私はシャチピ

一希 零

小説

9,169文字

 

軽く触れただけで割れそうなくらい、薄いガラスでできたトールグラスの中へ、ゆっくりと長方形の氷をひとつずつ入れる。氷がグラスの口の少し下で収まると、四十センチのバースプーンをグラス内に差し込み、くるくると攪拌する。氷がカチャカチャと音を立てる度に、グラスに亀裂が入らないか心配になる。氷で冷やされグラスが曇ってきたら、ウイスキーを注ぐ。ロイヤルサルート二十一年。その名は、英国軍が王室へ敬意を表す皇礼砲によって放たれた、二十一回の空砲に由来するという。一九五三年、エリザベス二世の戴冠式を記念してつくられたスコッチウイスキーだ。家で飲むウイスキーとしてはいささか高価な部類だが、美しい青色の陶器製のボトルを見ると、それだけでつい惹かれてしまうこともない。グラスの四分の一あたりまで注ぐと、再びバースプーンを差し込み、ステアする。二十一回転させ、バースプーンを引き抜く。炭酸水の瓶を開け、グラスの氷に直接当たらないよう、丁寧に注いでゆく。雪のような微小の気泡が現れ、雨が止んで日が射し込むみたいに消える。バースプーンで氷を持ち上げ、上下させる。炭酸が抜けないように、強くステアはしない。完成したハイボールを二秒間眺める。黄金色の液体の向こう側、テレビボードの上に鎮座する手乗りサイズのシャチと目が合った。

稼働するエアコンの音のみが、室内を満たしていた。音だけではない。室内の空気もまた、エアコンが吐き出した温かい風によって満たされていた。空間はひどく乾燥しており、木製のダイニングテーブルの表面は毛羽立っているようだった。テレビボードもまた、ダイニングテーブルと同じ家具屋で購入した同シリーズの商品で、同じく乾燥によって毛羽立っていた。乾いた木製の海原を泳ぐ長さ二十五センチ程度のシャチは、数カ月前に訪れた鴨川シーワールドで購入したぬいぐるみだ。背面は黒色、腹面は白色、ぱっちりとした愛くるしい黒色の両目の上方には、白色のアイパッチが入る。口元は開かれ、ピンク色の布地が覗く。全体的に丸々としており、シャチというよりフグみたいな形状で、それがとても可愛らしい。名前はシャチピ。私と一緒に鴨川シーワールドへ行った彼が、当時話題になっていた漫画に出てくるタコのキャラクターの名前をもじって「シャチピー」と呼んだのを、私が「シャチピ」に微修正し名付けられた。そのほうがより音の響きが可愛いし、まるっとしたシャチピにぴったりな気がしたからだ。

二○二二年十二月三十日の夜、少し広いマンションの一室で一人過ごしていた。同棲している彼は一昨日から宮城県の実家へ帰省しており、年明けの二日まで戻って来ない。「実家楽しんで来てね」と言って彼を送り出した。彼は「いつも苦労かけているから。ゆっくり休んで」と私に言った。どのような意図でその言葉が出て来たのだろうか、としばらく考えたが、途中で放棄した。考えても答えのでないことは、考えても答えがでないことなのだ。彼が家を出てから数分後に、ラインでスタンプを送った。アライグマのキャラクターが「いってらっしゃい」と言って手を振っているスタンプだった。それからスマートフォンの電源を切って、ベッドのサイドテーブルの上に置いた。頭の中でやるべきことと、やりたいことと、やりたくないことを思い浮かべ、分類していった。洗濯をして買い物へ行った。ひとつひとつやるべきことをこなし、その隙間の時間を使って、ストレッチをしたり、コーヒーを淹れたり、読書をしたりした。しばらくやっていなかった、大人の塗り絵の本をデスクの抽斗の奥から引っ張り出したが、色鉛筆が見つからなくてやめた。

 

 

高価なウイスキーを使ってつくられたハイボールを、美味しいと思わなかった。ウイスキーと炭酸水の比率も悪くないし、つくる工程で何か失敗があったわけでもない。それがよくできていることは理解していた。ウイスキーについても言うまでもない。理由は単純で、私が単にハイボールの味を好んでいないからだ。全く酒が飲めないわけではないが、美味しいと思って飲んだことは一度もなかった。酒っぽくない、甘くてジュースみたいなお酒であれば不味くはないが、それなら最初からジュースを飲みたいと思う。酔いへの渇望も薄く、記憶を無くしたり、体調を崩したりすることへの恐怖が勝った。

