04 キルアウト

azure malin moon(第4話)

篠乃崎碧海

小説

19,190文字

信頼と盲目は紙一重。 扨、嘘吐きは誰だ?

 

 混沌が過ぎる、と人は言った。何もかもを飲み込み過ぎてはちきれんばかりになったこの街は、最早ぱちんと弾けて消える以外では正しくなれないのだと。

 無計画に無秩序に作られた建物、それらの間に偶発的にできた隙間を道と呼んだ結果、どこへ向かうためでもない人の流れと生活が生まれた場。個が集まって埃色になった、ここはそんな街だった。誰かにとっては人生のいっとき佇むだけの流浪の宿、または金を稼ぐためのビジネスの場、または行き止まり、終の住処。誰もが他人に興味がなく、己の命を繋ぐことだけに必死で、それゆえ悪意も痛みもなく自分以外の存在を蔑ろにできた。

 ここで生きていく他はないと、誰もがわかっている。日の差さない路地裏で死に場所を見つけ損なった猫のように果てるか、誰かに後ろから一瞬のうちに奪われるのを無意識の底で期待するか。あるいはいつの日にか、街とともに粛清されまっさらに均されるのをただ傍観して待つか。「いつでも出ていける」なんて歯触りの良い言葉は霧の向こうの幻想だ。

そして自分もまた、妄執に蝕まれたうちのひとりだった。この人生は決して特別ではない。特別だと信じられた愚かで美しい若さはとうに失われてしまった。尤も、それさえも幻であったのかもしれないが。

 再開発によって建てられた高層ビルの前で足を止めた。見上げれば、航空障害灯の赤い光が霞んで浮かんでいる。その向こうにはやはり同じように霞んだ白っぽい夜が、狭い空を均等に塗り潰していた。

 たった二十五階建てのビルを「高層」と呼んでありがたがるくらいにこの国は貧しい。平和で民主的な経済的先進国家を造るという立派な建前を掲げさせられ高揚させられ、高みの見物を決め込む勢力に精神性までも支配されたこの国の人間に未来はない。本物の民主主義に触れる機会ごと奪われて、貧しいままで搾取され続ける。

――あの人はいつも苛立ち混じりにそう吐き出しては、一日につき一つ、ときには二つ煙草の空き箱をこの世に生み出していた。

 大通りのネオンの煌めきに押され、路地は一層暗く沈んで見える。この街は国の縮図のようなものだ。どんなにきらびやかに取り繕ったところで、この闇が消えない限りは何も変わらない。

 暗がりでしか生きられない人はどうする? とふと思った。清浄な光に呑まれて消えるか、その光が生んだ新たな影に身を潜めるか。どちらにせよ碌なものではない。

 一歩踏み出した足が、転がっていた何かを蹴飛ばした。カシャンと儚い音を立ててぬるいアルコールの匂いが漂う。夜目は利く方だから、踏み出す直前にそこに物体があることには気づいていた。つまらない破壊衝動に一瞬呑まれただけだ。

 ビル風でうるさくはためく朽ちたシャッターの並びに身を隠すように、重い鉄製のドアがひとつ。鍵はかかっていないが、人を拒絶する気配に満ちていた。このドアにだけは低俗なチラシも悪趣味な落描きもなく、まるで別世界への入り口のようにも見える。ここが誰の所有物件なのかを知る者は、徒に手を出そうなどとは考えない。最悪落描きが消されるより先に描いた腕がなくなるからだ。

 ドアのすぐ下に転がっていた数本の吸い殻を靴先で水溜りに追いやって、蒼月は冷え切ったドアノブに手をかけた。

 鉄扉の先は地下へと続いている。

 

 

「よう、久々だな」

 いやに上機嫌な男は、親しい友に再会したかのような気軽さで出迎えた。

「どうも」

「相変わらずつれない奴だ」男はつまらなさそうに言う。

 はなしまおり。七澤の次期組長候補のうちのひとりである呉山圭の右腕的存在で、これまで特段目立つこともなく地位ももう少し下だったはずだが、跡目争いが激化するにつれその名をよく聞くようになった。特に腕っぷしが光るわけでも思考力が優れているというわけでもないが、潮目を読む勘だけは鋭いようで、呉山の野心に上手いこと乗っかり右腕としての地位を確かなものにしていた。

