07 ハンプティ・ダンプティ

EOSOPHOBIA(第7話)

篠乃崎碧海

小説

13,753文字

誰が殺したクックロビン? ――落ちたら二度とは戻せない。

 断続的にキーボードをたたく音だけが響いていた。

 コンピュータという文明の利器。性善説に基づけば、この素晴らしき発明品により、世界はより便利で平等なものに近づくはずだった。だが、一向にそうならないどころかこぞって戦争の道具に使おうとしているところをみるに、どうやら前提条件から間違えているらしい。人間の本質は善ではない。善であると「信じたい」――この心理にもう結論は表れているというのに、頑なに認めたがらない無自覚な多数派達の力によって、世界はどうにかいびつな均衡らしきものを保っている。それが何より皮肉だった。

 電話回線を使えばコンピュータ・システムに侵入できるだなんて、どこの誰が思いついたのだろう。最初に試してみた好奇心旺盛な誰かのおかげで、そこまで扱いに長けていない自分でも同じ手を使うことができた。

 フォン・ノイマンが馬鹿でかい機械の要塞じみたコンピュータの原型を発明してからまだ三十五年しか経っていない。一般消費者向けのパーソナル・コンピュータに至っては十年にも満たない。この機械はいまだ既知より未知の領域の方が圧倒的に大きい。

 設計者すらも気づいていないシステムの抜け穴を、ギークと呼ばれる一部の熱狂的な愛好家達が面白半分に見つけては仲間内で共有し合うコミュニティがある。ギーク達はコンピュータを操り、未知を既知に変えていくことを「システムとの対話」と表現し、そこに愛情すら覚えていた。

 言葉を理解しないはずのゼロとイチの塊に、文法や言語を教え込ませてコミュニケーションをとる。それは対話ではなく、都合のいい奴隷を製造しているのとそう変わらないように思えた。その証拠に、この機械は決して人に背かないし、命令したことを終えるまでは一秒たりとも休まない。無論意思も感情も存在しない(と、されている。一部のギークはこの金属の塊にも人と同じ心があるのだと声高に主張しているらしいが)。

 ここ最近必要にかられて「対話」を試みて思ったのは、少なくとも生身の人間を相手にするよりずっと単調で楽でつまらない、ということだった。

 

 警察のOB会に潜り込んで得たものは、鬱憤晴らしにもならない過去の因縁の清算だけではなかった。警察は新しく導入したコンピュータ・システムを使いこなせず四苦八苦しているらしい。ロクに使えもしないのに、無防備に重要なデータを預けて世界中のギークに馬鹿を晒している。……と、半ば無理やりにシステム担当を任されたせいで愚痴が止まらない、若手の警部から情報を得た。

 杜撰な運用なのは本当らしく、少々かじっただけの知識でほとんど苦もなく先人達の仕掛けたバックドアプログラムから侵入できた。この有様ではセキュリティも何もあったものではない。第二次世界大戦中のローテクな暗号の方がまだ有効だったのではと思うほどだった。

 手法は正しいはずだが、処理能力の低いコンピュータで国家機関を相手にしているせいか、データ解析中の表示が一向に先へ進まない。腐っているとはいえ一応国家規模なので、そのデータ量は膨大らしかった。もっと性能の良いコンピュータを使えば効率も上がるだろうが、生憎型落ちのものしか手に入らなかったので、これ以上のスピードは期待できない。最悪部品から組み立てることも覚悟していたので手に入っただけマシだ。

 ただ待つのにも体力は使う。軽い目眩と疲れを感じてソファに腰を下ろすと、思っていたより消耗していたのか、すとんと体の力が抜けた。

「……っ、は……は、」

 どッ、どく、と心臓が脈打っているのを重苦しく感じる。胸の底に鉛を抱えているような動悸で気分が悪い。これくらいならまだ軽い方だが、軽度でもあまり長く続くと気分の悪さが明確な吐き気に変わるから困る。呼吸が浅くなっていることを自覚して少しでも楽になれる体勢を探したが、無駄に咳き込んだだけで徒労に終わった。

