十一 追憶の桑楡

薄暮教室(第12話)

篠乃崎碧海

小説

7,650文字

どこにも行かないでくれと乞い願う。どうかずっとこのままでと望む。残された時間は恐らく僅かなのだろう。

 三月に入るとこれまでの鈍色の日々はどこへやら、急に晴れた日が続くようになった。厳しい寒さは相変わらずだが日照りのおかげか雪かきの回数は減り、常に雪に埋もれていた玄関の引き戸もそう力を入れずとも開くようになった。しかし癖というのは中々すぐには抜けないもので、近頃は下枠に縺れる雪もないのについ思いきり戸を引いては落雷のようなものすごい音をたて、台所に立つ直次を飛び上がらせ怒らせる毎日である。

 諸用を終えて帰ると、淡い西日色に染まる上がり框に何通かの手紙が置いてあった。教室に届く手紙のほとんどは直次宛ての仕事関係のもので、たまに見かける大層流暢な筆跡のものは大抵先生宛てだ。

 自分に宛てられたものはこれまで届いたことはない――この町にかれこれ一年近く滞在しているが、そのことはまだ誰にも伝えていない。伝えるべき相手もいないと思っていた。

 ここ最近、教室に届く手紙には一風変わったものが増えた。切手も消印もない、直接玄関に置かれたらしい手紙にはたどたどしい文字が並び、傍には小さな草花や菓子が一緒に置かれていることもある。教室を閉めても、子ども達にとって先生は変わらず先生であるらしかった。

 今日も届いた可愛らしい手紙を手に、先生の部屋をそっと覗く。この時間は疲れて眠っていることも多いので、声はかけずにほんの少し襖を開けて中の様子を伺った。

 予想とは裏腹に、先生の姿はそこになかった。敷きっぱなしの布団は綺麗に整えられ、伏せられた木桶の上には清潔な手拭いが置かれている。換気のためにか、縁側に続く障子とガラス戸が開けられていて、隣家の瓦屋根に反射した西日が部屋中を眩しいほどに染め上げていた。

 主のいない部屋に、さらさらと草木が揺れる音、どこかの軒先から雪の落ちる音が吹き込んでくる。気まぐれな猫がふらりと散歩に出かけたきり帰らないような、冷たい静けさが頬を撫でていった。ここにいないとなれば向かう先はあとひとつしかない。寂しい部屋を抜けて、ぎしぎしと軋む縁側を、冬枯れの中庭を右手に見ながら建物の奥へと進んだ。

 何度か行われた改築のせいで、今は縁側伝いにしか行くことのできない最奥の部屋は書斎として使われている。元々は倉庫として作られたらしい部屋は小さな明り取りの窓がひとつあるきりで常に薄暗く、昼でも灯りが必要なほどだった。

 藤倉はこの書斎を少し苦手に思っていた。通りに面していないここでは自然と外の音が遠くなり、周囲から隔絶された気配が沁み透っていく。書棚に潜む文字の囁き、薄暗く沈む過ぎ去りし時の影にひたひたと見つめられるうちに、此彼の境界がゆらりと曖昧になる瞬間を感じて背筋が落ち着かないのだった。

 書斎の戸は開いていた。文机に向かう、羽織を掛けた華奢な背が卓上灯にぼんやりと照らされているのが見えた。自然にすっと伸びた背筋、愛用のガラスペンを思案気に揺らし、深い智を宿した瞳が整った容貌に藍色の影を落とす。ひとところに意識を傾けているときの先生はどこか近寄りがたい気配を纏っている。柔らかな笑みが鳴りを潜め、一枚下に隠した末恐ろしさを感じさせるまでの老成した気配が自然と表出する。この薄暗い空間が一層そういった気配を漂わせるのか、それとも――こうした思考にすぐ囚われてしまうところも、書斎が苦手なひとつの理由だった。

