やっちまった神。

巣居けけ

小説

5,702文字

強烈な壁にぶち当たった時、その放浪人は必ずやってくる。

演歌歌手・吾間源三郎は第三収録室にて一人、苦悩の表情を大型マイクに向けていた。

それは新曲『抜かない境地』の収録において、自身の思い描いていた声色を上手く歌に乗せることができないという、歌手としては至極ありふれた、しかし歌手という生き物の頭を永遠に悩ませる巨大な課題によるものだった。

この第三収録室は巨大な正方形の一室だった。白塗りの防音壁に囲まれたこの空間は、今までの人生で『一人で部屋に居続ける』という状況が極端に少なかった源三郎にとって、慣れるだけで少なくはないの時間を必要とし、ようやく落ち着きを得た現在でも、しっかりとした孤独感は源三郎の精神を確実に蝕んでいた。

大きな湿ったため息が、大型マイクに吹きかかる。天井の円形照明からの白い光を反射し、重々しい黒光りを放つこの精密機械は、目の前の現役プロの歌声が通るのを今か今かと待っている。しかし今の源三郎は、とても楽曲の収録ができるような状態ではなかった。様々な箇所が錆びついてしまったロボットのように、身体を動かそうにも、動くことができなかった。

マイクや録音機器の電源を入れることすらできていなかった。すでに源三郎は、二時間という時間をため息と棒立ちに費やしてしまっていた。
「のお、おぬし。いつまでそうしてぼけっとしておるつもりなんじゃ?」

源三郎はその、後方からの声に驚かなかった。
「おい、おぬしは歌手なんじゃろう? さっさと歌わんか」

声は老人で、高くもなければ低くもない。混ぜすぎた納豆のようなねっとりとした声だったが、その突然現れた声に驚けるほどの体力は、源三郎には無かった。

やがて源三郎の後方に人の気配が現れた。背中がひりひりするような尖った気配だったので、流石の源三郎も本能で警戒心が逆立ったが、それでも振り向くことはせずにいた。そんな源三郎の脳内には、この正体不明の人物が人間ではなく、例えば死神のような存在なのではないかという憶測が浮かび上がっていた。そして、もし本当にその類の存在だとしたら、もうこのままどうすることもできない自分の命なんて、さっさと刈り取るなり、捕食するなり、どうにでもしてほしいと本心から願った。

だからこそ、その気配が近づいてきた時、源三郎の体内には熱い歓喜の感情が流れた。

しかし、気配は源三郎の背中を追い越して、源三郎の沈んでいる顔を覗きこんできた。

気配の正体はやはり老人だった。はげではあったが、鼻の下に生い茂っている灰色の髭が二本の立派な太い束として胸元にまで伸びていた。黒いシミが所々に見える白いシャツに、光をも吸収するほどの濃度を持つ黒色の長ズボンを着用。靴下の類は履いておらず、茶色い素足は空色のゴム製サンダルに守られていた。

ぬいぐるみのような、小さくも輝いている双眼。白目が殆ど無い黒い眼球が、源三郎の顔を視ていた。
「ワシはこの一室に取り憑いている、神のようなモンじゃ。とにかく聞けよ、若者よ」

源三郎は老人と目を合わせることをしなかった。視界の隅でマイクを捉えながら、焦点は床に有った。
「ワシはの、もう何十年もこの部屋に籠っておるが、この部屋に入り、おぬしのように何時間も過ごす人間の中でも、おぬしのように歌唱に打ち込むものもいれば、全く違う行為に打ち込む者もいるんじゃ。そんな『不届き者』の中でも、とびっきりに不届きだった奴らの話を、今おぬしにしようかの」

老人は、それでも語り始めた。
「だいたい、三年ほど前のことじゃ。いつものように部屋の隅で、姿を消して棒立ちをしていたワシの呆けた聴神経を、轟音が貫いたのじゃ。それは扉が開く音じゃった。しかしの、それが開閉の音であることに気が付いたのは、金色のシャツに真っ黒い長ズボンを着た金髪の男と、血のように赤いワンピースを着た茶髪の女が入ってきて、室内中央のマイク、ちょうどこれと同じマイクを、ワシのすぐ横に移動させている時じゃった。ワシは本当に驚いた。おぬしの歌声を聴いた時ほどではないが、本当に、本当に驚いたのじゃ。なにせその二人は、とても歌唱の心得があるようには見えんかった。さんざん話した通り、ワシはこの部屋に取り憑いて長い。歌ができる奴とできない奴の区別くらいはできる。そんなワシの目で見ても、やっぱり二人に歌の心得は無い。それどころか、音楽に関する知識があるかどうかも怪しいほどじゃった。さっきの轟音といい何かがおかしいと思ったワシは、両目をかっぴらいて二人を観察することにしたのじゃ。久々の珍客に心が躍っていたのは秘密じゃぞ? それでその二人はな、気色の悪いニヤニヤ笑いを続けながら、なんと部屋の照明を落としやがったんじゃ。ここでワシは一つ確信を得たんじゃ。この二人は歌手どころか、音楽に携わる人間ですらない。ならばどうしてここに居るのか。その答えはすぐに出た。それは二人のどちらかが、このスタジオのお偉いの親族か何かだからじゃ。いわゆるコネというやつを使って、スタジオで一番巨大で一番値段が高いこの部屋を押さえることに成功したのじゃ。しかし納得をしたワシは頭はそれでは終わらなかった。さらなる疑問に頭を悩ませたのじゃ。まさにさっきまでのおぬしのように、大きな壁にぶちあたったかのような感覚が、ワシの思考をぐちゃぐちゃにかき乱したのじゃ。

