥さんもマスターに輪をかけたような大人しい人で、いつも店の奥で恨めしそうな顔をしていた。「城」には、一般的な意味でのコミュニケーションが欠けていて、お世辞にも解放的とは言えなかった。
さらに、立地も悪かった。地下鉄もJRも両方通っているN駅から五分の距離にありながら、商店街から分かれる入り組んだ路地にあり、口で説明したぐらいじゃ、なかなか辿りつけない。同じ町に住んでいたぼくでさえ、一年間もその存在を知らなかったくらいだ。友人達を誘っても、初回は絶対に迷った。「城」は、まるでカフカの『城』のように、理不尽な地点に立っていた。
ブレンドコーヒー一杯の値段も、五百円と割高だった。たしかに、マスター自ら淹れるコーヒーは、豆にも、煎り方にも、淹れ方にも、ケトルにも、ドリッパーにも、フィルターにも、カップにも、とにかくすべてにこだわっていたが、時間はかかるし、正直なところ、味に大差があるとは思えなかった。水で落とすためのサイフォンなんて、一メートル以上と馬鹿でかく、さしずめ「ご神体」といったところだ。うかつにも水出しアイスコーヒーを頼んでしまった客は、秘教の儀式につき合わされるような感じさえしたことだろう。
そんなこんなで、入りたての頃のぼくは、そう長くもたないだろうと予想していた。
それでも、不思議なことに、店の経営状態は悪くなかった。バイトはぼくしかいなかったし、土地は昔から持っていたものだし、豆を卸す業者は奥さんの親戚だし――というような好条件が重なって、経費は大してかからなかったらしい。それに、「城」の持つ没落貴族風の雰囲気は、ある人々の心を掴んでいたのかもしれない。
一日に訪れる客の数は多くも少なくもなかった。四人掛けのテーブルが十脚、カウンターが十席だったが、だいたいいつも十人ぐらいの客がいた。それより多くも少なくもない。入れ替わり立ち替わりで、常に十人。皆申し合わせたように五百円のブレンドだけを頼み、ケーキやサンドイッチの注文はごく稀だった。常連しか来ないからだ。常連は全員喫煙者で、寡黙だった。会話のない店内に筋のような煙が立ち昇り、その紫煙がコーヒーの芳香とあいまって、中国の阿片窟のような雰囲気を醸し出していた。たぶん、はじめての客には相当入りづらかったと思う。
「城」は……もうないらしい。マスターが食道癌で苦しみぬいて亡くなると、すぐにどこかの建設会社に買収されてしまった。もっとも、立地の悪さから用途が決まらず、しばらくの間は廃屋として立ち続けた。その後、私は何度か「城」を訪れたが、その度に甦るのは、愛しい気持ちばかりだった。マスターの顔ですら、孤高の哲学者のように思い出される。今の私にとって、「城」はその名に恥じない素晴らしい店だった。
とはいえ、過去進行形の「ぼく」にそんな感傷趣味などあるはずもない。マスターは気難しいし、時給は安いし、可愛い女の子のバイト仲間もいないし、仕事が少なくて暇疲れするし、などと不平を内に秘めながら、新しい仕事を夢に描いた。できることなら、「城」を辞めずに、短時間で週一、二回のバイトをやりたかった。
そんな時、うまい具合に家庭教師の話が舞い込んできた。ぼくの通う大学のドイツ文学科の同級生で、メグというあだ名の女の子が、紹介してくれたのだ。
「私、***で忙しいからさ、代わりにやってくんない?」
メグはそんな風に言ったと思う。話している最中にぼくの腕を触っていたことは憶えている。彼女には、発情期の犬みたいに人に寄り添って話す癖があった。何で忙しかったのかは忘れてしまった。
とにかく、彼女の親の知り合いの娘で、高校二年生だという。由緒正しいミッション系のお嬢様学校だが、学力がズバ抜けて高いところじゃない。手に余る、ということはないだろう。二つ返事で引き受けることにした。すると、メグは「変なこと考えてるでしょ?」と言って、ぼくの腕をつねった。
「いや、俺は年上好きだから」
「あ、そうなんだ。でも、その子、凄い美人だよ」
「だったらなおさら大丈夫だよ」
「なんで?」
「あんまり美人だと、気が引けちゃうだろ? いくら高二でもさ、あとちょっとで大学生じゃん。そうなったら、ずっといい男がワッと寄って来て、俺なんかすぐにフラれちゃうよ」