他方で、お酒をつくることは好きだった。「自分で飲めないのに?」と突っ込まれるのは当然だが、好きなものは好きなのだから仕方がない。普段は私がハイボールやジントニックをつくって、それを彼が飲んだ。彼は「酒ならなんでもいい」と言っていたから、美味しくつくろうが、不味くつくろうが、大して気にしないようで、それがかえって気楽でよかった。むしろ、つくっているうちにこちら側に拘りが芽生え始め、バースプーンを新調したり、グラスを買い換えたり、透明な氷をつくってカットしたりし始めた。ウイスキーやジンについても、色々買ってつくってみたが、飲む人は味の差異に関心がなく、つくる人は味自体に関心がないため、私のボトルデザインへの関心によって購入品が決定されるようになった。高い酒ほど、凝ったデザインのものが増えた。酒に関する費用はすべて「飲むのは僕だから」と言って、彼が払った。素敵なデザインのボトルがダイニングテーブルの隣のカウンターに並べられ、ちょっとしたバーみたいになった。

夕食を食べ終えると、私が酒をつくって、それを彼が飲んだ。その間に皿を洗った。皿を洗い終えると、彼のグラスが空になって、二杯目をつくった。彼が二杯目を飲み始めると、洗った皿を私は拭いた。皿を拭き終えると、彼のグラスは再び空になるので、三杯目をつくった。多くても三杯までと決めていた。水曜日は休肝日にして、酒を飲む代わりに紅茶を淹れて二人で飲んだ。紅茶は彼が積極的に選んで買ってくることが多かった。お香やルームフレグランスやアロマオイル等を彼はよく買って来たが、もしかしたら味よりも香りに関心があるのかもしれない。私の脳内に「ウイスキー 香り」という検索ワードが浮かび、「やりたいこと」のリストに分類される。

 

 

自分でつくったハイボールを、舐めるように少しずつ飲んだ。飲むより氷が溶けるほうが早く、水位は一向に減っていかない。やがて氷がすべて溶け切ってしまうと、私はそれを水盤に流した。口内に広がるアルコールの匂いが不快だったから、丹念に口をゆすいで歯を磨いた。歯を磨き終えると、シャワーを浴びて、ボディークリームを全身に塗り、化粧水を顔面に浴びて、乳液を塗り込み、髪をドライヤーで乾かし、パジャマを着た。その頃には、どうしてももう一杯、酒をつくりたくなっていた。グラスに氷を入れ、バースプーンでステアする。氷が僅かに溶けてグラスの底に水が溜まったため、一度水を捨てる。その瞬間、自らの手の動きが停止した。一体何をやっているのだろう。グラスを冷やし、ウイスキーを入れ、ウイスキーも冷やす。炭酸水の炭酸が抜けないよう、氷に当たらないように液体目掛けて注ぐ。同じく炭酸水の炭酸が抜けないように、強く攪拌せず、軽く混ぜて完成する。その一連の作業が途中で止まる。一体何をやっているのだろう、と再び思う。

「飲まないのにつくるなんて勿体ないッピ」とシャチピは私に言った。

「でも、つくりたいんだもん」と私は答えた。

「自分のお金で買ったものじゃないッピ。それは人のものッピ。無駄に使っちゃダメッピよ」とシャチピは私に言った。

「シャチピの言う通りだね」と私は答えた。グラスに入れた氷を水盤にブチまけた。

ベッドに潜り、サイドテーブルに置かれたスマートフォンの電源を入れた。一日に一回、寝る前に電源を入れて、ラインを返し、アラームを設定して眠りに就くのが一人になってからの習慣となっていた。朝起きてアラームを止めると、そのままスマートフォンの電源も切る。私が起きている間にスマートフォンは眠り、私が眠る間にスマートフォンは起きているのだ。彼からのラインに返事を送り、おやすみを伝えた。姉からもラインが来ていたが、未読のままにした。ベッドに潜り、しばらく寝付けなかった。久しぶりに酒を飲んだせいかもしれない。目を閉じ、睡魔が訪れるのを待った。それは確実にやって来て、私を包み込み、あちら側へ誘ってくれる。

 

 

「年上の男とばっかり付き合う女にだけはなるな。一度でいいから年下の男と付き合いなさい」と、姉が言ったことをよく覚えている。姉が私に伝えた言葉の中で、それが最も印象に残った言葉だった。姉のメッセージとは裏腹に、私は年上の男とばかり付き合った。姉の言葉に逆らう意思は特になく、偶々付き合うに至った男がすべて年上だったにすぎない。けれど、新しく付き合う男が年上であるたびに、私は姉の言葉を思い出すことになった。この男と別れたら、次こそ年下の男と付き合ってみればいい、と思って付き合った男が今の彼で、同棲して一年以上が経過した。彼は二十八歳で、私が二十五歳。私はついに年下の男と付き合うことのないまま、結婚をするのかもしれないな、と思っている。

