妾が娼婦だった頃(4)

妾が娼婦だった頃(第4話)

寺島聖

小説

8,619文字

口ばかりの画家志望者・美登利に、ナオミは自分の過去を語る。暴力を振るう父の事、無神経な母の事、世故に長けた弟の賢一の事、そして先鋭的なインスピレーションを持ち、やがて自殺したもう一人の弟、宏明の事を。壮絶な過去をさらけ出してくれたナオミに、美登利は強く生きる事を決意する。破滅派文藝新人賞の応募規約を大胆に無視して話題を呼んだ怪作。

あの日、二人は薄暗い陋室(ろうしつ)で酒を酌み交わしていた。ナオミはコップに焼酎をなみなみと注ぐと、それを美登利に勧めた。ナオミはスルメ烏賊(いか)を齧りながら、焼酎を(すす)っていた。

「見て、このお部屋はお風呂も無いの。毎日が銭湯通いよ。生理の時なんて、困るんだから。この間なんて、偶偶お風呂屋さんに行っている時にアレが始まっちゃってね、知らないおばさんに注意されたけれど、本当に恥ずかしくて、死ぬ程惨めだったわ。あなたはそんな思い、した事無いでしょ。あたしは、一生懸命働いて、お風呂の付いたお部屋に移り住むのが夢なの。私は部屋を借りる事自体が大変なのよ。家出して上京しているから身元保証人がいないでしょ。でもね、あたしも今(まで)色んな事があったけれど、逆境や絶望を救ってくれたのは、結局自分の想像力だと思うわ。あたしは我儘(わがまま)放題のお姫様より小公女セーラやアンネ・フランクや赤毛のアンみたいに、(たと)え屋根裏部屋で生活しようとも、心はバラ色で幸福そうにしている少女の方がよっぽど好きよ。」美登利は何か珍しい生き物でも見るようにナオミを凝視していた。ナオミは構わず言葉を続けた。

「あたしはこの間街に出て、スイトピーの小さなブーケと無農薬の()(モン)と、何処(どこ)かのお婆さんが手で縫った着物を古着屋で買って来たわ。それをどうしたと思う? あたしはコップにお花を生けて、レモンティーを飲みながら、お裁縫をしたの。着物を解いて、ミシンで巻きスカートに仕立て直したのよ。その巻きスカートの布地が小豆の色だったから、上はお抹茶の色のシャツを着て街を歩いたわ。知り合いと擦れ違ったら、美味しそうだねって言われたの。あたしは、こう言う生活だけれど、案外楽しく暮らしている。」

()()(くさ)れた美登利はその夜、手首に包帯を巻いていた。彼女の身体は()()も満身創痍であった。美登利は、口火を切って訥訥(とつとつ)と語り始めた。飲み慣れない焼酎の勢いに巻かれ、普段内向的な美登利が口に出来ないようなどす黒い塊を吐き出し続けた。余りに身勝手で稚拙な発言に虫唾(ムシズ)が走ったが、ナオミは辛抱強く聞いていた。

「ところで、あなた、そんなに死にたいわけ?」

とナオミは確認するように訊いた。

「死にたいと思っている。」と美登利は押し殺した声で答えた。裸電球に照らされたナオミは、(りん)が燃えているかのように、瞳の奥に煌煌(こうこう)と不思議な輝きを宿していた。

不意に、ナオミは「あなたの望みを叶えてあげる!」と叫ぶや(いな)や、美登利に飛び掛かり馬乗りになって首を締め付けた。キャアァァッ! キャアァァッ! と美登利は大袈裟に床を転げ回り、絶叫した。隣の住民のタクシーの運ちゃんがナオミの部屋の壁をドンドンと蹴り付け、ウルサイ、夜中に騒ぐな! と怒鳴っている声が聞こえて来る。「どうしたの、死にたかったんじゃなかったの?」息を弾ませながらナオミは訊いた。美登利は目を真っ赤にして(うな)()れていた。

「本当は、死にたくなんか、無いんでしょ。絵が認められないから、駄々を()ねているだけなんでしょ。」「それは、違う……、」

「何が不満なのよ。五体満足で生まれて、ご両親共に健在で、生活にも何不自由していない癖に。あなた、本当に純粋に絵を愛しているの? 何故、自分の身を削ってでも、見てくれる人が幸せな気持ちになる絵を描きたい、とか、見てくれる人の心を打つ絵を描きたいって風にならないのよ。あなたは、出来るだけ楽をして有名になりたいだとか、評価されたいとか、そう言う気持ちばかりが作品の邪魔をしている事にそろそろ気付かなきゃ駄目よ。」

