妾が娼婦だった頃(6)

妾が娼婦だった頃(第6話)

寺島聖

小説

10,023文字

エトランジェにやって来た一見客に、いきなり黒田が怒鳴りかかった。その後、黒田に言い寄られたナオミは、帰宅後、精神科へ行って安定剤を処方してもらう。心労が重なる中、他店で働いていた時の同僚・琴音が、エトランジェへやって来た。淫靡な雰囲気を漂わせる彼女の近況が、思い出と共に語られる。破滅派文藝新人賞の応募規約を大胆に無視して話題を呼んだ怪作。

圭子の鋭い悲鳴に、料理を小鉢に盛り付けていたナオミはギョッとして辺りを見回した。血相を変えた黒田が()()り立ち上がり、隣の一見客の胸倉を掴み上げている。椅子が()(たお)され、カウンターから酒の入ったグラスが転げ落ちて割れた。黒田の剣幕に怯えた圭子は、顔を背けた。(さっき)と豹変した黒田の怒鳴り声が店中に響き渡っている。俺、帰るわ。興醒めした客がピシャリと言った。

未曾有(みぞう)の出来事に色を失ったナオミの胃に、刺し込むような疝痛(せんつう)が走った。男は黒田に押さえ付けられ、()(じろ)ぎも出来ない有様だった。見兼ねたナオミが止めに入ったが無駄だった。

「もう、龍二さん、お願いだから止めて! お金要らないから帰ってよ!」とナオミは叫んだ。「何だテメエ! お前は金、金、金って、何でも金か? この守銭奴!」彼女は吠え狂う黒田を黙り込んで見ていた。それにしても、守銭奴とは何と時代錯誤な台詞だろう。

「何、薄笑いしてやがるんだ、この気狂い! こいつが俺に何て口利いたと思っているんだ?」ナオミは切り返す言葉を失っていた。

これが()しんばドラマや他人事だったら、暇潰しに高みの見物や傍観者の一人位にはなれたかもしれない。(しか)し、今、彼女の目の前で繰り広げられているこの事件は、()しくも筋書きの無い即興演劇なのである。「何黙り腐ってやがるんだ、このクソ(アマ)ァ! 俺を()めたらタダじゃ置かないからな。もう、俺はこんな店来ねえよ。」

黒田は怒号を(とどろ)かせ、日頃の鬱憤をナオミに()()けた。鶏冠(トサカ)に火が点いた黒田は、腹癒せに振り被って男を殴り付けた。男は(もん)()()打って転び、壁に背中を(したた)かに打ち付け、作業着を(ほとばし)る流血で赤く染めていた。

「おい、テメエ! 今度俺の目の前に現れたら、タダじゃ置かねえからな! とっとと失せろ!」黒田は狂犬のように咆哮(ほうこう)している。

壁に摑まり、立ち上がろうとする男の足取りは、(おぼ)(つか)()かった。

男は作業着の裾で、滴り落ちる鼻血を拭いながら店を出た。

「もう、お仕舞い! 今夜はこれで終わりよ。みんな、()(かく)帰って。お願いだから!」ナオミは叫びながら懇願した。皆、冷水を浴びせ掛けられたような様子で帰り支度をした。淳はコートを()()ると、名残惜しげに彼女をチラと見て、店を後にした。客は圭子が送って行った。ナオミは圭子に()(まま)帰るように目で合図した。他の客が帰っても、和也だけは重い腰を上げようとしなかった。

「お前は(ひど)い女だな。こんなに遅く(まで)騒動を起こしやがって。和也の事だって、考えてみろ!」

何を見え透いた御為倒(おためごか)しを言っているのだ。ナオミは半ば(あき)れ果てた様子で、「あたしはね、何で揉めたのかすら知らないのよ、」と(なげ)()りに言った。「何ィ? お前は此処(ここ)のママだろ、奴が俺にどんな口を利いたのか分かっているのか? お前、その責任はどうする積もりだ?」黒田が一方的に()くし()てている。

二人はカウンター越しに()(じろ)ぎもせず(せめ)()っていた。これから月末に掛けて一番支払いが(かさ)む時に、とナオミは恨めしく思った。

 

 

一寸(チョット)、龍二さん、もう遅いから、和也を帰してからゆっくり話そう、」とナオミは諦めたように言った。黒田を説得するのは億劫(おっくう)であったが、後々の関係に(しこり)を残したくはなかった。ナオミの時間の感覚は()っくに壊死していた。何気無く目を留めた壁の時計が、午前三時を回っていた事に(ようや)く気が付いた。