「ぜ、げほッこほッ! ……こほ、はっ、は……ぜェ、っ、は、」

 咳のせいで余計に苦しくなった。吐息にざらついた音が混ざっている。ほとんど予兆もなく突然に襲い来る胸痛以外では、これが一番体力を削る症状だった。横になるとまともに呼吸が通らないので、最近はソファで曖昧に眠り込んでばかりいる。引っ越した新しい事務所は以前より手狭で、どうせ使わないならとベッドは処分してしまった。皮肉なことに不便は感じていない。

 また薬を調整してもらうほかないか――そう思いつつ、なんとなく診療所から足が遠のいていた。医療行為を受ける度に、それなくして命を繋げなくなっていることをはっきり突きつけられるようで気が重かった。

 どうしてこの体はこうも儘ならないのか。そんなことは考えるだけ認知資源の無駄だと理解していながら、ふとした瞬間に何度でも息を吹き返した。

 そう遠くないうちにこの体は動かなくなる。それは紛れもない事実で、目を逸らして逃避する気はない。逃げたところでどうせ追いつかれるからだ。

 いくつかの論文や専門書によれば、末期に近づけば外出はおろか、立ち歩くことさえ難しくなるという。しかしそれは徐々に緩やかに衰えていった場合の話だ。生存率など大してあてにはならず、この病は前触れもなく突然に終わりを告げてくる――無謀を重ねれば重ねるほどその可能性は高まる。現に自分はすでにこの疾患の患者の平均的寿命を超えて生きているらしい。それはつまり、いつ心臓が止まっても何ら不思議はないということだった。

 だが少なくとも今この瞬間はまだ生きている。四肢も思考も動かせる。失われる前にできる限り準備をしておかなければならない。信頼のおける協力者を見つけて手足とし、安全な居住先を確保する。自由に出歩けなくなっても、たとえ起き上がれなくなったとしても、今回のようにコンピュータ・ネットワーク上からデータを拝借してくるくらいならできるかもしれない――

 消去法で考えはじめていることに嫌気がさした。まだ諦めるには早い。タイムリミットの前に望みを果たせばいいだけのことだ。

 いまだかつてなく真実に近づけているのは確かだ。まともじゃない身体でずっと耐えてきた、その終わりはきっと間もなく訪れる。

 

 電話が鳴った。無視しようかとも思ったが、四コール目で気を取り直してソファに沈んだ怠い体をゆっくりと引き起こした。ややふらつきながらもデスクまで向かい、受話器をとる。

 すぐにこちらからは声を発しない。無言で向こうの第一声を待った。

「よう、元気か?」

「……なんだ、お前か」

 散々聞き慣れた声に思わず溜息がこぼれた。なんだとはなんだ開口一番失礼だろ、と電話の向こうで明石が喚いている。

「電話してくるなんて珍しいな」

 転居後の新しい番号を教えた覚えはないが、明石にとってそれくらいの調査は朝飯前だ。あれは無駄に図体がでかいだけの脳筋ではない。

「生存確認してやろうかと思って」

 死んでないか? とやけに朗らかに尋ねてくる。冷や汗が滲むほどの動悸に襲われていたさっきまでを思えばあまり冗談になっていないなと思ったが、明石はこちらの身体のことは深く知らない。生まれつきちょっと壊れてる、精々そんな程度の認識だろう。それ以上を伝える気はなかった。