 花嶋はまだ二十代半ば、仮にこのまま呉山が次期組長となれば異例の若さで幹部入りすることになる。そうなれば間違いなく組全体の新陳代謝の先頭に立つ存在になるだろう。

 どこからどう見ても野心と虚栄心の塊、といった風の幹部連中の中では、花嶋は悪く言えば目立たない。しかしこの男には何かがあると感じていた。この先彼が組織の中枢に切り込んだら、これまでになかった何かが起きる。それがこちらにとって益となるか厄となるかまではわからなかった。

 

 階段を下りきった先にはもう一つ鉄扉がある。特に防音というわけでもないが、地上の扉と合わせて閉ざせば中で起きた大抵のことは有耶無耶にできる、そういうつくりだ。

 扉はすでに開け放たれていた。どうぞ、と花嶋は芝居がかった様子で奥を指し示す。

 十畳ほどの殺風景な真四角の部屋。壁はコンクリートのまま、床には足音を殺すためにか古ぼけたカーペットが敷き詰められている。中央には赤いクロスの敷かれた単脚の丸テーブルがひとつ。その上には見覚えのあるようなないようなラベルのワインボトルがひとつとグラスがふたつ、整然と置かれていた。

 家具の他に遮蔽物はない。応接室として使われるのと拷問部屋として使われるの、どちらが多いだろうか。そんなどうしようもないことをふと考える。――今日はどちらだろうか、とも。

「お前、最近はどこを拠点にしてるんだ? 夏頃に事務所を移しただろ」

 ったく、気がついたら煙みたいに消えてやがる。花嶋は不機嫌そうに言った。

「駅の南側」

 訊かれもしないうちから懇切丁寧に教えてやる理由があるかよ、と思いながらも答える。

「あのドミノ倒しみたいな掃き溜めか? それなりに金は持ってるくせに、なんでそんなところばかり選ぶ? もっとまともなところに住めるだろ」

「無駄に目立っても面倒ばかりが増えていくだけでね。前の事務所は確かに住み心地は悪くなかったが、漏電してボヤ騒ぎが起きた」

「放火だろ、それ」

 花嶋は嬉しそうに笑う。人が恨みを買っているのが楽しくて仕方がないのか、それとも犯人に心当たりがあるのか。どうでもいい、と思う。

「焼け死ぬのは勘弁願いたいが、事務所は消えたところで別に大して困りはしない。元々どこにいようと同じだ」

「全く羨ましい限りだよ、全てその脳味噌に詰め込んでおけるってのは」

 そうかもな、とぞんざいに返してやる。

 留めておける反面簡単に忘れることもできないというのがどれほどの苦痛を生むかなど、この男にはきっと生涯想像もできないだろう。

 

「ついに神津を捨ててうちにつく気になってくれたのか?」

 お前から声をかけてくるなんて珍しい、と花嶋は言った。声に隠しきれぬ詮索の色が滲んでいる。

「いいや、たまにはお得意様にサービスして差し上げようかと思っただけだ。期待させたなら悪いね」

「よく言う」

 花嶋はテーブルの上のワインボトルを手に取った。やけに機嫌よく、慣れた手つきでオープナーを操る。

「味にはうるさい方か?」

「別に。特に拘りはない」

「訊いておいてなんだが、正直俺もブランドにそこまで興味はない。まあ、呉山ボスがグルメだから付き合ううちにわかるようになっていったけどな」

 どこそこのワインだと花嶋は説明する。産地の話をしているのはわかるが、興味がないのでそれがどれほどの価値を持つのかわかったところで驚きもない。第一、聞かされたところで味が変わるわけでもない。

 

“冷笑家とは何か? あらゆるものの値段を知りながら、本当の値打ちを何ひとつ知らない者のことだ”

 

 ふといつかの声が蘇る。あの人はそういうことにはうるさかった。半分無理矢理に躾けられてきたおかげで、それが味覚に合うか合わないかは別として、世間一般で値打ちのあるものとされるかどうかは判断できる。

 あの人の美学は理解できなかった。なんであれ胃に落としてしまえば同じことだ、と思う。元々興味がない上に最近は薬のせいで味覚がいかれてしまって、何を口にしても同じような味しかしないから益々どうでもいい。

