05 ホワイトノイズ

EOSOPHOBIA(第5話)

篠乃崎碧海

小説

16,870文字

あのとき名前を訊いておけばよかった。次に会ったときには、もうその猶予はないかもしれないのに。

 

 一定の状況下では、銃撃は唯一の実際的な安楽死の手段である。そう古い本に書いてあった。今もそれがまかり通るかは知らない。そもそも「一定の状況下」が何を指すのかさえ知らない。

 ターゲットが動いた。自然に歩いているように見えるが、あれは自身が何者かに狙われていることをわかっている動きだ。おそらく元軍人か、現役の傭兵か何かだろう。もらった資料には出自不明とあったが、動きを見ていればプロかそうでないかくらいは大体わかる。一度プロの仕事場についていって間近で見学したことがあるが、あんなにわかりやすい癖はない。自然に爪を隠せるようになって初めて、世界のどこでも通用するスキルと言えるのだと聞いたことがある。

 あれは間違いなく戦闘の経験がある。しかし寄る年波には勝てないのか、それとも経験を過信しているのか、どうも視野が狭くなっているようだった。

 こんなものか、とがっかりする。久々の仕事だと楽しみにしてきたのに、お父さんは僕にあまり期待していないのだろうか。

 

「きにぃらないものは ぜンぶ うつてしまぇ」

 

 ふいに何かが耳元で喚いた。大きくて、責めたてるかのような声。実際には存在しないと最近わかってきたが、最初のうちは本当に怒鳴られているのかと思った。これは脳の作り出した幻だ。誰かの声に似ているように思うが、誰なのかはっきりしない。

 いつからか世界は随分と騒がしくなった。病院に引き籠もるようになったあたりから、僕の中から聞こえる声がうるさくなっていって、反対に周りの音はどんどん聞こえなくなっていった。幻はいつも左側から話しかけてくる。右側はまだかろうじて外に開かれているけれど、これもじきに聞こえなくなるのだろう。不便は感じるかもしれないが、兄さんの声さえ聞こえていれば構わない。兄さんの声は耳で聞き取れなくても内側から聞けるから、耳元の騒音は障害にならない。

 

 己の身が危ういと感じているとき、軍隊に所属したことのある人間は大抵下より上を警戒する。特にこんなビルの狭間では、頭上からの狙撃を最も警戒する。軍人だからこその癖であり、隙だ。

 ヒトは全方位を一度に見ることはできない。だからこそ集団で行動して視野を補い合うわけだが、どうやらあのターゲットに仲間はいないらしかった。彼の敗因は己の技量不足ではなく、仲間を作る能力の欠如かもしれないなと思う。

 真正面からいきなり飛び出してきた銃口を視認してから、自身の死を悟るまでの間はどれくらいだろう。第二次世界大戦の折にビルマにいたという元軍人の話を聞いたことがあるが、体感ではコンマ数秒だという。とはいえこの男は生き残った側なので、いい加減なことを言っているだろうことは想像に難くない。

 驚愕に目を見開いた顔より先を見たことがない。彼等の驚きは十分に理解できる。小学生くらいの身長しかない人影が突然目の前に飛び出してきてゼロ距離で体ごと突っ込んできたら、おまけに両手で構えても持て余すサイズの(これは僕の手が小さすぎるせいだ)拳銃を懐に抱えて――咄嗟に反応できる人間は限られるだろう。誰だって自分の想像力を超える事態にはすぐに対応できない。

 ひどい苦痛と恐怖を与える手段で命を奪うことに、罪悪感がないわけではない。できることなら遠距離から一発、何が起こったのかわからないままに終わらせてあげる方がターゲットのためにはいい。しかしこちらは前準備から死体の回収まで全てひとりでやらなくてはならないわけで、とにかく体力のない、リミットつきの身には荷が重い。目の前で絶命してくれた方が後処理が楽だ。

 とはいえ気になるものは気になる。果たして彼等は安らかに逝けただろうか――と。

 

 倒れた男を見下ろす。資料にあったのと同じ顔が転がっている。一度だけ不注意から全然違う人間を撃ち殺してしまったことがあるので、それ以来確認は徹底することにしている。今回は間違っていなさそうだった。

 死体の目を閉じてやるのは優しさではない。単純に濁った眼に見つめられ続けるのが気持ち悪いからだ。兄さんは死体に触れることはおろか、近づくことさえ嫌だと言っていた。たぶんそれが普通の反応だ。幸いにも僕はそこまで気にはならない。気にしていたらこんな仕事はできない。が、このゼラチンのような目だけはどうにも落ち着かなかった。

 以前流し読みしたカルト的な雑誌に、人は死後も記憶や思考を蓄積し続けていて、生まれ変わった次の人生にそれを引き継ぐと書いてあった。眉唾もののそれを信じたわけではないが、絶対に間違いだとも言い切れないなと思った。死体となった後もまなこを開き続けていたら、もしかしたら犯人である僕の姿形を克明に記憶して、さっそく生まれ変わって復讐にきてしまうかもしれない。今閉ざしておけば、この死体に残る僕の記憶は僅かで済むはずだ。