「おかえりなさい」

 穏やかな声が静寂に落ちる。視線は本に落とされたままだが、醒めた気配がふっとやわらいだ。気づいていたのかと言うと、先生は口元を僅かに綻ばせる。

「この時分、部屋は西日が眩しくて。ここはやはり落ち着きます」

 けれど少し冷えてきましたね、そろそろ戻るとしましょう――机に広げていた本を閉じ、書きかけの紙束をまとめて、先生はゆっくりと立ち上がった。

「……っと」

 薄暗い中、書棚の高いところに本を戻そうと手を伸ばし、背伸びしかけて先生は足元を軽くふらつかせた。軽い立ち眩みでも起こしたのか、本を持たない手で眉間を緩く押さえている。

「ほら、貸せ」

 細い手から本を取り難なく棚に戻して、そのまま空いた腕を差し出す。

「すみません……ありがとうございます」

 先生は曖昧に笑うと藤倉の腕に軽く体重を預けた。着物越しに触れた細い手指はしっとりと冷たかった。さしたる迷いも拒絶もなくかけられた手に、そこにかかる重みに、先生の弱りゆく身体を意識せずにはいられなかった。

 

「あ、」

 部屋に戻る途中、縁側の半ばでふと先生は足を止めた。隣家の塀の下、先生が指差した先に一匹の黒猫がちょこんと座りこんでいた。

 まだ大人になりきっていないようで、幼げな顔つきをしている。三日月を瞳に宿した黒猫は、好奇心をたたえた視線でこちらをじっと見ていた。

「たまに見かけるんです。とても人懐っこいんですよ」

 先生は姿勢を低くしてガラス戸の隙間から手を伸ばし、おいで、と小さく呼びかけた。

 雪を被った低木の影でぴょいと跳ねる耳が見える。やがて警戒と好奇の交ざった足がそろそろと近寄ってきた。躊躇いがちに近づけられた鼻先に、先生の指が触れる。そっと撫でてやると、二度、三度と匂いを嗅ぐようにしてから、ようやく安心した様子でじゃれついてきた。

「本当に、よく人慣れているんだな」

「野良にしては毛並みも良いですし、きっとどこかで飼われているのでしょうね」

 にぃ、と甘えた声で鳴く猫に、ふと笑みの綻んだ横顔は穏やかだ。子ども達に見せる表情と似ていたが、少し寂しげでもあった。こんな顔は人前では見せない。気負わない、素のままの先生にはいつも僅かばかりの陰が見えるのだった。

「これまでは大勢の気配があったせいで、怖がって近づいてこなかったのでしょうか」

 姿を見せてくれれば子ども達もきっと喜んだでしょうに。猫は素知らぬ顔をして先生の指に頬をすり寄せている。

 藤倉も並んで隣にしゃがみこんだ。先生とばかり戯れる猫がふといじらしくなったのだ。しかしもっと近くで見てやろうと顔を近づけた途端に猫はぴくりと耳を立て、先生の手をするりと掠めると庭の奥へ一飛びに逃げてしまった。

「おや」

「あ—……すまん、どうも昔から動物には好かれなくてな」

 ばつの悪い思いでいると、先生は小さく笑ってガラス戸を閉めた。熱心に可愛がっていたわりに未練も名残惜しさもない、乾いた所作だった。閉めてもしばらくしゃがんだままでいたので、気分でも悪いのかと問うと、先生は黙って首を横に振った。

「小さな生き物は、きっと少し寂しいくらいがちょうどいいんです」

 温かい存在に近づけないのは、失ったときが怖いから。透明な瞳はいまだ庭の向こう、猫の消えた先を見ていた。

 寂しい。先生はぽつりと言う。自分はその痛みの半分も理解できはしないのだろう。

 