「おう、和也。俺はママと話があるんだ。悪いが、今日の所は帰ってくれ。」黒田は器用に和也を言い(くる)めると、意味有りげにニヤリと笑った。和也は未練がましくナオミに一瞥(いちべつ)()れると、黙って店を後にした。一縷(いちる)の望みは、銀の(ハサミ)でプツリと途切れてしまった。思ったより簡単に帰してくれそうも無い事にナオミは諦念を持った。

(やや)もすると、ナオミは客席から、アングラ演劇の舞台に無理矢理引っ張り込まれてしまうのだろう。上手くこの芝居を演じ切られるかどうかで、彼女の今後は大きく左右されてしまう。

黒田は得体の知れない因縁のようなものを、無数に身体に(まと)わり付かせていた。黒田が強引に()(ぐる)みを引き剥がし、自殺に追い込んだ多重債務を抱えた零細企業の社長の怨霊かもしれない。その怨霊は何処(どこ)かで絶えず黒田を見張っていて、時折原因不明の病気を誘発し、()(ひど)くこの男を痛め付ける。(あの日、畳に(ぬか)()き、もう少し返済を待ってくれ、と懇願する彼を黒田は蹴り倒し、容赦無く拷問を加えた。もう駄目だ……! その夜明け前、絶望し切った彼は、神社の裏で首を括った。)何があっても抗争等でこいつを簡単に死なせてなるものか! 真綿で首を絞めるように、じわじわと黒田の肉体を蝕み、(なぶ)り殺しにして行くのがこの零細企業社長の怨霊の報復である。

ナオミは再び黒田の毒に当てられた。今度は正面(まとも)に立てない程であった。彼女は慌ててブランデーをグラスにドボドボと注ぎ、一気に飲み干した。(やが)て、静謐(せいひつ)と恍惚の時間が訪れた。アルコール性の高揚感と陶酔感が彼女の身体髪膚(しんたいはっぷ)の隅々迄駆け巡っている。ナオミは黒田と缶詰になっているこの状況さえ、夢か(うつつ)か曖昧だった。(しか)し、敵にしてみれば、正に()()()くべしである。

「ナオミ、こっちに来い。」

悪の手先は一寸(ちょっと)前の剣幕が嘘のような優しい声で彼女を呼んだ。ナオミは(うわ)()った声で(イヤ)です、と答えた。「いいから来いって言ってんだろ!」黒田は(つっ)(けん)(どん)に怒鳴り散らした。憔悴し切った彼女は、カウンターの外へ出ると、サーカスの猛獣を飼い馴らす調教師のように、一歩一歩慎重に黒田の側に歩み寄り始めた。

と、その瞬間、ナオミの華奢なピンヒールが(もろ)くも折れてしまった! 足取りも定かで無い彼女は、身を(かわ)す事が出来ず、刹那、花を撒き散らしたように黒田の腕の中に倒れ込んでいた。黒田は必死でナオミを抱き止めた。それは、男の力だった。見合わせた瞳に火花が散った。ナオミは黒田の腕の中で咲き(こぼ)れ、(うろ)()えていた。黒田は既に彼女の(とりこ)だった。突如、ナオミの中の何かが決壊し、固く(かんぬき)を閉ざした重い扉ごと黒田の濁流に呑み込まれてしまった。流れは狂瀾怒濤(きょうらんどとう)の如くうねり、彼女をアッと言う間に(さら)って行った。溺れるのは泳ぎを知らない()()ではない。(もが)くからだ。()()くからだ。パニックになるからだ。流れに身を(ゆだ)ねさえすれば、其処(そこ)(まで)悲惨な状態にはならないのだ。

刺青を彫り尽くした二本の太い腕がナオミを捕えている。彼女は罠に掛かった後で催眠が解けた、哀れな女囚だった。黒田はナオミの身体を抱き締めて、何か甘い言葉を囁き掛けた。それは、不思議に響く、呪文のような愛の言葉だった。黒田は恋人にするように、ナオミの長い髪を指で梳き()、白い首筋に口付けた。今にも泣き出しそうな心模様で、彼女は黒田の玩具(オモチャ)にされていた。逃げ出したくても、その(いとぐち)が見付からない。極度の疲労から、睡魔が襲って来た。ナオミは薄く瞼を閉じ、いけない……、と思いながらも、束の間うとうとと微睡(まどろ)んでいた。黒田の頭の中は日頃からの欲望を満たす事で一杯だった。

