其れから尊文はどうしたか。二〇一〇年に出版された『岡本尊文初期短編集』(講談社文芸文庫)の巻末に載せられた年譜を紐解くと、「同年、太宰治の『人間失格』を読み、開眼」とある。我々は先ずこの一文を疑う処から始めねばならない。
と云うのも、尊文には太宰治に就いて書かれた物が希少なのである。二〇〇八年に講談社文芸文庫から再版された津島美知子『回想の太宰治』に寄せた書評「私の知らない太宰」(毎日新聞日曜版)と、二〇〇九年に道田幸助、桑田四郎等五名で行った対談「太宰の影を踏んで」の二つを僅かに数えるのみである。どれも近年の物で、夏目漱石や三島由紀夫に就いて書かれた物に比べずとも、この少なさは異様である。更には、件の「太宰の影を踏んで」を見ても、「ろまん燈篭が良いですね。今度読んでみて、やっぱり上手いと思いました。」と在るくらいで、その愛着がどんな程度であったのか推量のしようが無い。「やっぱり」とある事から、まさか初めて読んだと云う事はなさそうであるが、しかし「三島由紀夫 奔馬について」(『群像』一九八六年一〇月号)を見ると、「十代で三島に『開眼』させられたわたしは、長く三島の言葉を信じ、太宰の書いたものを読まないようにしていた」とあり、どうにもあべこべである。かてて加えて、翌年に発表された「三島由紀夫の想像力」(一九八七年、すばる五月号)と云うエッセイでは、「十代の頃、三島の『永すぎた春』を読んで、『これじゃあまるで太宰じゃないか!』と思いました。地の文はほとんどアフォリズムの積み重ねで構成されていて、それでなくても二人の文体は似ているのだけれど、これに関してはもう言い逃れが出来ないくらいに太宰治なのである。」などと書いており、これらのどれをも真実とするならば、尊文は十代の間に幾度かの記憶障害を患ったとしか説明がつかない。しかしそのように大きな病気や怪我をした形跡は尊文には無い。三十代後半から四十代にかけて発症した鬱病に到るまで、尊文は(肉体的には)至極健康に育った風なのである。
次に私は、二〇一〇年より以前に発行された年譜に眼を移す事にした。しかし其れは絶無であった。尊文が文壇にデビューしたのは二十四歳と、当時としては充分に若く、なるほど最初の二年ほどは、「早熟の小説巧者」「抽象の閃き」と云った符丁が文芸誌上にちらほら見られるものの、その後直ぐに尊文は文芸誌から姿を消し、件の「暗黒期」に突入したため、暫くの間文学領域での研究対象とはされず、頼みの綱であった『近代文学研究叢書』にもその名前は無い。……どんづまりである。
そうした中、編集者の勧めもあり、私は尊文の母であるカヨさんから話を覗う事にした。手紙を出すとカヨさんは其れを快く諾した。富山県小矢部市にあるカヨさんのお宅に伺うと、先ず私は、件の「下書き」ノートを見せ、これを書いた当時の事情から順を追って話を聞いた。彼女は、今年の春に九一歳を迎えており、どんな程度その頃の事を憶えていらっしゃるものか、非常に不安であったのだが、幸いにしてカヨさんの記憶は明るかった。しかるに、以下に私が著す、尊文の「漫画との出会い」は、カヨさんから得た材料に拠る。
曰く、謙二少年が漫画本を読み出したのは小学校五年の事で、友人の家に遊びに行った際に借りて読んだのに端を発する。しかるに、友人の家にあった漫画本はどれも途中までのものであった。謙二少年は、其れらの漫画本及び続きの巻を、貯めていたお年玉で買った。そしてどうした事か、その日から謙二少年は毎晩夜遅くまで自分の部屋に籠って勉学に精を出すようになった。……と云うのは無論、カヨさんの早合点であった。其れにカヨさんが気づくのは一週間ほど経ってから後の事である。
