残響、蜃気楼

篠乃崎碧海

小説

4,193文字

呼ばれたかった。許されたかった。連れて行ってほしかった。
生きていくしかないのなら、せめてそこまで届くように歌おうか。

 蚊さえも限界を迎えていなくなった記録的酷暑の中、相変わらずくたばる気のない蝉共の大合唱を背に、アパートの階段をゆっくりと上る。熱々のボンネットの上に落とされた生卵の気分で、じっとりと重い体を一歩一歩二階へと引き上げる。青すぎてうんざりする梅雨明けの空の下、防災無線が割れた声で光化学スモッグ警報を読み上げていた。手の中のCDショップの黒い袋は汗で湿っていた。

 鍵をつっこみ、ドアノブを少し上に持ち上げながら回す。ドアがバタンと音をたてて閉まると同時に、ベランダに続くカーテンがふわりと揺れた。おかしいな、出る前に窓は閉めたつもりだったのに。

おかえりー」

 畳敷きの六畳一間、自分の他に住人はいないはずの部屋の真ん中で、うたが我が物顔で寝転がっていた。

 ベランダの向こうで蝉が叫んでいる。相変わらずの大音声だ。

「……お前、何やってんの?」

 詠の口から木の棒がつき出している。1本80円のサイダー味のアイスの棒だ。あいふ、と活舌の悪い声が返ってくる。詠は棒を口から出し、にこりと笑った。

「アイス、コータの分もあるよ」

 当たったからね、と詠は誇らしげに棒を見せてくる。ふやけた棒の先には赤い字で当たりと印字されていた。

「お前、なんでいんの」

「なんでって、これから練習行くから。ひとりじゃつまんないでしょ」

 どっこいしょー、とその綺麗な顔には似合わない掛け声で詠は身を起こした。真っ白い腕に畳の痕がついている。

「行こ」

 詠は部屋の隅にあったよれよれのギターケースを背負うと、俺の横をすり抜けてドアへと向かった。ちりん、と小さな鈴の音がする。ギターケースのファスナーにつけられた、ネコの形をした小さな鈴。りん、ちりん、とまるで誘うように跳ねていた。

 ドアを開ける。夏に溶け出すみたいに詠の輪郭が曖昧になる。蝉の合唱は嘘のように止んでいた。

 

 詠はいつもふらふらと歩く。気の向くままに歩道のこっちを歩いたり、あっちを歩いたりする。白線が途切れたら反対側へ、蝉の死体を運ぶ蟻を避けて、車に轢かれそうになりながらまたこっちへ。

「シノとリクは? 先行ってんの?」

 練習の予定を入れていた覚えはないが、たまに気が向いてこうして突然集まる日もある。

「リクはバイト。シノは家行ってみたけどいなかった。多分デートかなあ」

 だから今日はコータとサシで特訓ね、と詠は言った。どこか嬉しそうだった。

 のろのろと前へ進むだけでも汗の滴り落ちる七月のアスファルトの上を、詠は軽々と歩いていく。スキップと競歩の間みたいな歩き方で夏を越えていく。アイスの棒を指揮者よろしく振り回す。白い半袖を熱風が掻き乱していく。

「……詠」

「なに、コータ」

 あまりの暑さに茹でられて俺の頭はどうかしてしまったらしい。どうかしてしまったのでなければ、これは都合のよすぎる夢だ。

「……いや、やっぱなんでもない」

 あの年までは当たり前にあった、しかし二度とは戻れない風景。また次の年も巡り来ることを疑いもしなかった季節。

 3年前の夏に死んだはずの詠が目の前にいる。俺がおかしくなったのではないとしたら、この時間はなんだというのだろう。タイムリープ、そんな馬鹿げたワードが浮かんでは消えていく。

「詠、今日は何年何月何日だ?」

「えっなに急に。2002年7月20日だけど……日付はともかく、何年か忘れるってのはちょっとさすがにふわふわしすぎじゃない」

 ふわふわしすぎ、そんな詠の独特な言い回しに少し笑いながら、俺は自分がおかしくなっていることを確信した。

 詠が2002年に生きて、こんな風に笑っているはずがないのだ。詠はどこからどう見ても天才だったから、27歳にすらなれずたった25年で神様のもとへと還るのを許された。

 つまりこれはどうかしてしまった俺が見ている明晰夢。今も詠の死を引きずり続けて、あわよくばいっそのこと俺のこともそっちへ連れていってくれないかと無様に懇願したり、そんな都合よく死ねるはずもないと何もかもを嘲笑してやりたくなったりする、そんな思いの果ての醜態だ。

「詠。今日は気が済むまでやろうぜ」

「いいね。コータが死にたくなくなるまでやろう」

 俺の自分勝手な夢の中の詠は、俺にとって都合のいいことばかりを言う。それが無性に悲しくて、永遠を夢見る傍ら破壊を望んだ。

 

 

 レンタルスタジオ「チェルシー」は今日も変わらず不景気そうだった。

 雑居ビルの入口に立てかけられた錆びだらけの看板は強風に煽られてばったりと行き倒れている。律儀な詠は直してやっていたが、横を通り過ぎるそばからまたガシャンと倒れる音が聞こえた。詠は二度直しにいって、三度目は無視した。

 二階の受付に万年座りっぱなしの店主のオヤジは、俺と詠の姿を見てひとつ頷いてから店の奥を指差した。高校野球のラジオ中継を聴くのに集中したいらしい。オヤジが案内せずとも、最奥のブースはいつも空いている。俺は軽く会釈をして勝手知ったるブースへ向かった。