そんな姉が、鴨川シーワールドのチケットをくれたのはゴールデンウィークの手前の頃だった。当時姉には交際相手がいたが、相手の浮気が原因で別れたのだと、私に電話までして報告した。同棲していた姉は破局によって突如発生した引っ越しで忙しく時間もないため、もともと同棲相手の男と行く予定だった鴨川シーワールドのチケットをあげるよ、と言った。「あんたの彼氏と言ってきなさい。東京からだとちょっと遠いかもしれないけど、車でも、電車でも、行けなくはないから」。それから姉はいくつかの愚痴を私相手にこぼした。「本当に好きな男なら、同棲なんて中途半端な時間つくらないで、すぐに結婚してしまったほうがいいよ。相手を見定めようなんて傲慢なことを考えて、でも実は相手もまた自分を見定めていて、結果切られることもある。物事を慎重に、確実に、計画して、計画通りに進めようなんて考えると、逆にうまくいかなくなる。受験みたいにはいかないね」「まあ、全部向こうが悪いんだし、そんな男と結婚しないで済んでよかったんだけど」と、姉は言った。

数日後、姉からチケットの入った封筒が送られてきた。住所は千葉県千葉市からだった。それが、同棲中の自宅の住所なのか、引っ越した後の住所なのかわからない。私がまだ高校生だった頃、姉は大学進学とともに実家を出た。「実家を出るために、関東の大学へ行く。そのために、正当化できるくらい、立派な大学に受からないといけない」と姉は静かに宣言し、実際に東京大学へ進学した。実家を出たいと思っていた私もまた、姉を追う形で東京大学へ進学した。それは簡単なことではなかった。多くの時間を勉強に割いたし、今振り返れば、その選択によって多くのものを捨てたようにも思う。私にとって、あるいは姉にとっても、受験はひとつの重要なゴールだった。

ゴールデンウィークの鴨川シーワールドは大変な賑わいを見せていた。家族連れが目立った。実際の人の数以上に賑やかな空気を醸成していた。我々はレインコートを着てシャチのショーを観た。シャチの豪快なジャンプによって生み出された大量の水しぶきを全身で浴びた。艶やかな黒色のボディが太陽の光に照らされ、美しかった。悠々とした姿は、水族館で飼われ、ショーを披露する立場にありながらも、実に自由で、堂々として見えた。「いいね、すごいね」と私は少し興奮しながら言った。「いいよね。すごくいい」と彼も同調するように言った。

一通り水族館を巡り、館内のショップへ行った。シャチを中心に、多くの種類のぬいぐるみが並び、一様にこちらを見つめていた。私はひとつひとつを吟味し、見定めた。これという一体に出会うことが中々できない。フランシス・ホジソン・バーネットの『小公女』を思い出す。ぬいぐるみの問題は、こちらの話が聞こえているようにはちっとも見えないところだ。どれも可愛いぬいぐるみだが、話をちゃんと聴いているように見えそうにない。

「ね、あっちで、シャチくじやってたよ」彼は言った。

「シャチくじ?」私は聞き返す。

「そう。一等は特段大きなシャチのぬいぐるみ。五等の小さなぬいぐるみだと三十センチくらいかな。小さくてかわいい感じに見えた」

「気になる」

「見てみよっか」

結構人気のようで、売店前に設置されたシャチくじの場所には多くの人が集まっていた。一回千円、一等から五等まで、景品はすべてシャチのぬいぐるみで、五等は手乗りサイズだが、一等になると子供の身長くらいの巨大なサイズとなっていた。三等以上は白黒の色のみだが、四等、五等だと水色やピンク色のシャチもあった。ショップで売っているぬいぐるみは口を閉じており、シャチくじのぬいぐるみは口を開けていた。思えば、水族館内を歩く少なくない人がシャチのぬいぐるみを持っていたが、ショップのものではなく、シャチくじのぬいぐるみの方をよく見たように思う。

「やる?」彼は言った。

「やる」私は言った。

列に並び、可能性を検討する。正直なところ、一等ではなく五等ないし四等でいい。色は白黒か。くじの結果を見てから該当のぬいぐるみをひとつ選ぶまで、時間は多くない。その点がひっかかった。列に並んでいるうちに、目星をつけておきたいところだが、景品交換コーナーはここから少し離れており、人も多く集まっていて、じっくり観察することができない。列は思ったよりも早く進み、我々の順番がやってきた。透明な球体の中に空気が流動的に流れ、くじの紙が宙を舞っていた。手を入れ、怪我をした蝶のように舞う一枚を手にとって引く。開けると「五等」の文字が書かれていた。ほっと一息吐いた。隣で彼が少し残念そうな顔をしていた。

