妾が娼婦だった頃(3)

妾が娼婦だった頃(第3話)

寺島聖

小説

9,442文字

黒田龍二が入院したと聞いたナオミは、入院生活に必要な物を届けるために病院に向かった。 ベッドの上で黒田は自らの人生を語る。それに応えるように、ナオミも美術モデルをしていた頃の思い出を話し始める。破滅派文藝新人賞の応募規約を大胆に無視して話題を呼んだ怪作。

(つい)に組の抗争で撃たれたのだろうか? ナオミはカウンターの片隅で黒田に電話を掛けたが、出なかった。

カウンターの中央には白髪混じりの男と比較的若い女が昼間から日本酒の徳利を傾け、刺身を摘んでいる。女は可也(かなり)の別嬪であるが、別に玄人と言う訳ではなさそうだ。ナオミは黒田のメールの意味が大方推測できた。度を越したお人好しの彼女は誰かに何か頼まれれば、大概の用事は快く引き受けてしまう。黒田とナオミは物の考え方の座標軸が狂っていると言う点では同類だった。同病相憐れむの二人に共通するのは、社会から駆逐された者同士の連帯感なのかもしれない。ナオミは女将さんに頼んで残った寿司を折り詰めにして貰うと、蟹の出汁(ダシ)の味噌汁を飲み干し、レジで会計を済ませ、店を出た。

マンションの階段を上がる途中で携帯が鳴った。

「もしもし、龍二さん、何があったの?」ナオミは慌てて電話に出た。「ああ、後生だから耳元で大きな声を出さないでくれ。俺は何とか生きている。」「……撃たれたの?」と彼女は訊いた。

「そうじゃない、膵臓(すいぞう)を壊した。原因はまだ分からない。一昨夜の夜中に腹が痛くて堪らないから相棒に病院に連れて行って貰った。ベッドも空いていないし内科の医者も偶偶(タマタマ)いなかったから他の医者に鎮痛剤を打たれてそのまま帰された。昨日だよ、ヤバイ事になったのは。救急外来に担ぎ込まれて緊急入院だった。今看護婦がいなくなったから電話している。そんなに長話は出来ない。お願いがある、お前しかこんな事を頼める奴はいないんだが、下着やパジャマや身の回りの物を買って来てくれ。今後の連絡はメールでする。」

黒田は早口で用件をナオミに伝えた。

「分かったわ。支度したらすぐそっちにお見舞いに行くから。」

ナオミは寿司の折り詰めを部屋に置き、逡巡する間もなく通りのユニクロに入った。そして、Tシャツ、五足組の靴下、柄違いのトランクス等を適当に見繕うと、買い物籠に入れた。パジャマが見当たらないので、代わりに綿素材の長袖の上下を選んだ。レジを待っていると、携帯メールの着信音が鳴った。

『若林病院 内科652号室にいます。よろしくお願いします。』

レジで支払いを済ませ、店員から大きな紙袋を受け取ったナオミは、小走りで旧甲州街道に出た。こんな時に限ってタクシーが中々捕まらない。彼女は苛立ってその場で足踏みをしていた。五分程待って、反対車線に緑色のタクシーを見付けたナオミは、信号を無視して道路に飛び出し空車のタクシーを捕まえた。年配の運転手が大きな目でギロッとナオミを睨み、飛び出しはいかんよ、と胴間声(どうまごえ)で注意した。彼女は素直に謝り、若林病院の名前を告げた。

タクシーは渋滞に巻き込まれる事も無く、十分程走って病院に到着した。ナオミは支払いを済ませ、運転手に礼を言ってタクシーを降りようとした。「お嬢ちゃん! 紙袋を忘れているよ。慌てなさんな。」運転手がナオミを(たしな)めた。ああ、気付いて良かった、と彼女は紙袋を掴み、運転手に頭を下げると旋風(つむじかぜ)のように病院に駈けて行った。その若さ(みなぎ)る後ろ姿を見送った運転手は、やれやれと言った様子でハンドルに目を落とし、ゆっくりと病院の敷地からタクシーを移動した。その時、運転手は自分が()()の間にか年を取ってしまった事を切に感じていた。

