サクラメント

篠乃崎碧海

小説

5,793文字

余命僅かな小説家と醒めた若き編集者、祈りの在処について

身体から言葉が離れてしまった。そこにあったのは長い長い沈黙と、誰も踏みしめない雪よりもなお深い空白、そして世界をぱっきりと切り分けるカーテンの向こうで相も変わらず能天気に澄み渡る、青すぎる空だけだった。

言葉を見失うなんて、今まで生きてきて一度だってなかった。物心ついたときから言葉は私のすぐ側にあった。地球の大気が窒素と酸素と二酸化炭素以下細々とした微量成分で構成されているように、私の世界には大きさも形も様々な言の葉がうっそうと生い茂っていた。その中で呼吸をすることは意識するまでもなく当然のことであったから、こうして突然に綺麗さっぱり消え去ってしまうまで特異さに気がつかなかったのだ。

気疲れと錯覚するような怠さが肉体の不調であると自覚するようになったのは、半年ほど前のことだったか。少し根を詰めて机に向かうだけで霞がかったように目の前が白むようになり、老眼には早すぎる、これでもまだ三十代だと嘆く間にも日増しに深くなっていった。眼鏡の度を上げても視界が晴れることはなく、それどころか昼も夜もこびりつく鈍い頭痛となり、やがて言葉の出口に堂々と立ちふさがるまでになった。

頭痛薬の類はあまり効かなかった。痛みが強く吐き気を覚えることもしばしばで、元々の不規則な生活も相まって食事を疎かにしたら、ある日仕事の打ち合わせ中に突然気を失って周囲を騒然とさせる羽目になった。検査を受けたところ貧血を指摘されたが、その頃はちょうど大きな仕事を複数抱えていたので、結局は有耶無耶にしてしまった。原因不明の不調を半年も引き摺ってなお、自身の身体に対してあまりに無頓着だったのだ。

季節の変わり目にひいた風邪がひと月も尾を引き、夜半には肺を裏返すような咳に嬲られた。常に気怠い微熱を纏うようになった世界の輪郭は曖昧となり、ふとした瞬間にどろどろと溶け崩れた。それでも生活を変えようとしなかった、いや変えられなかったのは、常に私の周りに揺蕩い、空気中に溶け込み細胞のひとつひとつにまで染み入って枝葉を成す言葉という世界の構成要素、その存在ゆえだった。

保って半年から一年、このまま何もしなければ三ヶ月。公孫樹の黄色い葉が死にゆく秋の日、急性の肺炎で倒れて入院した私に、医者は淡々と告げた。目の異常も激しい頭痛も貧血も、全身に蔓延する数え切れない些末な不調も、全てはいつの間にか身体中で増え続けていた壊れた細胞やその残骸のせいだったとようやく知った。

既に何もかもが手遅れだった。できる限り苦痛を取り除いて、病に狂わされず人間として最低限の尊厳を保ったまま幕を下ろす。それだけが最後に許されたことらしかった。

——その日を境に、言葉は終わりゆく身体から一目散に逃げ出してしまった。まるで最初から存在しなかったかのように、私の中から忽然と姿を消してしまったのだった。

 


 

「五十嵐くん。君は、末期の眼の存在を信じますか」

終電もとっくに寝静まったがらんどうの高架と、足下に続く寂れたシャッター通り。色のないコンクリート郡を眺めながら、私は何の意味も持たない問いを気まぐれに後ろへ放った。

「末期の眼って、芥川や川端のあれですか」

ボールが飛んできたから受け止めただけ、てんで興味のないといった風の声が返ってくる。半分ほど空になったワインボトルを暇そうに弄びながら、五十嵐は感情の薄い目をしてこちらを見遣った。

「そう。諦めた、死んでやると口にできる程度の絶望では不相応だと私は考える。全身で、無意識の底からこの世を、生きることを手放して初めて授かることのできる、誰も知らない世界の美しいところをほんの一瞬覗き見ることを許された眼差し」

「先生はそれをお持ちなのですか」

私より一回りほど若い彼は、時折やけに悟ったような気配を纏った。まだ学生の頃の瑞々しく爆発的で向こう見ずな青さを残している方が余程健康的であろうに、そんなものは馬鹿らしいと嘲笑するかのごとき醒めた目を向けるのだ。周囲からは若者らしくない、可愛げの欠片もないとそれはもう散々に言われていたが、私は五十嵐のそういうところが妙に気に入っていた。彼の冷え冷えと冴え沈んだ知性の輝きに触れたくて、時折こうして意地の悪い問いかけを投げてみたりもした。

「さあ、どうだか。それを判断するのは私ではなく、私の言葉に触れた誰か……例えば五十嵐くん、君とかね」

「では結局、末期の眼とはまさに死に呑まれつつある書き手に神が最後の情けとして授けられ作家に降りるものではなく、その存在に中てられてしまった、影響されやすいだけの凡人の中に蜃気楼のごとくいっとき立ち現れる夢まぼろしだということですか。……いや、作家にその眼は確かに与えられているかもしれないが、その景色を享受する権利は読み手だけに与えられ作家は決して認知できない、というべきか」