その疑問とは何なのか。それは、二人がこに来た理由とは? というものじゃ。この二人がコネであることはすでに確信しておるが、どうしてここを取ったのか。それがどうしてもわからんかったのじゃ。しかしその答えは、ワシが導き出さずとも向こうからやってきてくれた。ワシが熟考をしているうちに、二人はなんと服を脱ぎ始めたのじゃ。おぬしよ、精巧な思考に意識を集中させていたら、いきなり目の前に、凹凸の激しい女体が現れた際の心情を想像してみろ。それまで寸分の狂いすらも無く無事に平和に積み上げることができていたトランプタワーが、最後の最後で手元が狂い、一瞬で崩落。バラバラに重なり合うトランプの更地の前で独り、涙を流しながら発狂をする。当時のワシの脳内は、まさにそのようなめちゃくちゃな情緒じゃった。徐々に冷静さを取り戻していったワシは、ふと自分の陰茎に熱い血液が集結しておることに気が付いた。さらにそれと同時に、強く純粋な困惑に頭が支配されたのじゃ。どうしてこの二人は服を脱いだ? しかし、それの答えはすぐに出た。暗闇に包まれた防音対策済みの室内で、男女が衣服を脱ぎ捨てる。そう、性交じゃ。この二人は今まさに、人間のもっとも神秘的であると同時に、もっとも汚い行為に及ぼうとしておるのじゃ。ワシは自分の脳に歓喜と好奇の心が溢れ出ていくのを感じた。なにせ、人間の性交をこんなにも間地かで見ることができるだなんて、これっぽちも考えたことがなかったからのお。ワシは神として生きてもう長いが、自分が誰かと性交をしたことが無い。人間と神とは身体の構造が限りなく近いと聞く。なのでこの機会に、性交というものをしっかりと学び、いつかに訪れる自分の性交を良いものにしたいと意気込んだのじゃ。そう、まさにあの時のワシは、自分の性交を成功させるために他人の性交を観察しようとしていたのじゃ。……数分後には驚愕に続く驚愕で、観察どころではなくなってしまうということも知らずにのお……。

あの男の性欲は凄まじいものじゃった……。いま思い返しても、二の腕に鳥肌が立つほどじゃ。まさに、獣。性豪とは、あやつのような男のことを表す言葉なのじゃろうなあ。まず二人は正常位で二回果てた後に、座位で再びに二度果てておった。その後は騎乗位で一度したのじゃが、ワシはこれで二人の激しい性交が終わるモンだとばかりに思っておった。一抹の悲しさを抱えながらも、しかし激しさと欲のみで走り抜けていく行為には学ぶことも多かったな、と軽い振り返りのようなものをしておると、二人はなんと後背位で再び動き出したのじゃ。唖然としているワシの眼前では、肉と肉とが弾け合う乾いた音が鳴り響いておった。その時点でワシは、この二人の性欲が常人のそれではないことを悟ったのじゃ。そしてそんなワシの推測に答えるかのように、二人はそのまま後背位で三回、さらにその後に背面の騎乗位で一度果ててから、最後の〆と言わんばかりの座位で一度の絶頂を迎え、くたくたになりながら床に倒れ込んだのじゃ。ワシはもはや、勉強だのなんだのという感情が無かった。ただただ、感動をしておった。気付けば頬に涙が流れておったし、射精も二度や三度では収まらなかった。

だからこそワシは、その男の絶倫たる性欲を味わってみたいと思ってしまったのじゃ。貪ることしか頭にない男のあの巨根と、強靭な腰からくるピストンを一身に受け、限界をも超えるような絶頂体験をしてみたいと、心の底から思ってしまったのじゃ。おぬしよ、これが何を意味するのかがわかるか? つまるところワシは、まずあの女をひと筆で殺し、その後自分の姿を女に似せたのじゃ。暗闇のせいで完璧に真似ることができんかったが、男のおおよその好みは今までの行為の中でだいたい理解できていた。だから、そこだけはしっかりと再現した。これは自画自賛になってしまうが、変装は中々上手いものだったと思うのじゃ。なにせ、変装終了後にすぐに男の陰茎を舐めてみせると、男はすぐに飛びついてきたのだからなあ。そのまま流れるようにワシは挿入された。こちらの気持ちや体力のことなど一切考えていないような、本当に無理やりな挿入じゃった。経験が無いのでわからんが、おそらくされる側の強姦というものはこういうものなんじゃろうなと思った。まあ、その後すぐに強烈で素早いピストンが身体を襲ったもんだから、そんなチンケな思考など、すぐにどこかへぶっ飛んでしまったがのお。

