妾が娼婦だった頃(9)

妾が娼婦だった頃(第9話)

寺島聖

小説

9,214文字

黒田はナオミからのみならず、明日香からも金をゆすっていた。幾重にも襲いかかる運命の前に、ナオミはドブネズミに襲われる鳥籠の中のカナリアに自分を重ね合わせる。そんな中、ナオミは情人(アマン)の淳と会い、若かった頃の二人を回想する。第一回破滅派文藝新人賞の応募規約を大胆に無視して話題を呼んだ怪作。

店が跳ねると、ナオミと明日香と和也は駅前の焼鳥屋を目指して歩いた。黒田の事件以来、ナオミは藤屋の通りを歩く事すら避けていた。彼女はメール街の人間から好奇の目で見られていた。この街の連中は、どいつもこいつも盗み聞きの名人ばかりだ。酔っ払い共が何処(どこ)かの店で仕入れた噂話を大幅に脚色し、吹聴して回る。元の話が何だったのかすら、分からない程である。エトランジェの近所のサロン・ド・マダムの京子ママが体調を崩し、半年程店に出られなかった時、この街の連中は京子が刑務所送りになったと(かたく)なに信じ込んでいた。体調が回復し、店に復帰した京子ママにお勤めご苦労様です、等と声を掛ける(やから)がいて、彼女はそこで初めて自分が誹謗中傷されている事を知った。京子ママは身に覚えのないデマに悩まされ、円形脱毛症に(まで)なった。ナオミはボロクソに言われるネタを、自ら噂好きの連中に提供したくは無かった。だから、店が跳ねてもこの街の居酒屋には行かない。どうせ、何処(どこ)の店に行っても顔見知りの般若湯(アルコール)中毒者共が(くだ)を巻いている事だろう。

明日香は酸漿(ほおずき)(いろ)にぼんやり灯る赤提灯の暖簾を(くぐ)った。ナオミと和也も黙って従った。三人は煙で壁の色の煤けた店に入ると、店員に案内される(まま)席に着いた。ナオミは焼酎の烏龍茶割を三杯頼むと、鼎談(ていだん)を交わし始めた。

「明日香ちゃん、黒田と何があったの?」とナオミが低い声で訊いた。「お金を取られた、」と明日香は辺りに(はばか)るように声を潜めた。「何、それ、どういう理由で?」ナオミはグラスの酒を引っ繰り返さんばかりに吃驚(びっくり)して訊いた。

「俺に恥を(さら)させた。俺の島を狭くしたって言われて……。」

明日香は(うつむ)き加減にお茶を濁した。「それで、お金を()()り取られたの?」とナオミは確認した。「うん、最初は百万円出せって言われたの。金払わないとお前の会社脅すぞって、女装趣味なのもバラすし、会社に居られなくしてやるって。それから、ナオミを誘拐して組系列のソープランドに売り飛ばすぞ! って脅されたの。でも、これ、誰にも言わないで。」ナオミは焼酎を(あお)りながら、「それで、何時(いつ)払ったの、」と訊いた。「今日の午前中。今日がバレンタインだったから、あの人あたしにシャネルの口紅を持って来たわ、あたし、怖かったんだからね。」

「そうでしょうね、あたしも怖かったもの。」

「あたしもってどういう意味?」と明日香が(いぶか)って訊いた。

「あたしも、恐喝されて、あいつの事務所にお金を持って行ったのよ。」「ナオミちゃん、それ本当なの、」と和也が押し殺した声で訊いた。「ええ、そうよ。(しか)し、黒田は大した役者よね。あたしには和也をぶっちめて埋めるだの、客を一人一人殺すだの散々(わめ)()らしていたわよ。明日香ちゃんにはあたしを誘拐してソープに売るですって……、」ナオミは溜息を()き、テーブルの上で頭を抱え込んだ。

「今後何かあった時の為に、あたしはアイツとの電話を録音しているわ。昨日あたしはアイツと二時間も喋ったのよ。本当にしつこかった。」明日香が悔しそうに唇を噛み締めた。「何で、明日香ちゃんの電話番号を知っているの?」とナオミは訊いた。

「この間警察が来た日、ナオミが吉行さんと帰った後、アイツあたしの電話番号を訊いて来たの。素面(シラフ)で話そうって。そんで、昨夜遅く電話が掛かって来てこういう事になったの。アイツ遠回しに金を要求して来るのよね。責任取って貰わなきゃ困るって。」

