いつかの春に触れる

薄暮教室(第16話)

篠乃崎碧海

小説

3,237文字

春はいつもそこで鳴っていた。さやさやと、さらさらと、遠き日の眼差しを閉じ込めて。
薄暮教室:短編

「森林鉄道の廃線跡ですか? ああ……まあ、あるにはありますけど」

 役場のカウンターに座る若者は、眠そうな目をしてやや早口にもごもごと呟いた。

 田舎の人間らしく朴訥としてはいるが、決してぶっきらぼうではない。単に「外から来た人間」に慣れていないだけだ。ただ、人が来なければ一足早く窓口を閉めて昼休憩に入りたかったのに、そんな無言の訴えが滲むような目をしていた。

「戦後に新路線ができたタイミングで旧駅舎は取り壊してしまったし……レールも建物も、何も残ってませんよ。あるのは敷設されていた痕跡くらいで」

 それで構いません、と返す。若者は目を伏せて頭を掻いた。

「見ての通りここは観光資源も特産品もない、ただ人が細々と暮らしているだけの田舎町で……役場で観光ガイドなんてやってないし……」

「大体の場所さえわかれば、あとは自分で行きます」

「あ、失礼ですが、専門でご研究でもされていらっしゃるんですか」

 暇な観光客ではない可能性に突然思い当たったのか、若者は俄に背筋を伸ばして尋ねた。

「いえ、ただの趣味で。似たようなところはいくつか回ってきましたけど、研究なんてそんな、」

 畏まった若者に慌てて否定の意を返す。若者はますます顔を曇らせ、カウンター上に広げられた町の地図に視線を落とした。

「遭難とかされても困るし……でも僕はここを離れられないし、案内もできないし、どうしたもんかな」

 今僕達がいるのはここです、と若者は地図上の一点をさす。ちょうど地図の折り目にあたるそこはやや掠れていたが、町の主要な施設がほとんど全て集まっているのが見てとれた。

 彼の指先はそこから真北へと迷いのない線を描く。

「お探しの廃線跡があるのはこのあたり、他に何もない山中なんですよ。この時期はまだ残雪もあります。こうしてわざわざ役場まで出向いてもらって、それで万が一のことでもあったら……」

 つまりは部外者が深く立ち入るなと、そういうことだろうか。

 今にも重いため息をこぼしそうな若者に、少しばかり同情もした。廃線跡などという、一般的には忘れ去られた過去の遺物でしかないものを是非見たいだなんて言われても、普通はへえそうですか、としか返せない。

「昔は山歩きに詳しい人が沢山いたんですけど。歩荷ぼっかって知ってますか。今の物流体制ができる前、ここら一帯の食糧やら配達物やらを人力で運んでいた人たちです」

 僕の祖父はその歩荷でした、と若者は誇らしげな気配を頬のあたりに漂わせながら言った。

「聞いたことくらいは。夏の山小屋に荷物を運んだりする人たちですよね?」

「今もなお歩荷として働く人たちは大体そんな感じですね。鉄道が整備される前は、このあたりの物流の主力は人力でした。明治になってようやく鉄道でも行き来できるようになったんですが、東京からの便なんて多くて日に二、三本。海の方はトンネル技術が発達するまでは、鉄道は敷けなくて。それで、人の足で山脈を越えてものを運ぶ商売が戦後くらいまで廃れなかった。ここ、実はけっこう海に近いんですよ」

 あの山の頂上あたりからは日本海が見えます。若者はカウンターから腕を伸ばして、開け放されたドアの向こうの景色を指さした。

 関東では散りかけの桜が、こちらではようやく花開いたばかりだ。朝晩はぐっと冷え込んでまだ冬の気配が強く、山肌にはちらほらと雪が残っているのが見える。

 町中でもぽつりぽつりと見かける桜は、関東でよく見かける染井吉野と比べて、少しばかり紅が強いように思う。種類が異なるのか、花と一緒に葉も出るようだった。

「あ……そうか。なおさんに頼んでみようか」

 ふと思いついたように、若者はぽつりと呟いた。

「なおさん?」

「この町と余所を繋ぐ商売を長く取りまとめていた方です。なおさんなら物流事情に明るいし、山も案内できるかもしれない。ちょっと連絡してみます」

 若者はそう言うなり、駆け足でカウンターの奥へと引っ込んでしまった。

 ぽつんとひとり残される。どこかに電話をかける若者の声をぼんやり聞いていると、春のにおいのする風が外から吹き込んできて、古い地図の端をぱたぱたと弄んだ。

2023年8月19日公開

作品集『薄暮教室』第16話 (全17話)

© 2023 篠乃崎碧海

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