月の輪

小林TKG

小説

3,757文字

人生逆噴射文学賞いただきました。ありがとうございます。本当にありがとうございます。大大大感謝です。

学生時代、水林に熊が出た事があった。らしい。熊出たんだってって学校で友達から聞いただけだから本当かどうか私は知らない。んで、学校は、学校では、水林の方で熊出たそうなんで、ですから気を付けてくださいって。言われただけだったな。朝の時間にそういうのがちょっとだけ。今はどういう感じの対応になるんだろうな。でも、それで私も、ふーん、熊出るのか。って思っただけだったな。教室の窓から外見て。山肌とか木とか空とか。見ながら。思っただけだったな。

熊に襲われた。もう死ぬのだと思う。

家族で男鹿のGAOに行った時、私達の前にいたご婦人方が白熊の豪太の所を通る時、

「あらまあ、今日も豪太さんは元気ねえ」

という会話を始めた。豪太さん。白熊に、豪太に敬称がついてる。敷地、その時、白熊のエリアの中には豪太と烏が一羽いた。一頭と一羽は追いかけっこをするみたいにエリア内を飛んだり跳ねたりしていた。豪太は烏を狙っていたんだ。自分のエリアに入って来た黒い鳥を。烏は豪太から少し離れた所で羽を開閉させたり、かあ、と鳴いたりしていた。

「昔カモメがあの烏と同じような事して、豪太さんにやられた事があったわよねえ」

やられた。ああ。殺られたか。カモメは殺られたんだ。豪太に。その時なんとなく、ご婦人方が豪太の事を豪太さんと呼んでいる理由が分かった。畏怖。それからは私も彼、豪太の事を豪太さんと呼ぶようになった。

こんな時に、熊に襲われて死ぬっていう時に。こんな時に限って、いや、こんな時だからかな。色々と記憶が蘇った。

水林には水林斎場がある。死んだ父も母もそこで焼かれた。それからその近くに水林競技場がある。水林競技場では、学生時代に顔にサッカーボールをぶつけられた事がある。なんか練習してる人達の脇を通ったらサッカーボールが飛んできた。それで鼻血出して眼鏡曲がったんだけど、

「いいですいいですいいですいいです」

って逃げるように帰った。なんでだろう。かわいそうだった。その後サッカーボールを蹴った男が私の元に寄ってきて、それで、

「ごめんごめんごめんごめんごめん」

って言ってきた。それが、かわいそうだった。でも今思うと、思い返すとかわいそうだったかな。その場を、その時をしのごうとしている感じがあった。その場しのぎの、

「ごめんごめんごめんごめんごめん」

今思うと。とにかく謝って処理してしまおう。先生に言いつけられたら怒られちゃう。怒られたくない。プライドが傷つくから。他のみんなもいるし。それは嫌だから。絶対に嫌だから。だから、嘘の、自己満足の、

「ごめんごめんごめんごめんごめん」

嘘。自己満。でも当時の私はそれが、それでそいつ、その男が、かわいそうに感じた。だから帰った。逃げるようにして帰った。

「いいですいいですいいですいいです」

って言って。鼻血を垂らして曲がった眼鏡のまま。顔を腫らして。馬鹿みたいに。

小枝の折れる様な音がして振り返ると熊だった。首元に白い模様をあしらったツキノワグマだった。私は逃げる間もなくその爪に襲われ、皮が裂けて肉が裂けて顔から血を噴き出した。掛けていた眼鏡はどこかに飛んだ。

父も母も死んで実家を整理しているとノスタルジックな感情が湧いた。色々と記憶も蘇った。久々に水林競技場まで行ってみたくなった。最近疲れやすくなっているから本当に行けるのかどうか心配だったけど、

熊は私の左手に噛みつき、そのままぶんぶんと振り回した。それで左手の親指と人差し指以外の殆どが千切れた。左手はブサブサになってもうなんだかわからなくなった。

でも水林競技場の奥には自然を楽しむハイキングコースがあった。あったはずだ。それは高校の裏手まで続いている。そこまで行けばバスがある。帰りはバスに乗って帰れる。

右足首も噛まれて振り回された。そして左手の時と同じように捥げた。地面に投げ出された私は漏らした。激痛に。恐怖に。死ぬことに。私は尿をじょぼじょぼと漏らした。

久々に行ったハイキングコースは随分と荒れ果ててしまっており、学生の頃は道だったものが、もはやなんだかわからなくなっていた。今は誰も歩いていないのか。鬱蒼とした薄暗い木々の中でぼーっとそう思った。そう思ったくらいの時、音がした。小枝の折れるみたいな音。木々の向こうに何か見えた。

今までに嗅いだ事の無い臭いがした。これが獣の、熊の臭いかと思った。

なんだあれ。と思った時には、もう、それはすぐ眼前まで来ていた。

顔に熊の涎が垂れた。息がかかる。歯、舌が、赤黒い。すると熊が後ろ足で立ち上がって。それはとても大きな熊だった。大きく見えた。何よりも大きい。大きくて。前足が胸の上にのしかかってきて私は潰された。体がめきめきと鳴って骨がぽきぽきと折れて。

