妾が娼婦だった頃(8)

妾が娼婦だった頃(第8話)

寺島聖

小説

9,306文字

店が終わると、ナオミは明日香、吉行氏と一緒に飲み直すことにした。だが運悪く、黒田と鉢合わせしてしまう。黒田に殴られ、挙句の果てに、彼が和也に押しつけた中古車の代金までナオミが出すことになる。ナオミが金を払いに行った日、黒田は明日香とのつながりを示唆する意味深な言葉を告げた。その夜、黒田がエトランジェに来ないことを知った明日香は言った。「ああ、良かった。これであんた達は大丈夫だからね。あたしが守ってあげたから」第一回破滅派文藝新人賞の応募規約を大胆に無視して話題を呼んだ怪作。

店が跳ねた後、ナオミと明日香と吉行氏はもう一軒居酒屋で飲み直そうと言う事で、立ち籠める濃い霧に髪を濡らしながらメール街の藤屋と言う居酒屋を目指して歩いた。酔っ払って千鳥(ちどり)(あし)で歩いていたナオミは信じられない光景に我が目を疑った。

何かで示し合わせたような魔の配剤で、肩で風を切りながら黒田が和也を引き連れ、此方(こちら)に向かって歩いてきているではないか。ナオミは軽い眩暈(めまい)を覚え、血の気が引いて行くようだった。黒田は兇暴なエネルギーを全身から放射している。

この(まま)鉢合わせになると、まずい!

ナオミと和也の視線が()()った。反射的に彼女は視線を逸らし、脱兎の如く来た道を駆けて戻った。走り去るナオミの後ろ姿を、明日香は狐に(つま)まれたような顔をして目で追っていた。吉行氏は黒田と和也の登場で事の成り行きを察したようだった。和也は全速力でナオミの後を追うと、彼女の腕が折れる程強く掴み上げた。

「離してよ! もうあんたの事なんか知らないんだから、勝手にして!」和也はナオミと揉み合うと、(イヤ)がる彼女を黒田の前に引き摺り出した。黒田は蛇のような目でナオミを()()けた。泡沫(うたかた)の希望すら消え、ナオミは両手の中の揃わないカードを投げ出して運命を呪った。「お前は(ひど)い女だな。お前からあのメールが来る(まで)、俺達は渉の店で楽しく飲んでいたんだぞ。それが()()り和也が下を向いて暗い顔になって一言も喋らねェんだよな、俺は和也からメールを見せて貰ったよ。お前は、和也の気持ちも知らないで!」

「薄情者! 何でメールなんか見せたりするのよ。和也の薄鈍(ウスノロ)

あたしを(おとしい)れる気?」ナオミはワナワナ震え、金切り声を上げた。「お前なァ、(さっき)の新村の事と言い、男をナメるのもいい加減にしろよ。殺されなきゃ分からないのか。お前は何様のつもりだ?」

阿鼻叫喚地獄に(かがり)()が燃え移り、黒田は深夜の裏街が崩れ落ちる程の怒号を轟かせた。ナオミの脳裏に閃光が駆け抜け、突然辺りの風景が薙ぎ倒され、巻き込まれて行くような眩暈(めまい)を覚えた。彼女は(しばら)(うつむ)いていたが、突然豹変していた。

「あたし? 単なるバーのママさんですけど。あんたはタダのチンピラでしょ! 下ッ端の、借金取りと、見ヶ〆(みかじめ)集金係! 和也の気持ちも知らないで、だって、笑わせるんじゃないわよ。あたしにフラれたの、ずーっと、根に持っている癖に!」

正鵠(せいこく)を射抜く、ナオミのナイフだった。黒田は握り締めた拳を震わせている。ヤバイ! この場に居合わせた皆はゾーッと怖気(おぞけ)()っていた。一色触発の狂気、飛び散る火花!

