01 ハルシネイション

EOSOPHOBIA(第1話)

篠乃崎碧海

小説

14,757文字

博打と麻薬は夜の色をしている。

――夜を生きる人達のお話。しばらく連載します。

 

 そこはがらんとした部屋だった。物がないわけではないが、これといった特徴がないゆえに殺風景な印象が強い。

 やや余裕のあるワンルームといった広さで、壁も床も外と同じコンクリートでできていた。窓はなく、剥き出しの青白い蛍光灯が冷えた空気の輪郭を浮き上がらせている。天井では三枚羽のシーリングファンが回遊魚のように悠々と旋回していた。

 入り口から向かって左の壁にはスチールラックが置いてあり、本や小物が整然と並べられている。右手前には応接用と思しきロータイプのコーナーソファと重そうなガラスのテーブル、その奥にはアンティーク調の事務机と椅子が見える。特に変わったところはない、一人か二人用の事務所といったところだ。

 スチールラックの前にいた人物に、少女はぱたぱたと駆け寄った。

 影に溶け込むようにひとりの男が立っていた。すらりと背が高くシルエットは痩せ型で、纏う気配は明らかに男のものだったが、遠目からでは女と見紛うような長い髪をうなじの少し上でひとつに束ねて背に流している。服は上下ともに夜を染めたような深い紺色で、色素の飛んだ髪だけが暗めの部屋にぼうっと浮かんで見えた。

 男の正面に立った少女の手が動いた。手と腕全体で文字を描くように、旧い時代の印でも結ぶように。手話だ、と理解が追いつくまでに僅かな時間を要した。

 少女は言葉を交わす気がなかったのではない、口がきけなかったのだとようやく気がついた。そう考えれば黙って値札を指差す仕草、こちらの問いかけにもう一度と首を傾げてみせた態度にも合点がいく。

 少女の声なき言葉に、男も同じ言語で返した。骨ばった白い手がサインを送るようにぱっぱっと閃いて、密約めいた言葉を紡ぐ。サインの合間に時折夜凪のような囁き声が落ちるのが微かに聞こえて、どうやら男の方は普通に話すことができるようだと知れた。少女は男の唇と手の動きの両方を見て会話を交わしているらしい。

 やがて話は済んだのか、しばらくすると少女はこちらへと駆け戻ってきた。何かを尋ねる余裕もないままに、彼女は年相応のあどけない笑顔を見せて手を振ったかと思えば、猫のように横をすり抜けて廊下へと消えてしまった。ドアがぴったりと閉じると同時に、自動で錠の下りる絶望的な音が聞こえて、部屋は再び静寂に包まれた。

 

「そこそこいい身なりをした余所者二人組が、あちこち嗅ぎ回ってるって噂になってる」

 知ってたか? 沈黙を破った男は夜を逆撫でるような声で言った。

 こいつが『情報屋』か。その口調も口元も軽い笑みを湛えていたが、視線を寄越す両の目は静かに凪いでいた。

「あんたら、俺を探してたんだろ」

 彼は影の中を泳ぐように動いた。遮るものの少ない、音がよく響くはずの部屋で足音ひとつ聞こえない。気がつけば彼は目の前にいて、夜道で人ならざるものを見てしまったような気味の悪さが背中を伝い落ちた。

 彼は想像していたよりもずっと若かった。陳腐な想像力がいけないのだが、裏社会の情報屋というからにはもっとこう、海千山千のいかにもな人物が現れるかと思っていた。しかし彼は見たところ二十代半ば、そこらに掃いて捨てるほどいるヤクザ連中の下っ端共とそう変わらないように見える。

「ああ、探していた。君が『情報屋』なんだろう?」

「じゃなかったらどうする?」

 彼はひと睨みで裏側まで見通す目をしていた。人を試して見定める目。月の眠る夜にひとつふたつ、星を落としたような色をした瞳の底は知れない。

「依頼を聞いてくれるか」喉の奥までカラカラに渇いていた。どうにか絞り出した声だと気づかれたくはなかった。

「内容によるな」

 どうぞ? 情報屋はソファを指差した。

 