もう死ぬのだと思う。痛いとか苦しいとか助けてとか、そんな事より死ぬと思えた。そう思うとまた色々な記憶が蘇った。父と母の事。家の事。豪太さんの事。烏の事。カモメの事。弟の事。シャトゥーンの小説をこれ読んでって押し付けてきた事あったな。すごい面白くて。すごい怖いからって。私はそれを読んでどう思っただろう。本を返すとき怖いなんて言わなかったと思う。でもあれは嘘だな。嘘だったな。弟に怖かったなんて言いたくなかったんだろうな。怖かった。すごく。ものすごく。怖かったよ。こんな事になったら絶対に嫌だなって思ったよ私は。それに、

「検査の結果なのですが」

熊が私の腹をタバコかなんかのフィルムを剥ぐみたいに割いて、その中に鼻先を突っ込んできた辺りで、ようやく、やっと、そのくらいの時に、やったぞ。よかったと思えて来た。笑けてきた。裂けて穴が開いて血やら肉やらをボロボロと吐き出す口が、にやけてきた。笑けてきた。父が死んだ時、母がまだ元気だった頃、母と弟と私とある話をした。

「私が死んだらおねえちゃんとあんたが墓守なんだからね」

「もう墓じまいしたらいいじゃん」

弟は母に墓じまいを勧めた。でも母はお世話になった御寺だからとうんぬんかんぬん言って結局結論が出なかった。そしてその母親ももう死んだ。死んだ。もう死んだ。

私は、墓守をするにしろ墓じまいするにしろ面倒なんだろうなと思っていた。何にしても糞みたいに面倒なんだろうな。私も弟も結婚はしてないし子供もいない。

「右胸部の乳癌です」

父も死に、母親ももう死んだ。これから弟とそういう事の話を、話をしなくてはいけなかった。墓守をするのか、あるいは墓じまいするのか。でも、どっちにしても手続きしたり、色々とあるんだろう。大した交流も無い親戚が何か言ってきたりとかもするかもしれない。面倒だな。そんなの面倒だな。

嗚呼。面倒だ。

ああ。

あーあ。

面倒だな。面倒だ。そんなの面倒だな。面倒で面倒で面倒で堪らない。

「もはや右乳房全摘出でなければ」

それが今、私は今、ここで、熊に食われて死ぬ。死ぬ。死ぬんだ。でも自殺じゃない。事故。獣害。偶然。たまたま死ぬ。私のせいじゃない。神様か仏様か。それで。僥倖で。

「それからあと」

弟に申し訳ないなと思った。迷惑かけるなって。ごめんなって。いや、でも仕方ないだろう。だってこうなってしまったんだから。こうなっちゃんだから。だから仕方ないんだよ。こうなっちゃったんだから。車道に飛び出したわけじゃない。海に飛び込んだわけでもない。手首をカミソリで切り開いたわけでもない。大量の睡眠薬をウイスキーで飲み下したわけでもない。輪っかに首を通して踏み台を蹴り倒したわけでもない。自分の腹を掻っ捌いたわけでもない。家に火をつけたわけでもない。歩いていたらこうなった。こうなっちゃったんだ。だから、仕方ないんだよ。

「言いづらいのですが」

それに熊、首元に月輪をあしらった熊にも申し訳なかった。お前はこれで、こんな事で銃殺、射殺、殺されちゃうんだろうかなあ。

「他の所にも転移してます」

いや、お前は逃げろ。さっさと殺して逃げろ。残ったのはその辺に埋めろ。それでお前は逃げろ。どこかに。何処か遠くまで。山の神は熊の姿をしているという言い伝えがあるらしいじゃないか。お前が神なのかどうかは知らない。でもまだ神になっていないのならこれから、これからだ。神になれよ。お前は神になれ。そう思った。ただ、そう願った。

「誰か他に、お伝えできる方は居ますか」

熊、月輪をあしらったツキノワグマは、我関せずという感じで先ほどから私の腹の中を探っている。私の腹の中身を噛んだり咥えたりひっかいたり引っ張ったりしている。癌の摘出手術をする医者の様に私の中身を切ったり摘まんだり出したり止めたり。

「色々と準備の必要があると思いますので」

いや、それにしてもなんでだろ。なんで死なない。私。どういう事だろう。早く。もうこんな事になっちゃってるんだから死ねよ。早く死ねよ。私。なんで死なない。駄目だって。早く死ななきゃ駄目だ。誰か来たらどうするんだ。偶然に誰かが通りかかったりしたら。救助が来たりしたら。どうする。ダメだよ。死ねよ。死ぬんだ。死ぬ。死ななきゃ。ここで死ななきゃ。死ぬんだ。死ねよ。早く死ね。早く死ね私。死ね。もう死ね。死ね。死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ねしね

2024年3月3日公開

© 2024 小林TKG

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