その日カヨさんは、謙二少年が学校に行ったのを見送ると、掃除をするために謙二少年の部屋に侵入した。すると勉強机の上に大学ノートが一冊、無造作に置かれてあるのが目についた。これは常に無い事であった。ためにカヨさんは、即座に其れが意図的である事を了解した。カヨさんの説に拠ると、謙二少年は、何か褒めて貰いたい事があると、単刀直入に報告するのでは無く、其れとなく遠まわしに伝えて来る傾向があった。殊にテストで良い点数を取った時などは、解答用紙を勉強机の上に置いておくのが恒例であった。この時カヨさんは、「ああ、あれね。ちょっと最近勉強が楽しくてね」と、はにかみながら呟く息子の顔が見えた気がした。
カヨさんは、掃除道具を一先ず置いて、そのノートを手に取った。そして仰天した。即ち漫画であった。絵の善し悪しは判らなかった。決して上手いとはおもわなかったが、カヨさんは漫画の絵を見るのが初めてであったし、なんと言っても息子の描いたものであるから、むしろ「よく描けている」くらいの事はおもったかも知れない。しかるにその内容はと云うと……、これが中々面白かった。右のコマの次に左のコマが来ると云う勝手が掴めるようになるまで暫く手間取ったが、馴れてしまうと、不思議な超能力を持つ少年が出てきたり、悪い宇宙人が地球を侵略してきたりと、何やら騒がしくて楽しい。カヨさんは其れがそう馬鹿にした物でもない事を理解した。
果たしてその晩、カヨさんは親子二人の夕飯の席で謙二少年に漫画の話題を出した。(尊文の父は大学勤めで、夜は何時も遅く、夕飯は決まって母と尊文の二人であった)カヨさんは言葉少なに、しかし極めて熱心に、漫画がよく出来ているのを褒めた。なんとなれば、カヨさんにとって謙二少年は、四十を過ぎて漸く出来た子どもであり、可愛くて仕方なかったのだと云う。
「あたし、漫画の事はよく判らないし、言葉もあんまり知らないから、どう云っていいか判らないけど、手塚治虫とか藤子不二雄とかいるじゃない。あんたもああ云う……。」
「ああ……漫画ね。」
謙二少年は其れだけ云うと、少し不機嫌そうな顔をした。明かにはにかんでいる風には見えなかった。カヨさんは、まだ褒め足りなかったのかとおもった。其れから後、謙二少年は一言も喋らなかった。黙々と食事を取り、自室へと帰って行った。
云うまでも無く尊文はこの時絵を褒めて貰いたかったのであった。人気漫画のストーリーをコピーしているのだから、話は面白いに決まっている。しかるに謙二少年が母に見て貰いたかったのは、絵に他ならない。そうした謙二少年の目論見に反し、母は物語の事ばかり云った。其れが尊文には如何にも気に入らなかったのであった。
……と云うのがカヨさんが語った大凡のところである。ここまでは私が前述した早わかりの部分と大部分が重なる。先ずは既存の作品のコピーから始めたと云う事も明かになった。問題はここからである。尊文は一体いつからオリジナルの漫画をものにしようと志したのか。
だが、これに関してはカヨさんに聞くだけ無駄であった。なんとなれば、尊文は其れ以降、机の上にノートを置いておくと云う事をしなくなった。私はカヨさんに、こっそり机の中を覗いた事は無かったのかと問うた。カヨさんの返事は応であった。カヨさんは、其れから後も何度か気になって尊文の書いた物をこっそり読んだと云う。その中には自分の好みに合うものもあれば合わないものもあり、だからと云ってその漫画の上手い下手は到底自分には見極められないと云った。
次に私は、カヨさんにその頃のノートの中で残っているものは無いかと問うた。しかしこの質問に対してのカヨさんの答えは否であった。そもそも三冊残っていた事がカヨさんには不思議だと云う。
"岡本尊文とその時代(二)"へのコメント 0件