ナオミは胆を据え美登利を喝破した。美登利はしくしく泣いている。「自分の想念の世界でご飯を食べて行くのがどれ程難しいか。まだあなたは生活に困っていないだけマシなのよ。無名の絵描きさんなんて、貧しくて当然、苦しくて当然。」

ナオミは美登利の肩に手を掛け、「あなたは幸せなのよ、そして、多分あたしも、」と言った。美登利は涙を(こぶし)で拭き、「真剣になってくれて、(あり)(がと)う、」と言った。「これから頑張ればいいのよ。美登利も、あたしも、まだ、挽回出来るから、」とナオミは呟き、束の間沈んだ気持ちでコップの酒を飲んでいた。

それから、二人は浴びる程飲んだ。蟻地獄のような酔いの淵に転げ落ちると、絶望と屈辱の歴史が走馬灯のように駆け巡る。ナオミは天井に浮かんでは消える映像の断片を捉え、熱を込めて美登利に話し始めた。

 

 

自殺した五歳違いの弟、宏明の葬儀がしめやかに行われ、四十九日も過ぎ、(ようや)く落ち着きを取り戻し始めた或る日、ナオミは二階の宏明の部屋で遺品整理をしていた母、春美の背後に忍び寄り、(やつ)()てたその横顔に、「人殺し!」と一言突き刺した。

「どう言う意味よ、」春美の干からびた唇が微かに動いた。

「お母さんは宏明を二度殺している。宏明はお父さんの子じゃない。だから、お母さんは海外に住んでいる外交官の奥さんから日本じゃ手に入らない解禁前の経口中絶薬を横流しして貰って、宏明を殺そうとした。その外交官の奥さんも、飛んだ阿婆擦(アバズレ)よね。でも、()()か死ななかった。病院で中絶手術をすれば十万は掛かるから、お婆ちゃんや親父に怪しまれるものね。だから仕方なく産んじゃった。そうでしょ、違う? あたし、十年以上も前、お母さんがOL時代の同僚に電話で話しているの、聞いちゃってずっと覚えていたんだから。」

春美の顔が瞬時に気色ばんだが、ナオミは、「お母さん、本当はホッとしているんでしょう、」と続けた。

()()()がった春美は、()()りナオミの頬に鉄拳を炸裂させた。ナオミは(もん)()()打って転んだが、立ち上がって春美に反撃した。二人は何かに憑かれたように、罵り合い、揉み合っていた。ナオミは自分の体内に流れている血を呪った。春美はナオミに内在する醜さを、()(まま)グロテスクに拡大した鏡である。だから、ナオミは母を見るのが堪らなく(イヤ)だった。

ドタバタと物凄い足音で階段を上がる音が聞こえ、父が勢いよくドアを開けた。「お前ら、一体、何をやっているんだ! もう止めろ、決闘するんだったら、外でやってくれ、俺の居ない所で思う存分やってくれ。」宏明の葬儀で喪主を務め上げた父は、泣き腫らした顔で、「俺はもう野中の一軒家に一人で生きて行きたい。お前達にはほとほと疲れ果てた、」と言い残すと、階段を下りて和室の床にぐったり()してしまった。「お父さんはね、アンタの事なんて、ちっとも愛していない。あたし、何時(いつ)だったか、あの人が通勤鞄にバイアグラ隠し持っていたの、見ちゃったんだから。外に女がいるのよ、」とナオミは(はら)()せに父の秘密(まで)バラしてやった。

「まったく、イヤらしい()だわ! あんたなんて産むんじゃなかった。」春美は憎々しげに吐き捨てた。

「確かに、あたしはお母さんが言うように(ウソ)()きで泥棒だけれど、畜生みたいにバカバカ孕みたくないから、病院でリング入れて来たわ。」ナオミの剣幕に()()された春美は、「出て行って頂戴。あんたみたいな手に負えない娘、この家に置いておけないわ、」と言い残し、宏明の部屋を立ち去ろうとした。

「言われなくても、出て行きますよ! (いま)すぐにでも。お母さんは自分の立場を守る事に努めて下さい。もう、宏明も死んでしまったし、(やま)しい事は何も無いのだから。精々お父さんに捨てられないようにね。」ナオミはジーンズを履き、数日前から荷物を(まと)めておいたバッグを持つと家を出た。明日の事すら予測も付かなかったが、ナオミは(とり)()えず自身の新しい人生の門出に祝杯を挙げる事にした。彼女は近所のバーの扉を()じ開け、夜が明ける(まで)苦いウイスキーに浸った。長い間彼女の桎梏(しっこく)となっていた凄惨を極めるこの生活からの事実上の解放(レジスタンス)だった。