「用がないなら切る」

 待て待て、と笑いながら引きとめる明石は昼間から酒でも飲んでいるのか、やけに上機嫌だった。

「久々にアレをやろうと思ってな」

 いつもの店で、日時はそっちの都合に合わせるが、できたらなるべく早めがいい。明石は淡々と告げる。

「構わないが。何かあったか」

「いいや、特には。ただの定例報告だよ。それより新しい事務所はどうだ? 今度寄らせてくれよ、噂通りに薄い壁なのかを確かめてやるから」

「来なくていい。せっかく苦労して人目につかないところを探し当てたのに、無駄に目立つお前に頻繁に出入りされたら台無しになる」

「ひでえな、ガキの頃からの付き合いだろ? ……冗談だよ、わかってる」

 今日の明石はやけによく喋る。元々やたらとやかましい奴だが、少し妙だなと思うほどだった。

「会うのは明日でもいいか? 今日は別用がある」

 顔の見えない会話で探りを入れてもはぐらかされるだけだろう。現にこちらも体調の悪さその他諸々を音声から遠ざけて取り繕っているので、人のことは言えない。

「いいぜ、明日な。いつもの通り先に入っててくれ」

「ああ。あまり待ちくたびれさせるなよ、俺は気が短い」

「そんなのとっくに知ってる」

 短気は損気って言うよな。どこか的外れな明石の独り言は無視した。

「別用ってお前、今何やってるんだ?」

 俺は飲んでた、と明石は幸せそうに言った。飲んでた、ではなく今まさに飲んでるの間違いじゃないのか。浴びるほど飲んでも顔色ひとつ変えないあいつが電話口でそうとわかるほどなら、恐らく相当に深酒している。下手したら明日来ないんじゃないか。

「システムとの対話」

「うわ、また無駄に頭使いそうなもんに手出してるんだな。俺にはわかる。よくわからんが、わかる」

「もう、用は済んだだろ。切るぞ」

「相変わらずつれねーなあ」

 そろそろ息切れを悟られそうだった。今日の体調では長く話すのは負担が大きい。

「じゃあな。倒れる前にちゃんと食えよ」

 長電話を避けたがっているのに向こうも気がついたのか、明石はそれだけ言うとあっさりと電話を切った。

 

 モニターが音を発した。見れば、待ち望んだ緑色のコンプリートの文字が表示されている。音を上げることなく膨大なデータをどうにか捌ききったらしかった。

 ネットワークを完全に遮断してから、ひとつひとつ手作業で展開して確認する。時間をかけたわりに手に入ったものはほとんど価値のないガラクタばかりだった。想定内だが、またかとうんざりする。この間も似たような結果に終わった。これで三度目だ。

 ふとあまりに無価値なものばかりが転がっている状況そのものに疑問を覚えた。はじめから暴かれることを想定してどうでもいいものだけを突っ込んだようにも思える。

 よく確認してみれば、ファイルごとの容量も区切り方もてんでバラバラで違和感があった。データの内容にも更新日時にも、まるで法則性が見られない。まるで好きなものだけ選り好みしたあとの残飯のようだった。

「……わざと特定のものだけ残されている?」

 データにアクセスすると必ずログが残る。侵入を悟られたくないハッカーはこのログファイルの存在する場所も把握していて、去る前には「足跡」を残らず消すか、わざと踏み荒らして攪乱するという。

 はじめから手を触れる気はなかったから注目していなかったが、ログは残っていた。今しがた自分がアクセスしたもののひとつ前のログは二日前。詳細は不明だが、何らかの作業が行われたらしかった。他のファイルのログもほとんどが数日前から数週間前を最終更新としている。

 データを追加したのか、上書きしたのか、それとも差し替えや抜き取りを行ったのか。ログだけでそこまで調べ上げる技術は生憎持ち合わせていなかったが、不自然に歯抜けたデータから想像するに、いくつか抜き取ったと考えるのが自然だ。

 自分より先に不正な手段でここにアクセスした者がいる。そしてその人物は、お目当てのデータだけを抜き取り、ゴミはそのまま残していった。ひとところからだけ持ち去ると異常を悟られやすくなるから、不要なものも織り交ぜて、全てのファイルから満遍なくつまみ食いをするように抜いていったのだろう。

 それだけ頭の回る、技術力もある人間が、うっかりログだけそのままにしていくとはとても思えない。ミスではなく、これも敢えて残されたもののうちのひとつなのだろう。となれば、出遅れた自分にできることはログを解析することくらいだ。

