扉の女

合評会2023年11月応募作品

波野發作

小説

4,000文字

あの店のカンシャオシャーレンは美味い。それ以外は全部フィクションです。破滅派合評『海老とストレートネック』参加作品。

春日通りを伝通院の方からくると本郷三丁目の交差点だ。左に曲がれば我が国の最高学府である世界30位の東京大学になるが、曲がらないでまっすぐ進むと湯島の坂を下る。下りきるともう上野・御徒町エリアなのだが、その少し手前の古いマンションの足元にバス専用の分離ゾーン的なものがあり、深夜を過ぎたら駐車し放題になっている。深夜なのでミドリムシもいない。ウィンカーを出して春日通りから少し脇道へ入り、日中であればバス運転手にブーブー鳴らされるであろうスペースにクルマを止める。なんか条例があってアイドリング禁止のはずだが、そもそも駐車禁止の禁を破っている咎人にそんな軽微なルールを守る意志などあろうはずがなく、加えておそらく俺はなんらかの違法行為を幇助しているのであり、まあ仮になんかあったとしてもあまりに軽微すぎて証拠不十分で起訴見送りが相場なんである。いや、表向きは合法であるわけだし、合法であるのであれば俺は交通違反を犯しているだけの不良一般市民に過ぎない。エアコンを効かせるためにエンジンはかけたままLINEで店に現着した旨を伝える。すぐに返事がきて待機を命じられる。フロントウィンドウ越しにはたくさんのネオンサインが見える。いくつかの風営法の規制下にある宿泊施設が軒を連ねるエリアだ。何度か行ったが、どこも例外なくボロい。ボロいけど一応清潔は保たれているようでホスピタリティはそれなりに高い。それもなんらかの矜持があってのことだろうとは思う。今日のバイトはその宿泊施設で営業を行っている従業員を別の宿泊施設密集地に送ったりそことは違う駅にある従業員待機所および経営者常駐施設に迎えにいったり送ったり迎えにいったりする仕事だ。Web屋のシュウジから一晩で1万のバイトがあるがどうか取っ払いだぞと声をかけられ一も二もなく飛びついた結果、月2回ほどレギュラードライバーの労働環境の改善に一役買っているというわけなのである。バイト代は1万円なんだが、いつもバイト上がりに店長(店舗管理者)から「遊んでいく?」と聞かれ、お茶を引いている従業員の前でいや帰りますとも言えずホームページに出ている金額より少し安い額、おそらく店の取り分はオミットしてくれた上で従業員さんの取り分になったディスカウントプライスで80分ぐらいのコースをお願いするという感じが常態化しており、まあ行ってこいになっているのだからクルマの維持費やらガス代なんかはそのうち別途にならんかなとは思うんだが、俺の年代物のポンコツの軽でも送迎OKしてもらっているのだからそれも言いにくかった。ちなみにレギュラードライバーの敷島さんは大きめでエアロパールバキッバキの黒いミニバンを乗り回していて、いかにもな雰囲気を出しているが、元公務員であって浮気して離婚して家を取られて職もなくしてクルマだけ残ったんだとかなんとかママが言ってた。浮気というかたぶん風俗通いがバレたんだろうなと思う。敷島さんが月2回お休みをとるのは子どもたちとの面会だそうで、これもバイトを断りにくくなる理由であり、2、3回のつもりがなんだかんだで半年ほど続いていた。俺も大きなクルマに変えようかな革張り内装とかいいよな。と思って自動車メーカーのウェブサイトをザピってみるが、まあたぶん月々5万とかだろうし、今の駐車場に入らないし、ガス代も税金もまったく変わってくるから現実味はなかった。シートを軽く倒してスマホをずっと見ていると肩がこる。非常にこる。左右に振ってゴキゴキ鳴らせば少し軽減するが、焼け石に水だ。そのうちなんかやばい病気になって半身不随になるとかヤバいんだろうけど、スマホが発明されてまだ十年とか二十年であり、人体への真の影響は未知数であるに違いない。そのうちウェアラブルなスマホが主流になってそういう肩こりとかからは解放されるに違いない。助手席の窓をコンコンされて、見るとママがいた。珍しいな。今日は出勤なのか。すぐにロックを解除して軽く扉を開き招き入れる。ヴィダルサスーンとサンザシの香りが混ざった独特の匂いが車内を満たす。だが俺は元々嗅覚が弱いのであっという間に匂いを感じなくなる。もったいないとは思うが仕方がない。「オツカレさま」「あ、お疲れ様デス。どこ行きますか?」聞きながら店とのLINEをチラ見するがとくに命令は来ていなかった。「ウウンちがいの。楊さんから差し入れもらったんだけど食べるカナて」楊さんは知っている。そこのラブホの裏側(表側)ある中華料理屋だ。ママが通りかかると呼び止めてマカナイかなんかを包んで持たせてくれる。「あ、ありがとうございます」「わたしすぐ仕事だから食べちゃってイイヨ」「ホントですか。いつもすみません」「ホントよー」ママは俺の顔に口を寄せるとちょっと濃い目のキスをしてきた。