ナオミは悔しさで()(ぎし)りしていた。「あたしだけが標的になるんだったら、まだ分かるんだけど、何調子に乗って明日香ちゃんに(まで)金を(たか)るのよ! アイツ、あの場では俺は組の為に命を張ってるなんて怒鳴っていたけれど、和也だって、明日香ちゃんだって、朝から晩(まで)働き詰めでアイツよりうんと大変なのに。それに、アイツしょっちゅう組辞めたいってあたしに愚痴っていたのよ。アイツは組にとってお荷物だから、抗争があっても真っ先に鉄砲玉にならなきゃいけないでしょ。」明日香に(まで)言い掛かりを付け、金蔓(カネヅル)にするとは……。ナオミは(はらわた)が煮え繰り返っていた。

「もう、警察に通報した方がいいかも。」和也が()()ずと口を開いた。「でも、和也、あたしの立場から言って、ヤクザと揉め事を起こしたなんて言ったら、もうそれだけで会社に居られなくなっちゃうのよ。お金だけで収まれば(おん)()だわ。警察に言うのだけは勘弁して頂戴。あたしはまだ実家のローンも残っているし、両親も健在だから守らなきゃいけないの。」明日香は和也を説得すると、重い溜息を漏らした。「で、結局(いく)ら取られたの?」とナオミは煙草の煙を吐き出しながら訊いた。「……三十万。百万円から値切ったの、」と明日香は不興(ふきょう)(がお)で言った。「一体何を根拠に明日香ちゃんに百万も要求出来るのよ。信じられないわ。あたしは今日三十五万も支払ったのよ。それも、エトランジェの仲間が(あし)(しげ)く通ってくれて、お店がいざって時や、みんなで遊ぶ時の為に蓄えている最中だったのに。電話であたし達を脅すだけで一日に六十五万も手に入れているのよ。()()が男を張って生きているのよ。こんな風に人を悲しませたりしていたら、絶対自分が困った時、(ロク)な目に遭わないんだから。」とナオミは怨嗟(えんさ)の声を漏らした。「厭になるわね。これから絶対こんな事が起こりませんように、」と明日香が祈るように言った。

 

 

後日、黒田は勿体を付け、薀蓄(うんちく)を傾けながらも和也に廃車寸前のポンコツカーを(あて)がった。ナオミはその車に一瞥を()れると、「あたしは乗らないからね、」と断言した。和也は黙って(うな)()れていた。ナオミは黒田から名義変更に必要な書類を預かると、和也と電車を乗り継ぎ、鮫洲(さめす)の陸運支局(まで)向かった。電車の中で二人は余り言葉を交わさなかった。(しか)し、彼女は「和也の名義にしてね、あたしは免許も無いし、あんな車要らないんだから、」とだけ忠告した。

手続きを終えたナオミは黒田に報告の電話を掛けた。

「おう、ご苦労だったな、そんなに難しくなかっただろ?」

粗大ゴミを上手く処分出来た黒田は上機嫌だ。

「ええ、でも、あたしは車に乗れないから、名義は一応和也にしましたよ。」ナオミは事務的に言った。「何ィ、お前今なんて言った?」

黒田は(いぶか)って訊いた。「だから、免許が無いあたしが車持っていても仕方ないから、名義は和也にしました。事故起こされても困るし、和也は現場に行く時も毎日使うでしょ。お金は全て支払っているんだから、どうしたっていいじゃない。」黒田の反応に彼女は一瞬で憂鬱な気持ちになった。「ナオミ、それじゃ話が違うなァ。俺はお前名義にすると思って書類を渡したんだぞ。俺が車を仕入れた後輩にだって、信用出来るスナックのママに売るという名目で、車を売って貰ったんだぞ!」黒田は和也名義に変更された事に目くじらを立て、滔滔(とうとう)(まく)()てた。「あの車に毎日乗るのは和也なんだから、和也名義になっていないとあたしが困るのよ!」何処(どこ)齟齬(そご)をきたしてしまったのだろう……、ナオミは途方に暮れていた。