       †††

 

 もてなす気も客扱いする気もさらさらないらしい。彼は自分の分だけコーヒーを淹れるとソファに腰を下ろし、こちらが口を開くのをつまらなそうに待っていた。

「単刀直入に言う、売ってほしい情報がある。だが俺達はそういう取引にはズブの素人だ、だからまずは素直に教えを乞おうと思う。どうすればいい? 作法があるならそこから教えてもらえるだろうか」

 こういうときは素直になるに限る。どうせ上手く立ち回ることなどできやしないのだから、あわよくば出し抜こうなどと考えない方が気も楽になるというものだ。

 はは、と情報屋は乾いた笑い声をたてた。感情のこもらない空虚な響きをしていた。

「大抵の奴は素人だってことをひた隠して訳知り顔を貫きたがるものだが、あんたらは随分と正直だな。正直なふりか、それとも本物の馬鹿か。なあ、どっちだ?」

 どちらにせよ大した差はないけどな。彼はそう言うと、牽制するように足を組んで座り直した。

「喋りたいことを好きに喋れ。どうするかは俺が決める」

「それが作法か?」

「さあな。強いて言うなら、今日はそういう気分というだけのことかな」

 求める前にまずは己を曝せと、そういうことなのだろうか。

 隣の後輩をちらりと見遣る。全て任せますとその目は語っていた。たしかにこういう場での交渉は自分の方が向いている。彼は人と話すよりは、数字と対話をする方が得意な種類の人間だ。

「俺達は新しい麻薬の製造方法を知っている。作れるのは今のところ俺達だけだ。先を越される前にどこかの組と取引したいと考えている。欲しいのはそのための信用のおける情報だ」

 嘘もはったりも暴力も意味を成さないのは、会話を交わした時点で直感的に察していた。この男は恐らく、この若さで薄暗い世界を一生分は見てきている。息をするように他人を害する人間共の扱い方を心得ている。

「どいつもこいつも口を開けば薬か銃だ」

 情報屋は心底うんざりだと言わんばかりにため息をついた。

「誰彼構わず聞き込みまくるくらいだから、余程楽しい話を持ちかけにきたと思ったんだがな。期待して損した」

 好きに話せと言っておきながら、彼は早速興味を失った様子でいる。

「健気な素直さに免じて教えてやろうか。素人が好き勝手に作った薬なんて三流ヤクザ以外は欲しがらないし、当然大した金にもならない。どれだけトべようがセックスの価値を高めようがどうでもいい、本当に必要なのはプロパガンダやマインドコントロールに使えるかどうかだ。わかったら大人しく元いた大学に戻るか、さもなければ海外にでも行ってきれいさっぱり人生やり直せ」

 ひゅ、と小さく息を呑む音。見れば隣に座る後輩が目を見開いていた。

「どうした、富川大学薬化学研究室のとり飛鳥あすかと、同研究室の後輩のたるそう

「……どうして俺達の名を知っている?」

 答えの代わりに、情報屋は一冊の雑誌をテーブルの上に投げて寄越した。

「俺はこういう世界に詳しくはないが、学術誌に名を連ねるってことは周りの奴らより幾分かは優秀なんだろう?」

 それともお偉いさんと仲良しになるのが得意なのか、それはそれで優秀なことだな。情報屋は楽しげに言った。

 雑誌には、数年前に後輩との共同研究でそこそこの結果を出したときの論文が掲載されていた。ご丁寧にも研究室一同で撮影した写真つきで、今より少しだけ若い自分達が何も知らずに引きつった笑顔で写っている。