 ここのエアコンは二週間前に吹き出し口からにわか雨を降らすようになり、一週間前には豪雨になって、五日前に騒々しく息絶えた。暑くて借り手のいないブースを、店のオヤジは修理が終わるまで通常の半値にして貸し出すことにした。半値なら喜んでと借りるのは貧乏を極めたうちのメンバーくらいのもので、ここ数日は実質貸し切りのようになっている。

 うんざりするような暑さと扇風機で戦いながらチューニングしている俺の横で、詠は床にあぐらをかくと、手慣らしもそこそこに好き勝手に弾きはじめた。

 詠の生音を久々に聴いた。コードもリズムも寄せては返す、広い世界中で詠だけが歌える独特の音楽。俺の作った夢の中でも、それは確かに詠の生み出した音だった。下腹に食い込んで快感と畏怖を同時に呼び起こす。

 チューニングするのも馬鹿らしくなって、すぐそこに一緒に飛び込んだ。即興で音に音を重ねる。戯れに音を編む。誰とでもよくやる遊びだったが、詠とやるのが一番しっくりきた。「合わせている」という感じがしない。音叉が共鳴するように、互いにとって一番心地いい音やリズムが自然とその場に湧き出てくる。

 他の誰とやってもこうはならなかった。詠の音はいつだって何かを引き寄せる。あらゆる感情を呼び覚まして、全部ぐるぐると渦に巻き込んで、最後には詠の声によって高く放り投げられてキラキラと降りてくる。うまい喩えが見つけられないが、詠の音楽はまるで彗星のようだ。眩い光の尾を引いて近づいてきて、目の前を一瞬掠めてまた遥か宇宙へと遠ざかっていく。

「コータ、前よりいい音になったね」

 沢山練習したんでしょ。そう言う詠になんと返していいかわからなくなる。俺が詠から言われたかった言葉を、夢の中で自ら都合良く作り出しただけ。自慰行為でしかない。

 ああ、練習したさ。いつかお前が本気で悔しくなるようなすげえもん作ってやろうって、ずっと思ってる。でも今はっきりわかった。お前に敵うわけなかったんだ。これからも敵わない。だってお前はもう――

 詠は即興で歌いはじめた。最初のうちはふんわりとした歌詞のようなものもあったが、すぐにハミングに変わった。時折ぽつり、ぽつりと音そのものが歌いはじめたかのようにことばが乗る。

「やっぱ俺、詠とじゃないとダメだ。詠じゃないとダメだ」

 詠は少しだけ笑った。そうしてギターを弾き続けた。

「俺、詠とやれないならもうこれ以上生きてなくていいかな」

「ええなに、急にどうしたの」

「急じゃねえよ。前からずっとそう思ってた」

 ぽたりと落ちた汗が床に綺麗な丸をつくった。

「お前の音がなくちゃ、この先生きてく意味なんてない」

 詠はめちゃくちゃに弦を爪弾く。合わせて俺の音も早くなる。罵声の応酬のような擦り切れた早弾きにも何かの意味はきっとあった。あると思いたかった。だから音を止めなかった。周囲からしてみればめちゃくちゃでも、詠と俺の間には確かな理論があった。形にする端からこぼれて消えていく儚い煌めきを心の底から愛していた。同時に恐れてもいた。いつかまるっきり生み出せなくなる日がくるとわかっていた。こんな幸福がいつまでも続くわけがないと知っていた。詠の心臓はある日突然止まって、そうして俺の音楽もあの日死んだ。

「ちょっと、きゅうけい、」

 星屑のようなアルペジオを枕に、詠はその場に大の字に倒れた。大粒の汗が首筋に光っていた。

「楽しい、ね。ね……いつか、終わるから、楽しいね」

 ギターに押しつぶされた、喘ぐような呼吸。詠はぽろぽろと泣いていた。

「終わんなきゃいいのにって、思うけど。終わんなかったら、きっとすぐにつまんなくなる。だから、どんなものでも、終わる方がいい。終わるときが一番綺麗だ」

 アルペジオはもう聞こえない。詠はぐっとギターを抱きしめたまま、音に必死でしがみつくみたいに首をふった。

「ねえ、コータ」

「なに」

「コータ、大丈夫だよ。生きてくことも、十分才能だよ。ね。だから、コータはこれからもさ、ずっとめちゃくちゃな音楽、やっててね」

 耳鳴りがひどくて目を閉じた。詠の声だけが浮かび上がるみたいにそこに残った。いやに眩しい視界の真ん中に居座って、いつまでも離れようとはしなかった。

「詠……うたえよ、なあ、」

 

 

 目が覚めた。見慣れぬ白い天井がそこにはあった。

 左側を向く。透明な薬液が腕に突き刺さった針から体内に注がれていた。ぽた、ぽたと静かにカウントを刻んでいた。

 右側を向く。サイドテーブルには古いラジカセがあった。ところどころ塗装の剥げたそれは、13年前に初めてのバイト代で買ったものだった。

 腕を伸ばして再生ボタンを押しこむ。カシャン、と軽い手触りとともに、あの日の俺たちが流れ出した。

――今のもう一度、そうそれ、そのアルペジオ! どうやってんだよその弾き方

――手首を返して、なんていうか、ぽーんって。ぽんって、出てくるんだよ

――わかんねえよ。でもなんかいいよな。もう一回やってくれよ

――あれ、どうやったんだっけ。こう?

――いや違えだろ、ドミナントモーションからの転調じゃなくて……

――ごめん、コードのこととか全然考えてなかった

――考えないで作ってたのかよ

――でもなんかいいでしょ? ね、楽しいね

 

 詠が歌っている。詠の音楽がきこえる。やっぱりあいつはずっと天才だった。

 窓の外ではうるさいくらいに蝉が鳴いていた。

 

2022年7月21日公開

© 2022 篠乃崎碧海

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