 死体はそれ専門の解体屋がいるので、推定七十キログラムのこの物体をどうやってこの世からきれいさっぱり消し去るかまでは考えなくていい。しかし解体屋のところまで運搬するのは僕の仕事なので、なるべく移動させやすい殺し方をする必要があった。絶命した人間の四肢を切断する瞬間に至上の性的興奮を覚えるというシリアルキラーと話したことがあるが、ああいうのはいただけない。確かにコンパクトにはなるが、血液の処理が面倒だからだ。おまけに力も工具も時間も要る。そんな悠長なことをしている余裕はなかった。

 僕のやり方はこうだった。まずは死体の衣服の一部を裂き、射入口と射出口に切れ端を詰め込んでこれ以上の流血をできるだけ防ぐ。一番いいのは貫通しないように撃つことだが、これはなかなか難しい。下手に狙って殺しきれないよりは、多少面倒な後処理を引き受ける方がよかった。

 次に死体をあらかじめ目星をつけておいた路地や廃屋に引きずり込んで一時的に隠す。落ち着いて襲撃現場の痕跡を消して、最後に大きい楽器ケースに死体を詰め込んで完了。慣れてしまえば、三十分もあれば充分な仕事ができる。

「ッは、は……はぁっ、は……」

 三十分もあれば済む仕事に、今日はもう四十五分は遣っている。現場の痕跡を消している最中にすっかり息が切れてしまった。休み休みやらないと気持ち悪くなるので、ひとつやっては深呼吸し、またひとつやってはしゃがみこんで息を整え、という有様だった。

 日に日に昼の時間が長くなっていくこの頃は、西日がいつまでも身体を焼く。生まれつきほとんどメラニン色素が生合成されないので、日の光は毒でしかない。本当はすっかり夜になるまで外に出たくはないのだが、暗がりで作戦を遂行するのには日光に曝される以上に様々なリスクが伴うので、仕方なくなるべく日没に近い時間を選んでいた。これなら全て終わらせて帰る頃には夜になっている。

 本来はコントラバスという楽器をしまうために作られたらしいケースに、これまでいくつの物言わぬ体を詰め込んできただろう。

 コントラバスという楽器を触ったこともなければ見たこともないが、ケースの使い方だけはよく知っている。付属品をしまうためのポケットがたくさんついているから予備の弾薬や小物を収納しておけるし、ケース自体も頑丈で中身がきちんと固定できる。なにより底にキャスターがついているのがよかった。一メートルと三十センチほどしかない身長と、半日と保たない体力でも、人ひとり分の重さを然程苦労せず持ち運べる。

 パッキングを終えて、夏でも冬でも万年着古しているコートを羽織れば、どこからどう見てもスラム街で演奏する貧乏楽団の一員だ。このあたりは警官も滅多に通りかからないから、見咎められる心配はほとんどない。仮に呼び止められたとしても、言葉の通じないふりをすれば大抵はやり過ごせた。たまにはこの見た目も役に立つ。それでもだめなら、残念ながらここに解体屋を呼ぶことになる。ケースに死体ふたつは入らないからだ。

 スラム街には本物の楽団がいる。楽団と呼べるほどの人数はいないが、いつも数人で集まって楽器を小型のアンプに繋いで、この国の歌謡曲ではない、やたらとテンポの速くてやかましい音楽を奏でている。

 本物の彼等を知っている者が見たら、僕は偽物だとすぐバレてしまうだろう。この間街で見かけた少年達はもっと楽しそうだった。僕や兄さんよりもずっと貧乏で不潔だったけれど、何故か幸せそうだった。楽器と仲間の他には何ひとつ持っていないのに、どうしてあんな顔で笑えるのかよくわからなかった。

「ッけほ、げほッぜほ、ぜぅッ…っ、」

 間が悪いことに、運んでいる途中に咳の発作が起きた。久々の外の空気が、ひと月前に肺炎を起こしてようやく治ったばかりの呼吸器に悪さをしているのだ。

 この街に空気の良いところなんて存在しない。親が死んでから、兄さんは僕を少しでも街の汚染から遠ざけようとして、中央の高層ビルの上から数えて三番目のところに部屋を借りた。けれど効果はあまりなくて、結局僕は病院で暮らしている。兄さんは兄さんで日当たりの良すぎる部屋に辟易して、窓という窓を重い遮光カーテンで覆ってしまった。

 僕さえ手放せば兄さんは自由になれるのに、そのつもりは毛頭ないらしい。とても頭が良い兄さんのことだから、どうしたら自分が一番楽になれるかはよくわかっているはずなのに、そこだけはどうしてか論理的思考が働かないらしい。だから早く死んであげる他に、僕が兄さんを解放してあげられる術はない。