「へえ。けっこうリアルに先のこと考えるんだね。今もそうなの?」
メグは、ぼくのつき合っている子と友達だった。あまり下手なことを言うわけにはいかないと思い、「まあ、あいつとはそういう不安がないから、結構楽だよ」と言った。すると、彼女は急に怒り出した。
「なんか、それって馬鹿にしてない? 安全パイみたいな意味でしょ?」
「そういうわけじゃないよ」
「嘘だよ。絶対そうだって。あんたってそういうところあるし」
ぼくは面倒になって、何も言い返さなかった。メグはぼくに家庭教師先の電話番号が書かれた紙を渡すと、昼食の誘いも断って、どこかへ行ってしまった。
私は、この時のことをよく憶えている。メグが怒ったのは、まるでそれが自分のことを言われているような気になったからなのだろう。当時の「ぼく」は、それを若い女の子に特有の自意識過剰だと思っていたけれど、そうじゃなかった。
ぼくとメグは、入学当初、馴れない酒の勢いに任せて寝たことがあった。その時のぼく達は幼かった。一足飛びに人間が分かり合えると思っていた。心底愛し合っていると思っていた。そして、昂揚した感情を持続するには、ある種の努力と技術が必要だということは知らなかった。時間が経つにつれ、ぼくはメグのことを退屈で鬱陶しい女だと思うようになっていった。これといった契機もなく、ぼく達は別れた。「うやむや」の力に任せ、すべてをなかったことにした。そのうち、ぼくはメグの友達と付き合い始めた。あまり美人ではないけれど、年を取った猫のように人懐っこい子だった。メグに彼氏ができたという話は聞かなかった。それでも、ぼくとメグは友達だった。彼女と喧嘩をした時など、ぼくはメグに仲を取り持つように頼んだりしていた。あの関係がどれほどメグに負担を強いるものだったのか、当時の「ぼく」にはわからなかった。
この時に喧嘩別れしてから、メグとは少し疎遠になる。だが、当時はなんとなく憂鬱な気分になっただけだった。
その夜、家庭教師先に電話をかけた。母親らしい女の人が出たが、向こうはぼくが男であることに戸惑いを覚えたみたいで、「ちょっとお待ち下さい」と言ったきり、声が遠ざかってしまった。誰かと相談しているんだろう。てっきり断られるのかと思ったが、そうではなく、次の日曜日の午後四時に家に来てくれとのことだった。
約束の日、とても嫌な夢を見て目を覚ました。誰かを裏切る夢だ。言い訳がましく醜い感情が胸一杯に広がっていて、何もする気がしなかった。このまま布団に寝転がっていたかった。
ところが、時計を見るともう三時で、思わず飛び起きた。あと一時間しかない。訪問先のYまではぼくの住むNから一時間ぐらいかかる。遅刻することは間違いなかった。
半ば絶望的な気分で家を出たが、不思議なことに、約束した時間の十分前についてしまった。列車のダイアグラムは時にそういう奇跡を起こす。
その家はとても大きかった。都内でもわりと上品な区にあるYにあってさえ、他の家と比べても目立って大きい。それも、ただ大きいだけではなくて、センスのいい家だった。外壁はコンクリートの打ちっぱなしで、無駄な装飾が少ない。下手をすれば鼻につくぐらいの、シンプルなデザインだった。
インターフォンを押すと、初老の女性が顔を出した。少々太っていて、高校生の親にしては年を取り過ぎているが、その顔には若かりし頃の美貌がうっすらと痕跡を留めている。メグが美人だと言ったのも、おそらく本当なんだろう。ぼくはそんなことを考えながら、会釈をした。すると彼女は丁寧に会釈を返してから、「お嬢さんはまだ戻っていないんですが……」と言った。
「あ、お手伝いさんですか」
そう尋ねると、彼女は申し訳なさそうに頷いた。ぼくはしばらくの間、彼女のことをじっと見ていた。それまで、本物の家政婦を見たことがなかったから。彼女の存在から「この家はとてつもなく金持ちなのだ」という事実を引き出すのにずいぶんと時間がかかった。