「俺を怒らせる事ばかりしやがって、お前名義になっていなかったら、俺は後輩の信用を裏切る事になるだろう。責任取れよ。後輩だってヤクザ上がりなんだ。俺が後輩から車を仕入れられなくなったら、俺の収入源の一つが無くなるって事だぞ。俺が堅気(カタギ)に戻ったら車の転売で食って行こうと思ったのに、お前という奴は……!」

ナオミは暗澹(あんたん)たる思いで言葉を失った。「まァ、今はいいよ。どうするかはこれから考えておく、」と黒田は居丈高に言い放って電話を切った。陸運支局の側の中華料理屋で、ナオミは暗い顔で思い(わずら)っていた。注文した料理に(ほとん)ど手を付けない彼女を、和也は不審に思った。「具合悪いの、ナオミちゃん?」ナオミは和也に酢豚の皿を差し出し、あたしは平気よ、と力無く微笑した。ナオミは厭な予感が拭い去れなかった。和也はじっと彼女を見詰めていた。

 

 

「ねぇ、ナオミちゃん一寸(チョット)相談があるんだけれど。」

(しばら)く振りにエトランジェに顔を出した圭子が、浮かない顔で言った。彼女は大学卒業後に美容業界で働く下準備の為、吉祥寺のエステサロンでアルバイトをしていた。「なぁに、彼氏と喧嘩でもしたの? 面白くなさそうな顔をして、」とナオミは訊いた。

「ううん、あのね、()(にく)い事なんだけれど、」圭子は軽い薄荷(メンソール)煙草を燻らせている。ナオミはピンと来て、皿を洗う手を止めた。

「矢っ()り、言うのよしとく、」と圭子は開きかけた口を(つぐ)んだ。「何よ、言い掛けておいて気持ち悪い。話してみなよ、」とナオミは圭子を(うなが)した。

「お金の事なの。四期生の最後の学費が納められないの。実家の酒屋も新幹線が出来る関係で立ち退きになって、廃業せざるをえなくなったから。ウチは父を早くに亡くしているでしょ、母が必死で働いても学費を納めるのが苦しくて、でもこんな相談ナオミちゃんにするなんて、どうかしていたわ。忘れて頂戴。」

「確か、あなた奨学金を貰ってたよね。大学は待ってくれたりしないの?」(うつむ)く圭子にナオミは訊いた。「奨学金は家賃や生活費で消えて行くわ。指定の日迄に学費を納めないと、大学の卒業資格が貰えないの。」「四年迄通って、卒業出来ないってのも(もっ)(たい)()いからねぇ……、」とナオミはグラスを丁寧に拭きながら呟いた。

「それで、後(いく)ら足りないの?」とナオミは訊いた。「十五万足りないの、」と圭子が控え目に答えた。「分かったわ、あたしが出します。明日取りにいらっしゃい。」ナオミは明るく言った。圭子は目に涙を溜めて(うなず)いた。「あ~あ、いい男来ねェかなァ。恵まれないアタシにお小遣いくれるような、素敵なオジ様。」

ナオミはプカァ~ッと煙草の煙を吐き出し、「圭子はニコニコしていた方が可愛いわよ、」と言ってオシボリを渡した。圭子の顔に、束の間光が差し込んだ。

 

 

黒田龍二は甲州街道沿いのファミレスでナオミを待ち構えていた。生憎(あいにく)ランチタイムのファミレスは満席で、黒田はレジの前にある空席待ち用の椅子に横柄に腰掛け、腕を組んでいた。三月に入ったとはいえ、春の気配は()だ遠い。黒田はお気に入りの革の上下を身に(まと)い、ハードボイルドを気取っていた。

ナオミは必ず指定された時間に金を持って来る。あの女は()()れば必ず何処(どこ)からか金を都合して来るのだ。ナオミが螻蛄(オケラ)になったら、あいつの客から()()ればいい。俺が見たところ幸いエトランジェには世間ズレした客はいない。皆、格好のカモだ。最後にはナオミを組系列の高級ソープに売ッ飛ばすという手もある。ヌードモデルをやる位の(タマ)だ。(チョ)(ット)惜しい気もするが、俺に紹介料もがっぽり入る。アイツに身体売らせて、その上前を俺が()ねれば、苦労して上納金集める手間も省けるし、楽なこった。それに、見ヶ〆の取り立ても、小遣いやってウチの若いのにやらせれば毎月通報に怯えながら、俺がやらなくても済む。ナオミ(さま)(さま)だよ、本当にモウ。(しか)し、こんな事考え付くなんて、俺ってマジで(アッタマ)いい。黒田は一人でほくそ笑んでいた。

