店の外では何時の間にかアスファルトを打ち付けるように雨脚が強まっていた。店の前の歪なアスファルトの凹みは、濁った雨水を浅く湛えていた。電柱に貼られた『この街で、娼婦は紅い花になる! 劇団員募集』と印刷されたポスターが驟雨に打たれている。
この場末の裏街の外れに場違いな郵便局が一軒、ぽつりとある。それが、このメール街の名前の由来である。終戦後この辺りは有名な赤線地帯だった。元バラックの女郎屋を改装し、其の儘飲み屋にしている店もまだある。黒田の組の事務所も元はと言えばこの街にあった。組の人間が五年前にある事件を起こし、事務所を移転せざるをえなくなったのだ。
メール街……、この街には一度迷い込んだら二度と戻れないのではないか、と人を不安にさせる何かがあった。この街に立ち入ると、感受性の強い人間は忽ち方向感覚や時間の感覚が死んでしまうのだ。この街に夜明けは来ない。この界隈は特に太陽からも見放されている。昼間でも何処か薄暗く寒々とした曰く付きの街である。この辺り一帯は不吉な磁場を強烈に放射している。そして、この街に暮らす人達も、何処か普通ではなかった。エトランジェにはこの街を塒にする小鬼が一匹、雨宿りに来ていた。
ナオミは明日香と和也のグラスにもスパークリングワインを注いだ。「女の手酌は色っぽいものじゃないからな、」と黒田がナオミに酌をしてくれた。エトランジェの四人は星屑の浮かぶワイングラスを合わせ、黒田を祝福した。明日香は一息にグラスを傾け、頬を染めていた。黒田は明日香のグラスにワインを注ぎ足した。
「ナオミ、黒田さんの為にハッピーバースデーを入れて頂戴。あたし歌うわ!」と明日香が言った。黒田は嬉しいなァ、と感慨深げにしている。「じゃ、マイクを回してみんなで歌いましょ、」とナオミはニッコリ笑って曲をカラオケに入れた。
浅く酔った黒田は、拘置所で覚えたと言う手品を皆に気前良く披露してくれた。明日香も先刻迄の緊張が嘘のように、身を乗り出して手品を見物していた。黒田の手から次々に紡ぎ出されるトランプを使ったマジックも、彼の思惑通り皆の目を幻惑させていた。黒田はポーカーフェイスを気取っていたが、皆から惜しみない称賛の声を浴び、得意気に鼻を蠢かせていた。
ナオミは冷蔵庫を覗き込み、パリジェンヌと印刷された白い箱を取り出してカウンターの上に置いた。彼女は黒田に微笑み、両手でそっとケーキの箱を開けた。「わァ、美味しそう!」繊細に飾りが施された淡雪のような生クリームのケーキに甘党の明日香が感嘆の声を上げた。「ローソク立てるわね。三十六歳だから、まあ六本でいいでしょ。」ナオミは色鮮やかな蝋燭をケーキに立てると、燐寸を擦り、端からそっと火を灯した。彼女は照明を落とし、黒田を促した。黒田は蝋燭の炎を神妙な面持ちで吹き消した。炎は抗うように揺らめき、煤の匂いを残して儚く消えた。薄く白い煙が棚引いている。何処からか、穏やかな拍手喝采が樋を打つ雨のように起こり、黒田はとても幸福そうだった。ナオミはケーキを切り分けた。黒田には水飴の掛かった苺を多めに乗せた。
「俺はきっと世界一幸せなヤクザだぜ。みんな、ありがとな!」黒田は小さな銀のフォークでケーキを堪能しながら、礼を言った。「ケーキなんて、久し振り。甘い物は大好きだけど、一人じゃ中々食べる機会は無いわ、ナオミとならケーキバイキングでも喜んで行っちゃうんだけどなァ。」と明日香が言った。
黒田の帰り際に、ナオミは店のロッカーに仕舞っておいた紙袋を土産に持たせた。「これは、うちの店にあるのと同じポータブルプレーヤーが入っているの。偶には下北沢や吉祥寺の中古のレコードショップ巡りなんてしてみたらどう?」とナオミは言った。