突然、ギクッと身体を震わせ、ナオミは跳ね起きた。悲しげに大きく見開いた彼女のその瞳は、何も映し出してはいなかった。「一寸(チョット)、龍二さん、堪忍して、」とナオミは黒田の腕を(ほど)き、媚を含んだ声で言うと、黒田の告白を露骨に無視した。

「もう、遅いから、龍二さんも帰りましょうよ。あたし、眠くなっちゃったわ。」細い指先で口元を覆い、欠伸を噛み殺しながらナオミはさっさと帰り支度を始めた。予想外の彼女の反応に虚を()かれた黒田は、切り返す言葉を失ってしまっていた。

黒田は、裏切られた顔をしていた!

引き裂かれた妄執と踏み(にじ)られた情念に、底無しの憎悪の炎が燃え移って行くのが目に見えるようだった。それは、地獄の業火(ごうか)だった。黒田はエトランジェで出会ったその日から、スラムの黒人の少年が、楽器店に陳列されている金ピカのアルトサックスを欲しがるような目をして、()()もナオミを眺めていたのだ。

 

(4)

 

ナオミは可也(かなり)長い時間、浴槽に無気力に身を委ねていた。(みそ)ぎをするような気持ちで、橄欖(オリーヴ)石鹸を泡立て体中隈無く洗った。癖のある長い髪は収斂(しゅうれん)効果の強いトリートメントでパックされている。

風呂から上がると、ナオミはタオルを身体に巻き付け、野菜ジュースを飲んだ。そして、身支度を整え、財布の中の保険証を確認すると、部屋を出た。

(かつ)て、一緒に働いたホステスは精神を病んでいる女が多かった。

ナオミが二十歳の時勤めていた新宿歌舞伎町のクラブ・胡蝶の綾子ママは、強い睡眠薬を規定量の三倍飲まないと寝付けないと言っていた。病院で処方して貰う薬だけでは足りず、彼女は精神安定剤や睡眠薬をインターネットで大量に買い込んでいた。クラブで浴びる程酒を飲んだ後の薬の過剰(オーバー)摂取(ドーズ)で、ママは店にオバケが出た、等と頻繁に騒いでいた。パトロンと上手く行っていない時のママは、(とみ)にこう言う状態が頻発した。又或る時彼女は、客が引いた後の店で突然幻覚に喋り始めたり、急に叫んだりする事があった。ホステス達はそんなママを尻目に(いぶか)しげに顔を見合わせていた。クラブ・胡蝶のお局で、(こずえ)と言う姥桜(うばざくら)も、(ほとん)どママと同じ状態だった。

元銀行員で(カラス)の腐った様な顔をした梢は実に露骨なイビり方でナオミを店から追い出した。当時二十歳だったナオミは、まだ心に化粧する事すら知らない、信じやすい子供でしかなかった。

「若くてオッパイが大きいからって図に乗るんじゃないわよ。このウスバカ! 私の客なんてあんたの名前すら覚えていないわよ。おい、オッパイ! って呼ぶもの。」客の引いたフロアで、今夜も梢が泥酔して鳥類的な声で(わめ)いている。こんな状態が三ヶ月は続いているだろうか、ナオミは怯えた愛想笑いで必死に梢のご機嫌を伺った。マリー・アントワネットの様に大袈裟な縦ロールの、「自称銀幕の女優」の売れない四十前の劇団員の理沙がニヤニヤ笑いながら底意地の悪い視線をナオミに投げ掛けた。「あんたなんかねぇ、山下会長のチンポでもしゃぶってりゃ丁度いいのよ。あの爺さん最近イヤらしいんだから、まったく、この娘をくれてやるわよ!」

「ど、どうして梢さんは、あたしにこんなに辛く当たるんですか?」

ナオミは(あお)()めながらも、梢の濁った目を見詰めて訊いた。

「な、何よ、その目付きは! 何か文句あるの? ああ、怖い。ママ! この娘をクビにしましょう。クビ!」

ママは実に楽しそうにホホホ……、と笑っていた。()()だったか、ママは普段しとやかだけれど、アノ時は手の施しようのない淫乱になるんだぜェ、と()()大尽風(だいじんかぜ)を吹かす弁護士の客が(うそぶ)いていた。或る日、客を送りに行ったエレベーターの蛍光灯に照らされたママは、身体の芯から枯れ果てた、()みだらけの造花だった。此処にいたら腐ってしまう! ナオミは(せき)が切れたようにワッと()き出し、クラブ・胡蝶を飛び出して二度と店に戻る事はなかった。