ナオミは吐く息を白く弾ませ、ファミレスの階段を駆け上がった。

「よう、遅かったじゃねェの。」黒田はぶっきらぼうに言った。

「お待ちのお客様、どうぞ、」と爽やかなストライプの制服に身を包んだウエイトレスが二人を席に案内した。

ナオミは席に座るとハンドバッグから白い封筒を出し、黒田に差し出した。黒田は封筒の中の一万円札を慣れた手付きで数え始めた。

「よし、丁度二十だな、この金で今回の事は勘弁してやる。車をお前の名義に変更した後、()()り乗れそうも無かったから、店の客に売ったとでも言っておけば、丸く収まる。俺がすべて上手くやっておくよ。」黒田は余裕の笑みを漏らした。「これで、黒田さんと後輩の関係は悪くならないのですね、」と彼女は(くさび)を差した。「ああ、大丈夫だ、」と黒田は言い、ウエイトレスに珈琲(コーヒー)を二つ頼んだ。「それと、言い忘れていたが、お前、下の店、紹介しろよ。あの店は会員制だろ? 兄貴分からあの店も見ヶ〆取れって、(アツ)掛けられてんだよ。」ナオミは()()り顔を上げ、キッと黒田を見据えると、「それだけは出来ません、」とこの申し出を厳しく拒んだ。黒田は一瞬(ひる)んだが、「お前は本当に変わっているよな。はっきり言って変人だよ、」と半ば呆れ顔で言った。

ナオミは(うつむ)き、睫を(しばたた)かせていた。(さっき)黒田に渡したのは、大切に取っておいた来月分の店の家賃である。(つい)に、有り金全てを()られてしまった。身包(みぐる)み剥がされた彼女は塗炭(とたん)の苦しみを味わっていた。

昨夜遅く帰宅したナオミは部屋の中で異変を感じた。な、何か、奇妙な生き物が(うごめ)いている……。ああああッ、ド、溝鼠(ドブネズミ)だ! 猫位の大きさはあろうかと思われる溝鼠が鳥籠にしがみ付き、(つがい)のカナリアを威嚇していた。籠の中で羽をバタつかせ、狂ったように逃げ惑う繊細な小鳥は、ナオミと和也だ。彼女が鋭い悲鳴を上げると、牙を剥き出していた溝鼠は調理台の下の棚の中に逃げ込んだ。そこは、欠陥工事で大きな穴が開いていた。和也は水道管の回りの穴をベニヤの木片で応急的に(ふさ)いだ。ナオミはベニヤの裏に、山葵(ワサビ)とタバスコをタップリ塗り込んだ。ナオミは定めし籠の鳥だった。彼女は部屋と店で酷似した現象が起こっている事に、何らかの因果律の縮図めいたものをまざまざと見せ付けられたようだった。溝鼠(ドブネズミ)はカナリアの餌を(たか)りに夜な夜なナオミの部屋に出没しているに違いなかった。溝鼠と、黒田……。

ナオミは女一人細々とでも身過(みす)ぎ出来たら、特に愚痴めいた事は言わなかった。彼女が独立したのは、自分を懇意にしてくれる客が、経営者の遣り手婆からぼったくられるのを黙って見過ごせなかったからである。黒田とナオミは二言三言世間話のような会話をし、ファミレスを後にした。

別れ際、黒田は、「ナオミの心は透明だな、」と言った。少し悔やんでいるようにも見えた。彼女は何も言わず、帰路に着いた。ナオミはふと立ち止まり、ハンドバッグからハンカチを取り出し、目頭を押さえた。北風が慟哭(どうこく)し、彼女の身体を切り刻んでいる。ナオミはシクシク泣きながら部屋に戻った。これからどうなってしまうのか、明日を占う事さえ出来なかった。

 

(6)

 

