大学のテニスコートは閑散としていた。そこにいたのは教育学部の吉田先生と若い助手の二人だけだった。
「――くん、五分遅刻よ。私の貴重な時間を無駄にとらせないでちょうだい」と、先生。彼女はおそろしく丈の短いスカートを履いていて、か細い太ももを大胆にさらけ出していた。老人特有の薄くてつやのない皮膚ごしに静脈が青く透けて見える。助手は吉田先生の太ももには目もくれず二本のガットを調整していた。彼もまた小学生の履くような短い半ズボンを履き、すね毛が一本も生えていない、白くて針金のようにひょろ長い脚をあらわにしていた。吉田先生の研究室でときどき見かけるが、特に親しく話したことはない。しょうゆ顔の端正な面立ちではあるものの、個性に欠けているせいか今一つ印象に残らない顔をしている。二メートル近くある長身であるため、こちらが見上げなければ顔が見えず、しかも髪を肩のあたりまで伸ばして前髪を垂らしているものだから視線が合うこともない。学生のあいだでは彼を「カオナシ」と呼んでいた。身長が一六五センチしかないボクの目に入るのは、先生とカオナシの異様に短いズボンとそこから突き出た長い脚ばかりである。紅茶色の午後の日ざしの中で余計に際立つ四本の脚の青白さは、どこか深海生物、あるいは幽霊を思わせるものがある。ボクは自分がここにいるのは何かの間違いではないかという感覚を強くおぼえた。
けれども、実際のところは吉田先生に呼び出されて、ボクはわざわざテニスコートに来たのである。電話をかけてきたのはカオナシだった。どこでボクのケータイの番号を調べたのかはわからない。彼はボクの都合なんか訊こうともしないで「テニスのレッスンをしてあげるから来なさい」という吉田先生の伝言だけを一方的に伝えて無愛想に電話を切った。長身で長髪で端正な顔をした若い男にしばしば見られる傲慢な態度だとボクは解釈した。なぜボクが吉田先生にテニスを教わらなくてはならないのかすら彼は教えてくれなかった。そもそも吉田先生は教育学部の教授で、専門は幼児期教育である。テニスをしているところなんか一度も見たことがない。もちろんのこと、ボクはこれをかなりいぶかしみ、彼女の呼び出しに応じるのをずいぶんためらいもしたが、ひょっとすると吉田は前期のバイリンガル英才教育特殊講義の期末レポートでボクが図書館にあったいくつかの文献から均等に少しずつ剽窃をしたことに勘づいてそのことでボクを問い詰めるか何かするのかもしれないと思って、結局応じないわけにはいかなかったのだ。これはすっぽかすと致命的なことにだってなりかねない。
「あなたみたいな学生はね――」と言いながら吉田先生は黄色い表紙の本をボクにくれた。それは『コートの友』と書かれた正式な試合のためのルール本だった。
「あなたみたいな学生はね、何か一つテニスのようなスポーツ、計算と戦略を必要とする競技に精通していたほうがいいのよ。さもないといつか必ず致命的なミスを犯すわ」
ボクはこれまで一度もテニスをしたことがなかった。衛星中継の試合を観たこともない。吉田先生はボクに有無を言わせる余地を与えなかった。もともと彼女は学生に有無を言わさぬ教授なのである。
吉田先生はさっそくコーチを始めた。ボクはラケットを持たされてだだっ広いコートの真ん中に立たされると「飛んできた球はできるだけ打ち返しなさい」とだけ指示を受けた。彼女はネットの向こう側に回ると何の合図もなく、ボクのほうへ球を打ち込みはじめた。彼女の球はおそろしく速く、するどく、獰猛だった。ボクが初心者だということを少しも考慮していないことは間違いなかった。それは体に当たるとものすごく痛かった。ボクが打ち返せなくても(結局一球も打ち返せなかったのだが)彼女はいっこうに気にかけない様子で際限なく球を打ち続けた。カオナシがかたわらに立って一球ごとに新しい球を渡しているから、打つ球は永遠に尽きないのだ。ボクはいつしか打ち返そうとすることをやめてしまった。それでも吉田先生は球を打ち続けた。カオナシが球を渡し、吉田先生が球を放ってラケットを振り、球が爽快な音を立てて飛んできてコートをたたくという三拍子のリズムの反復にはある種の心地よさがあった。
津波が来るとわかったのはちょうどそんな最中だった。
突然、テニスコートの管理人が「津波が来るそうです!」と叫びながら飛び込んできて、ボクらに避難するよう指示したのだ。
ボクは球をよけながらコートから出てドアの開いている管理人室をのぞき込み、管理人のつけていたNHKの津波情報を見た。確かに二十分後に九メートルの津波が来ると報じており、避難勧告が海沿いのすべての市町村に出ていた。祖父母のことがすぐに頭をよぎった。ボクのバアチャンは足が悪く、自力で避難するのはとても無理だった。自分で言うのも何だけど、ボクは年寄りに優しい人間である。だから二人のことが心配になった。
「ボク、もう帰ります」
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