「ッけほ、ケホッげホゼホっ……ぜぉ、ッ、は、くそ、」

 咳が鬱陶しい。ぜろぜろと嫌な絡み方をしているが、今はそれどころではない。

 とりあえず思いつくままに、全てのログを更新日順に並び替えてみた。日付に法則性は見られないが、大体が午前四時か五時頃に更新されている。随分と早起きだ。国内からアクセスしたのではなく、時差のある海外から通信している可能性もある。

 そもそもどうして敢えてログを残したのか。理由はいくつか考えられた。一つ、侵入できる技術力を知らしめるため……つまり自身の手腕の誇示が目的。二つ、「ログを残す」その行為自体が何らかの意味を持つ可能性……単純に考えるなら次回のための道標か、本番のための練習か。三つ、この不自然さに気づいてほしいというメッセージとして残された可能性。その場合、メッセージを届けたい相手は――

「これは、なんだ?」

 最も更新日が新しいログの最後に、人為的に挿入された文字列があった。ログの文法とは異なるのか、解析ソフトを通すと意味を成さない記号の羅列になってしまっているが、解析という目的を離れれば、きちんと意味の通る単語になった。

 

Who Killed Cock Robin?

 

「マザーグースか」

 やはり誰かが、後からここにアクセスしてデータを得ようとした者に何かを伝えようとしている。しかし肝心のその内容はさっぱりだった。

 徒労感に溜息を吐く。ふざけた謎かけなど今は見たくもない。暇人の余興につき合っている時間はないのだ。

 やはり顔の見えない、感情の覆われた駆け引きは向いていない。ゼロとイチでできたデータを機械を通して撃ち合うより、目の前にいる生身の人間から直接引きずり出す方が遥かに早いし楽だ。その目や声や態度が持つ情報は何物にも勝る。

「Who Killed Cock Robin? 誰が殺したクックロビン――そんなこと、知るかよ」

 先の見えなさに先程からの酸欠感も相まって、モニターをデスクの端に追いやってその場に突っ伏した。

「っ…は、はーッ、は…――っけほッけほ、ひゅっ……ぅ、――っ、は…」

 呼吸が苦しい。酸素がうまく通っていかない。痛みは強くないが、漠然と胸元を締めつけられているような、重いもので強く押さえつけられているような圧迫感がきつい。

 気がつけば左手で右手の甲に爪を立てていた。やや伸びすぎた爪が半月状の痕を残す。遣り場のない苦痛を逃すために癖になりつつあった。

「ッ…ぅ」

 背に冷たい汗が伝う。吐き気がしてきて目を開けていられない。夏も盛りの頃だというのに、ひどく寒い。

 死とはやはり、冷たいものなのだろうか。震えながら終わりを迎えるのだろうか。

 気分が悪い。遠のきはじめた世界から抗わず手を離せば、寒さは少しだけ治まった。

 

       †††

 

 しばらく眠っていた。というより気がついたら意識が飛んでいた。

 座ったままの体勢でも少し眠れたせいか、呼吸のつらさは随分と和らいでいた。しばらくそのままぼんやりと座っていたが、再び動悸がしてくることもなかった。

 固まったままの体をほぐしたい。乱れた髪を解いて結び直し、冷たい水を一口飲んで、特に何も持たずに外に出た。

 建物の隙間から赤く染まる空が覗いている。真昼の暑さは影を潜め、シャツの背に涼しい風が通った。よく晴れた夏の日の夕暮れだった。

 どこへ行くでもなく足を進める間にも、空の色は刻一刻と変わっていく。夕日は建物の壁や窓にも反射して、街全体を魔法にかけたように染め上げていた。ところ構わず張り巡らされた電線や、無計画に建て増しされたバラックの歪な影までもが絵画作品のように見える。決して美しい街ではないが、幻想的ではあった。

 今にも倒壊しそうに傾いて蔦にまみれた廃屋の前で、楽器を弾いている若い集団がいた。三人組で、ドラムひとりとベースひとり、ギターとボーカルは兼任だ。よくこの辺りで演奏していて、日が暮れる頃にはいなくなる。

