さまようエトランジェ インド編

さまようエトランジェ インド編

寺島聖

ルポ

2,965文字

前世はインド人だったと信じる著者が実際に故郷のインドへ帰ってきました。紀行文。

TOKYO、奇人博覧会のような日常に炙り出され、私はうまく呼吸ができず息も絶え絶えだった。いつからだろう、得体の知れない回帰願望に憑かれはじめたのは。そう遠くはない昔、私はインド人だった。その輪廻の記憶を辿ると、私の胸は微かに痛んだ。人並みにお金を稼ぐ事が苦手な私はその日暮らしの生活を返上し、半年ほどの時間をかけて昼は洗濯屋、夜はホステスの仕事をしながら何とか資金を貯めた。インドへの憧れは日々募るばかりで、灼熱の異国の地を訪れる事に些かの疑問も不安もなかった。インドへ行くなら一番貧しい州の苦しんでいる人々の所へ行こう。私はインドでの滞在先を巡礼の地ブッダガヤにあるニランジャナ孤児院に定めた。

ニランジャナの孤児たち

ニランジャナの孤児たち

8月6日の早朝、私はTシャツを三枚入れた旅行鞄を持って半分酔っ払ったような気分で部屋を出た。あんまり、ものすごく遠くに行く感覚はなかったように思う。私は成田空港で友人にメールしながら時間を潰し、エア・インディアに乗り込んだ。機内で鼻をぐずらせていたら隣の男性が自分のブランケットを掛けてくれた。彼の名はレイマといって日本人とインド人のハーフ。話を聞けば私のアパートの近所の人だった。世間が狭いことに私は笑った。デリー空港に着いた時、私はほとんど違和感を持っていない事に驚いた。空港に着いたとたんカルチャーショックを受け、帰りたくなったなんて言っていた知人もいたのだから。私とレイマはニューデリーで食事をする約束をして、束の間別れた。私の宿泊先は日本人ばかりのコテージだった。

ニューデリー喧騒の中、私とレイマは落ち合った。街は埃っぽく、ヒンディー語と英語の原色の看板が氾濫していた。街を歩く女性のサリーも鮮やかで私は色の洪水に目をチカチカさせていた。そして、あのオートリキシャや車のクラクションのけたたましさ。物乞いの子供や気の毒な人の姿を多く見た。コテージの界隈はお世辞でもきれいとはいいがたい。後から聞いてみれば、そこはニューデリー一の安宿街だった。街には普通に大きな牛がいた。私とレイマは雨上がりのぬかるみの中、並んで歩いた。カレーの屋台のインド人が屈託のない笑顔で私を指差し、レイマにユア ワイフ? と聞いていた。

ニランジャナの少女たち

ニランジャナの少女たち

ブッダガヤまではなかなか遠かった。ニューデリーから夜行列車で十三時間かかった。ブッダガヤはお釈迦様が悟り開いた地で、街のシンボルはなんといっても世界遺産にも登録されているマハーボーディ寺院と菩提樹。街中にマントラが流れ、橙色の袈裟を身につけたお坊さんだらけだった。この街に日本のNPO組織、ニランジャナセワサンガが運営する孤児院と小学校から高校までの九年間の教育を無償で提供している学校がある。丈夫な白壁の校舎は、2006年の十月に東京学芸大の学生団体、FOOLSの五十人がバイト代で集めた八百万円の寄付で建設された。日本にも素晴らしい大学生がいるじゃないですか。学校ではブッダガヤ周辺の村から五百人の子供がカースト、性別、宗教の垣根なく共に学び、孤児院では週に数回ボランティアの医師による無料の診療所と裁縫教室が行われ、地域社会にも貢献している。日本の本部は大阪西区のインド料理店SHAMAにあり、その代表はニランジャナの創始者シッダルタ・クマル氏の奥様で山中章代さんという若い女性が務めている。このレストランは純菜食主義のメニューを提供していて、その売り上げは全て施設に寄付している。孤児院には現在二十一人の子供達が暮らしていて、どの子供も本当に利発でかわいかった。私は毎日ゲストハウスから歩いて施設の子供達に会いに行った。インドの人々は大変信仰が厚く、施設でも夕方子供達が帰ってくると、ヒンドゥーの神々の絵が飾ってある部屋に全員が集まり、歌と祈りを捧げる。そして、宿題等を済ませたら、夕食まで先生を囲んでみんなで輪になって結跏趺坐を組み、瞑想の時間が始まる。こういう日常のため、子供たちは精神的に非常に覚醒されていた。毎日が大変平和だったし、質素ではあるが穏やかに暮らしていた。先生やボランティアのスタッフも献身的に子供達に愛情を注いでいた。私はそんな彼らの日常をしぜんに好きになった。果てしのない青い青い空の下、私はよく熱い砂を踏み、裸足になって歩いた。それは自分の身体にインドを覚えさせるためである。夕暮れどき、マハーボーディの寺院を背景に、お釈迦様が沐浴されたネーランジャー川に沈む太陽を見ると、思わず手を合わせ祈りたい気分になる。この川は毎日生きているかのように形を変えるのだ。インド中で一番うつくしい場所だ、と通りすがりの日本人バックパッカーの呟きを聞いた。東京での私は毎日がささくれ立っていた。私はインドにボランティアで行ったわけではない。そんなごたいそうな言葉がなくても、みんなが当たり前に助け合って生きてゆければいいのに、という気持ちである。