 

 

黒田は蒼褪(あおざ)めた顔で振り上げた拳を震わせていた。彼女は地面に転がった(まま)身体を二つ折れにし、呻吟していた。和也が慌ててナオミに手を差し伸べたが、彼女はその手を邪険に振り払った。ナオミは錯乱しながらも、黒田に反撃するように和也を(けしか)けた。和也はその場に()(すく)み、狼狽(うろた)えるばかりだった。ナオミは苦笑した。

「お前なァ、飲み屋のママ風情が俺をナメるとはいい度胸しているじゃないか。俺は組の為に命を張っているんだ。お前一人ぶっ殺す位簡単なんだぞ!」ナオミはすっくと立ち上がり、大声で叫びながら黒田に躍り掛かった。何かに憑かれたような彼女に複数の手が伸び、引き離した。「一寸(ちょっと)、黒田さん、おい、こらナオミも止めなさい。」吉行氏が(もつ)()う二人を必死で(いさ)めている。黒田は吉行氏を無視し、ナオミの頬がひん曲がる程拳で殴り付けた。蟷螂(とうろう)の斧は無残に折られた。彼女は鼻と口の端から鮮血を(ほとばし)らせながら再び地面にぶッ倒れた。

「もう、いい加減にしてくれ、ナオミに何て事するんだ!」

黒田の狼藉に(おのの)きながらも、突如、明日香が彼女を(かば)うように黒田の前に立ちはだかった。「何だァ? テメエは。」と黒田が莫迦にするように言った。「ナオミの事は俺が責任を持つ。文句があったら俺に言って来い!」黒田は舐め回すように明日香を見ると、「本当にナオミの責任はテメエが取るんだな、」と唇の端を上げ、狡猾に(わら)った。

 

 

エトランジェの地下の店のママが此方(こちら)を指差し、何か叫んでいる。ママの傍らに突ッ立っていた駐在所の警察官が黒田の前(まで)駆け付けて来た。「何か御用ですか?」黒田は横柄に若い警官に訊いた。「暴行事件が起こったと通報を受けたのですが、あなた達の事ですか、」と警官は訊いた。「気のせいじゃないですか? 何もありませんよ、」と黒田は素っ気無く言った。黒田は若い警官の足元を見ていた。こんなペーペーのお巡り、余裕で何とでも言い(くる)められる、と思っていた。黒田は警察官の誰何(すいか)にそつなく答えていた。お決まりの職務質問が二、三分続いた。警官だってこのクソ寒い夜中にヤクザ絡みの揉め事に駆り出される等、こんな安月給の割りに合わない事は御免なのだ。交番の事務机に(うつぶ)せ、達磨ストーブにぬくぬくと当たりながら転寝(うたたね)でもしていた方が遥かにマシと言うものだろう。

警官は「気を付けて帰るように、」と言い残すと、(うずくま)っているナオミには(いち)(べつ)()れず、何事も無かったかのように立ち去って行った。「おい、ナオミ! お前の所為(せい)でお巡りが来たじゃないか。もし、俺がムショ行きになったら、俺の一生を掛けてお前の人生ぶッ壊してやるから覚えておけよ! おい、オッサン、お前もだ!」

黒田はナオミと明日香に怒鳴り散らした。「おう、和也とオッサンに話がある。」黒田は店で待っていろ、とでも言うように藤屋の方を顎で(しゃく)って見せた。そして、黒田は吉行氏の方に向き直ると、「吉行さん、お手数ですが彼女を家(まで)送って行ってやって下さい。お願いします。」と言った。ナオミは吉行氏に手を引かれ、メール街を後にした。「いよッ! 女泣かせ。」(しゃく)り上げながら歩くナオミを与太者達が好奇の目で見て、野次を飛ばした。吉行氏は着ていたコートでナオミをすっぽり包み込むと、部屋の前(まで)送ってくれた。吉行氏はとても辛そうにしていた。

「もう、絶対に外へ出てはいけないよ。今日は早く寝なさい。」

吉行氏は何時(いつ)になく厳しい顔でナオミに忠告した。彼女は項垂(うなだ)れていたが、吉行氏が帰ったのを確認すると、忍び足で部屋を抜け出した。「こらっ! 出て来ては駄目だって、あれ程言ったじゃないか。」吉行氏は旧甲州街道でナオミを見付け、叱り飛ばした。