「縁側でのんびりするのはもっと暖かくなってからにしてくださいよ……全く、妙に静かだと思ったら、こんなところで二人揃ってたそがれているとは」

 十数分後、往診にきた池沢に見つかって、先生は部屋に連れ戻された。

「玄関から声はかけたんですよ。返事がないのでひやりとしました」

「すみません、こっちまでは聞こえなくて。猫がきていたんです。黄金を瞳に宿した、小さくて可愛らしい子なんですよ」

 体を冷やさないようにとあれだけ言っているでしょう、と小言を並べる池沢をよそに、先生は涼しい顔で診察のための身支度を整えている。藤倉さんも同罪です――行き場を失ったお咎めがこちらにまで飛んでくるのを、藤倉は肩をすくめてやり過ごした。

 池沢が布団の横に手巾や薬瓶を用意し終えたのを見計らって、先生はするりと着物の上を脱ぐ。削いだように薄い背中が翳り出した西日の中にぼうっと浮かんでみえた。

 先生が俯きがちに背を丸めてうなじにかかる髪を払うのと、池沢が失礼しますと声をかけつつ肩甲骨のあたりに手を置くのはほぼ同時だった。引っかかるところのない一連の流れに、幾度も繰り返されてきた過去の時間が垣間見えた。

「池沢先生の手はいつも温かいですね」

「花もないのに縁側で物見していたせいで、こんなに冷えて……寒くはありませんか」

 擦り合わせ温められた池沢の手は、とん、とん、と淀みない調子で背を叩く。どこか一箇所を執拗に繰り返すことも、訝しがって手を止めることもない。

「吸って……止めて。…………吐いて」

 首筋から背の下方まで等しく巡った手が聴診器を取る。先程までとは違い今度はゆっくりと、同じ箇所を何度か繰り返したり、数箇所の音の違いを比べたりしていた。

「以前より、息苦しく感じたりはしませんか。呼吸がし辛いなどは」

「いえ……特に変わりありません」

 医者の目をした池沢は普段より少しばかり温度が下がったような、理知的な色を纏う。甘味に目を細めて笑う穏やかな気配は内側に身を潜め、時として精巧な機械のような印象さえ抱かせる。

 先生は醒めすぎた本心を笑顔に隠し、池沢は優しすぎる人となりを医者の冷静さで覆う。ふたつの顔を持っているという点で彼等はよく似ていたが、同時に対照的でもあった。

「ッけホ、けほ……す、みませ……」

「ゆっくり、もう一度、」

 息を吸って、しばらく止めて吐いて。たったこれだけを繰り返すことさえ今の先生には負担が伴う。胸の音を聞くどころか、診察さえまともにできなくなりつつある状況に、池沢も色々と考えるところがあるようだった。

「ケホ、けほけほケホ…ッう、ェほ……ひュ、こほっ……」

「一度休憩しましょうか」

 診察のはずがいつの間にやら処置に変わろうとしている。咳を鎮めようと肩で息をする先生に着物を着せ掛け顔色を伺いながら、池沢は薬を使おうか迷っているようだった。彼はなおも医者の目をしていたが、眼差しに微かな哀が灯っているようにも見えた。それは池沢昌平という一人の人間そのものの感情であり、医者の仮面の内側に隠しきれない優しさだった。

 

 幸い薬を使うこともなく、軽い発作を起こしかけた程度で落ち着いた。とはいえ身を起こしていることさえ辛そうな先生に、これ以上診察を続けることもできない。

「悪いな、最近使っていないせいで底冷えするんだ」

 現在は先生の教室兼住宅になっているとはいえ、元々は直次が仕事用の倉庫として使っていた古家だ。応接間になるような部屋の余裕はなく、藤倉が居候するようになってからはなおのこと狭かった。診察を終えた池沢は普段ならばそのまま先生の自室で世間話を続け、菓子のひとつでも土産に貰って帰るのだが、先生が臥せっているときはそうもいかない。かといって往診にきてくれた医者と台所で立ち話というわけにもいかず、結果として教室を使うことになるのだが、子ども達が来なくなってから暖を入れなくなった部屋はいつも冷えきっていた。