「ああ、それもいいな。俺は十代の頃明菜ちゃんのファンクラブの会員だったんだよな。今度レコード屋に行ってみるよ。」
黒田は無垢な目をして、何か言いたげにじっとナオミを見詰めていた。この人は、本当にヤクザなのだろうか……、彼女は黒田のその無防備さに打ちのめされた。一匹の蜘蛛に情けを掛けた罪人の犍陀多の慈悲深さに共通する黒田の意外な一面を垣間見たようで、ナオミは感動すら覚えた。心を裸にした黒田は刹那、娑婆に住む誰よりも純粋で傷付きやすく見えた。「雨が降っているから、風邪引かないでね、」とナオミは黒田に水玉模様の置き傘を差し掛けてやった。「ナオミ、みんなによろしく言っといてくれ。今迄で一番楽しい誕生日だったよってな!」黒田はナオミに軽く手を振ると、不似合いな可愛い傘を高く掲げ、スキップで下駄を鳴らしながら魔物の跋扈する暗闇に呑まれて行った。
結局、淳と西川は来なかった。こんな雨の日は自宅で大人しく過ごしていた方がいいだろう。ナオミは和也と淳がダブルブッキングすると本当に面倒なのだ。
「憂鬱になっちゃうわよね。今日来るのも寝た客ばっかでさァ。ほんの一寸遊んであげただけなのに、すぐ本気になる。いやァね、男って……。」ナオミが十代の頃、米軍キャンプの街で共に働いた小夜子と言う婀娜めいたホステスが宿酔いの寝ぼけ顔でこんな事をぼやいていた。彼女は当時二十八歳にはなっていたかもしれない。小夜子は実に巧みに男達の気を引いた。夜の商売は小夜子の天職だ。小夜子は板橋区生まれで、十六歳の頃には既に家出して池袋のクラブで働いていた。天衣無縫な性格で美人の小夜子は、忽ちいい客をがっちり抱えるナンバーワンホステスになっていた。彼女は二十四歳の時青年実業家に惚れ込まれ、一度結婚をしていた。然し、小夜子は一見幸せに見える結婚生活に嫌気が差し、夫と幼い娘を置き去りにして婚家を出奔してしまった。そんな小夜子が流浪の末流れ着いたのが、神奈川県の外れの米軍キャンプの街にある、ブルー・ベルベットという店だった。この街に辿り着く迄に、小夜子は池袋時代に貯めていた八百万円を僅か三ヶ月間でパチンコに狂って使い果たし、螻蛄になってしまっていた。小夜子の性に合わないものは、束縛、倹約、貞淑、そして、平凡で単調な日々……。
小夜子、真由美、順子、美雪、洋子、フィリピン人のマリアに中国人のスー。そして、十九歳新人のナオミ。荒れた肌に白粉をはたきつけた不幸な日陰育ちの薊たちがカウンターに並んで客を待てば、誰からともなく身の上話が始まった。皆、薹の立った理由有りの女達であったが、各各が辛酸を舐め尽くして来ただけ、人には優しかった。「ナオミちゃんは家出したって言っても、まだいいわよ。結婚もしていないし、子供もいない。それに、将来もある。羨ましいな。」働かない上に酒乱の旦那に殴られ、頬の痣を濃い化粧で隠した美雪がポツリと言った。
「そうよ、碌でなしの旦那だったらいない方がマシ。ナオミちゃん、呉呉も悪い男に引っ掛かっちゃ駄目よ。」と十代で産んだ娘を、女手一つで私立高校に通わせている真由美が真剣に忠告した。
ブルー・ベルベットではどう言う訳かイザコザばかりが立て続けに起こった。酔客が殴り合いの喧嘩を始めるのは序の口で、小夜子が男に監禁されて出勤できなかったり、米兵に店の女が姦られたり……。最初は修羅場を目前に、ただ呆然としていただけのナオミだったが、その内慣れてしまった。然し、唯一度だけ死ぬ程恐ろしい事件に居合わせてしまった事がある。そう、あれは洋子の事。