「和也君達が心配なのは分かるけど、君が来た方が話がややこしくなるんだ。私が様子を見て来るから早く帰って寝なさい。絶対に部屋から出るんじゃないよ。」ナオミは再び吉行氏に部屋に連れ戻された。結局、ナオミは自分の事で精一杯で琴音に電話を掛ける事が出来なかった。

 

 

夜明け前に和也が部屋に戻って来た。ナオミは熱いシャワーに打たれながら、死んだ魚のように浴槽の中で意識を失っていた。白い湯気が部屋の中(まで)漏れている。「ナオミちゃん、起きて、(しっか)りして、」和也は慌てて裸の彼女を抱き起こした。ナオミは薄目を開け、和也を認めると顔を(しか)めた。本当に御免なさい、と和也がぽつりと言った。彼女は(あら)(ざら)しのバスタオルで身体を拭くと、緩慢な動作で机の引き出しから一冊の預金通帳を出し、和也に渡した。「何、これは?」和也は怪訝な顔で訊いた。

「あたし、あんたのこれからの為に、月々お金を積み立てておいたのよ。()だほんの少ししか貯まっていないけれど、あんたのだからあげるわ。それから、悪いけど、あんたと別れるわ。全て厭になったの。あたしの力であなたを良い方に導いて行こうなんて、()()がましい考えだったわ。もう、疲れ果てたのよ。」ナオミは煙草に火を点け、ぼんやりと言った。和也は大粒の涙を零しながら床に(ぬか)()き、彼女に詫びた。ナオミは虚ろな瞳で土下座して謝る和也を見ていた。

 

 

ナオミの()()(たま)の髪がシーツの上で乱れ、波打っていた。和也は彼女の上に身体を重ね、ジョイントの摩擦運動をしている。和也は不安から逃れたい一心で彼女の肉体を求めていた。疲弊しきったナオミは和也を拒絶することもなく、驚きと憐れみで見守っていた。彼女は()(ひし)がれた排泄孔だった。どうせあと二、三十回腰を振ってお()(ぶつ)なのに。

何時(いつ)の間にかすっかり朝だった。(まばゆ)い陽光がカーテンの隙間から斜めに差し込んで来る。ナオミも和也も沈み切って無言だった。二人は黒田の怨念に呪詛(じゅそ)されているようだった。眠れない彼女は少し窓を開け、ベランダの錆び付いた柵越しに外の景色を覗き込んだ。

全く、最近はゴミの分別がなっていないわねェ、等とブツクサ文句を言いながら、墓石色の服を着た仏壇屋のおかみさんが(ほうき)を片手にゴミ回収後の掃除をしている。これから一日を始める人たちの平和な光景だ。仏壇屋の親爺(オヤジ)はエトランジェに数度来たことあるが、程々に助平な単なる呑み助のオッサンである。おかみさん連中はナオミと擦れ違うだけで、眉を(ひそ)め、陰口を叩き、目が合えばニコリともせず慌てて視線を逸らす。その底意地の悪さ足るや、流石(さすが)のナオミも思わず苦笑いしてしまう程だ。無理もない、彼女達にとってナオミは天敵だ。この油断も隙も無い札付きの泥棒猫に自分の亭主やパトロンや父ちゃんが盗まれぬよう、絶えず見張っていなければならない。

「あたし、気付いたの! 主婦の暮らしなんて破格の低賃金で雇える、家政婦、保母、そしてごくたまに娼婦だってね。もう、最近じゃ女として干乾びているわよ。これじゃ飼い殺しと同じよ。刑務所だってこんな退屈はしないんじゃない? ねえ、みんなもそう思うでしょ? ねっ、ねっ! そうよね、何か面白い事ないかしら?」

彼女達の抑圧された日常、(かつ)ては一ヶ月に一度だったのが、一年に一度、果ては閏年(うるうどし)に一度に遠のく性生活。又は旦那の浮気の罪滅ぼしのお義理のセックス。忘れてしまった悦楽、現実逃避の昼メロで気を紛らわす日々、午後のファミレスで()()け合うやさぐれた主婦同士の日頃の鬱憤。旦那からもオイ! としか呼ばれず、知らず知らずの内に心に染みを作り、黒ずんで行く日常。そんな中で女を剥き出しに生きている、あのナオミという娘! あの娘も早く牢獄のような家庭に入って、子供を産んで私達と同じ目に遭うべきなのだ。今すぐにでも!