男はワシのことを正常位で犯したのじゃが、正直に言うとワシは自分がどれほどの回数絶頂したのか、そして男がどれほどの回数絶頂したのかを覚えておらん。今でもしっかりと記憶に残っておることと言えば、あやつの巨根はすさまじく、挿入時は膣が裂けてしまうほどの激痛があったが、同時に脳が沸騰してしまいそうなほどの快楽がワシの身体にはあった。それから失神を何度か繰り返し、気づけばワシの膣は巨根から解放されておったのじゃ。

精液の臭いにまみれながら、呆けた頭で男のことを見上げていると、男は何かに気が付いたような顔をしながら発狂しおった。一瞬、ワシは男の気が狂ったのかと思った。いや、あの性欲はハナから狂ってはおるのじゃが、ついに知性にまで、それが到達してしまったのかと本気で考えた。しかし男の視線の先をよく見てみると、そこにはワシがさっきひと筆で殺した女の死体が転がっておるではないか! いいか、おぬしよ。神という存在は指に特殊な力を持っておるものじゃ。その力が具体的にどんなモノなのかは、その神の性格によるが、ワシの場合は指を線や図形、文字を描くようにひょいひょいと動かすと、その線通りの切れ込みを対象に与えることができるという、なんとも楽しげのある都合の良い力なんじゃ。やろうと思えばデカいビルなんかも一刀両断することができてしまうモンなんじゃ。そして男が見つめていた女の死体は、ちょうどそのワシのそんな力によって頭蓋骨が横にぱっくり割れておるんじゃ。まあワシがやったのだから当たり前ではあるのじゃが、目尻の位置でひと筆入れて、皮膚も頭蓋骨も脳すらも綺麗に切断されている女を見た男は急に泣き出しおっての、千鳥足で女に近づいていくんじゃ。全裸の巨漢がよたよた歩きで死んで久しい女に近づくのじゃ。ワシはそんな男の背中を見た時、なんとも滑稽というか、哀れな雰囲気を感じてしまっての、思わずその背の骨に沿って、ひと筆やってしまったのじゃ。音も派手さも無く綺麗にぱっくり割れていく肌。その奥に見える背骨も臓器も左右に割れて、まさに真の一刀両断で男は死んでしまったのじゃな。

さて、これらの話から何をおぬしに伝えたいのかというとな、まあ、頑張れ、ということじゃ。おぬしの顔は見たことがあるんじゃ。このスタジオには二年ほど前から室内に一台テレビが置かれることになったのじゃが、部屋を借りたというのにそればかりに夢中になってしまっている女のシンガーソングライターと共におぬしの事を知ったのじゃ。おぬしには才がある。こんな個室で悩みに明け暮れて、最後には思いつめた顔で全てをやめてしまうような器ではない。これから何十年もこの道を行き、何人もの若者をこちらの道に誘い込む。おぬしにはその使命を全うする義務と力がしっかりとある。だからまずは自分自身を信じ、そして腹から声を出すんじゃ。さすれば道は開けるし、いずれは自分が道を開かせる番になる。そうなった時、今までのワシの話が必ず役に立つ。おぬしが開くのは道だけではない。おぬしはきっと、好みの女の股も開き放題な未来に到達することができるはずじゃ」

神と名乗る半透明の人型実態は、最後に源三郎にサインをねだってから消えるようにどこかへと去ってしまった。

第三収録室に取り残された源三郎は自称神のひどく胡散臭く、しかしどこか現実味のある狂言を全て胸元にしまい込むと、大型マイクと改めて向かい合った。

悩みに押しつぶされてしまいそうだった数分前の自分には、この黒い物体が恐ろしく視えていた。これを通して録音をした音源は、自分というまだまだ三流の歌手に現実を叩きつけてくる。源三郎にとってマイクとは相棒ではなく、例えるなら同クラスに居る、何もしていないにも関わらずなぜか嫌がらせを続けてくるクラスメイトのような存在だった。

しかし、すでにそんな認識は過去のものだった。源三郎はそのいじめっ子と対等に殴り合う力と、勇気を手にしていた。その力の源は胸元にあった。自称神のヘンテコな話によって、心構えが根っこの部分から変動した源三郎に、精神的な敵はもう居なかった。

マイクと録音機器の電源を入れる。ヘッドフォンを付けて、流れてくるイントロに身を任せる。

そして源三郎は息を吸った。

2022年4月1日公開

© 2022 巣居けけ

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