ニランジャナの子供達

ニランジャナの子供達

独立記念日のお祭りの前の日、私はふと思い付いて、子供達と一緒に洋服屋へ行った。そして、子供達にお好みのジーパンとシャツを選んでもらった。親のいる子供はそれなりのものを着せてもらえるかもしれないが、今日は私がみんなのお母さん代わりである。ステージに上がって歌う子供達もいると聞いていたため、おニューだと気分もあがると思った。でも、正直子供達のあの純粋なキラキラした喜びは、戸惑いを覚えるほどすごかった。私は独立記念日に紫色のサリーを着せてもらった。額にはもちろんビンディー。サリーは慣れていないため、とっても歩きにくかった。インドの女性はあんなに上手にサリーを着ているのに。ほんのちょっぴり父兄になった気持ちで子供達のステージを見守った。みんな、歌がとってもお上手でした。

一ヶ月間インドでのびのびと暮らした。毎日孤児院に行き、カレーを食べ、街に出てチャイを飲んだ。私はよく街の子供達に追い掛け回された。変装をして歩いてもすぐばれた。みんなかわいくて仕方がなかった。よく騙されもしたとは思うが、私は笑って騙された。

ニランジャナの孤児院にて

ニランジャナの孤児院にて

帰国する一日前、私は蓄積された疲労のため、夜行列車の中で高熱を出した。尋常な熱ではなく、ニューデリーに着き、病院に担ぎ込まれた時は四十度を超えていた。もうどこもかしこも故障して、自分の身体じゃないみたいだった。それが点滴を打ち、二、三時間で熱が引いて……。新型インフルエンザは陰性だった。しかし、インドで大病となると、日本に帰ってからは仕事を干され、非難される事が多かったように思う。

東京の私のアパートの玄関には孤児院の子供達が描いてくれた絵がびっしり飾られ、ちょっとしたアトリエ状態である。バラの絵、孔雀の絵、ケーキの絵、ガネーシャ好きの私にゾウの神様の絵を描いてくれる子供もいた。その中にマニースというもの静かな少年が、孤児院に入る前の自分の家族を描いてくれた絵がある。黄色い壁のちいさなお家、牛、優しそうなお父さん、サリーを着たお母さん、お姉ちゃん、そしてその絵に描かれている少年はマニース。別れの日、彼は私に神様の歌を歌ってくれた。みんなが幸せに暮らせますように……、私はこの絵を見て涙をこらえる事ができなかった。

2009年12月2日公開

© 2009 寺島聖

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"さまようエトランジェ インド編"へのコメント 1

  • ゲスト | 2009-12-02 19:06

    確かに、「みんなが当たり前に助け合って生きてゆければ」
    ほんとにいいのに、と思います。
    TOKYO、で暮らしているとどうしてここまでささくれ立つ毎日が続くのか。
    みんなでささくれ立たせあっているような日常が常態となっているのは
    ヘンな話ですね。

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