ナオミのような極楽鳥のいる酒場は、家庭と会社に(がん)()(がら)めにされた、しがない男達の(ささ)やかな避難所である。男達はエトランジェでナオミと出会い、(ようや)く自分自身を取り戻す。残された薄っぺらな人生で何が面白いかって、酒を喰らう事だけである。それしかない。ぺちゃんこに(くた)()れ果てた男達は、当然の()()きで自分を受け入れてくれる小さな隙間を探し、店から店へと漂流しながらやっとの事で生きている。女達が昼メロに逃避するように、窒息寸前の男達はより自分を褒めてくれ、認めてくれ、無能扱いしない女のいる店に現実逃避する。皆濁り切った水の中で頭だけ出し、アップアップしているのだ。誰もが何かに溺れながら生きている。酒に、欲に、色に、娯楽に……。誰もが何かに中毒しながら死ねずにいる。酒に、会社に、家庭に、色に……。

ナオミは窓を閉め、鍵を掛けると睡眠薬を規定量飲んだ。彼女は先程の事件を頭の中で何度も回想していた。この出来事がナオミと和也の決定的な亀裂になる事は明らかだった。

ああ、薬が効いてきた……。

 

 

(5)

 

昼前に和也は悪夢に(うな)され跳ね起きた。彼は沈んだ気持ちで寝台(ベッド)に腰掛け、煙草を燻らせながら天井に立ち上る煙を見詰めていた。和也は不器用な手付きでナオミの額に掛かっている髪を撫でていた。彼女は外敵から身を守るかの如く、胎児のように丸くなって眠り込んでいた。煙草を吸い終わった和也は、(どろ)(まみ)れのニッカポッカに足を通すと、物音を立てないように部屋を後にした。

ナオミが外の眩しさに堪え兼ね瞼を震わせた時、既に和也は隣にいなかった。ナオミは文句のひとつでも言ってやろうと思い付き、携帯を握り締めた。コール音が数回鳴って和也に繋がった。

一寸(チョット)、あたしだけれど、今あんた何処(どこ)にいるのよ!」ナオミは和也が電話に出るや(いな)や、刺刺(トゲトゲ)しい言葉を吐き連ねた。

「……駅前のパチンコ屋の前、」和也の歯切れの悪い言葉が彼女の逆鱗(げきりん)に触れた。「この非常事態に、アンタ、悠長にパチンコなんかやっているの? 頭おかしいんじゃない?」ナオミは業を煮やし、声を荒げた。電車の行き交う音が電話越しに聞こえて来る。彼女は容易に和也の居場所を特定出来た。「パチンコは、していない……。ずっと線路を見ている、」和也は低い声でぼそりと言った。そして、「何時(いつ)飛び込もうかと、思って、」と淡々と続けた。

ナオミはその言葉に色を失い、絶句した!

一寸(チョット)、止めなさいよ。正気なの? 何を言ってるのよ。戻って来なさいよ。お願いだから。」「ナオミちゃんに嫌われたら生きて行けない。俺が臆病だからこんな事になった! 本当にごめん。許してくれなきゃ死んだ方がマシだ、」と電話越しに和也の嗚咽が漏れ聞こえて来る。「いいから、()(かく)帰っておいで。落ち着いて珈琲(コーヒー)でも飲もう。向かいでお寿司を食べてもいいよ。帰っておいで。」

もしも、もしも万が一の事があったら……?

断末魔の叫び声が電車の音に掻き消され、鮮血が和也の身体の断片から吹き上げて()飛沫(しぶき)が辺り一面を赤黒く染め、()()り出された五臓六腑が無残に辺りに飛び散っている。電車が止まり、救急車が駆け付ける。悲鳴、ざわめき、人だかり……。ハンカチで口元を押さえ卒倒する女性。目を覆わずにはいられない猟奇的な風景だ。血潮から呼び覚まされる和也の記憶……。和也の肉体は(さっき)(まで)魂が宿って、隣で眠っていたのだ。ナオミの心は千箇(ちぢ)に乱れ、(おこり)(かか)ったように、全身を震わせていた。