何時(いつ)だったか、エトランジェで客を待っていると、ナオミの携帯にクラブ・胡蝶時代のマスターから間違い電話が掛かって来た事があった。二人は数分電話で会話した。マスターは、(ハタ)と思い出したように、「梢ちゃん、死んじゃったんだよ、可哀そうにね、」と言った。ナオミはギョッとして、「信じられない。それじゃあ、綾子ママはどうなったの?」と尋ねた。「彼女は精神病院に長く入院している。何度か見舞いに行ったけど、廃人に近いよ。」

「じゃ店は?」とナオミが吃驚(びっくり)して訊いた。「そんなの、()っくの昔に無いよ。ママのパトロンやってた男性(ヒト)が別の愛人に店を出させた。そんで、ママはお払い箱さ。ま、それが原因で入院したってのもあるけどね。全く助平(スケベ)なヒヒ(ジジイ)だよ。」世の中壊れた連中だらけだ……。「マスターもお元気でね、」とナオミは電話を切った。

ナオミは身支度を整えると、近所の精神科に赴いた。神経症気味の若い女が金切り声を上げ、受付の女を怒鳴り付けている。受付の女は石のように押し黙っていた。掛かり付けの医者の問診を一、二分受け、ナオミは迫真の演技で大量の薬を処方して貰った。古狸のような医者は、脂で曇った老眼鏡をずり下げて常連客の彼女を()(さん)(くさ)げに見たが、以心伝心で余計な事は何も訊かなかった。

古狸の前は端正な顔立ちで実にセンシティブな青年の医師がいたのだ。彼とナオミは束の間プラトニック・ラブの関係にあった。

「僕と君は過去世では一人の人間だったんだよ。それがこの世に転生して魂が離れ離れになってしまったんだ。その証拠に、僕と君は何もかもが鏡合わせのようにそっくりだろう。」と彼はナオミに噛んで含めるように言い聞かせた。ナオミはこの言葉を素直に信じ込み、胸の中で温めて幸せに浸っていた。彼はその直後、謎の失踪を遂げ、自ら命を絶ってしまった。ナオミは夢の中で数度彼と交信を取った。夜空の星という星が異常に騒ぎ、ナオミが寝付きの悪さに疲れ果ててまどろみかけた夜明け前、一筋の流れ星が落ちた。それが彼の最後だった。

ナオミは病院の帰り、近所の処方箋調剤薬局に寄り、薬を買った。部屋に帰った彼女は寂寥の海を漂いながら、精神安定剤をミネラル水で流し込み、寝台(ベッド)に身体を横たえていた。(しばら)くすると天井が二重三重にぼやけ、それから肉体から混濁した意識が引き剥がされるような感覚を覚えてナオミは慄然としながらも眠りに落ちた。

 

 

ナオミが目を覚ますと、和也が傍らに小さな寝息を立てて眠っていた。和也は普段から大人しいが、睡眠中も(いびき)()かず静かなものだ。「アレェ、和也?」彼女は寝台(ベッド)からむっくり起き上がると、和也を揺り動かした。和也はごしごし目を(こす)りながら起きた。ナオミは派手な音を立て、寝台(ベッド)から転げ落ちた。足が(もつ)れ、思ったように身体が動かない。「大丈夫? 何回電話しても出ないから、心配で見に来たんだ。呼んでも起きないし、どっか具合でも悪いのかなと思って。」和也は彼女を助け起こし、背中を(さす)ってくれた。

「別に、眠かっただけよ。あんた、鍵は?」「開いていたよ、物騒だなあ……、ナオミちゃん、ジュース飲む?」と和也が訊いた。

「ええ、頂戴、今何時?」和也は冷蔵庫を覗き込み、もう()ぐ夕方の四時だよ、と言った。ナオミは身体が()(から)びてしまったようだった。「(さっき)、黒田さんに会って来た。」和也が彼女の顔色を伺いながら、(おそ)(おそ)る言った。「どういう事なの?」とナオミは訊いた。「午前中、お前に見せたい物があるって事務所に呼び出された。」「何なのよ、見せたい物って!」彼女はヒステリックに怒鳴った。「車だった、俺に乗らないかって。」