ナオミの母、春美は情緒(じょうちょ)纏綿(てんめん)とした所の片鱗も無く、誰もが呆れ返る程の吝嗇家(りんしょくか)で、女と言うよりも動物の雌そのものだった。彼女のソフィア・ローレン()りの派手な容貌が、この(ひな)びた田舎町にどれ程不似合いで、浮いた存在であったか、本人に全く自覚はなかった。春美の放埓ぶりは常々近所に住む姑の顰蹙(ひんしゅく)の的だった。

父、昭治はこの田舎町で画学生を夢見ていた時代があった。(しか)し、明治生まれの祖父がそれを断固として許そうとしなかった。祖父は長男が学業の合間を縫って働いた家庭教師の賃金で生まれて初めて手に入れた念願の油絵の画材すら、何の呵責も無く焼き払った。昭治が余りの嬉しさに枕元に置いて眠った程の宝物の画材を、である。「絵描きになりたい等と寝言を言う軟弱な人間はこうしてやる!」と祖父は長男を家の柱に(くく)り、こっ(ぴど)く棒で殴り付け、鼻の骨が折れる程の折檻を繰り返し続けた。昭治の端正な顔も()()の間にかおかしな具合に(ゆが)んでしまった。昭治は祖父の希望通りの大学に入学し、(やが)て、祖父の(わだち)の跡を踏むように国家公務員試験を受け、官僚になった。昭治は大学在学中に大手住宅メーカーの営業職に内定していたのだが、それも祖父が勝手に根回しして断った。芸術と孤独を好む昭治が三十になる頃、祖父も祖母も焦り始め、追い立てるように次々と見合いをさせ、結婚相談所への入会を勧めた。「昭治君、三十歳を過ぎて独身なんて、()()か悪いの?」等と祖母が親戚に訊かれた事が発端となったのだ。昭治は数度の見合いで、比較的マシな春美と結婚した。そこからが、悲劇の始まりである。

官僚の夫を捕まえた事が、春美の人生における唯一の自慢であり、矜持(きょうじ)であった。代々木上原の官舎から霞ヶ関に通っていた昭治は、接待と偽り、妻から逃れたい一心で、酒に溺れ込んだ。デリケートな昭治は無神経な春美との同居が耐え切れない程苦痛だったのである。春美と暮らし始めて、たった三年で昭治の丈夫だった歯は抜け落ち、目は落ち(くぼ)み、アルコール性の糖尿病に全身を蝕まれていた。春美は至って丈夫で、ナオミと翌年には年子の弟の賢一を次々に産んだ。ナオミが保育園に上がる年に、一家は昭治の故郷のK市に転勤になった。変わり果てた息子の姿に昭治の母親は愕然としていた。犬の餌程度の料理しか出来ない春美に、姑は「アンタの所為(せい)で、私の息子は病気になった!」と辛く当たった。田舎に馴染めず、姑とも折り合いの悪い春美は、日々を鬱々と過ごし、()()の間にかキッチンドランカーになっていた。孤独感に苛まれ、不貞腐れた春美は、どす黒く欲求不満を募らせ、子供達に対しても激烈なヒステリーを起こした。「あんた達さえいなければ!」と呪いを込めて愚痴るのが春美の口癖だった。ナオミはそんな日常に疑問を抱いていた。

そんな或る日、春美が急に綺麗に化粧して、そわそわ落ち着かず、ナオミに対しても、薄気味が悪くなる程優しかった時期があった。それは、後でナオミが逆算してみると、春美が宏明を身籠った時期と丁度重なっていた。想定外の妊娠に春美は蒼褪めた。春美は色々と苦肉の策を施したが、それも徒労に終わった。仕方無く彼女は既成事実的に昭治とも数年ぶりに関係を結び、後ろ暗い真実を韜晦(とうかい)する事に奔走した。宏明は春美にとって、罪の象徴だ。(しか)し、何も心配する事は無い。ナオミと宏明は誰がどう見ても瓜二つの姉弟なのだから。不協和音の中で寄り添うように(かば)い合って生きて来た二人には、自然と阿吽(あうん)の呼吸が出来上がっていた。

ナオミと宏明は、仮住まいのこの世で、鬼畜の子供として生れ落ちた。普段大人しい公務員の昭治は、酒を飲むと覚醒剤を切らせた麻薬中毒者のように人が変わった。酒に呑まれ、革のベルトや裁縫用の定規で犬を殴るかのように妻や娘を殴り付けた。昭治の狂気は常に不可抗力の立場にいる女子供に向かった。昭治の娘に対する暴力は、歯止めが掛からなかった。「お前なんか、殺してやる! 殺してやる!」ナオミは酔った父に(したた)かに殴られ、眼球を内出血した事があったが、春美は病院に連れて行こうとすらしなかった。ナオミは失明するのではないか、(しばら)く怯えて過ごした。ナオミと宏明に一刻として気の休まる時は無かった。二人の幼い魂は家に居ながらも、遁世(とんせい)していた。