家の中に案内され、応接間のソファに腰をかけたぼくは、この家がどれほど裕福なのかを確認しようと部屋の中をじろじろと見回していた。大体のものが高そうだった。ソファも柔らかくて、ぼくの部屋にあった二万円のビニールレザーのものとは座り心地に雲泥の差があった。出されたコーヒーカップも華奢で優雅な作りだ。天井なんてバスケットができそうなぐらい高かった。物だけじゃない。お手伝いさんの物腰も穏やかで上品だった。明らかな上流階級。
いつの間にか、この家庭に気に入られるよう振舞わなくてはならないと決意していた。お手伝いさんと話す間も、必要以上に笑った。そして、自分の笑顔がきちんと「朴訥とした」ものであるかどうか、気にしていた。労働とは、ぼくにとってそのような種類の行為だった。
やがて、「お嬢さん」は帰ってきた。玄関の方でドタバタと音がして、応接間に駆け込んできた。そして、「ごめんなさい、バスに乗り遅れて」と言って頭を深々と下げた。息を切らしていた。たぶん、本当に走ってきたんだろう。ぼくが「別にいいよ」と言うと、彼女は頭を上げたが、その表情は死にそうなくらい申しわけなさそうだった。それがなんとなく好ましくて、さらに付け加えた。
「俺なんか、今日起きたの三時でさ。絶対間に合わないと思ったよ。遅刻するかどうかなんて、運みたいなもんだって」
お手伝いさんが「あら」と言って笑った。「お嬢さん」もはにかんだような笑顔を見せた。
「とにかく、今日はよろしく」
ぼくはそう言ってから、簡単に自己紹介をした。
「私、Mって言います」
今度は彼女がそう言った。どこか慣れない様子だ。
「そう呼べばいいの? いや、なんでこんなこと訊くかっていうと、名前で呼ぶと嫌がる子もいるらしいから」
「呼び捨てでいいです。『ちゃん』づけは馴れないから」
「えー、呼び捨ては俺の方が恥ずかしいな」
またお手伝いさんが笑った。なんとなく気恥ずかしかったので、さっそく授業を始めることにした。
階段で二階へと昇ってから通されたのは、立派な本棚と大仰な机のある部屋だった。
「これ、君の部屋?」
そう訊いてから、すぐに後悔した。こんな部屋に年頃の女の子が住むわけがない。たぶん、これは書斎なのだ。ところが、Mは勉強部屋だと答えた。
「勉強部屋? 専用の?」
「はい」
「書斎じゃなくて?」
「書斎は隣の部屋なんですよ」
Mはなんとなく気詰まりそうに答えた。たしかに勉強部屋にしては大袈裟すぎる。本は千冊ぐらいあって、数研出版の参考書や大学案内、辞典類などもあるにはあったけれど、量が多すぎる。英語の類語辞典や、和仏辞典、メルヴィルやエミリー・ブロンテの洋書、メルロ・ポンティの哲学書、夏目漱石の箱入り全集、レンブラントやフェルメールを含む有名画家の二十巻組画集などなど、高校生には縁遠いものも多くあった。
「こういうのってさ、自分で買うの?」
「まさか。親が買ってきちゃうんです」
「全部読んだ?」
「ちょっとは読みましたけど、全部読むことはないと思います」
そう言うと、彼女はぼくのために椅子を持ってきて、自分のすぐ隣に置いた。ぼくはそれを少し遠ざけて座った。
はじめての授業をする時は、親しくなるために、いくつかの雑談をするものだけれど、Mはすぐに勉強を始めた。取り扱ったのは三角関数で、Mが優秀だということはすぐにわかった。教科書に書いてある通りに説明すれば、きちんと理解する。「どうして?」とは訊いてこなかった。時には参考書を見ながらも、粛々と問題をこなしていく。机に齧りつく彼女の姿は好ましかった。
文系学生だった私に詳しいことはわからないが、おそらく、三角関数は一つの難関なのだろう。それまでに触れた関数とは違う。関数の基本的な性質――変数に伴って変化する――への認識がなくては戸惑うことになる。変数θによって起こる循環運動を、そういう性質のものとして、ありのままに受け止めなくてはならないのだ。その循環の前で戸惑わずに歩み続けるMは頼もしかった。彼女はあっという間に正弦定理と余弦定理を手なずけた。
さて、一時間ほど授業をすると、ぼくは休憩を取るように提案した。人間の集中力は四十分ぐらいしかもたない――そんなことを理由に挙げた気がする。Mも実は疲れていたらしく、嬉しそうにノートを閉じた。そして、片付けた机に突っ伏すと、一つ溜息を突き、「疲れた」と呟いた。