 少し咳き込みすぎた。足下がふわふわと覚束なくなって、どうしようもなくその場にしゃがみ込んだ。背中にケースの重みがのしかかる。見れば、白っぽい視界の先に影が長く真っ直ぐに伸びていた。

 目的地まではまだまだ距離がある。このあたりの地区はかつてゴミの不法投棄が原因でよくない感染症が発生したらしく、住民は逃げ出し今でも近寄る人は滅多にいない。落ち着くまで座っていても問題はないはずだ。僕の到着を待っているはずの解体屋は気を揉んでいるかもしれないが、苦しくて動けないのだから仕方がない。

 

「大丈夫か」

 ふいに声が聞こえた。軽い貧血でぼうっとしていた脳にも、それははっきりと落ちてきた。

 反射的に声のした方を見た。すぐ右の路地の中、十五メートルほど離れたところに人影があった。

 油断した。こんなに接近されるまで、おまけに声をかけられるまで気配に気づかなかった。駅や広場でもあるまいし、こんなところで声をかけてくる人間が無害なわけがない。

 人影は距離を縮めようとはしない。警戒しているのだろう。黙っているともう一度、大丈夫か、と声を発した。紛れもなく男の声をしていた。

 死体を運んでいる手前、下手に関わるわけにもいかない。しかし嗅覚の良い人間なら血の臭いに気づくかもしれない。間の悪いことに、風は路地の方へと流れている。

 不幸な目撃者として消してしまおうか。そんな思いでコートの下の護身用拳銃に手を伸ばし、そっと立ち上がった。目を上げた瞬間に視界が眩んで、思わずよろめいた。

「撃つな。別に警察に突き出そうってわけじゃない」

 声の主はこちらが銃を持っているとわかっている。まだ銃身すら見せてもいないのに、一瞬の些細な動きでそうと察したのだ。やはりたまたま通りかかった一般人などではない。もしや同業者だろうか。それならなおのこと悪い。

 眩暈がひどい。咳までぶり返して、崩れるようにへたり込んだ。よくわからないが動けるうちにとりあえず殺しておいた方がいいかもしれない。……いやもう手遅れかも。

 動けない。気持ち悪い。もう全てがどうでもいい、そんな思いが狭窄した胸を満たした。

「こんなところで倒れるとロクな目に遭わないぞ」

 何者かも知れない男の声は不思議と優しかった。口調は素っ気ないが、少なくとも敵意はないと思えた。

 さり、と砂っぽい地面を擦る足音が近づいてきて、伸びた影の縁が触れ合った。

「ほら、これ」

 目の前に骨張った手が差し出された。小さな瓶がひとつ握られている。中には白くて丸いものが半分くらいまで入っていた。

「咳止めだ」

 何を言っているのかわからない。そんな思いで瓶を差し出した男を呆然と見上げた。

 男は微かに笑っていた。斜めから差す西日と、眩んだ視界のせいではっきりとしないが、横髪に半ば隠れた瞳に敵意は感じられない。それが一層不気味で、益々どうしたらいいのかわからなくなった。少なくとも殺す機会を失ったことだけは確かだった。

 こちらの動揺を汲み取ってか、男は手を一度引っ込めた。目の前でコルク栓を取ると、手本でも見せるかのように自らの手のひらに中身をひとつ転がして、そのまま飲み込んでみせた。

「毒でもドラッグでもない。無免許だが腕は確かな医者のお墨付き」

 もう一度目の前に差し出された瓶をおずおずと受け取ると、男は満足したように頷いて、それから少し距離を取った。影の縁は再び離れて、間には夕焼けの橙が差した。

「それ、残念ながら持続性は期待できない。あまり効かないからと飲み過ぎると、副作用で一晩中吐き続ける羽目になるから程々にしておけよ」

 付け加えるように男は言うと、そのまま何事もなかったかのように路地の方へと踵を返した。

「……どうして」

 やっと声が出た。突然の出来事に混乱しきった脳みそからどうにか取り出した言葉はあまりに単純で、自分でも馬鹿らしくなるほどだった。

「……他人事に思えなかったから、かな」

 少しの間があってから、男は振り返らずにそう答えた。宵闇の迫る、ぼやけた光の中に淡い色の髪がなびいている。自分と同じ、色素の薄い髪を持っているとようやく気がついた。

「それ、僕と同じ?」

「どうだろうな」

 男にはそれ以上関わり合いを持つ気がないようだった。

「そのお荷物、傷む前にどうにかした方がいい。持っていくあてはあるんだろ?」

 やはり気づいていたのか。見たところ人を殺めそうな人間には思えなかったが、僕も他人のことは言えない。誰しもに事情があるし、人は見かけによらないのだ。

 きっと彼も、明るい時間と夜の闇の狭間を縫って生きる人なのだろう。そうでなければ、この手の中に残った小さな優しさに説明がつかない。

2022年3月21日公開

作品集『EOSOPHOBIA』第5話 (全9話)

© 2022 篠乃崎碧海

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