 演っているのは海外のパンクロックのコピーで、技術的には大したことはない。ベーシストは大抵ドラッグか酒で酔い潰れてほぼ演奏の体を成していないし、ドラムはそれに辟易しつつ粛々と自分の仕事をこなしているという程度だったが、ボーカルの声とギターはよかった。英語はそこまで上手くもなかったが、淡々とする中にも熱を隠し持った声で、ラブやらヘイトやらを歌っていた。

 日雇いの仕事の帰りと思しき中年から、帰っても食事は用意されていなさそうな小さな子供まで、数人が寄り集まって音楽に耳を傾けていた。演奏する彼等の足元に置かれた缶には僅かな金が入れられている。こんなところでやらずに駅前にでも行けばいいのにと思ったが、その音楽は朽ちかけた夕暮れの情景によく合っていたので、これはこれで悪くないのかもしれない。

 

 人の輪から少し離れたところに佇んでいる青年にふと目がいった。西日の作る長く伸びた影の中で、薄汚れた壁に肩を預けて立っている。右手には白い杖を持っていた。

 コツ、コツと杖の先で音楽に合わせてリズムをとっている。しかし彼は演奏を聴いているようでいて、別のところに意識を流しているように見えた。諜報中だろうか。自分もたまにそういうことをするからなんとなくわかる。だが見抜かれるようなら、少なくともプロではない。

 ふ、と青年はやや俯きがちだった顔を上げた。

 距離はあったが、明確に目が合った。変に逸らすと逆に怪しまれる。こちらも視線を外さずに動きを止めた。

 数秒が過ぎた。眼鏡の向こう側にある瞳は、意思を持って見つめてきていた。

 杖を持たない方の手で、こっち、と青年は指を差した。廃屋の向こうの路地を指し示している。彼は俺を呼んでいた。

 

「情報屋さんでしょう?」

 開口一番、青年はそう言った。

 見た目だけでは年齢のほどがわからない。彼は一分の隙もないほどに白い髪をしていた。

 髪だけではない。薄暗くてはっきりとはわからないが、肌も透き通るように白く、ぼんやりと浮かび上がって見えるほどだった。恐らく生まれついてのものだろう。

 いつか咳止めの薬を恵んでやった、あの少年に似ている。だが、少年よりはいくらか年上に見えた。

「情報屋さんって呼ばれるのは嫌い?」

「別にそういうわけではないが」

「ああよかった、やっぱり情報屋さんで合ってた。遠かったから、自信がなくて」

 やや耳に残る高めの声をしている。青年は自身の瞳を指差して、もうほとんど輪郭ぐらいしかわからなくてね、と悲しそうに言った。眼鏡の奥の瞳は灰紫色をしていた。焦点は合っているが、薄い靄がかかっているかのように覚束ない。

「よく見えないから、もう少し近くまで行ってもいい? できたらなんとなくでも表情を察せる距離で話したいのだけど」

 攻撃したりしないよ、と青年ははにかんで言う。言葉通り敵意は感じなかったが、不気味であることに変わりはなかった。

「俺に何か用か」

「いつかは弟を助けてくれてありがとう。きちんとお礼をしておきたくて」

 やはりあの少年の血縁者か。そうなると不用意に距離を縮められるわけにはいかない。真昼間に堂々と死体を運搬している人間と関係のある奴など、相手にしない方がいいに決まっている。

