01 ハルシネイション

azure malin moon(第1話)

篠乃崎碧海

小説

14,213文字

博打と麻薬は夜の色をしている。

――夜を生きる人達のお話。しばらく連載します。

 三度目の正直という言葉がある。二度あることは三度あるという言葉もある。結局人は自分の都合のいいようにしか解釈しないのだと開き直るきっかけをくれた。 

 ここ何年かの酸性雨の影響で、頭上にある商店の看板は元あった文字はおろか材質さえも溶け崩れ始めている。今この看板が落ちてきたら三度目を数えることなく終わる。その方が幸福かもしれないと考えてしまうあたり、もうとっくの昔に賭けに負けていたのかもしれなかった。

 あらゆるものに涙を流させるこの雨は戦争が終わって間もなく、各国が新たな競争を始めるように経済的成長を目指し始めてから降るようになった。出遅れた、いや新たな戦いのための意欲を根こそぎ喪ったままのこの国にも等しく降り注ぐのは随分と皮肉めいた因果だと思う。結局この国はどこまでいっても敗戦国でしかないのだ。これまでも、そしてこれからも。

 

 声が聞こえる。がなるような響きの外国語は自分に向けられたものでなくても、ひどく理不尽に責め立てられているような錯覚を起こさせる。ふいに男とも女とも判別できない笑い声が爆ぜ、細波のように言葉を交わす気配がそれを鎮めていった。潜めたはずの呼吸は拍動の高鳴りとともに次第に上擦って、薄く靄のかかった路地に白く漂った。

 この街は常に廃水の滴につきまとわれている。無秩序に引かれた電線と重なり合う軒とを伝い落ちて、最下層は常に湿度と黴びた臭気に満ちていた。それらは街を覆う空気に染み込み、どうにか上辺の体裁だけでも取り繕うとして失敗したハリボテのネオンの煌めきを安っぽく反射し、人々の肺をも侵蝕してやがて世界そのものになる。この街に住む人々は外へと出ていかないのではない。出ていくという意思すら意識する前に奪われているのだ。

 拳ひとつで貫けそうなトタン張りの壁の向こうで明け透けな愛が囁かれている。日が経った食べ物と質の悪いプラスチックが混ざったような臭いが漂って、耳の後ろを不快な羽音が通り過ぎた。ひしめきあう建物の狭間、昼も夜もない暗がりに紛れてひたすら足を前へと進める。どこかを目指しているというわけではなく、強いて言うなら追うもののいない場所へ。高熱を出したときに見る悪夢のような路地をすり抜け、思考するよりも先に角を曲がる。

 鉢合わせた物売りの虚ろな目をやり過ごして、次の角を曲がったらコンクリートの壁に阻まれた。引き返すと物売りは不気味に笑っていた。右へ、左へ、錆の回った階段を駆け下り、朽ちた暖簾を払ってガラスを踏みしだき、住人の胡乱な目を振り切る。お前達何処から来た、何の用で来た。何を外から持ってきやがった。生き霊のように追いかけてくる声から逃れて開け放たれたドアの内へと飛び込めば、そこは食肉加工場だった。元の生物の形がわかるものとそうでないものが不気味なほどに整然と並べられている。おおよそ食用とは思えない生物もあったが、人の形をしていないだけマシだった。衛生管理という概念すらないそこを土足で通り過ぎる。えた水に爪先をとられ、突如遠くで鳴り出す壊れたサイレン、右も左も前も後ろも全部同じに見える。さっきから何度角を曲がった? 答えてくれる人はいない。一区画向こうに見えるネオンは目の前の違法に増築を繰り返した建物に阻まれ、靄は益々深く濃くなり、低く唸る裸電球の橙色に目が眩んでああ失敗した、これは失敗だ、どこから間違った、どこから、何が、何時から。

 

 止まるな。止まったら最後、未来はない。

 運がない、そう三度思ったときには引き返そうと決めていた。三度目の正直にすら裏切られたときには潔く身を退こうと。運に任せた時点で何度だろうと同じだと気づけていたなら、もう少しまともな人生だったかもしれない。

2021年8月1日公開

作品集『azure malin moon』第1話 (全2話)

© 2021 篠乃崎碧海

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