昼下がりのナオミの陋室(ろうしつ)寝台(ベッド)に淳が腰掛け、ゆっくり煙草を燻らせている。彼女は一糸纏わぬ姿で淳の傍らに身を横たえ、手垢で黒ずんだ赤い表紙の高村光太郎著、『智恵子抄』に目を落としている。淳の日に焼けた(ブロ)(ンズ)の腕が彼女の背中を撫でていた。ナオミの透き通った皮膚が光に(さら)され、(おびただ)しい血管が浮き出していた。付けっ放しのラジオからマリア・カラスの歌う『カルメン』の『恋は野の鳥』が(たゆ)()うように流れている。ナオミは妖艶な猫のように身体を伸ばすと、淳の(くわ)えている煙草を奪い取り、自分の唇に挟みこんだ。鏡台の上には髪の絡まったヘアブラシと、色とりどりの化粧水の瓶、『寺山修司少女詩集』、マルグリット・デュラスの『モデラート・カンタービレ』、『中原中也詩集』、坂口安吾の『堕落論』、大江健三郎の『われらの時代』、三島由起夫の『音楽』、『潮騒』、中原淳一の『スタイル・ブック』等が無造作に積まれている。ナオミは活字に酔う、と言うより耽溺する女だった。願わくば、夜毎に細い月灯かりの差し込む、紫に(かげ)る部屋で処女の生き血の様なワインを傾け、思いっ切り物語の世界に浸り込みたいのだ。それが、ナオミのささやかな幸福であった。彼女は時折この世界と言うものがまるで分からなくなった。虚構と現実の境界が限り無く曖昧だった。何年も夢遊病者のように時の表層を漂いながら生きていた。社会の常識や時間やお金の観念、国籍や年齢や、自分がこの世に女として存在しているという事実さえ容易(たやす)く忘れてしまった。又、或る時には、男と寝るやり方さえ。酷い時は、呼吸するやり方さえ跡形もなく忘れてしまっていた。ナオミがあんまり虚ろなので、心ない人々は彼女をこの娘は足りないから、と蔑み罵った。彼女は矢張り虚ろな(まま)だった。

「淳は水商売の女が好きだからあたしの所に来るんでしょ?」

彼女は苺ジュースを飲みながら(ハス)()に訊いた。そんな訳ないだろう、と淳は機嫌を損ねたように言った。「もしもあたしが突然消

えてしまったら?」とナオミは不意に訊いた。「きっとご飯も(ロク)に食べられなくなる位落ち込むだろうね、」と淳が答えた。「素直なのね、」と彼女はコケティッシュに微笑した。

「淳はきっと過去世(かこよ)で女郎だったあたしを()()けしたお侍さんだったの、」と出会った頃ナオミは口癖のように言っていたが、淳は(まん)(ざら)嘘でもないような気持ちだった。淳とナオミは太古の時代から何時(いつ)の時代も、生まれ変わり死に変わり、この世の何処(どこ)かで廻り合って共に暮らして来たのかもしれない。

「もしも、俺が突然消えてしまったら?」と淳がナオミを真似て訊いた。「アンタみたいに丈夫な人、棒で叩いたって死にゃしないわよ。でももし、そうなったら、どうせあたしの事だから派手に着飾ってケツ振って歩いて、新しい男を引っ掛けて来るんじゃない?」とナオミは()()しそうに笑った。淳は酷いなァ、と苦笑している。

ナオミは自身の(みじ)めな時代に復讐するように、凄まじい男性遍歴を繰り返していたが、淳とは奇跡的に三年以上も不即不離の関係が続いていた。生まれ持って自分に備わっている魅力に気付いた日から、彼女は男達の麻薬となった。

淳はナオミと二人で何処(どこ)か暖かい場所に移り、(つつが)()く暮らしたがっていた。一方、彼女は淳に寄り掛かって生きていく事を望まなかった。淳とナオミ……。この二人にはお互いがお互いを離さない所がどうしてもあるのだ。彼女のようなエキセントリックな女を惹き付けていられるのも、淳に備わった男の魔性なのかもしれない。淳にとってナオミは娼婦であり、天使であった。人間の原罪という原罪を、美徳を、醜さを、無邪気さを、傲慢さを、悲しさを、そう言う要素を複合的に持ち合わせたプリズムだった。

 

 

淳はその昔、若さの全てでこよなく海を、ウインド・サーフィンを愛した青年だった。淳の四肢の整った逞しい身体は、選ばれて海に愛された者の賜物(たまもの)だった。

今、淳にとっての海はナオミである。

淳は宝石箱をそっと開くように思い出す。ナオミが()だ、ただの店の女だった頃、淳は彼女を連れ、海に出掛けた。あれは五月の事。辺りに人影は無く、貸切りの海だった。ナオミはマリー・ローランサンの絵をイメージさせるフラジャイルなピンクのワンピースを身に(まと)い、素足で風紋の刻まれた焼けた真砂(まさご)を踏み締めて歩いていた。