病院内を迷い歩き、652号室の入り口に掛かった入院患者の名札に黒田龍二の名を見付けると、ナオミは恐る恐る病室に入ってみた。彼女は視線を泳がせながら黒田を探した。クリーム色の仕切りのカーテンを閉め切って眠っている患者もいた。窓際のベッドに黒田は静かに身体を横たえ、昏々と眠っていた。ナオミは物音を立てないように黒田の側迄そっと近付いた。人の気配を察した黒田は、瞼をそっと震わせ、薄く目を開けた。黒田の虚ろな視線と、ナオミの問い掛けるような視線が(しば)し重なった。刺青を彫り尽くした腕に点滴を刺して寝ている黒田のその姿は、酷く頼りなかった。

「寝たままでいいよ! 無理しないで。」ナオミは起き上がろうとする黒田を止めた。「いいんだ、寝るのももう()()きだよ。」「駄目よ、病気なんだから。」ナオミはユニクロの紙袋をベッドの脇に置き、折り畳み椅子に腰掛けた。「腹減ったなぁ、点滴だけで何も食わせてくれないんだよ。明日又検査だしな、」と黒田はぼんやりと言った。「一体どうしちゃったの?」とナオミは訊いた。「急な入院で詳しい説明は()だ受けてはいないが、膵炎(すいえん)の疑いがあるらしい。でも、昨日よりはマシになったよ。」黒田は淡々と答えた。「早く治るといいわねぇ、」と言いながらナオミはそれとなく明るい話題を探した。

「お花、上手に生けてあるわね。看護婦さんが飾ってくれたの?」TVの上の花瓶を指差し、彼女は訊いた。「違うよ、あれは俺が生けたんだよ。」「へぇ~ッ! 意外。」とナオミは()()って見せた。「悪かったな、」と黒田が仏頂面で答えた。「身体を壊す度に、俺は後何年生きられるだろうか、とか四十まで生きられるか、とかそう言う事ばかり考えてしまうよ。」「でも、龍二さんは丈夫そうに見えるけどね。今回なんて(まさ)に鬼の霍乱(かくらん)って所でしょ?」

「お前なあ、見掛けで人を判断するなよ。俺は肝炎持ちなんだ。刺青を彫る時に感染したのかもしれない。彫師が()(さん)(くさ)い野郎だったからな。」「きちんと治療に専念すれば治るんじゃないの?」とナオミは訊いた。「C肝が治る訳無いだろ。俺も仲間と同じようにそのうち肝癌になるよ。思えば刺青だけが感染ルートだとは考えられないな。シャブに(ハマ)っていた頃、注射器使い回すなんて当たり前の事だったからな。心当たりがありすぎるよ。」と黒田は()()た顔で言った。ナオミは口を閉ざしていた。「こうやって身を患うと、独りでいる事が骨身に染みるよ、」と黒田が珍しく弱音を吐いた。

「入院中って言うのは、何かと感傷的(センチメンタル)になりやすいのよ。雑誌を読んだり、普段出来ない事を楽しむ位の気持ちがあった方がいいかもね、」とナオミはアドバイスした。「そう言う意味じゃないんだけどなァ……、」と黒田が不服そうに言った。

652号室に見舞い客が訪れた。黒田の対角線のベッドの患者の家族で、三十代の主婦とその幼い娘だ。娘はパパーッと、黄色い歓声を張り上げベッドに駆け上がった。まだ若い父親は娘を抱き上げ、腹の上に乗せていい子にしていたか? と頭を撫で回していた。

「独りでいる状態って、日本語に三種類あるの、知ってる?」と不意にナオミは訊いた。いや……、と黒田は訝しげに彼女を見た。「あのね、一つ目は孤立無援の孤立、次は天涯孤独の孤独、」黒田はフンと鼻で(わら)い、何だか俺の事言ってるみてぇだな、と吐き捨てた。「でもね、三つ目は孤高と言う言葉もあるわよ。」

一寸(ちょっと)間をおいて、孤高か、いい言葉だ、と黒田は噛み締めるように反芻した。「お前は最近独りでいる時、何をしているんだ?」

ナオミは頬に手を当て、束の間考えて「最近は夕方に駅向こうの銭湯に通ってるの。麦飯(ばくはん)(せき)のお湯で身体が芯から温まるし、お肌もツルツルになっちゃう。中々いいわよ、」と答えた。

