いつかの春に触れる

薄暮教室(第16話)

篠乃崎碧海

小説

3,237文字

春はいつもそこで鳴っていた。さやさやと、さらさらと、遠き日の眼差しを閉じ込めて。
薄暮教室:短編

 五分ほどして役場に現れた「なおさん」は、枯草色の着物の似合う、小柄なおじいさんだった。

 先ほどの歩荷の話の流れで出てくる人だからと、勝手に屈強な男性を想像していたので正直面食らってしまった。小柄で線の細い老人は、山歩きに長けた体力自慢にはとても見えない。

 「なおさん」はしばらく若者と話していたが、やがてひとつ頷くと、ふっと振り返って真っ直ぐに私を見た。

「では、少し歩きましょうか。大丈夫、夕まではかかりません」

 穏やかな声。年齢を感じさせる深い皺、向けられた切れ長の涼やかな目。その奥に揺蕩う不思議な静寂に見つめられた瞬間、なにかがすとんと腑に落ちた。

 ああ、この人は大丈夫だ。理由もなくそう思わせる神秘性がそこにはあった。私の存在を通り越して、遥か先まで確と見通すような目。その視線に導かれて、私は子どものように頷きを返した。

 

 数歩先を行く老人の歩みは、想像以上に早かった。

 きけば七十近い歳だというが、そうは思えない健脚ぶりでさくさくと歩を進め、後ろ手を組んだまま、ゆったりと続く山道を息も切らさず淡々と登っていく。今のところ追うのに苦労することはないが、それもあとどれだけこの道が続くのかによっては怪しい。

 どうしてそんなに達者なのかと思わず尋ねると、「なおさん」は少し照れくさそうに、若い頃から立ち仕事に明け暮れていたからですかね、昔から健康だけが取り柄なんです、と呟くように言った。

 この町の成り立ちは、歴史は、住人は普段どんな生活をしているのか――沈黙に耐えかねて投げかけたありきたりな質問にも、彼は嫌な顔ひとつせず答えてくれる。しかしその口調はどこまでも淡々とした静けさに満ちていて、会話が弾むことはなかった。

 ひとつ投げてはひとつ返され、またひとつ投げては返され……そんなやりとりを何度か繰り返すうちに、どこか気まずくなって黙り込んでしまった。前を行く彼は気にする様子もなくただ歩き続ける。下草を踏む湿った音と、木々の葉を揺らす風の色だけがそこにはあった。少し冷たい早春の風が吹き抜けて、歩き続けてもなかなか体が温まってこない。

 そうしてゆるやかな道を二十分ほど登り続けたあたりで、小さな高台の広場に出た。ふいに目の前が開け、ざざ、と強い風が走る。

「少し休憩しましょうか」

 なおさんはそう言うと、道沿いにあった太い丸太に腰掛けた。長らくベンチとして使われているようで、上の方だけ樹皮が剥がれて滑らかになっている。

 なおさんは少し離れたところをぼんやりと眺めている。視線の先を追ってみると、そこにはどっしりとした桜の木があった。そのすぐ隣にはもうひとつ、まだちっぽけで桜かどうかもはっきりしない苗木が寄り添うように植えられている。

「このあたりでは定期的に植樹をしているのですか」

 いいえ、となおさんは首を振った。

「あの苗木は、昨年亡くなった人が、人生の最後にと個人的に植えたものです」

「そうだったんですか」

 なおさんの口ぶりは変わりなかったが、きっと樹を植えた人と親しかったのだろう、となんとなく思った。

「その隣の桜の木は、同じ人が四十五年ほど前に植えたものです」

「へえ。その方は桜が好きだったんですね」

「好きだった……と、そう思います」

 さやさやと葉を鳴らす桜は、隣の若木をそっと守るように佇んでいた。

「あの二つの樹、まるで歳の離れた兄が弟を守っているみたいですね」

「ああ。たしかに、そんな風にも見えますね」

 なおさんは遠くを見る目をして静かに笑った。笑い皺がすっと深くなる。数多の歓びと哀しみを吸い込んできた皺だった。

「今頃は、きっと久々の再会を喜んでいることでしょう」

 なおさんは空を見上げる。

 つられて見上げると、柔らかな風が吹いてきた。青い空に桜の花びらがくるくると舞っている。まぶしさに目を細めると、さやさやと葉の鳴る音だけが耳に残った。

2023年8月19日公開

作品集『薄暮教室』第16話 (全17話)

© 2023 篠乃崎碧海

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