洋子は何時もはんなりと着物の良く似合う、臈長けた女だった。彼女は悲しい恋の忘れ形見の四歳になる息子と二人、店の近所のアパートに仲良く暮らしていた。私生児の雄介は、自分を孕ませ裏切った男の面影を色濃く残していたが、洋子は子煩悩だった。彼女は夜間託児所に雄介を預け、店に働きに出ていた。ナオミは店が跳ねた後、洋子に付いて雄介を迎えに行った事が幾度かあった。そこは、託児所とは名ばかりの、傾きかけた安普請の長屋だった。夜働く母親の姿を見続け、何時の間に世慣れてしまった託児所の子供達は、幼いながらも驚く程従順で大人の言う事を良く聞いた。その明け方も夜の蝶たちの幼ない落とし子が七、八人、二間続きの六畳間に小さな布団を並べ静かに寝息を立てていた。
あの日、洋子は昔馴染みの客と一寸した諍いを起こしていた。ヘルプで同席していて、二人の雲行きが怪しい事を察したナオミは、トイレに立つ振りをしてカウンターにいるママにそっと耳打ちした。酔っ払いのママは、どうせ痴話喧嘩でしょ、いいわね、お御馳走様、等と言って正面に取り合おうとしなかった。ナオミの杞憂なのだろうか、然し、この胸騒ぎは何だろう。洋子と客は依然として丁々発止の鬩ぎ合いを繰り広げている。
「何よ、この枯れ薄! あんたみたいに梲の上がんない駄目リーマンより、米兵の方がよっぽどいいわよ!」
洋子は男を怒鳴り散らすと、涼しい顔でグラスの酒を飲み干した。
「バカにしやがって、バカにしやがって……、」枯れ薄と罵倒された男は逆上せ上がって席を立った。ヤバイ! ナオミは全身がゾーッと総毛立つのを覚えた。「抑、あたしがジョージと付き合ってるの、誰がこいつに垂れ込んだのよ! 美雪、あんたね!」洋子が断定的に美雪に因縁を吹ッ掛けた。普段から洋子と不仲の美雪は、軽蔑を込めて洋子を一瞥し、「そんなの、知らないわよ、」と冷たく言い放った。「俺はお前だけじゃなく、息子の雄介の面倒まで見ているんだよ……。」件の男は怒りに蒼褪めていた。
「あたしが米兵と浮気したのだって、元はと言えば、あんたが情けないからでしょ? 聞いてよ、みんな! この間なんてこいつ、嫉妬に狂ってあたしの毛ェ剃ったのよ。もう、うんざりよ!」
洋子は呂律の回らない口調で投げ槍に喚いた。
その時だ! 電光石火の兇行が起こったのは。
洋子の結い上げた髪に挿していた鼈甲の簪が宙に舞った。男はオールド・パーの瓶を握り締め、洋子の額に振り下ろしていた。
時間が止まり、店中が水を打ったように静まり返っていた。
突如、耳を劈くような悲鳴が静寂を破り、傍らで見ていた小夜子が床に崩れ落ちた。額を割られ、顔を血で染めた洋子は視線を虚空に彷徨わせ、息子の名を呟いて意識を失った。渦中の男は茫然自失の状態で、嘘だろ、嘘だろ……、と呟き、自分の右腕に握られたオールド・パーの破片に視線を移すと、アァァァァーッ! と叫んでがっくり膝を落とした。マリアとスーは抱き合って震えていた。ニホン、コワイ、クニニカエリタイ、と片言の日本語で囁き合い、泣いていた。
日頃一番肝の据わっている筈のママが酷く取り乱していた。
「ちょっと、アンタ、どうしてくれるのよ! 洋子ちゃん、しっかり! 小夜ちゃんも寝てないで、ちょっと誰か、救急車、救急車を呼んで頂戴!」ママはパニック状態だった。店の電話の側にいたナオミは、酷く蒼褪め狼狽えながらも何とか救急車を呼ぶ事が出来た。
ナオミは洋子のハンドバッグから家の合鍵を取り出すと、ノースリーブのドレスの儘店を飛び出した。この時間帯は特に物騒だ。彼女は数度転んだが、走り続けた。暗黒街を思わせる淫靡な裏通りのピンサロの前に、ド派手な立て看板が横倒しになっていた。