「弟、ってことはあんたは兄か」

「そう。とは言っても同時に生まれたから、本当はどっちが兄でも弟でもないんだけどね。便宜的に僕が兄ってことにしてる」

「弟によく言い聞かせておけ。一瞬の同情心から助けたはいいが、危うく撃たれるところだった」

「それはごめん、多分仕事の直後で気が立ってたんだ。殺さなかったんだから許してよ」

 雲の切れ間がきて、薄暗かった路地に西日が差し込んだ。正面から光に晒された青年は僅かに顔を顰めると、暗がりへと立ち位置を変えた。

「日の光は嫌だね。夜の闇が一番だ。そうは思わない?」

「息がしやすいのは確かだが、夕暮れも悪くない」

「うーん、分かり合えないね。気が合うと思ったんだけどな」

 青年は残念そうに言った。

「僕達の容姿が気になる?」

「別に」

「隠さなくてもいいよ、慣れてるから。僕達の両親はあの戦争で被爆して、それでこんな妙な子供達が生まれたってわけ」

 訊いてもいないのに青年は勝手に語った。

「特に弟は可哀想で、免疫がおかしくなってて自分で自分を殺してしまう。背も伸びないし、骨も筋肉も弱いし。僕は僕で、少しの日光で火傷するし見ての通りの弱視だしで、生きていくのに精一杯。僕達は間接的に戦争の被害者なわけ。

 貴方もそうでしょう、情報屋さん? 貴方に混じる異国の血は、他国による凌辱と支配の証でしょう」

「それはどうだか」

「その血を恨んだことはない? 己の中に潜む暴力性に怯えたことは?」

――そんなもの、いつだって怖いに決まっている。それでも。

「俺の思考は俺のものだ。遺伝子のせいにも、環境のせいにもする気はない」

「それでも、自分にはどうしようもできないことってあるんだよ。分け与えられた遺伝子は死ぬまで変えようがないし、子は親を選べないし、親も子を選べない。残酷だよね」

 だから、恨むのはやめて受け入れればいいよ。青年は諭すように言った。

「情報屋さんの場合は、生まれる場所は選べなくても、育ての親には選ばれたんでしょう」

「お前も五百蔵の行方を握る者ってわけか」

「五百蔵氏のことは知ってはいるよ。この町でのかつての栄光を知ってるだけだけど」

 だから、今の居場所は知らない。青年はにっこりと笑った。

「僕達は似た者同士だ。そう思わない?」

「生憎だが、全く」

「そうかなあ。もっと深く知り合えば、きっとわかってもらえると思うんだけどな」

 眩い西日は完全に沈みきって、仄暗い青が辺りを支配しはじめていた。夜だね、と青年は嬉しそうに呟いた。

「けどね、哀しいかな僕達には時間がない。僕も弟も、貴方も、人並みの寿命は望めない」

 だから、と青年は儚く笑う。

「もう回りくどいのはやめます。演技するのも疲れちゃったし。生まれつきこの見た目だから、初対面の相手には少しでも純真無垢に無害に見えるようにしているのだけれど、貴方にはいらないよね」

 鱗が溶けてはがれるように青年の顔から作り笑いが抜け落ちた。蝋細工じみた頬から表情が消える。

「情報屋さん、僕達と手を組みませんか? 僕達と共に、このどうしようもない世界から脱出しましょう」

 ぞくりと背が粟立つ。青年の、幻のような色を持つ瞳はどこか遠くを見つめていた。視力が弱いゆえはっきりと焦点が合わせられないのだろうが、まるで彼方の新しい世界、この世ならざる理想郷を遥か見通しているようにも思えた。

「俺はどこにもつく気はない。仲間ごっこをする気もないし、同情で繋がりを持つ気もない」

「遊びでも憐れみでもないですよ。僕達と貴方の理想は近いと思ったまでです。貴方は自分の復讐さえ果たせれば、他のことはどうなったって構わないと思っているでしょう? 僕も同じですよ。僕は弟が幸せになれれば、それだけでいい」

 目的のためなら手段を選ばないところもよく似ているでしょう? 青年は目を細めて笑った。それは演技でも虚勢でもなく、ただ純粋な喜びに満ちた笑いだった。

 