俺も目をつぶって応じる。どういう意図かはよくわからないが、先月ぐらいからなんとなくこういうやり取りをするようになっていた。バイト代を値切るのかなと思ったこともあったが、とくにそういうこともなくこれまで来た。辞めないように釘を指している可能性もなくはないが、代わりはいくらでもいる仕事だし、店がいつまであるかもわからない。数十秒ほど舌を絡ませたところで、軽くチュチュと頬に唇で触れて可愛く手を振りバーイと言って降りていった。俺は残り香と唇の感触とほほのわずかな湿り気を堪能しつつ白いレジ袋を開けた。カンシャオシャーレン。となんか肉まんの皮みたいなやつ。肉まんの皮みたいなやつでエビチリを巻いて食う。まだほのかに暖かく、上質な町中華の味がした。店長にママが来たことをLINEで伝えると、引き続きそのまま待機するように指示された。たぶん九十分ぐらいここでこのまま待機ということになるが、他の従業員のミッションが発生する可能性もあるので、他所へ行って油を売ってくるわけにもいかない。いやむしろ油(ガソリン)を買ってこないといけないのだが、あいにく財布が軽くて、今夜のバイト代が入ってからでないと給油はできそうにない。ということは今日はお茶子がいたとて、心を鬼にしてお断りせねばならん。どうかお茶子がいませんように。世のサラリーマンよ、もっと健康お届け便を利用するのだ。よろしく頼む。アマゾンプライムでなにか見て時間を潰すのがルーティーンなんだが、今夜はあいにく溜まっているアニメがない。ハリウッド映画もパッとしない。適当にザピっていると世界のヤバそうなエリアの食事を取材するドキュメンタリーを見つけた。日本の中流にどっぷり浸かってなんら苦労なく社会人になり、別段困ることもなくのんべんだらりと過ごし、こんな波打ち際程度の浅い裏ぽいバイトでワクワクしているようなダイレクト一般人の俺にとっては、そんなヤバそうな人々がどんな食事をしているのか、はたいへんに興味深かった。アフリカの娼婦が1杯100円だかの皿盛りを食って、仕事に行き、日本円で500円程度のお仕事をしているという映像はなかなか今の自分と縁がないわけでもない気がして、海はあるけど地続きな感じがして、感情移入ができた。なるほど。人には人の諸事情があるわけで、そこは大いに興味がある。日曜の昼間にダラダラやっている苦労話の番組もそうだし、なんだろう。なんか安全地帯から苦労の多い境遇を眺めるのは、相当上質な娯楽なのかもしれないと、今、まさに一等席で楽しんでいる自分を感じた。恥じるでもなく、誇らしいのでもなく、ただ幸運であると思えた。何本か見ているとママが戻ってきていた。ドアを開ける。午前3時。閉店時間までまだあるが、普段の感じだと事務所までママを送ってバイト代をもらって上がるというところだ。「お疲れ様でした」「ホント疲れたヨー」珍しく泣き言を言う。「大変なお客さん?」「んー。なんていうのカナ。オチムシャ知ってる?」「落ち武者?」意外すぎるキーワードが飛び出した。「落ち武者ってナニ?」「えー、えーと大昔、五〇〇年とかすんごく昔の戦争、で、負けた側の武士」「ブシ?」「サムライはわかります?」「サムライわかる。サンバ踊る」「あれはちょっともっと偉い人ですが、その負けサムライが敵に追われてチョンマゲがほぐれて、てっぺんがハゲでロン毛みたいな感じの幽霊」「ユーレイなに?」「ええとゴースト?」「Ghostわかる」ママが言うには、部屋に入ると客が裸に落ち武者ヘアで土下座して「成仏したい」というのでプレイしてきたのだと。「めちゃコワかった」手を握ってくるが水仕事のせいか少し荒れていた。今度ちょっといいハンドクリームでもプレゼントしてあげようと思った。仕事は終わりだが朝まで一緒にいたらもう1万くれるというので、喜んで付き合うことにした。店にはママを送ってそのまま上がると伝え、ホテルの駐車場にクルマを入れ、清潔だが少々狭い部屋にシケこんだ。他に空室がなかったからだ。しばらくいちゃついてそのままの流れで先へコマを進めたが、ママが美人でスタイルもいいのに特定のパートナーがいないのはまもなく理解した。人にはそれぞれ外見や上辺だけではわからない事情があるのである。職業病なのかそれはわからないが、今度正規の医療を受けられるようにアドバイスしようと思った。それにしてもこんな爆弾を抱えていながら、ネット評価が決して低くないのは、俺と同じ体質や性癖の人間がそれなりにいるのだろうということだ。さっきの落ち武者はよく耐えたなと思ったが、オール受け身であればきっと問題はないのだろう。朝になったのでもう幽霊の恐れはなくなり、ママとは翌日のデートの約束を取り付けて別れたが、待ち合わせ場所には来なかった。風俗板を見たら一斉手入れがあったらしく、その中に健康お届け便の名前もあった。その後、彼女からの連絡はまだない。