「お前は素朴な事で楽しめる女だな。俺は銭湯なんてイヤだよ。足立に住んでたガキの頃、兄貴と通ったっきりだ。ウチは片親で、生活保護を受けていた位だからな。当時お袋は俺と兄貴を置き去りにして、度々男と行方を眩ませたりしていたぞ。隣の長屋の婆さんが俺達を不憫に思って、よく飯を炊いてくれたものだ。」

「典型的な育児放棄よね。親になる適性の無い人は子供なんて産むべきじゃないわよ。結局自分の事で皆を犠牲にするんだから。」

ナオミは(いささ)か怒気を含んだ口調で言った。

一寸(ちょっと)聞きたいんだけど、今ここにいる龍二さんは、本当の龍二さんなの? それとも、誰かに歪められてしまったあなたなの?」

「色んな人間に踏み躙られ、歪められて来た俺だよ。」

黒田の対角線上の家族は和やかな様子で語り合っている。ベージュのこざっぱりしたセーターに身を包んだ婦人は、可憐なコスモスの切花を生けている。こまっしゃくれた感じの女の子は父親の側で足をブラブラさせながら、幼稚園での出来事をお喋りしていた。

「今でも俺はあの時の事を鮮明に覚えている。」

黒田は、(はた)と思い出す事があったらしい。ナオミは何の事、と訊いた。「或る日突然、お袋が足立の長屋に見知らぬ若い男を連れて帰って来て、そいつの前で俺と兄貴を正座させて、これからはこの男性(ヒト)があんた達のお父さんになるからね、だってサ。それで、俺が小学校上がりたての頃に、その男の故郷の鹿児島にみんなで移り住んだんだ。俺より七つも年上の兄貴は、新しい親父と折り合いが悪くて、殴り合いの喧嘩をしょっちゅうやっていたよ。」

ナオミは()(じろ)ぎもせず、真剣に黒田の話に耳を傾けていた。

「俺が八つの頃、又兄貴と親父が派手にやっていて、兄貴が包丁を振り回して暴れていたんだよな。兄貴は止めるお袋を突き飛ばして親父の腹を刺したぞ。兄貴の最初の犯罪だ。俺もその場にいたけど、いい気味だったぜ。その夜から兄貴は家には帰って来なかった。兄貴はどうにか苦労して東京に辿り着いて、すったもんだあって今の組に入ったらしい。」ナオミは、顔を上げ、「お兄さんとは仲がいいの」と訊いた。「いや、組は同じだが、余り気は合わない。感謝はしているがな、」と言った。そうなんだ、と彼女は呟いた。

看護婦が忙しなげに病室に入って来て、黒田の隣のベッドのカーテンを少し開いた。「山本さん、お加減は如何(いかが)ですか? 痛み止めのお薬を持って来ましょうか。」お願いします、と呻くような声がカーテン越しに漏れて来る。看護婦は隣の患者の熱を計り、脈を取った。「何かあったらナースコールを押して下さいね。」看護婦は患者の布団を掛け直し、カーテンを閉めた。そして、黒田とナオミを訝しげに見ると、何も言わずに立ち去って行った。

「親父の怪我は大した事なかったんだが、奴が退院してからの俺に対する虐待は度を越していたと思う。兄貴に刺された事で弟の俺を逆恨みしていやがったんだな。俺は何回も親父に殴られて骨を折っているんだよ。肋骨も鎖骨もおかしな具合にくっついて変形している。殴られたその日から何週間も高熱を出して苦しかったよ。それなのに、親父もお袋も死に掛けている俺に見向きもしねぇしな。俺は親父に仕返しする夢を見てやっとの事で一日一日を生き延びて来たようなものだ。」黒田は悲しげな遠い目をして溜息を吐いた。

「無抵抗な子供に自分の立場を利用して虐待するなんて、酷すぎる。心が腐ってるわ。そんな奴、絶対に(ロク)な死に方しないわよ。」

「お前、中々目の付け所がいいな。それからどうなったかと言うとな、親父の暴力がエスカレートしてお袋にまで及び始めると、お袋は俺を置き去りにしてとっとと新しい男と逃げやがったぞ。どう考えても最初からうまく行く筈は無かったんだよ。今考えてみりゃ、その義理の親父なんて年が行ってて三十位のものじゃねぇのか。本ッ当にそいつも悪趣味だよな。伊達や酔狂でお袋に惚れて店に通う位なら分かるけれど、結婚して義理の息子二人連れて鹿児島に移り住んだりするかなぁ?」