「……分かった、今から、帰る。」

(こも)った和也の声が電話越しに聞こえて来た。

「早く帰って来なよ。怒らないから。」

「うん、ジュース買って行く、ナオミちゃんが美味しいって言ってたヤツ。」和也の声を聞き、彼女は安堵した。「ありがとう、何もいらないから、()(かく)元気で帰って来て……。」

ナオミの瞳から温かい涙が零れ落ちた。

 

 

「おう、ナオミ! 和也は何だ、アイツは?」黒田からの電話をナオミは渋渋(シブシブ)受けた。「何かあったんですか?」と彼女は辟易しながら訊いた。「あの野郎、昨日俺に()()り車は買えませんって電話を()()しやがったぞ。」何だ、その事で怒っているのか、とナオミは思った。「和也にも事情があるんでしょう。あたしに言われても分かりません。」彼女は毅然と言った。「何だと、テメエ! 又俺にそんな口を利く気か? 奴は俺に車を買うって言ったんだぞ。一度言った事を(くつがえ)すなんて、そんなの俺達の常識じゃ許されねぇ!」

そっちが無理矢理押し売ろうとしている癖に! と、ナオミは苛立ちながら「和也は俺達(・・)の仲間じゃないでしょ?」と言った。

「迷惑しているんですよ。黒田さん。あなた、自分でもう店に来ないって言ったじゃないですか。こんな事では月々あたしが納めている見ヶ〆(みかじめ)料の効力が無くなるでしょう? それを徴収している(しか)るべき組の人に営業妨害をされたら、あたしだって困ります。」

彼女は黒田との(しがらみ)を断ち切る為、肝を据えて言った。

「じゃあ、お前の店からもう、見ヶ〆(みかじめ)取らねェよ。その代わり、見ヶ〆取らないって事は、エトランジェを俺達の敵と()()して網を張るって事だぞ。お前のお気に入りの和也を誘拐してぶッちめて埋めてやろうか? 専門の殺し屋雇って、バラバラに切り刻んで東京湾に沈めてやってもいいぞ。テメエの仲間を一人一人殺して行くぞ! それでもお前は俺にそんな態度を取り続けるんだよな。それでもいいんだよなァ~? ナオミちゃん。」

黒田は薄笑いを漏らしながらナオミを脅迫し始めた。

新聞の三面記事の片隅に載り、何時(いつ)の間にか世間から忘れ去られてしまうような、何処(どこ)の街でも起こりうるチンピラ同士の抗争……。

五年前、黒田の組の事務所が()だメール街にあった頃、この街で抗争が勃発した。当時、黒田の組はこの街で猖獗(しょうけつ)を極めていた。この抗争事件で黒田の組の者がエトランジェの(はす)向かいのスナックで発砲事件を起こし、対立する組の者が重傷を負った。そして、運悪く偶然その場に居合わせた客が流れ弾に当たり、命を落とした。世間はこの事件を忘れてしまっていても、メール街で商売をしている連中は()()かで薄々危機感を持っていた。

テメエの仲間を一人一人殺して行くぞ!

こいつならやりかねないかもしれない……。(たちま)ちナオミは軌道を逸した強迫観念に取り憑かれ、それに追い討ちを掛けるように妄想が妄想を呼び、破滅のシナリオを組み立てていた。彼女の脳裏に優しいエトランジェの仲間達の笑顔が()ぎった。

「うちのお客さんや、和也に、危害を加えるのだけは止めて下さい。一体何が望みなんですか?」とナオミは幾分語調を和らげ、訊いた。「()ずは和也に約束通り車を買わせろ、いいな?」黒田は付け込むように言った。「和也はお金が無いんです。あたしが責任持って買い取ります。だから、和也を責めないで下さい。」彼女は必死で懇願した。「おい、お前ッ! お前のそのお節介は和也の男を潰すって事だぞ!」黒田は携帯に(わめ)きながらも自作自演の任侠芝居に陶酔していた。「そんなの知りませんよ。お金の事だったら、あたしが車を買い取って和也から月々分割で支払って貰えばいいじゃないですか。」