係の人の案内に従い、景品交換コーナーにやってくると、シャチが一様にこちらを見つめていた。見定める時間はなかったし、景品交換コーナーに並ぶシャチのぬいぐるみを見て、そういうものではないよな、と思い直した。私は五等の中で、白黒のぬいぐるみの中から一番手前に置かれた一体を手にとって、係の女性に渡した。ビニル袋に入れられて小さなシャチは再び私の手元に戻ってきた。シャチピと名付けられ、無事家に連れて帰った。帰りの電車で「五等、ちょっと残念だったな」と彼は言ったけれど、私は「全然そんなことないよ」と言った。

家に帰ってきて、あちこち歩き回ってシャチピをどこに置こうか悩んだ末、テレビボードの一画に決定した。当初、テレビボードに向かって左側にシャチピは置かれた。正面を向くように置いたが、開かれた口のピンク色の部分がタラコ唇みたいに見えて、ちょっと微妙だった。「シャチピ、正面あんま可愛くないね」と二人で笑った。それからいくつかの置き方を試し、斜め四十五度の角度に落ち着いた。しかし、今度はタグが目立つ位置にきてしまった。特別大きなタグというわけではないが、シャチピ自体が小さいのと、黒色のボディであることもあって目についた。

「タグ、切っちゃおうか」と私は言った。「ブランドのぬいぐるみでもないし、いいんじゃない?」

彼はしばらく考え込むような表情を見せてから答えた。「いや、それはやめよう」

「どうして?」

「ううん、なんとなく、かわいそう」

「タグがついていないことが?」

「タグを取ってしまうことが、かな」

「そうかな?」

「まあ、変な話だけどね。タグつけられた水族館のペンギンと、タグのついていない野生のペンギン、どっちがかわいそうかって聞かれたら、あれだけどさ」

彼がそれ以上話すことはなかった。彼にとってもうまく言語化できない何かが引っかかったようだったので、私も特に反対することはなかった。「うまくタグ部分を切れなくてぼろぼろになるのも嫌だしね」と私は言った。「そうだね」と彼は頷いた。

 

 

年が明けた。明日には彼が帰ってくる。彼が出発する前と比べ、幾分部屋が汚くなっていることに気がついた。これではいけない、と思い、慌てて掃除をする。今年は大掃除をできなかった。彼が実家に帰ったせいだ、とは言わない。空腹を感じ、冷蔵庫にあるもので適当にカレーをつくって食べる。自分でつくったカレーライスを食べながら、その不出来に驚いた。いつも食事は彼がつくっていたから、私がつくるのは稀だった。一人になって気がつくことも多い。自分ばかりがやっていると感じていた家事のいくらかを、実は彼がやってくれていたことがわかった。我々は三人でも四人でもなく、二人なのだ。私がやっていないことはすべて彼がやっており、彼がやらなかったことはすべて私がやっている。「誰か」がやってくれる、は存在しないのだ。美味しい料理はすべて彼がつくり、美味しい酒はすべて私がつくっていた。でもまあ、やっぱり私の担当領域の方が広い気がする。少しくらい不満を言ってもいいかもしれない。

「拭いてほしいッピ」とシャチピは目をうるうるさせて言った。

「ええ、まだ綺麗でしょ」と私は言った。

「そんなことないッピ。お腹の部分が白いから、こまめに拭いてほしいッピよ。お願いッピ」

「ちょっと面倒だな。自分でお風呂に入って洗ってきなよ」

「ひどいッピ。歩けないし、泳げないッピ」

「シャチなのに泳げないんだ。かわいそう」

「かわいそうなシャチピッピ!」シャチピはバタバタと身体を震わせながら、そう言った。

ため息を小さく吐いてから、未だバタバタしているシャチピを右手で鷲掴みにする。くぐもった声で「ピ」と言った後、静かになった。やれやれ、と思いながら、ぬいぐるみクリーナーをシャチピに吹きかけ、布で拭いてゆく。そこまで汚れていないと思っていたが、拭いてゆくことで、これまで黒色の部分は灰色っぽく濁り、白色の部分は少し黄ばんでいたことがわかった。一通り拭き終えると艶が戻り、毛並みも整った。「ほら、綺麗になったよ」と言うと、「やったッピ!」と言ってシャチピは喜んだ。シャチピの身体の左側、尾ひれと腹部の間あたりに、タグは二つ付いていた。表面は鴨川シーワールドのロゴが入っていて、裏面には「MADE IN CHINA」「対象年齢六歳以上」と書かれていた。その下にもうひとつあるタグには「検針済」と書かれていた。