 美しい真紅がグラスに注がれる。予想通り、それは高級な味がした。

 わざわざもてなすほどの利が向こうにあるとは思えないが、と僅かな違和がよぎって、ふた口ほど頂いてからそっとグラスを置く。花嶋はそれをじっと見ていた。

「三科の孫娘なんかに手を出さなくても、三科派はいずれあんたのボスと懇ろにならざるを得なくなる。無意味なことをしてるって忠告にきてやった」

 恐らく相手は情報を与えられるだけではなく、何らかの行動を起こすつもりでこの場を設けている。

 先手を打たれるのは好きじゃない。蒼月は進んで切り出した。

「流石有能な情報屋、うちが今一番敏感になってるところに真っ正面から首を突っ込んでくるとは」

 ほう、と花嶋は感心したように目を細める。

「その度胸、部外者にしておくのは本当に惜しい」

「俺はどこにもつかない」やんわり断ると、花嶋はわかってる、とばかりに首を振った。

「悲しいかな、知っての通りうちのボスは現組長に疎まれていてね。組長は全くわかってない、呉山圭がどれだけ七澤の血を引くに相応しいかを」

 妾の子だからなんだっていうんだ。感情もあらわに吐き捨てた花嶋に、この男にも生まれで差別されてきた過去があるのだろうか、と思う。

「父親からの寵愛、それがない以上、たとえ不本意でも利害が一致する者同士助け合わなきゃならない。手始めに急進勢力を潰して確かな実力を示したい呉山と、柳井のバカ息子が好き勝手してるのをどうにかしたいが人員的なパワーに欠ける三科は気が合うというわけだ。三科が手引きして呉山が手を下せばいい。見返りは互いの永遠の繁栄と、クソみてえな海外勢力の排除。三科の孫娘はそのちょうどいいかすがいになる」

 もっと飲めよ、と花嶋は饒舌なままに大して減ってもいないグラスにワインを注ぎ足した。

仄暗い地下室に赤が揺れる。

「甘いな。自らの目的を果たした暁には、三科はお前らを容赦なく潰しにかかるだろう」

「それはどうかな」

「三科は七澤相手に抗争は起こさないだろうが、次期狙いの下部組織ひとつ程度なら造作もない。あれは確かに時代遅れだが、銃後の混乱期を生き延びてきた胆力のある組織だ。甘く見てると喰われる」

 くく、と花嶋は昏い目をして笑った。

「あいつらはいまだ戦争に敗けたまま、プライドをズタズタにされたままだ。精神的に敗北してる奴らにこれ以上の上昇はない。反面、俺達はどんな手段だって選ぶ。負けたままで甘んじて受け入れるのは腰抜け以下だ」

 彼等がそう簡単に退かないであろうことはわかりきっていた。部外者の情報屋に諭されてはいそうですかと引き下がるくらいなら、そもそもこんな事態にはなっていない。

 説得しにきたわけではない。頭の隅を掠める程度でいい、危機感を覚えさせたら今はそれで充分だった。一度芽生えた懸念はそう簡単には晴れない。蒔いた種はそう遠くないうちにしっかりと根を張り枝葉を伸ばすだろう。

「三科はそんなに甘くない。今のままでは負けるのはお前達だ。根拠ならいくらでも示せる」

 呉山側から三科との繋がりを薄めてくれさえすれば、近づきすぎた両者の距離は自然と元に戻るだろう。三科の方が遥かに冷静だ。

「今は手を引け。無駄な混乱は利益をもたらさない、人が死ぬだけだ」

 

「……なるほど」

 沈黙の終わりは思っていたよりも早く訪れた。

 花嶋が顔を上げる。その目にぞっとするような光が灯っているのを蒼月は見た。

「貴重な忠告をありがとう」

 花嶋は笑う。

「これではっきりした」

 音もなく花嶋は右手を前に伸ばした。その手には鈍色の拳銃が握られていた。

「情報屋が三科派についたってタレコミは本当だったか。残念だ」

 まさかとは思ったが、たまには根拠なく信じてみるものだな。自らの勘の正しさを誇るかのように、花嶋は満足気に呟く。

「何度も言わせるな、俺はどこにもつかない。三科にも、あんたらにも」

 ゆっくりと立ち上がる。銃口はぴたりとついてきた。この距離で撃たれたらまず避けられない。

 刺激しないよう、片足で椅子を僅かに後ろに遠ざける。無駄な足掻きだとばかりに花嶋は声を上げて笑った。

「お前は本当に嘘が上手いな、危うく騙されるところだった。ああ、別に怒ってるわけじゃない。長年求めてきた探し人の手がかりを掴めるとなれば、心変わりするのも無理はないさ」