ナオミの声は無意識の内に震えていた。「それじゃァ、納得行かねェなあ、」と黒田は勿体振っている。「じゃあ、和也の為じゃなく、あたしの為に車を買い取ります。言っておきますが、あたしは免許が無いので乗るのは和也ですよ。」黒田はナオミの申し出を渋渋(シブシブ)承知した。「ところでお幾らですか?」と彼女は祈るように訊いた。

「まァ、お前なら大負けに負けて、三十五万でいいだろう。」

「分かりました、」とナオミは静かに答えた。

「じゃあ、夕方うちの事務所(まで)金を持って来い。分かったな!」

一方的に電話は切れた。三十五万円の中古車とは、一体どう言う物だろう。車種も年式も知らない。誰かの借金の(カタ)に取り上げた代物かも知れない。ナオミは落胆していた。

 

 

「約束通り持って来ました。」

ナオミは黒田の事務所が入っているビルの前で電話した。黒田はエレベーターから降りると肩で風を切って彼女の前に姿を現した。

「おう、良く来たな、(ふて)ぇ女だぜ。」ナオミは銀行の紙袋を両手で黒田に差し出した。黒田は乱暴に封筒を奪い取り「おい、今日は明日香は店に来るか?」と不意(ふい)に訊いた。「ええ、今日は週末だから来ると思いますけど、」と彼女は言い淀んだ。

(よろ)しく言っといてくれ。後でお前の店に顔出すかもしれねぇ。」

明日香に宜しく? ナオミは黒田の言葉に隠蔽された伏線(ふくせん)を探ろうとした。「別に構わないですけど、今夜は役所の方達が集まりの帰りに沢山流れて来ますよ、」と彼女は()()無く言った。黒田は役所と言う言葉を聞いて、イヤな顔をした。「そ、そうか。じゃあ役所のオッサン連中が帰ったら俺に電話しろよ。いいな?」

ナオミは腑に落ちない顔で頷いた。「おい、お前、(ちょっ)()ウチで茶でも飲んで行かないか?」黒田は思い付いたように言った。け、結構です、と彼女は血相を変え、(きびす)を返した。「フン、あばよ。」

ナオミは明日香と黒田の接点に付いて、早足で歩きながら(こうべ)(めぐ)らせた。

 

 

夜の(とばり)が下りると、ナオミは身支度を整え、店に出た。間も無く明日香が女装して店に姿を現した。(しか)し、明日香の何処(どこ)となく悲しげなその姿は()()ものように潑溂(はつらつ)とした生気が(みなぎ)っていなかった。役所の人達も(ぜん)を追ってエトランジェに集まり始め、土曜の夜らしく店は賑やかなものとなった。明日香も周りに気を使って、徐々に普段の調子を取り戻して行った。

十時過ぎに突如携帯が鳴り、ナオミはギクッと身を(こわ)()らせたが、極力怯えを顔に出さないようにカウンターにしゃがみ込み、電話に出た。「おう俺だ、明日香はいるか?」ええ、とナオミは低く答えた。「役所のオッサン達はどうだ?」「いらっしゃいますけど、」とナオミは声を潜めて言った。「そうか、今日はお前ン所顔出さねぇからよ。眠くなっちまったんだ。」電話は一方的に切れた。

「ねェ、誰からなの?」明日香は身を乗り出し、尋ねた。ナオミは黒田からよ、とそっと耳打ちした。明日香は見る見る蒼褪(あおざ)め、あの人今から来るの? とナオミに訊いた。「今日は来ないって。」

ナオミは尋常ではない明日香の様子を見て、何かを察した。

「ああ、良かった。これであんた達は大丈夫だからね。あたしが守ってあげたから。」意味深な言葉が明日香の口を()いて出た。「一寸(ちょっと)、明日香ちゃん、後で話があるわ。一緒に何処(どこ)かで話しましょう。」ナオミは誰にも聞かれないように明日香に言った。「ああ、ナオミ、あたしも話があるの。」ナオミと明日香は酔っ払い達の騒擾(そうじょう)の中、二人で震えていた。

2009年11月8日公開

作品集『妾が娼婦だった頃』第8話 (全11話)

© 2009 寺島聖

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