何かが、落ちている。ナオミは走る速度を緩め、緑青に侵された十円玉を道端から拾い上げて辺りを見回した。店の前に突ッ立っていたポン引きが彼女を舐め回すように見ている。ナオミは束の間戸惑ってポン引きに十円玉を渡した。「あんた、ウチで働かない? 最近いい娘入んなくて店長に絞られるんだ。待遇良くするから他所で働くならウチでどう?」と彼は銅貨を掌で弄びながらナオミをスカウトした。「あたしは遠慮しとく。一寸急ぐから、」と彼女は再び走り出した。ナオミの目の前を髪の長い女を連れた米兵が横切った。何時もこの通りで出勤前のナオミを待ち伏せ、執拗に口説いて来る優男だ。花束を抱えて待っていた事もあったと言うのに、いい気なものだ。
ナオミが夜間託児所に辿り着くと、素朴な感じの若い保母さんが出迎えてくれた。彼女は菩薩のように穏やかな笑みを湛え、「今夜は冷えますね、」と薄着のナオミを気遣った。ナオミはホッとした拍子に今迄堪えていた涙が堰を切ったように溢れ出し、身体の震えが止まらなかった。ナオミは事の経緯を保母さんに説明した。彼女は頻りに洋子の怪我を心配していた。ナオミは愚図る雄介に上着を着せ抱き抱えると、夜間託児所を後にした。ナオミは洋子のアパートの鍵を開け、お母さんは? と不安げに訊く雄介を宥め賺して何とか寝かし付け、そして洋子が担ぎ込まれたと思しき近所の救急指定病院に向かった。
ママと小夜子は鎮静剤を打たれ、眠っていた。洋子の怪我は思いの外軽傷で、額を七針縫って、明け方には雄介の側にいた。洋子は泥酔していたにも関わらず意外に気は確かで、雄介の事が心配でならなかったとナオミに礼を言った。
この事件が切っ掛けで、店は警察の手入れを食らって営業停止処分になり、ママが隠蔽していた数々の犯罪も明るみに出た。ナオミはこの事件以降ブルー・ベルベットには立ち寄らなかった。それから数年、彼女は修羅の海の荒波に揉まれながら流転を繰り返し、今はメール街の路上にいる。
黒田を送り出したナオミは、透き通った糸雨が降りしきる夜空を見詰めていた。人影の見当たらない裏街は、濡れそぼったネオンが優しい雨に霞んでいた。隣の焼鳥屋には草臥れ果てた背広姿の男が一人、店主に管を巻いている。ナオミは店に戻った。
「一寸、ナオミ! あの黒田さんっていい人じゃない? あの手品、すごかったわねェ。」明日香がキャアキャア騒いでいる。「うん、見掛けよりはいい人かもね、」とナオミは燥ぐ明日香を何となく気が進まない心持ちで眺め、「店でも問題起こさないから、一応出入りを認めているのよ、」と言った。「黒田さんが問題起こす訳無いわよ。何かあったら、あの人が助けてくれるんじゃない?」明日香は端から黒田を信じ込んでいる様子だった。しかし、今日の様な黒田は一年に一度位のもので、残りの三百六十四日は油断も隙もあったものではないのだ。ナオミは出来る限り慎重に、黒田と距離を取っていたかった。「ウチは問題なんか今のメンバーじゃ起こらないわよ。みんな大人だもの。それに変な客が来たらお引き取り願っちゃうしね。」ナオミは疲れを滲ませた口調で言った。「変な奴が来た時なんて、ナオミちゃんすっごく怖いんだよ。この界隈は時々ヤバイ奴がウロウロしているからね、」と和也が横槍を入れた。「何を言ってるのよ、コワいおばさんじゃないと、バーのマダムなんて務まらないわよ。あたしも一寸は逞しくならないと、何時迄もか弱い乙女じゃいられないんだからね。」