黒田は幼少期に自分が放り出された境遇を今でも呪っていた。「全く正気の沙汰とは思えないような騒動に巻き込まれて俺は迷惑だったよ。普通で良かったんだよ。何も大それた事を望んでいた訳じゃないんだよ。俺は何回も姓が変わっているし、名前だって義理の親父の姓と下の名前が姓名判断的に良くないと言う事で、小学生の時、(おさむ)から無理やり龍二に改名させられた。呆れる程身勝手な連中だろ? 時々俺は自分が誰なのか混乱するよ。俺は小学校だけで十回以上転校しているんだぞ。転校する先々の学校で親父がいちゃもん付けたり、教員殴ったり、それが原因だ。俺は子供ながらに肩身が狭かったよ。」

ナオミは()(ジャ)体験(ヴュ)のように黒田の幼少期の光景がありありと脳裏に浮かんで来た。「なあ、ナオミ、もう一寸(ちょっと)聞いてくれるか?」と黒田が遠慮がちに訊いた。「いいけど、余り無理しないでね、」と彼女は病身の黒田を気遣った。「ああ、もう大丈夫だよ。何だかお前といるだけで、病気なんか治っちまった気分になるよ。不思議だな、」と黒田は微かに笑った。

「中学は足立の学校に通った。お袋が義理の親父と別れたんだ。俺は十六の時親父に復讐する為に鹿児島に行っているんだよ。奴にきっちり落とし前付けないと、俺のこれからの人生が台無しになると思ったからな。そしたら親父は末期のシャブ中になっていやがったぞ。あんな僻地でも奇矯な奴がいるんだな、俺は本当に感心したよ。哀れだったぞ。元気な時は俺をサンドバッグにしてやがった癖にな、(こめ)()(バッ)()みたいに畳に頭を擦り付けて俺に金をせびるんだ。シャブ買う金が欲しいってな。親父は実家から絶縁されて、借金(まみ)れで、サラ金や()(イチ)の取立てに追われて、それこそ孤立無援状態だったぜ。あの与太者(ヨタモノ)一族でも親父は手に余る存在だったんだな。龍二、お前は誰だ? 俺はそんな奴は知らないって、笑っちまうだろ。俺にあれだけの事をしておいて。」

「そんな事ばっかだよ、」と黒田は寂しげに笑った。「哀れな男だわ、」と溜息混じりにナオミは呟いた。「シャブ漬けで(つい)に発狂したのかもな。まあ、そん時は気が済むまで奴を蹴り飛ばして、服が裂けるまで殴り倒してボロ雑巾みたいにしてやったぞ。そんで、スッキリした所で缶コーヒー飲んで東京に蜻蛉(トンボ)返りしたけれどな。地獄の責め苦を味わわせて殺して山ン中埋めてやれば良かったよ。」

「あたしはね、龍二さんが間違っているなんて、特に思わないわ。因果応報じゃない。殴られたら痛いんだって事を義理の親父に教えてあげるのも、愛なのよ。」「お前もそう思うか、」と黒田は大きな溜息を()いた。鬱積した感情を吐露(とろ)した黒田は、束の間精神的に浄化されたようだった。

「十六以降の人生は俺が選んで来たものだ。暴走族になったのも、右翼団体にいたのも、暴力団組員になったのも、みんな俺は納得している。でも、何かうまく行かない事が続いたり、落ち込んだりすると、結局今話した時代の出来事に行き着くんだよ。当時の事は何もかも鮮明に覚えている。その頃の心的(トラ)外傷(ウマ)が寄生虫のように心に巣食って、今の俺を苦しめるんだ。あれだけは不可抗力だったし、俺は絶対、納得行かない。大人になったらどうせ辛い事の繰り返しに決まっているんだから、せめてガキの頃に楽しい思い出の一つ位あれば救われるんだが、俺にはそんなの全くないからな。」

「ま、今言っても仕方がないけどな、」と黒田は陰鬱そうにしていた。「あたしは、龍二さんの気持ちが良く分かるわ、」とナオミは澄んだ瞳で言った。「でも、龍二さんにはこれからきっといい事があるから。誰の人生にだって光と同じ分量の影か、影と同じ分量の光が(つき)(まと)うものだからね。あなたは人より負荷が掛かって生きて来た分、強く優しい人間になれると思うのよ。」