ナオミと年子の弟、賢一は吾が身に火の粉が降り掛からぬよう、ストイックに拱手(きょうしゅ)傍観(ぼうかん)の姿勢を貫き通していた。世故(せこ)に長けた賢一は自分に形勢が悪くなると、両親の気を巧みに逸らす(すべ)も熟知していた。馬鹿共がどんな理不尽で幼稚な騒動を起こそうと、(ひた)(すら)従順で下手に出る事が、この崩壊寸前の一家で生き抜く暗黙の掟である。それには高度な演技力が要求される。(しか)し、賢一は抜きん出て巧い役者だった。ナオミと賢一は対立関係にあった。

少女時代のナオミは、学校で倒れる程の不眠症に悩まされ、幻覚や幻聴に怯えた。宏明は(てん)(かん)持ちで、時折正面(まとも)に見ていられない程の凄まじい発作を起こした。宏明は春美の胎内で殺され掛けたトラウマを宿命的に背負っていた。()ねこびた少女だったナオミは、不安に揺らぐ分裂した精神の複合体と言った感じで、()だ自分自身の軸や色彩を持っていなかった。浮世の世界に生き、現実感の希薄な彼女には度を越した夢想癖があり、左右違う種類の靴を履きながら車に撥ねられ掛けたり、うっとりと夢心地で溝川(ドブガワ)()まり込むような危うさがあった。

宏明は先鋭的な直感(インスピレーション)の持主で、夢想家のナオミと無条件に気が合った。「あたしが、働くようになったら、必ず宏明を引き取るよ。何も心配する事はないからね。それ(まで)、もう少しだけ待っていて。」ナオミは安楽死したいと訴える宏明に約束した。

或る日、前後不覚な程酒に酔った父が、奇声を上げ、眠っていたナオミに飛び掛かって来た事があった。「ギャアァァッ!」吃驚(びっくり)したナオミは叫びながら父を撥ね除け、ドタドタと階段を下り、台所へ逃げた。昭治と激しい喧嘩をした後の春美は一人で酒を飲んでいた。彼女は取り乱した様子のナオミを血走った目で()()け、「あんた、お父さんと何をしてたのよ?」と冷たく訊いた。

春美は娘を汚らわしい物でも見るように、見た。

敵だ! 家の中に敵がいる! ナオミはその場にへたり込み、余りの情けなさに身体を激しく波打たせながら嗚咽を漏らした。

()()の間にナオミの心に巣食い、取り返しが付かない程大きく寄生していた近親相姦ぎりぎりの近親憎悪。ナオミは父の一挙一動に怯えながら思春期を過ごした。春美も昭治も、自覚症状がない精神病だった。致命的なのは、この二人が自分達は至って普通で、健全な夫婦だと信じて疑わない事であった。その、何の根拠もない自信は、(いささ)か狂信的ですらあった。

「私は国家を(うれ)う仕事をしているのだ。それをお前達と言う(てい)たらくは、全く理解していない。そんな奴らはこの家から出て行け!」

昭治は毎晩大酒に呑まれ、子供達に当り散らした。

「黙れ、公僕! ペテン師! 国家を憂うって、一体何だよ? 夕方の五時半ピッタリに役所から帰って来て、毎晩浴びる程酒を飲む事かよ? あたしに悪戯(イタズラ)する事かよ。役所のオッサンの一匹に何が出来るって言うんだよ、この税金泥棒! ファシスト! エゴイスト! あんたなんか親になる資格がないよ。」ナオミは憎々し気に顔を歪め、血を吐くように父を怒鳴り付けた。何ィ? 昭治がナオミに掴み掛かった。もう、手遅れだ。この家は壊滅寸前だ!