END

2023年11月17日公開

© 2023 波野發作

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"扉の女"へのコメント 8

  • 投稿者 | 2023-11-24 16:28

    この人が他人にあげるハンドクリームって何だろうって思いました。
    あと、バスの運転手がうるさいっていうのもなんか分かりました。
    クルマの維持費やらガス代が別途欲しいっていうのも分かりました。
    それが言えないっていうのも分かりました。でも平気で、平然とそれを言う人が居るんですよねー。すごいですよねーって話がしたいと思いました。
    ただ、この人が他人にどういうハンドクリームをあげるんだろうってそれが凄い気になりました。

  • 投稿者 | 2023-11-24 23:23

    ハンドクリームをあげる、とかナチュラルにできちゃうのが今っぽいですよね。
    昭和のコミュ障には理屈の力を借りないとできない技っす。

  • 投稿者 | 2023-11-25 13:36

    なるほど、こんなバイトがあるのか。波野作品は勉強になります。
    それに待機時間中に世界のヤバそうなエリアの娼婦の生活を覗き見て、自分は幸運だと思う図、何というか上手いですね。
    中国人(台湾?)ママはどうして「オチムシャ」の単語だけ知っていたんですかね。お客さんから「落ち武者プレイ」を要求されたのか。あとママの意外な「爆弾」って何でしょう?ストレートネックじゃないよね。読み取れなかったのは多分無知な私の責任ですが教えてください。
    語り口がうまいのでスルスル読んで、ふむふむ面白かった、でも、あれ? となってしまいました。

  • 編集者 | 2023-11-26 13:50

    改行なしで読ませるのは、やっぱり凄いですね。風俗ネタから心霊ネタへの移行も良かったです。それだけに大猫さんと同じく爆弾の意味が取れずに、オチが分かっていないことが悔やまれます。

  • 投稿者 | 2023-11-26 17:26

    すみません、お題との関連がわからず…合評会で聞かせてください^^;

  • 投稿者 | 2023-11-27 16:41

    昔、鶯谷でよからぬ場所へ向かう送迎車を待つ列ができていたのを思い出しました。海老がちょっと弱かったかも。

  • 投稿者 | 2023-11-27 18:09

    ママの爆弾がエビっぽい性病なのかと思ってググったのですが、見つからなかったです。
    料理がおいしそうで良いですねー!
    勢いのある語り口感を出されたかったのかと思うのですが、珍しく、読みづらく感じました。改行がないのは演出だと思うのですが。私側のコンディション問題かもしれません……。

  • 投稿者 | 2023-11-27 18:20

     風俗関係の運転手の饒舌な独白。設定自体は興味深いが、お題との関連が見えてこなかった。
     改行がないせいで少々読みにくく、語り口も説明不足に感じた。特に最後の数行は何があったのか判らなかった。
     いったん書いてから、時間を置いて推敲することをお勧めしたい。

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