だとしたら作家は死に損だ、美しい世界を見出しておきながら、自身ではそれを決して捕まえられないのだから。五十嵐は独り言のように呟くと、癖の強い黒髪をぐしゃぐしゃと掻き混ぜた。

——死に損、か。五十嵐の言葉に思わず笑いそうになってしまった。いくら聡明で鋭い彼であっても、目の前にいるうらぶれた作家の残り時間が僅かであることなど知る由もないだろう。

 

余命を告げられた翌日に、妻にさえ行き先を告げずに家を出た。そうして世紀末めいたビジネスホテルの一室に立て籠もって、早二週間が経とうとしている。

行き先を言わずにふらりとどこかに行くことなど日常茶飯事だったが、今回ばかりは流石に不在が長すぎた。連絡を断って一週間が過ぎた頃から、各地からの電話が鳴り止まなくなった。出版社、妻、一度酒の席で会っただけの同業者、その他顔も覚えていない有象無象。事件や事故だと思われて警察に無駄な労力をかけさせるのは本意ではなかったから、余程面倒な相手でない限りとりあえず呼び出しには答えた。

問題なく生きていることだけ伝わればいい……まあそれも今はというだけで、間もなく死ぬわけだが。私は通話ボタンを押すと、決まってこう答えた——この小さな窓に切り取られた世界を一言で表現する力から、私は見放されてしまったのだよ。それだけ言って、相手がわァわァとまくし立て始めるや否や切った。

五十嵐も昼夜を問わず電話をかけてきたうちのひとりだ。居場所を教える気も会話をする気もなかったから碌に聞いてはいなかったが、五十嵐は忙しく電話をかけてくる割には本気で私のことを探そうとしているとは到底思えぬ口ぶりをしていた。担当編集者であるから仕方なく、会社の上層部にいいから早く探し出せとせっつかれているので本当に仕方なく、といった投げ遣りな気配がありありと見えた。私が今どこで何をしていようと、たとえこの瞬間に命を断つために首吊り紐に両手をかけていたとしても知ったことではないという口調で、先生、今どこにいらっしゃるんですかあ、いい加減にしないと警察に届けを出しますよ、それは本意ではないのでしょうと繰り返していた。

哀れな五十嵐に私はついヒントを与えてやりたくなってしまった。——星を見るには最低の場所だよ。ここからの眺めは眩しすぎて、空の深さなどまともに捉えられやしない。

五十嵐は一呼吸の間押し黙ると、わかりました、と答えた。わかりました、先生。そこで待っていてください。必ず、そこで。

電話は切れた。以後彼からの着信はなかった。

五十嵐はそれから二日後に見事ホテルを突き止めた。何をどうやったのか、編集者とは仮の姿で本当は名探偵だったのか、まあそんなことはどうだっていい。

 

「五十嵐くん、私はね」

あと三ヶ月で死ぬらしいんだよ。書きかけているものは責任をもって世に出すけれど、半年後から予定していた雑誌連載は断ってほしい。すでに君の手の中にある原稿と構想は君に託そう。未発表の草稿が発見されたとか適当に理由をつけて出版社の利益に繋げたっていいし、全て見なかったことにして棺に敷き詰めてもいいし、なんなら君が手を加えて自作として発表したって構わない。……まあ、後者を取るならば責任は持たないがね。たとえそれで売れたとして、君は死ぬまで無駄な十字架を背負うことになるのだから。

私が死んだらお祭り騒ぎでメディア化の話が持ち上がるだろうが、どうせ死人に口無しだ、好きにやってくれて構わない。妻の静かな暮らしだけは守ってやってほしい。仕事の話だけをして、それで済ませるつもりだった。

やはり言葉は出ない。真実も虚実も愛も涙も、いとも容易く扱えたはずなのに。終わりゆく命から、ぽろぽろと愛想を尽かして離れていく。

五十嵐の注いでくれたワインはすっかりぬるくなっていた。言葉の逃げ出した空白めがけてぐっと一息、彼に倣ってグラスを空にした。

「私はね、ここで星に願いをかけていたんだ」

一等星だって碌に見えやしないのに、よくもまあそんな軽々しいことが言えたものだ。意味のある言葉は逃げ去り、嘘だけが壊れた身体に最後までしぶとく残って運命をともにする気らしい。

「都会の狭間から、何億光年かの彼方へ向けて。私が今日放り投げたつまらない願いは、永い時間をかけて宇宙の荒風に揉まれて丸くなって、いつか遥か未来の誰かの頭上に降るのかもしれない。まあ、敢えなく海の真ん中に墜落する確率の方が高そうだがね」