「……俺達は非合法な製薬の取引に実名を使っていない」

 最早掠れた声を取り繕うこともできなかった。

「個人情報なんてこんなものだ。あんたらが必死で守ろうとしたって、悪意もない他人が平気でばら撒いていく。特に学者や政治家は見つけるのが簡単で助かるよ」

 情報屋は事も無げに言った。

「さてどうする? 今ならまだ取引前ということで、全て聞かなかったことにしてやってもいいが。あんたらがここを訪れたこともなかったことにしてやるよ」

「……何が今なら、だ。今更退けない」

 ほう、と情報屋は片眉を上げた。

「取引を望むか。これだけ不利な状況で」

「俺達は『本物』を作ったんだ。愚かだと思ってもらっても構わないが、研究にもその成果物にもプライドがある。よく知りもせず製薬の素人呼ばわりは癇に障るな」

 プライドね、と情報屋は薄く笑う。

「たしかに製薬については素人じゃないかもしれない。だが世渡りの才はないな」

「それはわかってる。だからこうして頼んでるんだろ」

 神経を逆撫でするような物言いにまんまと乗せられて、気がつけば売り言葉に買い言葉で語気を荒げていた。これでは相手の思う壺だ。

 

「……私達は貴方と取引を望むだけです。争いたいわけでも、まして害をなしたいわけでもありません」

 押し黙っていた後輩が口を開いた。

「取引料として、相応の金銭はお支払いします。だからどうかそれ以外のことには手を触れないでいただけませんか」

 非礼は詫びます。後輩はそう言うと深く頭を下げた。

「へえ、後輩の方が物分かりがいいんだな。だが俺は金銭より、情報とその信用に価値をおいていてね。どんな噂を聞いて訪ねてきたかは知らないが、金さえ積めば何でも応じると思うなよ」

 情報屋は冷ややかに突き放した。法外な条件を突きつけられて諦める方がまだよかった。 ここまでか。賭けに負けるどころか、ベットすらさせてもらえないのか。

「では金銭に加えて私達の身柄そのものを対価として差し出しましょう。それでどうですか」

 しかし早々に折れかけた自分とは違い、後輩は一歩も退かなかった。

「というと?」

「貴方は私達のことを『製薬の知識を持つ人間』という商品として売ればいい」

 彼は淀みなく答えた。不用品を粗大ゴミに出すような気軽さで、自らを売り飛ばすと宣言したのだった。

 情報屋はため息を吐いた。まるでわかっていない、と苛々と髪を掻き回す。

「俺はブローカーじゃない。情報は売るが、商取引の仲介はしない。ましてその商品が人間なら尚更だ。手に入れた情報を使って商売をするならどうぞ後はご勝手に、そういうやり方だ」

「私達を紹介してくれと依頼しているのではありません。信用を持たない私達が貴方に払えるのは、私達という人間そのものの持つ価値だけという話です」

「自分達にそれだけの価値があると本気で思っているのか?」

「無下に処分されるほど、漫然と人生を消化してきたわけではないので」

 口調は穏やかだったが、その目にははっきりと怒りが滲んでいた。これ以上余計なことを言うのは許さないと叫んでいるかのようだった。

「私達は取引を望みます」

 たとえどんな地獄にこの身を沈めようとも。もしも後に何かを続けるとしたなら、そんな言葉を選んだだろうか。しかし彼の気力も限界のようだった。青ざめた顔は今にもその場に卒倒してしまいそうな有様で、見かねてさりげなく背に手を回した。

 情報屋は笑っていた。ようやく面白い話に出会えた、そんな満足げな笑みだった。

 

「おおかたどこかの大きい組織に横槍を入れられたかうっかり弱みを握られたか、そんなところか」

 今このあたりは少しややこしいことになっている、と情報屋は言った。彼が言うには、麻薬取引をするには些か都合の悪いタイミングらしい。

「ああ、取引先を探していたらしつこいのに目をつけられた。うちの組織だけに売れ、さもなくば殺す、と」

「そういう極端なことを言うのはどうせななさわの連中だろ」

 よくない話しか聞かないな、と情報屋は吐き捨てるように言った。その言葉尻に見えた嫌悪感に少し安心を覚える。少なくとも追手側に売り飛ばされることはなさそうだ――彼の態度が完璧な演技でないという保証は全くないが。