「頭使うと、けっこう疲れるからな」と、ぼくは笑いながら言った。
「ケーキ食べたい」
Mはそう一人ごちた。そして、がばっと頭を起こすと、ぼくの方を見て、「先生は?」と訊いてきた。断ったけれど、Mが残念そうな顔をしたので、「一人で食べればいいよ。俺は見てるから」と鷹揚ぶった。Mはぱっと顔を輝かせ、机の上にある内線電話に手を伸ばした。
しばらくして、お手伝いさんがやって来た。豚の丸焼きでも乗ってしまいそうなほど大きいお盆の上に、ケーキとコーヒーが二つずつ載っている。お手伝いさんはカップをかちゃりとも言わせずに置くと、器用に身体をよじって、ドアから霧みたいに出て行った。
「おいしそうでしょ?」
Mはお手伝いさんが出て行ったのを確かめてから、得意げに言った。ぼくは笑った。彼女の幼さが微笑ましかった。もっとも、年は四つしか離れていない。二十歳を過ぎたばかりのぼくは、彼女の幼さを探していたのだろう。大人振りたかったのだ。ぼくは自分のケーキを彼女に譲った。
「いいの?」
ぼくが頷くと、彼女は顎を少し引いて「やったあ」と言い、ケーキの皿を二つ抱え込んで、熱心に食べ始めた。
コーヒーをすすりながら見るMの食事風景は、悪くないものだった。きめの細かいクリームをたっぷりとまとったシフォンケーキの上に、ためらいもなくフォークを突き刺す。そして、空中に掲げたフォークの先に、顔ごと覆い被さるようにしてかぶりつく。滑らかな頬をしきりに動かして、長い間咀嚼する。時には、唇についたクリームを舐め取る。飲みこんでしまうと、コーヒーを口に含み、少し苦そうな表情を浮かべる。その繰り返しだった。ぼくは頬杖をついて、その光景にじっと見入っていた。
やがて、彼女がケーキを一つ食べ終え、ぼくが譲った分に少し手をつけた時、ぼくの腹は大きな音を立てた。起きてから何も食べていなかったせいもあるし、Mの食べ方があまりにもおいしそうだったせいもある。でも、そんな言い訳などしようのないほど、ぼくの腹は健康的な音を立ててしまっていた。
Mは驚いたようにぼくを見つめた。恥ずかしくなって笑顔を作ったが、彼女は別に笑い返すでもなく、無念そうな顔をして、ぼくの前にケーキの載った皿を差し出した。そして、自分の至らなさを恥じるように言った。
「ごめんなさい」
彼女の無垢な善意に感謝しつつも断ろうとしたが、押し問答をしているうちにまた腹が鳴った。それがさも意外だという顔をしてみせると、彼女は笑った。ぼくは諦めて、食べかけのケーキを口に運んだ。上品な甘味が口の中に広がり、胃を苛みつつあった鈍痛を包み込む。飢えが満たされていくその感覚は、脊髄を伝って身体中に広がっていた。それまで食べた中で、一番うまいケーキだった。
いや、よく考えると、ごく幼い頃を除いて、私はケーキをおいしいと感じたことがなかった。それは単なる甘いものでしかなく、幸福感にまで結びつくことはなかった。女達が甘いものを口に含んだ時見せるあの表情は、長い間の謎だった。Mと一緒に食べたケーキは、その謎を一瞬だけ氷解させた。
ずっと後になって、えらく冗長な小説を読み、紅茶に浸したマドレーヌを食べて初恋を思い出すという場面に出くわした私は、それを試してみようと思い、Mと食べたケーキを探した。店の名前を憶えていなかったので、見つからなかった。これでよかったんだ――なぜか、そう思った。もしも、同じケーキを食べることであの時の気持ちが蘇るなら、それはおめでたいことかもしれないけれど、想いは時間の中に閉じ込めた方がよく匂う。ウイスキーなんかと同じだ。
さて、休憩時間が終わると、ぼくとMは再び三角関数に取りかかった。ぼくはもうそれほど熱心に働かなかった。応用に入ると、教えることがあまりなかったからだ。手持ち無沙汰にMのことを眺めていた。
彼女は熱心に机に齧りついていた。彼女の握ったシャープペンシルは、実直にステップを刻む。
