何処からかジョニ・ミッチェルの歌声が聞て来た。始め幻聴かとおもわれたが、そうでは無い。私の耳に好く響くこれは、どうあっても現実の音であった。どうやら昨晩二階でかけていたCDがリピート再生に設定されていたために、延々と同じ一枚を繰返し再生し続けているらしい。
既にして朝であった。私はここ最近の不眠症の事をおもい、不愉快になった。壁に掛けられた時計を見やると、午前五時である。気づかぬ間に、ほんの一時間程ではあるが、テーブルに腰掛けたまま眠ってしまっていたらしい。そう言えば何やら恐ろしい夢を見た気がする。今も、燃える炎の舌が、チロチロと眼下にちらつく。烈火の中で私は、尊文の顔を見たのだった。奴は、私の書斎で微笑を浮かべ、炎に包まれながら、しかし涼しい顔で私の原稿に赤を入れていた。
「きみ、こんな風に、いい加減に書いちゃいけないよ。書き殴った言葉にはどんな意味も乗ってはくれない。判るかい。とにかく、丁寧に書くんだ。これはね、私だから読んだんだ。私でなければ、誰も読まない。」
私は、手の甲を強くつねった。どうやらまだ生きているらしい。
目の前では、宮崎氏が寝息を立てていた。姿勢に崩れ無く、頭だけ落として眠っている。音を立てぬよう、重心をコントロールしながら、私は台所に入った。そして冷蔵庫の中からブラックコーヒーの入った一リットルのペットボトルを出すと、それをラッパ飲みした。毒の抜かれたアスベストの味だとおもった。
勝手口から外に出た。凍てつく寒さであった。私の吐く息は白くたなびいて、直に消えた。
「おはようございます。」
何処からか、声がした。見ると、隣の家の畑に、骨っぽい老人が立っていた。灰色のツナギを着て、皮膚は赤黒く、長く伸びた白髪を後ろで束ねている。どことなく仙人の趣があるが……、私はこれまでこの人を見た事が無い。怪訝におもいつつも私は挨拶した。
「最近お見掛けしませんでしたから、どうなさったのかと妻と話しておりました。」
苦笑しつつ私は、遡れるだけ記憶を遡った。頭が鈍っているのか、この人の事は一切記憶に無かった。
「奥様はお元気ですか。」
「はい……?」
この言葉は、ズタズタの私の頭にスコーンと響いた。さてはこの老人……。
「はい、元気にしてます。」
と私は答えた。老人は満足そうに、
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