いざよう波がナオミの足跡を消し去り、打ち寄せる潮騒に胸を高鳴らせながら二人は浜辺をそぞろ歩いた。波の(あや)を遊び、冷えた薫風(くんぷう)を一身に受け、彼女はワンピースの裾を膨らませていた。

夕刻、風が止みかけていた。ナオミは水平線の彼方に()(なず)む夕陽を見詰めて、きれいね、と呟いた。きれい……? それは違う。それはまるで死に掛けた太陽が、血ヘドを吐き、夕凪の空を動脈血の色で染めながら燃え落ちてゆく、地球の終末を連想させる空模様……、言わば太陽の成れの果ての姿だった。彼女は地球の圧倒的なエネルギーに戦慄しながらも、「あんな光を凝縮した宝石があったら、きれいじゃない? ガーネットかしら、」と淳に語り掛けた。

「でも、そんな宝石を独り占めしたら不幸になっちゃうかもね。」

「うちのお袋が亡くなって、すぐナオミと知り合えた。随分苦しい事が多かったが、ナオミに助けられたよ、」と淳は彼女の横顔に話し掛けた。「宝石で思い出したけど、お袋の形見のダイヤの指輪があるんだが、プラチナの台を詰めてナオミに持っていて欲しい。」

と淳が訥訥(とつとつ)と続けた。ナオミは厳しい顔で砕け散る(なみ)飛沫(しぶき)をじっと見ていたが、そんな大切な指輪は頂けないわ、ときっぱり拒んだ。

可哀そうな淳、この人は何も分かっちゃいないんだ。あたしが淫売のパン(スケ)だと言う事も……。ナオミは淳を置き去りにし、再び波打際を歩き始めた。淳は寂しげな表情で彼女の後を追った。突如、ナオミは立ち止まり、細い肩を小刻みに震わせていた。淳は又どうせ素っ頓狂な事を思い付いて一人で笑っているんだろうと思い、彼女の肩に手を掛けた。振り向いたナオミは目を真っ赤にして(しゃく)り上げていた。彼女は嗚咽(おえつ)しながら、「こうやって一時でも楽しい事があると、後が恐ろしい、」と嘆くように言った。

「又、明日から、死ぬ程飲まされるからね、飲めなくなったら使い捨てよ。どこの店で働いても同じ事よ。素面(シラフ)だと不安で、自分が崩壊して行く感じがあるわね。」

「そんなに店が嫌だったら、いつ(まで)も意地を張っていないで俺と暮らせばいいじゃないか!」

「男なんて信用しない! 人間なんて信用しない!」

ナオミは華奢(きゃしゃ)な身体を波打たせ、大声を上げて()いていた。淳は黙ってナオミを抱き寄せた。彼女は淳の胸に顔を埋めていた。

日頃ナオミは淳に余計な詮索心を起こさせる事は一切言わなかった。淳を含め男達には、彼女の背景の()()かりとなる言葉の断片だけを与えていた。後は各々が勝手にストーリーを紡ぎ出してくれるのだから、楽なものだ。愚直な(まで)に正直である必要なんてない。言わなければ無いのと同じ事。信じ込ませてあげた方が、世の中は幸せな事ばかり、と気付いたのは、ナオミがまだ随分幼い頃だった。

ラ・メール、フランス語で海は女性名詞だ。全ての生命の源である母なる海は、何処(どこ)(まで)も寛容で慈愛に満ちた存在である。

淳はナオミを()(まま)抱き締めていた。親も捨てた、故郷も捨てた、愛に飢えた彼女は天涯孤独であった。

「海が、あたしの罪を洗い流してくれればいいのに……。」

空を横切ったカモメのけたたましい鳴声に掻き消されそうな声で、突如ナオミはポツリと呟いた。淳は彼女の裸の心の琴線に触れたようで、胸に刺し込まれるような痛みを覚えた。

ナオミは夕凪の海に抱かれていた。

2009年12月22日公開

作品集『妾が娼婦だった頃』第9話 (全11話)

© 2009 寺島聖

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