と、何の拍子にそうなったのかはわからないが、ぼくの目に彼女の鎖骨が飛びこんできた。薄い水色のブラウスは二つ目のボタンまで開けられていて、そこから少しだけ見える鎖骨はとても細く、危うささえ感じられた。後ろめたさから目を逸らしたけれど、落ち着く先はやはり彼女の身体の一部だった。丁寧に折り上げたシャツの袖からは白い腕がすらりと伸びていて、うっすらと、目に見えないほど繊細な柔毛に覆われている。指には間接の膨らみがほとんどない。何かを持ち上げる役に立たなそうだった。
懸命に視線を戻そうとした。シャープペンシルの刻む、あの実直なステップを眺めていようと思った。でも、無駄だった。
ちょうどその時、Mは難しい応用問題を解いている最中で、考えこんでいた。姿勢は前かがみになっている。そっと、彼女の胸元を見た。腕に押しつけられた胸はほんの少し盛り上がって、彼女の腕からこぼれそうに見えた。
突然振り向いたMに呼びかけられて、ぼくは顔を百八十度ぐらい動かした。後ろめたい動きだったと思う。それでも、Mは気付かないようだった。
「ここ、なんでこうなるんですか?」
落ち着きを取り戻そうと、彼女の指す数式を眺めた。が、ぜんぜん理解できなかった。ぼくの学力を超える問題だったというのじゃない。ぼくの凡庸な脳味噌は、問題の解法じゃなくて、いかに彼女を机に向かわせるかばかり考えていた。
結局、きちんとした答えを出すまで、けっこうな時間がかかってしまった。少し、恥ずかしかった。というのも、赤字の目立つその参考書は、簡単な通分を二、三はしょっていただけだったのだ。教える能力を疑われることを恐れ、「基本が大事」というようなおためごかしを言ったと思う。それでも、Mが懐疑的な表情を浮かべることはなかった。素直にぼくの言葉に感心していた。
やがて、Mが再び問題に専念し始めると、彼女を鑑賞する時間がやってきた。とはいえ、疚しいような気持ちが生まれていて、あまりきわどい部分を見るわけにもいかない。しょうがなしに、長い黒髪を見つめることにした。
清らかな流れのような髪。根元の部分から優しい微光を照り返し、瑞々しく流れる。清流を見て、思わずそこに手をさらしたくなるように、撫でてみたいような衝動に駆られた。もちろん、実際に撫でたりはしなかったが、自分の欲望を焦らすように、Mの頭を撫でる光景を想像しては打消し、そんなことを繰り返した。
「何笑ってるんですか?」
Mが突然そう言った。ぼくの顔を見て、視線の先に自分の頭があることに気付いたのか、自分の髪を撫でて、「なんかついてます?」と訊く。ぼくはやや慌てたが、すぐに答えた。
「いや、綺麗な髪してるな、と思って」
Mはびっくりしていた。それから、照れ臭いのか、何度も髪を撫で、ぼくの視線から隠すようにした。ぼくはわざと彼女の髪を注視し、彼女を恥ずかしがらせた。
そんな風にしていたら、二時間などあっと言う間だった。
帰り際、玄関口でお手伝いさんと次週の約束について話した。Mはもう別の所に行ってしまっていた。話がまとまると、お手伝いさんに封筒を貰った。中には一万円が入っていた。
「こんなに?」と、ぼくは驚いた。時給五千円の計算になる。お手伝いさんは何も答えず、笑っていた。ぼくは恐縮して礼を言うと、玄関を出た。そして、ドアを閉める瞬間、Mの声が聞こえた。
「あれ、もう帰っちゃったの?」
ぼくは足を止めた。もう一度ドアを開けば、もっと一緒にいられると思ったのだ。それでも、遠慮から再び足を進めた。
帰り道、あることに思い当たった――一度もMの名前を呼んでいない。もったいないことのような気がした。今度来たら、いいタイミングを見つけて、名前を呼んでみよう。コール・アンド・レスポンス。そんな単純な確認作業が、とても素晴らしいことのように思えた。
と、ぼくは自分が笑っていることに気付いた。電車の中なのに、一人で笑っていたのだ。目の前の席に座った乗客――たしかOL風の若い女の人だった――が怪訝そうにぼくを眺めていた。それでも、こみ上げてくるうきうきした気持ちを抑えるのには、かなり骨が折れた。どうやって気持ちを落ち着かせたのかは、まるで憶えていない。
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