「Who Killed Cock Robin?」

 青年は歌うように口ずさんだ。コンコンコン、と杖で地面を叩き、まじないでもかけるようにくるりと回してみせる。

「やったのは僕です。弟が銃を使って人の命を消すのが得意なら、僕は数学を使って情報を消すのが得意です。格好をつけて情報デリーター、とでも言っておきましょうか」

 つまり、貴方の敵ですね。青年は静かに言った。口調こそ淡々としていたが、その目には確かな敵意が溢れていた。あるいは、挑発に満ちた自信。

「あのログのメッセージは俺に宛てたものだったのか」

「別に貴方じゃなくてもよかったんですけど。誰が最初に気づくかなと楽しみにしていたら、それが貴方だった。さすがだなあと嬉しくなりました。あのやり方、結構リスキーだったんですよ? つまらないギークどもに告発されたら台無しですからね」

 でも、そうはならなかった。僕は幸運です。青年は満ち足りた顔で頷いた。

「奪ったデータはどうしたんだ」

「消しました。この世から綺麗さっぱりね。言ったでしょう、僕は情報デリーターだって。貴方の求めている真実も、もしかしたらこの先消してしまうかもしれませんよ。五百蔵氏の行方を掴んでも、それが誰かの依頼に関わっているなら手にかけてしまうかも」

「脅したって無駄だ。お前より早く辿り着けばいいだけだろう」

「その壊れかけの身体でですか? あんまり無理すると死んじゃいますよ」

 だから、諦めて僕達の仲間になってください。見返りも何も求めませんから。青年は片手を差し出した。

「本当は敵対したくないんです。貴方が味方についてくれたら敵なしだ。貴方が集めてきて、僕が消す。邪魔する人間は弟が消す。どうです、いいでしょう」

「残念ながらいいとは思えない。消されたら困るんだ」

「貴方は困りませんよ? 僕達だけは知ることができるのだから」まるで神様になったみたいだと思いませんか? 青年は心から嬉しそうに言った。

「随分と自分勝手だな。明日には自分が消される側になるかもしれないのに」

「だからこそ、ですよ。ただいいように弄ばれて死ぬのを待つくらいなら、徹底的に抗うべきです」

 貴方ならわかってくれますよね? その目は強く訴えていた。

「お前、何が目的だ」

「貴方と同じですよ。復讐です。僕は、僕達を迫害するこの世界が許せない。だから消してやります。誰かが大切にしているものも生きた証も、全部。だってどうせ僕達の存在なんて知る気もなければ、関わる気もないんでしょう? たまに気が向いたときに憐れんでみるだけ。僕達は見たくないものとして世間から消し去られた存在です。そんな世界なんて、こっちから願い下げです」

 青年は柔らかく笑んだ。泣いているようにも見える笑みだった。

「弟が幸せになるためなら、僕はなんだってします。僕は弟に、彼が心から笑って生きていける世界をあげたいのです。――たとえ、僕は報われないとしても」 

 だから、一緒にこの世の中をもっと生きやすくしていきましょう。彼は夢見る目をして言った。

「断る。俺も大概自分勝手だが、自分のためだけに世界を変えてやろうと思えるほど傲慢にはなれないな」

 クソなことばかりの世界なら、何かひとつくらいは死ぬ前に変えてやろう。理不尽な世界に復讐してやろう。その気持ちは理解できた。だが、他人を害してまで成し遂げることでもない。誰かを無理矢理に押し退けるということは、自分が他の誰かに押し退けられやすい世界に一歩近づくことでもある。

「……残念です。いつでも気が変わったら会いにきてください」

 手遅れになる前にそうなることを期待しています。言葉のわりには落胆した素振りもなく、青年は淡々と告げた。

「もう会うことはない、と言ったら?」

「では次に運悪く相見あいまみえてしまったとき、僕達は敵同士ですね」

 さようなら。貴方の望みもいつか叶いますように。青年は無垢な笑みを浮かべて会釈すると、健常者と遜色ない足取りで路地の向こうへと去っていった。

 ビルの屋上に据えられた航空障害灯がちらちらと明滅している。橙から深い青へと移り変わろうとする西の空には、線のような細い月が浮かんでいた。

2022年7月11日公開

作品集『EOSOPHOBIA』第7話 (全9話)

© 2022 篠乃崎碧海

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