 神経を逆撫でる同情と憐憫。冷静さを失わせるためのあからさまな挑発。わかってはいても肚の奥に熱が溜まるのを感じる。

「最近も似たような話を聞いたばっかりだ、流行ってるのか?」

「死に損ないの情報屋はある人を探して復讐するのが目的だ、最愛の母親を惨たらしく殺した犯人を見つけ出してその手でブチ殺してやろうとしてるってなぁ」

 どいつもこいつも人の内情やら過去やらを得意げに切り売りしやがって。

「美しくも哀しき愛ってか。健気じゃねえか、なぁ?」

 その反応を見るに本当なんだな。銃口を逸らさず花嶋は言う。

「復讐を遂げる前に母親と同じ道を辿りたくなければ、今すぐうちにつけ。それで何も聞かなかったことにしてやる」

 その瞳は愉悦に染まりきっている。焦点が微妙に定まっていない。黒目が細かく震えて、それに合わせて引鉄に触れる指先も揺れている。

 他人の命を掌の上で転がしている興奮? ――いいや違う、ドラッグをやっているのか。それなら妙に上機嫌だったのも納得だ。

 ならば、醒める前に。賭けるなら今だ。

 

 助走なく、引いた片足で椅子を蹴り倒して、反動を使って前へ。けたたましい音が地下室に響く。

 花嶋は目を見開いた。そりゃそうだろう、銃を構えてる奴に自ら近づいてくるなんて普通は考えない。

 体重を支えきってくれることに賭けて、テーブルの端を掴んだ右手を支点に体を半回転させる。単脚のテーブルは案外丈夫で、派手に揺れただけでその場からは動かなかった。

 正面を避けて、斜め前方から一気に距離を詰める。どんな形であれ、引鉄を引かれるより先にこちらの一撃を届かせることができれば、勝機は残される。

 拳銃を握る腕ごと蹴り飛ばそうとしたが、まだ体半分ほど遠い。あと一歩が足りない。

 それならばと袖の内側に仕込んだダガーを掴む。中指の先に革張りの柄の感覚。手繰り寄せるより早く目の端に銃口の闇が掠めた。

 間に合わない――思考するより先に勘だけで身を捻る。

カシュッ、と小さな破裂音が耳の横を走った。

(PSSか――!) 

 特徴的な音を聞いた瞬間、背筋を這う予感が確信に変わった。

 特殊自動装填拳銃――通称PSS。KGB製の暗殺用拳銃で、ピストンを仕込んだ特殊弾薬を使うことで、銃本体にサイレンサーを取りつけることなく消音弾薬を発射することができる。殺傷威力を持つのは近距離に限定されるが、密室で面倒な相手を秘密裏に消す――例えば今回のような場面になら最適だ。

 わざわざこんなものまで用意して出迎える理由などひとつしかない。花嶋は初めから俺を消すつもりでこの場を設けたのだ。

 それならば手加減する理由もない。

 

 音より先に動いたが、右の肩口を熱が掠めていた。

 痛覚は後からくる。意識の何割かをそちらに持っていかれたが、それくらいでは体に染みついた動きは止まらない。

 撃ってくれたおかげで一歩を詰める時間が稼げた。手のひらに落とし込んだダガーを勢いそのまま下から振りかぶって、相手の肩を抉るように切り裂く。これでおあいこだ。衝撃で銃を取り落としてくれることを期待したが、花嶋はしぶとかった。くそったれ、と口の中で呟きながら、逆持ちした柄で叩き落とす。

 どくどくと早打ちする心拍がうるさい。右肩から溢れ出した血が指先まで滴っている。骨も神経も無事だし動かすのに支障があるほど痛みもないが、滑るからこれでは使い物にならない。掠っただけのわりには出血がひどい。常用している薬のせいで止まりにくいのは本当だったか、と他人事のように思う。

「ッ、は」

――ふいに胸の奥が不快に震えて、嫌な汗が背を伝った。

 深く息を吸えない。血を流したからではなく、急に動いた体に心臓がついていけないせいだ。一度主張を始めた拍動は簡単には落ち着かず、じわりと深い痛みを伴って胸を締めつけてくる。