寝室へ行き、電源の落とされたスマートフォンが目に入り、ふと姉からラインが来ていたことを思い出した。電源を入れ、姉のラインを開く。まず「年末何してるの?」とあった。続いて「今年は久しぶりに、というか、実家を出てから初めて、帰省しました」と書かれていた。私は驚いた。姉も私も、進学を機に実家を出て以来、一度も帰っていなかったからだ。大学の卒業だったり、就職だったり、必要最低限の連絡は行っていたから、絶縁関係というわけではなかったが、疎遠であることに違いはなかった。少し悩んだ挙句、「珍しいね」と姉にラインを返した。

 

 

年末の最後にネットで注文したウイスキーが届いた。グレンタレット・トリプルウッド。アメリカンオークのシェリー樽、ヨーロピアンオークのシェリー樽、バーボン樽で熟成した原種をヴァッティングした、シングルモルトスコッチウイスキー。グレンタレット蒸留所は、現在稼働しているスコットランド最古を誇る歴史ある蒸留所だが、二〇一九年、フランスのラリックグループに統合された。フランスを代表するクリスタルガラスメゾンであるラリック社によってボトルデザインも一新、それまでのボトルデザインも悪くなかったが、新デザインはスタイリッシュで現代的なものに生まれ変わった。言うまでもなく、ジャケ買いだ。

冷凍庫からクーラーボックスを取り出す。クーラーボックス内には大きな氷が収まっている。逆さにして中身を取り出す。氷塊の上下で色が分かれ、クーラーボックスの底に入っていた部分が白くなり、上部は透明になっている。水は、純粋な水から凍ってゆき、不純物は最後に凍る。そのことを理解していれば、自宅で透明な氷をつくることができる。通常の製氷機でつくった氷は大抵白っぽく濁った氷になってしまうため、ハイボールに使う氷は別途工夫してつくる必要があるのだ。三本刃アイスピックを使って、取り出した氷の透明な部分のみ削り出してゆく。削り出した氷を包丁でカットし、グラスに収まるサイズに調整する。今は包丁で直方体にするのでやっとだが、ゆくゆくは細かくカットを入れた氷をつくれるようになりたいと思う。カットした氷をトールグラスに入れる。音を立てずステアする。静寂と冷気がグラス内に浸透する。グレンタレットを注ぐ。多すぎず、少なすぎずの量を見極め、ボトルを素早く持ち上げる。バースプーンの背中をグラスの中の側面に常に這わせてステアする。一定の速度を保つ。ステアする手を止め、上に持ち上げる。少し遅れて、氷の回転が停止する。炭酸水を注ぐと妖精のダンスが鳴り響く。グラスの内側、下から上へ雪が降る。バースプーンで氷を上下させ、完成する。新年最初の一杯、悪くない出来に思えた。

私はその一杯に口をつけることなく、ただ眺めていた。時々揺さぶると、氷がカラカラと音を立てた。氷の音の向こう側から、スマートフォンの振動する音が聞こえた。一度ならず、幾度も振動を続けていた。姉からの着信だろうか、あるいは彼からかもしれない。私は想像する。姉は一体何を語るのだろう。別れた男といつの間にか復縁していて、結婚すると言い出すかもしれない。「あなたもたまには帰ったら?」と、説教をかまし始めるかもしれない。彼からの電話だったらどうだろう。お土産は何がほしいか聞いてくるかもしれない。「ずっと言い出せずにいたんだけど、僕たち別れよう」と切り出されるかもしれない。あるいは。

私は想像を中断する。ステアする手を止めるように。いずれ終わりが勝手に向こうからやってくるとは限らない。自分で設定しなければならない。たとえ今振動が鳴り止んだとしても、いつかまたやって来る。その繰り返しに、時々適切な句点を打ち、そのたびごとにひとつの完成を試みる。私は寝室へ行き未だ震え続けるスマートフォンを手に取り、リビングへ戻る。スマートフォンの画面をタップする。相手の名前が表示される。耳元へスマートフォンをかざし、伴って視界をあげると、シャチピと目があった。愛おしい瞳でこちらを見つめていた。

「もしもし」と向こうから聞こえた。

「もしもし」と私は言った。

「もしもし、私はシャチピ」

2023年8月27日公開

© 2023 一希 零

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