「あたしは永遠の乙女よ!」と明日香が宣言した。「あっそ、良かったわね。何か、今日は少し早いけれど、店仕舞いしようかな、」とナオミは溜息を吐き、提案した。「そうよね、そう言う日もあるわ。あたし、明日朝一で会議なのよ。今夜は早く休もう。また週末にでも会えるじゃない。」明日香は大手電気機器メーカーの名前が印刷された鞄から、財布を取り出した。「何か明日香ちゃんが会議なんて想像付かないわ。お茶汲みでも何でもやるから、見に行きたい位よ。」ナオミはお金を受け取ると、好奇心剥き出しで言った。「俺はそのギャップが面白いと思う、」と和也がグラスに残った酒を飲み干して言った。「和也だって偉いわよ。毎晩エトランジェに来ても、ちゃんと現場に行くんだものね。」明日香が労うように言った。
ナオミは店の防火扉を閉め、鍵を掛けた。彼女と明日香と和也は並んでメール街を後にした。旧甲州街道に出ると、金木犀が橙色の花粉を落とし、芳潤な香りを漂わせていた。秋の朧夜の玉響に、三人は満ち足りた気持ちでゆっくりと歩みを進めていた。民家の軒先に、紫式部が美しい菖蒲色の実を鈴生りに実らせている。「黒田さん、今日は喜んでくれてよかったわね、」と明日香が言った。
「あの人もああ見えて可愛い所があるわね。何時も今日みたいな感じだといいんだけれど……。」
ハイヒールを駄目にしないように水溜りを避けながら、ナオミは呟いた。「明日から十一月か、早いなぁ、」と和也が沁み沁みと言った。「明日香ちゃん、家までみんなで送ろうか? 痴漢に遭ったら困るでしょ?」とナオミが訊いた。「ううん、今日はいいわ。ミニスカートだと怖いけれど、今日は溝鼠ルックだし。週末に又エトランジェに集合ね。淳様によろしくね!」
明日香の濁声が夜の静寂に木霊した。
(2)
何時もより少し早く目覚めたナオミは、シャワーを浴び、ペットボトルの野菜ジュースを飲んでいた。部屋のチャイムが鳴り、インターホンに出ると新聞代の集金だった。ナオミは料金を払い、ぼんやり煙草を燻らせていた。再びチャイムが鳴り、インターホンに出ると、今度は得体の知れない宗教勧誘だった。ナオミが丁重に断りを入れると、勧誘員は「あなた、絶対に後悔しますよ!」と強迫めいた言葉を投げ掛け、一方的にインターホンを切った。ナオミは余りのばかばかしさに声を上げて笑った。
ナオミは鏡台の前で無造作に髪をアップにし、チェックの古着のコートを着ると、サボを突っ掛け部屋を出た。彼女は部屋の向かいの松波寿司の暖簾を潜った。この店は嘗て淳と通った店だ。今は近所の居酒屋を贔屓にしている。この寺町通りは、居酒屋も定食屋も気が利いていて活気のある店が多い。ナオミがカウンターの端に座ると、サザエさんに似た明るい感じの女将さんが熱いお茶とオシボリを持って来てくれた。ナオミは手を拭きながら、壁に貼られた今日のお薦め料理を見て、ランチ寿司を注文した。生簀には活きのいい鯵が泳いでいる。レジの上に固定されたテレビからニュースが流れていて、アナウンサーが取りとめもない情報を淡々とした口調で伝えている。部屋でテレビを殆ど見ないナオミは、外出先で世間を知る。鯔背な江戸っ子の大将が握ってくれた血の滴るような鮪を頬張っていると、コートのポケットから携帯メールの着信音が鳴った。ナオミは口をモグモグさせながら携帯を確認した。
『昨日、三鷹の若林病院に入院しました。連絡下さい。黒田』
ナオミは携帯を握り締めながら顔を真っ赤にして暫く噎せ返り、冷めかかったお茶で喉の痞えを流し込んだ。
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