「あんたら、中国語は話せるか。英語は?」

 人を値踏みする目をしながら情報屋は言った。人身売買はやらないなんて嘘だ。そう思わせるのに充分な目をしていた。

「中国語はわからないが、英語なら研究発表をできるくらいには」

「連れもか?」

「ああ」

 質問の意図をはかりかねながらも答えると、情報屋はひとつ頷いた。

「西に拠点を置く中国組織が一切合切を取り仕切ってるせいで、薬は関東じゃ儲からないどころかロクに取引もできない。それに苛立ちを覚えているのが七澤組という新興の暴力団組織だ。あんたらみたいな野心ある研究者やら、金が大好きな政治家やらを見境なく引き入れて、勢力を急伸させようと躍起になってる」

 やり口は頭の悪い暴力一辺倒だけどな、と情報屋は呆れたように呟いてから、ここからが本題だとばかりに組んでいた足を解いた。

「金や研究者を求めているのはどこも同じだ。中国人共は日本で取引するための通訳も同時に探してる。気に入られるかどうかはあんたら次第だが、少なくとも七澤の連中に使い捨てにされるよりマシだろ」

 興味があるなら紹介してやってもいい。情報屋はそう言うと、コーヒーの入ったカップを片手に持ったままふっと視線を外した。少しなら後輩と話し合う時間をやると言いたいらしい。

 悪い話ではない。むしろ出来過ぎなくらいだった。

 迷っている暇はない。賭けるか、と己の中で声がした。三度目の正直、二度あることは三度ある。さあどちらに転ぶか。もしも等しく愚かな選択ならば――

 どうする、と後輩の意思を問う。

 彼は小さく、しかしはっきりと頷いた。こういうときに意見が一致しなかったことはこれまで一度もなかった。

「乗った」

「潔いな。結論を急ぐとその分寿命を縮めるかもしれないとは考えないのか?」

「漫然と長く生きるより、短くとも何かを残せる方に賭ける人生がいい」

 そうは思わないか? 聞き返すと、情報屋は薄く笑った。

「初めて気が合ったな」

 取引成立としようか。目の前に差し出された左手に一瞬戸惑う。握手を求められたのだと気づいて、慌ててその手をとった。

「信用ならない相手と不用意に握手はしない方がいい。KGBが要人を消すときの常套手段だそうだ」

 握ったままの手に力がこめられる。ぎょっとして振り解くと、情報屋は冗談だと言って目を細めた。

 直前まで温かいカップを持っていたはずの彼の手は、氷のように冷たかった。

「本業とは言い難い仲介業に従事させられる対価として、最後にもうひとつかふたつ情報を頂こうか」

 この上何を要求されるのかと思わず表情を硬くすると、情報屋は楽にしろと片手を振った。

「簡単なことだよ、大学と政治のお話。学長と政治家が仲良しだってことの証拠や、裏で動く汚い金の話だ。あんたらのような奴は、こういう動向を探るのが趣味なんだろう」

 それと、もうひとつ。彼は一枚の写真をテーブルの上に出した。

「この男の名は五百蔵いおろいという」

 どこかで見たことはあるか? 情報屋は細い指先で写真の真ん中をつついた。

 そこには異国らしき建物を背にして立つ、くたびれた風体の壮年の男が写っていた。髪色や体格からして日本人のように見えるが、肝心の顔にピントが合っておらず、会ったことがあるかと訊かれてもはっきりとはわからない。

 正直にそう答えると、情報屋はそうかと返しただけだった。

「この男を探しているのか?」

 別の依頼の相手なのか、どこかの組織の重要人物か、それとも――

「あんたらにそれを教える理由はないな」

 知らないなら、これ以上尋ねることは何もない。情報屋はそう言うと、もう帰れとばかりにドアを指差した。

2021年8月1日公開

作品集『EOSOPHOBIA』第1話 (全9話)

© 2021 篠乃崎碧海

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