思い出した! 黒田は本業の下っ端ヤクザ稼業だけでは食って行けない為、足立区出身の中古車販売店を経営している後輩から車を安く仕入れ、それを転売して小遣い銭を稼いでいたのだ。

「で、アンタ何て言ったの?」和也はボソッと何か言い淀んだ。ナオミは煙草の煙をフッと和也の顔に吹き掛け、瞬時に気色ばんだ。

「何よ、湿()()(チョメ)(チョメ)みたいに、はっきり言いなさいよ!」

ナオミは額に青筋を浮かせ鋭く叫ぶと、和也のTシャツを掴んで激しく揺さぶった。「こ、断わり切れなかった。」幼少期に失語症だった和也は、大人になった今でも情緒不安定な時は明瞭に話せない。「何で、買うって事? アンタそんなお金何処(どこ)にあるのよ。この間、あんたが昔にしていたサラ金をあたしが返済してあげたばかりじゃない。」彼女は()()(ばや)に和也を質問攻めにした。和也は(うな)()れている。「ああ言う人種から、何を買っても駄目だって。一寸(チョット)考えて見れば分かるでしょ。絶対に(ロク)な事ないんだから。」和也は(うつむ)き、黙りこくっていた。「もう、知らない。自分で断りなさいよ、」とナオミはうんざりしながら言った。彼女の携帯に黒田からの留守電が入っている。ナオミは暗澹(あんたん)たる思いだった。

「どうしてくれるのよ? きっと和也が車買うなんて言ったから、金を工面するようにお前からも良く言っとけよって、きっとそう言う事よ。」ナオミは途方に暮れている和也を睨み付けた。突如、彼女の携帯が鳴り出した。携帯を持つナオミの手に、ビリッと感電したような衝撃が走った。「ああ、もうこんなの(イヤ)!」ナオミは携帯を壁に投げ付けた。

 

 

「ナオミ~。元気にしてる? 何か寂しくなって来ちゃったわ。」

二年前迄この街のトワ・エ・モアと言う店で同僚だった琴音(ことね)が、エトランジェの扉を開けた。ナオミと琴音は(しば)(きゅう)(かつ)(じょ)した。

琴音は正に夜咲く(あだ)(ばな)と言った感じで、会う度に罪深く淫靡(いんび)な雰囲気に包まれている。琴音はナオミと同じ年の癖に、()うに女の旬の時期を過ぎ、爛熟(らんじゅく)の極みと言った貫禄さえ漂っている。琴音は和也の隣にしとやかに腰掛けた。ふわっと甘い香りが漂い、「相変らずお綺麗ですね、」と和也は照れながら言った。琴音は和也に優雅に微笑した。「久し振りだけど、琴音は元気にしていたの?」とナオミは訊いた。琴音は象牙のように滑らかな肌に、長い(まつげ)の影を落としている。琴音はアビシニアンと言う種類の高貴な猫に似ている。「此方(コッチ)も、色々あったわ、」と琴音は頬をくぼませアンニュイな作り笑いを浮かべて「ナオミはお店どう?」と訊いた。ナオミは煙草の煙を吐きながら「この間ヤー公が暴れて大変だったわ。(すご)く迷惑した、」と言った。琴音は顔を歪め、やだァといった。

「ねえ、ナオミ、あたし、ここ二ヶ月程ご無沙汰していたでしょ、その間に何があったと思う?」

琴音が浮かない顔で訊いた。「何、彼氏が変わったとか? あんた男出入りが激しいものね、」とナオミは冗談半分で言った。

「そんなのじゃないわ。顔面骨折と網膜剥離をやったの。」琴音は虚空(こくう)を見据え、低く言った。「えええぇェッ! 何があったの?」ナオミは飛び上がらんばかりに驚き、頓狂な声を上げた。

「あたし、今働いていないの。この間迄は吉祥寺のキャバクラにいたでしょ?」「確か、そう言っていたわね、」とナオミは琴音の顔を穴が開く程見詰めた。「あたしも、記憶喪失みたいな感じなんだけれど、店で泥酔して帰る時、偶偶(たまたま)乗ったタクシーの運転手に殴られたらしいの。」「らしいのって、殴られたから大怪我したんでしょ?」とナオミは身を乗り出して訊いた。

「うん、多分そう。()ぐ交番迄歩いて行ったんだけれど、お巡りが相手にしてくれなくて、仕方ないから別のタクシーを拾って帰ったの。」ナオミはこうなった経緯(いきさつ)が簡単に推測出来た。琴音は恐らく酒に酔った勢いで、運転手の沽券(こけん)に関わるような事を平気で口走ったのだろう。琴音は(たぐい)(まれ)な美人だったが、類稀な悪癖があった。