「いえいえ、ここで十分ですよ。……紙と墨の匂いがして、なんだか昔を思い出すようです」

 子ども達が来なくなっても、彼等の気配はまだ至るところにあった。端の机には習字の紙が束になったまま、誰かの忘れ物らしき書き取り帳を重しに置かれている。何よりがらんどうの静けさが、ここに満ちていた声と温もりを想起させた。

 日のほとんどを教室で過ごすほどだった先生が書斎に籠るようになったのは、そういうせいもあったのかもしれない。消えた温もりを思い出さないように、寒く暗い静かな場所へ逃げたのかもしれない。

「藤倉さんがいてくださって、本当に感謝しています」

 湯呑み片手に池沢は呟いた。湯気の合間にほう、と深いため息を落とす横顔には疲れが滲んでいた。

「西日のさす時間に往診に来ると、決まって思い出すんです……先生が東京の教師を辞めて帰郷して、久々に再会した日のことを」

 もう六年ほど前のことです、と問わず語りに口を開く。何気なく天井を見上げる朧な瞳に、薄暮色の寂寥が揺れていた。

「先生の着物から煙草の臭いがしたんです。胸の弱い彼が自分から吸うはずがないのにね。彼が東京で過ごした数年間を、私は今でも詳しくは知りません。それでも、着物に臭いが移るほどの生活をしていたのだと気づいて愕然としました。……先生は諦めたように小さく笑って、しばらく見ない間に随分と背が伸びていて驚いたでしょう、なんて見え透いた誤魔化しをして……」

 容易に想像がつく光景だなと思わず呟くと、池沢は苦笑した。

「先生は昔から、ああなんですよ」

 池沢の中には、一体どれほどの先生と過ごした季節が眠っているのだろう。どれほどの時間を重ねれば、こんな風に先生の本心に触れられるようになるのだろう。

「桜が散りかけの頃にしては冷たい風の吹く日で。久々に再会したせいかどうにも上手く言葉が出ずに、なんとなく気まずい時間だけが流れていって。窓を閉めようと立ったときちょうど、桜の花びらが吹き込んできて畳の上をくるくると踊って……綺麗、とただ一言呟いた先生の掠れた声を、私は今も忘れられないでいる」

 心が共鳴するのに時間が必ずしも必要というわけではないが、やはりそれなりな年月は必要であると思う。近しい存在に出会えたと直感しても、それを伝えられるだけの、わかり合うための時間がなければ虚しいだけだ。

「教室を閉めることにしたと聞いたとき、安堵より先に恐怖を感じました。子ども達と関わるのは避けるべきとあれほど言っておきながらね……。生きる意味を奪われてどれほど深く傷ついたか、私には計り知れない。医術で命を繋ぎ止めることはできても、心を繋ぎ止めておくには力が足りない。

……少しだけ、藤倉さんが羨ましかった。私は先生の友や、家族にはなれない。医者として、そうあるべきではないと思っているからです。けれどたまに羨ましくもなる。先生が心まで病まずにいられるのは、貴方や、直次くんのおかげだと痛感する度に」

 誰しも無いものねだりをしてしまうのだ。もっと自分に力があれば、あのとき気がついていれば……つい過去ばかりに意識が向いて、ふと気がつけば「あったかもしれない未来」を幻に見て道に迷っている。

「心や想いだけでは命は繋ぎ止められない。池沢先生がいなかったら、俺は彼に会うこともなかったかもしれない」

 選ばなかった道を忘れ去ることはできない。一本道を歩かされる理不尽さに足を止めて抗議しても仕方がない。みなそれぞれの道があって、どこかでいっとき交わったり離れたりを繰り返しながら進んでいく。

 無数にある交差点のひとつで藤倉は先生に手を伸ばし、先生もまた藤倉を繋ぎ止めた。それだけのことだ。それだけでいい。

2021年4月9日公開

作品集『薄暮教室』第12話 (全17話)

© 2021 篠乃崎碧海

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