「俺は、今迄人生を恨むばかりで、そう言う発想の転換ができなかったな。それに、自分の手を汚し続けて来てしまった。」

「どっちにしたって、あたしは温室栽培の花みたいな人は嫌いなのよ。逆境に一番強いのは、地獄を知っている人間だと思うわ。」

黒田はナオミの話に耳を傾けながら、ベッドサイドのテーブルに置かれているポカリスエットを紙コップに注ぎ、彼女に渡した。少し(ぬる)いそれを、ナオミは一息に飲み干した。「ああ、美味しい。空調のせいなのか、()()り病院は乾燥するわね。」

「お前、入院生活はした事はあるのか、」と不意に黒田は訊いた。「十八の頃、大怪我で三ヶ月程入院した事ある。でも、こうなる事は薄々分かっていたのよね。」「どう言う事だ?」と黒田は訝って訊いた。

「街をフラフラほっつき歩いていたら、一寸(チョット)あんた、と街角の易者の婆さんに呼び止められたの。あたし、お金なんて無いよ、って言ったんだけど、その婆さんはいいから座れって言うのよ。暇だからからかってやれって思って、何訊かれても適当に出鱈目(デタラメ)ばかり答えて、でもね、そんなのいいって言うのよ。あんたに今、物凄いのが憑いている。近い内、大事故をやるよ。兎に角、命を持っていかれるかもしれないから用心しなさいって言われて、その時は腹が立ったのと、この婆さん、頭おかしいんじゃないか、としか思わなかったのよね。」ナオミはその日の出来事を思い出し、身を(すく)めた。黒田は神妙な面持ちで続きを促した。

「何だか、行灯(あんどん)に照らされた婆さんの妖怪()みた形相が頭から離れなくてね、ムシャクシャした日が続いていたの。そんな或る日、当時付き合っていたオートバイ狂の彼に、久し振りにバイク乗せてよ、何て電話したら、偶偶(たまたま)彼もバイトが休みだったらしく()ぐに来てくれたのよ。ま、楽しい半日を過ごして、デートの帰りに彼がスピード出し過ぎるから、一寸(チョット)怖いな、と思ったその瞬間、思いっ切りガードレールに衝突したわ。運悪く彼は即死だったし、あたしは十メートル位飛ばされて左足を複雑骨折よ。意識不明で病院に担ぎ込まれて、即入院。」「お前も死ぬとこだったぞ。」

「それから、事故した日に、あたしが神社の裏で拾って育てていた仔犬が原因不明の突然死をしたの。拾った時怪我をしていたから、手塩に掛けて大きくしたんだけどな。年子の弟が散歩している最中に、犬が道端の草を食べているな、と思ったら突然口から泡を吹き始めて、三十分後に死んだって。」「それは、ナオミの身代わりだよ。お前を死なせない為に、仔犬も男も命を取られたんだ。まァ、でもバイクを運転していたのは男だからなぁ。」

「でも、あたしは今でもその事故の事は引き摺っているわよ、私が退院して、(しばら)くして彼の母親と道端で擦れ違ったんだけど、申し訳なくて、正面(マトモ)に顔も見られなかったわ。私が死んで彼が生きれば良かったのにと()()も思っていた。」

午後の検温の時間だ。ナオミは体温計をそっと黒田に手渡した。黒田は体温計を脇に挟むと、「熱なんてねぇよ、あ~、腹減った。ナオミ、オヤツ食わせろよ、」と言った。「駄目よ、きっと明日位から食事出るわよ。」「それもそうだな、」黒田は巡回して来た看護婦に三十七度五分と告げた。看護婦は黒田の点滴の袋を取り替えた。看護婦が立ち去った後、黒田は、あの姉ちゃん綺麗だな、と言った。目がパッチリして、お人形さんみたいだったわね、とナオミは微笑した。「ねえ、眠くならないの? 微熱もあるみたいだし、少し横になった方がいいんじゃない?」とナオミは訊いた。

「別に眠くないよ。どうせ、この後子分が来るんだし。お前、何か面白い話をしろよ。喋っていた方が空腹も紛れるんだよ。」

壁の時計は午後三時を回っていた。対角線上の患者は腹の上で雑誌を広げている。彼の家族は()()の間にか帰っていた。

「あたしが二十歳(はたち)の頃に、美登利って女と近所のギャラリー喫茶で出会ったんだけれど、彼女、当時自殺未遂ばっかり繰り返していたのよね。それも、可也(かなり)深刻に。或る時は首に(ため)()い傷を作って包帯巻いていたり、又或る時は睡眠薬でヘロヘロになりながら、彼女の親が荻窪に持っているマンションの屋上から飛び降りて、三階に引っ掛かって命拾いしたりね、」