 しかしそんなことに構っている余裕はない。動けるかではない、動かねば死ぬだけだ。

 まだだ、まだ動ける死ねない。刻み込むように、祈るように口には出さず呟いた。

 間合いに入り込めさえすれば、体術では勝る自信があった。わざわざ苦労してまで暗殺用拳銃を手に入れてくるような奴に負ける気がしない。

 手首をとって体幹を崩し、ガラ空きになった胴に突くような蹴りを一発。立て直す余裕を与えず相手の体重も利用して背中から引き倒し、そのまま片手と膝で押さえ込む。体を上手く使えば、力づくでなくとも動きは止められる。

 

「なぁ、情報屋。犯人を追い詰めたらどうやって殺してやりたい?」

 敢えて痛みを強く感じる部位を狙って打撃を与えたはずだが、花嶋は余裕の表情で口を開いた。

「母親がやられたのと同じように、高所から突き落とすか? それとももっと滅茶苦茶にしてやるか」

 その顔には快楽さえ窺える。ドラッグのせいで痛覚や恐怖心がすっかりトんでいるらしい。

「さあな」

 戯言に答えてやる義理などない。

「お前こそどうする? 呉山を呼び出して命乞いでもするか――」

 ふいに前触れもなく、ぐらりと視界が回った。

粗悪な酒を飲み過ぎたときのような悪酔い感がする。手足の感覚が遠くなって、すぐに胃を刺すような吐き気が襲った。

「お……前、盛った、な」

 瞬きを繰り返す。視界一面に妙な色が跳ねている。

「遅ぇよ。あんまりに平気な顔してるから化け物かと思った」

 花嶋は笑う。トべるだろ、これ。笑い声が頭蓋に刺さって反響する。黙れ、と口にしたつもりだったが、縺れた息を吐き出すので精一杯だった。

 眩暈がひどい。空気が水のように重い。平衡感覚が失われて力が抜けた一瞬を、花嶋は見逃さなかった。

 ふいに膝を跳ね上げてきたのを躱せずに、もろに食らってしまった。堪らず身を折って倒れたところに追撃が降ってくる。

「ッケホ、か、ハ……ッ」

 押し倒される勢いそのまま片足をかけられ、衝撃で息が詰まる。ただの力技だ、あしらう術はいくらでもあるはずだった――指先をわずか動かすのさえ苦しい酸欠状態でさえなければ。

 花嶋は無言で体重をかける。深いところで不穏な心拍がひとつ飛んだ。

「ッが…!っぐ、ァ……!!」

 靴先を捩じ込まれた肋が軋む。ぎしりとひずむ音まで聞こえそうな激痛に、不随意に身体が痙攣する。

 末端の感覚がない。ただ痛みだけが全身を支配していた。

「誰の差し金だ? 全部吐け、それでチャラにしてやるよ。命の値段としては安いもんだろ?」

 朦朧として聞こえていないとでも思ったのか、花嶋は余裕の態度でしゃがみこんで顔を近づけると、嫌味ったらしく囁いた。血の臭いに混ざって、煙草の残滓がかすかに鼻先を掠めた。

 

“復讐したいか? 滅茶苦茶にしてやりたいか? ならば今は生きることだ。たとえ無様に地を這おうと、機を待ち、窺い、見極めろ。研ぎ澄ませた刃を振り下ろすべき時を見誤るな”

 

――そうなんでも思い通りになると思うなよ、馬鹿が。

「……割に、合わ……ねぇ、な」

 瞬間、衝撃で視界が消し飛んだ。

 強かに胸を蹴られ、横様に倒れて激しく咳き込む。これは肋何本かいったな、と理解する間もなく意識が遠のいた。

「じゃあ死ねよ」

 花嶋の手が首にかかる。馬鹿なのか、ご丁寧にも傷ついた右腕で。彼の腕は血に塗れていて、滴る雫が次々と顔に落ちた。

 絞められる前から碌に呼吸はできていなかったが、もう僅かも通らない。

 ここまでか。抵抗の意思を嘲笑うかのように視界が欠けていく。ドラッグで鈍った脳に死の恐怖は遠い。ただ満たされない未練だけが残る。

――結局何ひとつ成せないままだ、くそが。

 

 

 銃声一発。

2022年1月5日公開

作品集『azure malin moon』最新話 (全4話)

© 2022 篠乃崎碧海

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