昔一緒に働いていた店で、琴音は気難しい客を激昂させ、麦酒(ビール)を引っ掛けられた事があった。剥き出しの(やいば)のような気性の琴音と、反りの合わない客は真っ向から衝突してしまう。

「何でそんな事になったのよ、」とナオミは一応訊いた。「それが、憶えていないのよ。次の日起きたら顔がお岩さんみたいに腫れて、高熱が出ていたの。サングラスを掛けて病院に行ったら緊急入院だったわ。気分の落ち込みが激しいから、精神科も通っている、」と琴音は怨嗟(えんさ)の声を漏らした。「琴音、辛かったでしょう……。それにしても、酷い奴!」ナオミは慷慨(こうがい)に堪えない思いだった。

「タクシーのナンバー(なん)かは憶えていないんですか?」と和也が愚直な質問をした。琴音は苦笑している。「憶えている訳無いでしょ、何で運ちゃんに殴られたのかも憶えていないのに。」ナオミは和也を嘲笑った。「まあ、ナンバーでも憶えていれば、裁判して慰謝料取れたかも知れないのに、酷い目に遭ったわ。千葉の実家に帰りたいんだけど、ウチのママも新しい旦那とよろしくやっているから、お邪魔も出来ないしね。」

琴音とは昔の(よしみ)であったが、ナオミは彼女と()する事を快くは思っていなかった。琴音は相当な別嬪ではあるが、蒙昧(もうまい)で己の狭義の常識の中で凝り固まっていた。(しか)し、彼女は手練手管(てれんてくだ)で男を(たら)し込む事と、男に物を()()る事に掛けては、無欲恬淡としたナオミが舌を巻く腕前であった。琴音は今でも二言目には、「ナオミのパトロンって誰なの?」と訊く。「あたしは、今迄売り上げの統計を取って、それで何とか独立してやって行けそうだから、自分で始めたんだよ。それに、いざとなったら、四畳半に銭湯通いでも平気だからね。」とナオミが説明しても、琴音は合点が行かないらしい。

トワ・エ・モアの常連客のM大の心理学教授が「女は子宮でモノを考える、」だの「女はメンスがあるから男より愚かである。」等と大学でうっかり口を滑らせたら、セクハラと糾弾されるような事を、酔った勢いで平気で琴音に吹き込んでいた。「安部先生は射精しながらモノを考えるんじゃない?」とナオミは茶化していたが、琴音は大学教授の言う事だから、と(かたく)なに()()みにしていた。()()でも、琴音は()(やす)く地位や金を持つだけで、品位に欠ける男達の(かい)(らい)となった。

「琴音、安部教授(センセ)の言う事なんて信じちゃ駄目! あの人の長男は覚醒剤中毒の暴走族で次男は引きこもりで学校行ってないじゃない。おマケに女房とは家庭内別居状態よ。一体、あの人が大学で教えている心理学って何なのよ。この間、学生達と来た時なんて、安部ちゃん、座る席が無くて、ホステスが水割り作る席に座っていたわよ。普通だったら、学生達がエスコートして先生に一番いい席に座って頂くものじゃない? 学生達も馬鹿だけれど、あの先生も尊敬されていないのよ。」ナオミは半ば呆れ顔で琴音に忠告した。

「思い出したわ! 安部ちゃん、この間、あたしの事、だから、お前は愛人にしかなれない、って言っていたけれど、あたしは愛人になった事なんてないし、他人の竿(サオ)なんて興味ないもん。そこ迄不自由した事なんてないわよ。まして、女房一人幸せにしてやれない癖に、余所(よそ)の女に鼻の下を伸ばすような男なんて、あたしは嫌いですからねーだ。」ナオミは語気荒く(まく)()てた。琴音は、「でも、あたしあの人とホテル行った事あるよ、」と告白した。ナオミは大いに憤慨していた。琴音は甲斐性無しの(ガラクタ)ばかりと(ねんご)ろになっては、ナオミに(のろ)()て見せる。だから、懲りもせず莫迦(バカ)な男に五回も孕まされるのだ。琴音が十九の年で産んだ息子も元旦那に取られ、何年も会わず仕舞いだ。

2009年8月24日公開

作品集『妾が娼婦だった頃』第6話 (全11話)

© 2009 寺島聖

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