そんな或る日、宏明が自殺した。この田舎町では珍しい十二階建てのマンションが近所に新築された(あかつき)に、屋上から身を投げたのだ。警察の調べによると、現場に自殺を(ため)()った形跡はなく、まるで一足飛びに、と言う感じで屋上から転落したそうだ。繊細な宏明は日頃から両親のナオミに対する仕打ちに心を痛めていた。

()だ、十三歳、怖い物知らずの若さであった。(たと)え今が辛くても、これから楽しい事だって一杯一杯あった筈なのに。ナオミは悔しさで気も触れんばかりだった。

言葉には魂や念が宿り、使い方を間違えるとその魔力に()って自分が因縁を背負う事になる。春美は日々女性らしく成長し、娘盛りを迎える頃のナオミを、「水商売の女みたい!」と罵倒し、露骨に厭な顔をした。春美は娘を妬み、自身の満たされない人生を呪いに呪っていた。彼女は母親と言うよりも女であり、女であると言うよりも雌に近かった。昭治は酒に酔い、「お前みたいな白痴、ソープランドで身体使って働け!」と娘に(わめ)いていた。

ナオミは家出し、赤貧の生活を余儀無く送っていた頃、糊口(ここう)を凌ぐ為に度々春を(ひさ)いだ苦い経験があった。(しか)し、余り裕福でもない癖に余計に金をくれ、ナオミを必死で自分の元に繋ぎとめようとする男達が彼女には憐れでならなかった。そうこうしている内に、ナオミは春美の言葉の呪い通り、歓楽街のネオンに呼ばれ、坂道を転げ落ちるように夜の沼に溺れ込み、その腐った(よど)みの中で異色の大きな蓮の花を咲かせるようになった。

「あんたの同級生の河合さんのお母さん、この間駅のトイレでバッタリ会ったら、お掃除のパートを始めたみたいよ。あれだけは(イヤ)よね。何だかレベル低い感じ。」

ずっと昔、ナオミが()だ小学生だった頃、春美が蔑むようにこう言った事があった。こう言う人間は叩き殺さなければ、分からないのだ。こう言う人間が(はび)()所為(せい)で、世の中は醜い差別だらけになってしまう。自分は衣食住に事欠かない生活を守りながら、貧しいながらも懸命に生きている人々を冷たく見下す春美のその無慈悲な心が、ナオミの感情を逆撫でにした。

「何を根拠にアンタは母子家庭の人に変な優越感を抱く訳? (たと)え母親でも許さないよ!」

河合さんは私に優しく接してくれた(ただ)一人の女の子……、彼女の穢れのない心が恥知らずの母に冒瀆されたようで、ナオミは剃刀(カミソリ)で切りつけるかのように春美を糾弾した。(くだん)の母子家庭の河合さんは(しっか)り者で、我慢強く、思いやりのある少女だった。同級生達に殴られ、蹴られ、滅茶苦茶に(いじ)め抜かれているナオミを(かば)ってくれたのも、彼女だけである。大人達から見れば無邪気に映る子供達も、一皮剥けば、残虐獰猛な動物の群れにすぎない。ナオミは同級生達の子供特有の残酷さに脅え切っていた。初めからやる気なんて全くないサラリーマン教員も見て見ぬ振りのクラスは、所謂(いわゆる)何でもありの無法地帯の魔窟(まくつ)なのである。唯一の救いはナオミが犠牲になり続けていれば、他の生徒が同じ目に遭わないと言う事だった。ナオミは自分以上に不幸な子供を見るのが厭だった。

ナオミが出て行った後、春美は暇に飽かして、パートの口を(いく)つか探したが、何処(どこ)も採用してはくれなかった。因果の小車は廻りに廻って、春美が最後に採用された仕事は、(かつ)て河合さんのお母さんが勤めていた駅の清掃のパートだった。それでも救いなのは、春美が非常に忘れっぽい性質(たち)の人間で、自分が過去にそう言う誹謗をした事すら、すっかり忘れてしまっている事だった。

ナオミが黒田のように自身の境遇を呪っているかと言えば、そうでもなかった。幼く、非力な頃は傷付き、踏み躙られる事ばかりであったが、成人してからの彼女は、あらゆる種類の人達と実に屈託無く付き合う事が出来た。差別意識や偏見の垣根を持たない事。それが子供達を幸せに出来なかった憐れな両親から教訓として学んだ事であり、今は亡き弟の宏明の切なる願いであった。

美登利はナオミの話を目に涙を溜めながら聞いてくれた。そして、

「私も強く生き抜く事にする。もう、絶対今迄みたいな事は繰り返さないから、」と憑き物の落ちたような顔でナオミに誓ってくれた。

南の島に旅立った美登利が半年後にナオミに贈ってくれた海の絵は、精神的な浄化作用のある、とても素晴らしい作品だった。心が(すさ)んでいる時も、曇っている時も、ナオミはその絵から(さざなみ)の音を聴き、自分自身を取り戻した。美登利は狭い鳥籠から解き放たれ、生まれて初めて自分の力で精一杯生きて行こうとしていた。

2009年6月6日公開

作品集『妾が娼婦だった頃』第4話 (全11話)

© 2009 寺島聖

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