クライベイビー

二十四のひとり(第8話)

藤城孝輔

小説

4,083文字

作品集『二十四のひとり』収録作。

赤ちゃんの甲高い泣き声が両耳から入ってきて頭蓋骨に反響する。震動が脳髄液に波紋を立てながら広がっていくと、こめかみがキリキリときしんで吐き気がする。視界が揺れて立っていることすらままならない。床にうずくまって両耳を手で覆っても、泣き声は容赦なく後頭部に突き刺さる。太いねじが食い込むような激痛が絶え間なく首筋に走る。

猫ほどの大きさしかない体からこれほどまでの声量が出るなんて思いも寄らなかった。四六時中、わたしの顔を見るたびに盛大に泣き出されるからたまったものではない。ミルクを与えても、歯の生えそろわない口で哺乳瓶の先を憎々しげに噛みつぶすばかり。おむつが汚れたのかと服を脱がせば、その瞬間を狙って尿を浴びせかけてくる。口から顔を出すひるのような舌は言葉を知らず、何をしてほしくて泣いているのか教えてはくれない。赤黒くふくれた泣き顔は指先がほんの少し触れただけでも破れ、ドロドロとした紫色の粘液を噴出させるかもしれない。

周囲の部屋からも管理人経由で既に何度か苦情が来ている。昼夜を問わず泣きどおしだからエアコンを買って常に窓を閉めきるようにしたのだけど、部屋同士を仕切る壁自体が薄いからあまり効き目はないようだ。結婚もしていないはずなのに子どもができたなんて無責任で不謹慎だと言っている人もいるらしい。シングルマザーがいるとマンションの風紀が乱れるとでも考えているのかしら? 近隣住民の言葉を伝えた管理人はわたしと目を合わせなかった。ただ赤ちゃんを育てているだけなのに犯罪人のような扱いを受けなければならないのも、聞く人間の耳を引き裂く泣き声のせいである。ずっと眠っていてくれればどんなにいいか。

テレビで見る赤ちゃんは理由もないのにいつも笑っていて、幸せいっぱいといった顔つきである。くりくりした目で新しい世界を物珍しげに見つめている。白くて清潔なおくるみに包まれた赤ちゃんを腕に抱いてあやす母親も幸せそうだ。自分の命よりも大事な存在ができたことではじめて生きる意味を見出したかのような、充実しきった表情。ほうれい線も目尻のしわも気にならない様子で、腕の中の赤ちゃんに惜しみなく笑顔を浴びせかけている。聖母子像を思わせるそんな母と子のイメージには現実の育児の苦しみなんてみじんも感じられない。あのマリアさまもイエス・キリストの夜泣きに悩まされたのだろうか? 子育てなんか投げ出してしまおうと思ったことは一度もないのかしら?

わたしの赤ちゃんは、神の子イエスとは違う。生まれたのは星のない夜だったし、場所も馬小屋ではなく田舎の小さな病院だった。同じなのは母親が処女であることくらい。あの夜、わたしは闇夜に紛れて赤ちゃんを盗み出した。赤ちゃんを産んだ女はベビーベッドのそばで眠りこけていた。白髪まじりの髪の毛は乱れほうだい、口はだらしなく開き、くぼんだ目の下には濃いくまがあった。女の顔は未来のわたし自身の顔を暗示していたのだけど、赤ちゃんを手に入れることしか頭になかったわたしはそのことに気がつかなかった。母親にさえなれれば人生が変わると信じていた。誰にも触れられることなく一人で生きて死ぬだけの醜悪なオールドミスから、生きる意味を見出した聖母へと生まれ変われる。赤ちゃんが意味を与えてくれる、と。

事件の報道は一週間ほど続いた。忽然と消えた赤ちゃん。防犯カメラに映った長い髪の女。言葉を失った両親へのインタビュー。現場検証によって明らかになったずさんな夜間警備の実態。罵倒できる相手をひととおり罵倒したあと、マスコミは事件を取りあげなくなった。もちろん警察は捜査を続けているはずだが、世間はすっかり忘れてしまったように見える。指を突きつけて非難できる悪人は次から次へと出てくるし、世間の人びとは悪人をサンドバッグ代わりにして楽しんでいるだけ。いなくなった赤ちゃんに対して本当に心を痛めている人間はそう多くない。イエス・キリストですらないただの赤ん坊の連れ去り事件なんて記憶に留める価値はないのだ。

赤ちゃんは、わたしになつくことも慣れることもなく泣き続けた。病院で最初に見たときよりも醜くなった気がする。歪んだ泣き顔は邪悪な異星人にしか見えない。人類を奴隷にして地球を征服しようという悪意に満ちあふれている。産んだ女から引き離したことに対する復讐のつもりなのだろう。わたしが母親になることを認めず、理不尽に泣きわめいてわたしを苦しめるつもりなのだ。

「いい加減あきらめたら? あなたにはわたししかいないのよ」

2019年5月3日公開

作品集『二十四のひとり』第8話 (全24話)

二十四のひとり

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© 2019 藤城孝輔

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