「人間って、中々死なないものだなァ、」と黒田は吃驚していた。

「美登利は死に魅せられていたのよ。彼女は画家志望の女の子で、私の才能を認めない世の中が悪いって言うのが口癖でね。美登利に始終振り回されて、結構年のいった親御さん達も疲れ切ってノイローゼになって、その内私に電話で相談して来るようになったんだけれど、美登利ったら、ご両親が(くた)()れ果てている時に限って首吊ったり、薬固めて飲んだりするのよね。でも、(しばら)くして会えば、何事も無かったみたいに、ケロッとしているの。」

「分っからねェ女だな、」と黒田は唸った。

「あたしは当時、昼はデッサンや油絵や彫刻の美術モデルの仕事で、東京中の美大やアトリエを飛び回っていたのよ。遠い時は郊外にある美大の一、二年生のキャンパスの仕事で、埼玉や神奈川に出張ってのもあるしね。夜は夜でお店に出ていた訳だからさ。美登利は画家になる為に毎日血の滲むような努力をしているのか、と思ったらそれ程してないの。その癖、(ひが)み根性だけは人一倍強いのよね。」

「美術モデルって、大勢の生徒や絵描きの前で脱ぐんだろ?」

「そうよ、此方(こっち)は兎に角生活していくだけで必死だったから、何でもやったわよ。それに、あたし自身が絵を描いたり、何かを作ったりするのが大好きだから、特に違和感は無かった。そのモデルの仕事も画廊で絵を見ていたら、そこのオーナーに今度デッサン会やるからウチで脱いでくれって言われたのが始まりよ。美登利は相当甘やかされて育ったから、根腐れ気味なのよ。あなた、心配してくれるご両親の事そんなに罵倒するけれど、もしも一人になったら生きて行けるの? って彼女に訊いたら、ウチは荻窪駅前にマンションがあるから、賃貸収入も入るし働かなくても平気よって言うのよ。」

「ヘェ~ッ、そりゃいいご身分だ。羨ましいよ、俺は。」

「荻窪のマンションだってご両親の持ち物であって、美登利が働いて手に入れた物ではない訳でしょ。二十五にもなって、働きもしないし、自立もしない。口を開けば愚痴ばかりで、目を離した隙に自殺しようとする。あたしも(ことごと)く閉口していたけれど、一寸(チョット)お灸を据えてやろうと思って、店が休みの日にあたしの部屋に泊まらせて徹夜で語り合った事があったのよ。あたしも今迄あった事を赤裸々に彼女に話して聞かせたわ。そうしたら彼女、もう、目をまん丸にして、死にたいなんて言わなくなったんだから。それから、彼女は憑き物が落ちた感じで、明るさを取り戻して行った。()()もだらしない格好をしていたんだけれど、美容院に行って小綺麗にして、薄化粧をして、服の色もパステルや花柄の物に変わって行ったわね。」

「お前は、人助けをしたんだな。」

「でも、結果的にあたしも助けられたんだけれどね。その三ヵ月後、美登利は南の島で旦那さんと一緒にペンションを経営しているお姉さんを手伝う為に、東京を離れたの。美登利は生まれて初めて自分の意思で働く事を選んだのよ。」ナオミは当時の記憶を克明に思い出し、声を弾ませた。「美登利は東京を離れる前に、どうしてもあたしを描きたいって言うものだから、二ヶ月程毎晩のように画材とカンバスを抱えて、自転車を漕いでウチに通い詰めて来たわね。店が跳ねた午前二時位から油絵が始まるんだけれど、あたしは眠くて、眠くて……、彼女が寝ていいって言うものだからウトウトしたり、起きてみたり。でも、仕上がった絵の感じは、全体的に(けん)が取れたって言うか、美登利に元々備わったナイーブな感性を描いたような、優しい裸婦の絵だったわね。その作品は受胎告知がテーマだったんだけれど、私が聖母マリアなんて笑っちゃうでしょ。マグダラのマリアがね。」

2009年5月24日公開

作品集『妾が娼婦だった頃』第3話 (全11話)

© 2009 寺島聖

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