「四年前にサイゴンで観たあの映画を憶えているか? あれは美しかった」
長参謀長は、ふと思い出したように八原高級参謀に言った。長が突然柄にもなく映画の話を持ち出したので八原は一瞬戸惑ったが、すぐに『ダニューブの漣』のことを言っているのだと思い当たった。
一九四一年、八原は第十五軍参謀としてインドシナ南部の都市サイゴンに駐留していた。あてがわれた宿は軍の御用達となっている西洋ふうの高級ホテル。「日本ホテル」と呼ばれてはいたものの、もとはインドシナを統治していたフランスの富裕層向けに一九二〇年代に建てられたものである。長が南方軍司令部に随行してサイゴンに出征してきたとき、八原は既に彼の評判を聞き及んでいた。南京攻略で捕虜の殺害を命じたことなどで知られる好戦的で血の気の多い危険人物として、長は陸軍の中でも恐れられていたのである。
日本ホテルでは何かにかこつけて連夜のごとく政府の晩餐会が開かれていた。賓客一人一人に給仕がつき、洋式のコース料理ではじまり談話室での葉巻とウイスキーで終わる格式ばったパーティーが飽きることなく儀式のように繰り返された。
「どうも堅苦しいのはかなわん」と言う長に連れられ、英語が堪能な八原は通訳兼付き添いとして二人でよく街に繰り出した。象牙色の豪奢なホテルを一歩出ると、街は猥雑な雰囲気に満ちている。行き交う自転車が巻き上げるほこりをかぶり、路上の物売りはまるで物乞いのようだった。道路を挟んで向かいの川には漁師や果物売りの木舟が浮かんでいた。
あの夜、なぜ長が映画を観ようと言い出したのか、八原には思い出せない。酒と現地の女にも飽きて、よほど退屈していたのであろう。満月の輝くその夜、二人はホテルの横にある古びた映画館に入った。劇場へと続く重い扉を開けると、タバコの煙のにおいでむせ返るようだった。上映されていたのは『ダニューブの漣』という題の古い無声映画である。生の伴奏音楽の代わりに、レコードに録音されたクラシック音楽がかかっていた。ダニューブがドナウ川を意味することにちなんでか、曲はイヴァノヴィチの「ドナウ川のさざなみ」だった。
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