嘘は小説の本能なのだ、とは誰の言葉だったか。ヒトとしての本能と小説の本能、どちらにより強く引きずられて今日まで生きてきたのか、終わりを突きつけられて初めてわかった。恐らく私は、ヒトとして生きようなどと端から考えてもいなかったのだ。小説の本能に突き動かされるがままに言葉を書き連ねてきた。それなのに、最後の最後になってヒトとしての生に意地汚く縋ったりするから、言葉に愛想を尽かされてしまったのだろう。

「リアリストな先生がそんなことを考えているだなんて、少し驚きました」

五十嵐は細い目を僅か見開いた。あまり感情を露わにすることのない彼にしては珍しく、本当に驚いたらしい。

「君には私がリアリストに見えるのかい」

「先生は紛れもなく実在論者でしょう。全てのものは言葉に還元できる、いや換言か? ……とにかく、この世の全てのものは言葉で証明できるとお考えでしょう。イデアを目に見える形で世の中に引きずり下ろすこと、それはイデアの創造とも言える。いつか見た朧げな像を想起するしかない多くの凡人にとって、先生がその言葉で以って証明する形は真実そのものになり得るんです。言葉に無理矢理にでも力を宿らせて、解を作り出し、それこそがイデアであると信じ込ませる。僕の目にはそのように見えますが」

五十嵐の思考の清明さを美しいと思う。彼の中には質の良い濾過装置が備わっていて、通過させたあらゆるものを整然と吐き出すことができるのだ。輝かしいものも薄暗いものも、等しくありのままに真っ直ぐに並べてみせる。

「君は私のことを横暴な人間だと思っているようだね?」

「対人関係についてそうは思っていませんよ。言葉に対して横暴でなければ、手綱を握る覚悟がなければ小説家ではないでしょう。何が本物だ偽物だという論調を僕は好みませんが……言葉に宿る力を美しく純粋で優しいものだと思っている小説家を、僕は小説家だと思えない。もしも言葉それ自体が力を持つとするならば、それは暴力だ。人を救うよりも殺す方に長けている」

五十嵐は見ないでいる方が幸福に生きていけるものも躊躇なく直視する。見なければよかったと後悔するでも、知ったからにはと奮起するでもなく、ただ見たままをその深い知性の山に蓄積させていくのだろう。

彼ならばいつか、末期の眼にも辿り着けるかもしれない。尤も、本人はそれに気がつかないかもしれないが。

「ああ、もうすぐ夜が明ける」

新聞配達員が動き出した音が聞こえる。土気色をしたビルの側面が、淡い光を映し始める。ついぞ形にできなかった言葉が、ほとんど輪郭を成さない星とともに白んで消えていく。

「五十嵐くん。この度は失踪した作家の捜索、本当に御苦労様」

「よくもまあ他人事みたいに。……僕はそう必死でもありませんでしたが。血眼で探し回っていたのはデスクと編集長です」

必死ではなかったかもしれないが、本気ではあっただろう。どのような手段を取ったかはわからないが、五十嵐はここまで辿り着いた。私という人間を深く理解していなければできはしない。

「まあいい、お詫びに何かご馳走しよう。なんでもいいよ、君の好きなものを」

こういう関係性の築き方を最近の若者は嫌うというが、五十嵐もそうだろうか。そこまで考えて初めて、彼と食事に行ったことはこれまでただの一度もなかったと気がついた。歴代の編集者は揃って打ち合わせと称した飲み屋での接待を取りつけたがるものだったが、五十嵐はそういうことにはてんで興味がないようだった。

「では、先生が行きつけの店で寿司でも。生憎か僕にはまだ手が届かないので」

「そんなものでいいのかい? それくらいならお安い御用だ」

最後の晩餐、という言葉がふとよぎる。

醒めた気配を纏っていても、五十嵐はまだ若いのだ。もっと連れて行ってやればよかった。「可愛がられる」ことを彼は嫌うだろうが、多少なりとも年上の者として、そういうことはもっとしてやるべきだった。

有望な若者の行く末を見届けることは叶わない。これが未練というものだろうかと、アルコールが緩く漂う頭でぼんやりと思った。

「星にかけた願いは、なんだったのですか」

チェックアウトの連絡を終えた私に、五十嵐はぽつりと問うた。

「別に、大したことではないよ」

今更願うことなどない。願って叶うことも、救われることもない。

「まだお書きになるつもりなのでしょう。先生、貴方は見放されてなどいない。貴方が切り取った言葉を追って、僕はここに辿り着いたのだから」

「許されるのなら、まだ書いていたいと思うよ」

たとえ、あと三ヶ月の命であっても。そう言ったら、この若い編集者は何と返すだろうか。

「何に許しを求めているのですか」

これではまるで告解室の信者と司祭だ。醒めた眼の奥に潜む神がじっと私を見ていた。

「さあ、なんだろうね」

 

もしも神がこの世界に存在するとしたら、私の目の前に現れるそれはきっと言の葉の姿をとるだろう。

2021年5月12日公開

© 2021 篠乃崎碧海

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