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夜中にリビングの扉が開く音がして、お母さん帰ってきたなあ、と。二階の部屋にいるあたしにも聞こえるのは、なにもお母さんがガサツに開け閉めしたからではなく、町における静謐が、慎重な気遣いを演劇的に描写したこと、そしてなりより、あたしの神経状態がそんなものさえ捕らえて逃さないくらい、とんがっていたってこと。
あたしには正義感がない。だって正義って無理っすもん。正義が通用するのは、なにが正義かわかってる人だけやないすか。正義がわからんって人に正義感持ち出して戦っても、暖簾にアレやないすか、意味ないやないすか。
言語がちゃうんすもん。通じるわけがない。
ここで諦めちゃうって、それがすなわちあたしに正義感がない証拠。もし本当に正義感があるなら、いつまでも諦めずにやり続けるはずですよ。一生戦って、負けても戦って、倒れても立ち上がって、効率悪かろうが、無駄足になろうが、何遍だって戦うはずですよ。
それができて、初めて正義ですよ。というか、それが一番の正義ですよ。諦めないって。
なんの話や。
あたしには、西辻を止めることができない。世界で唯一止められそうなあたしだけど、それができない。事態が大きくなる前に、西辻の考えを改めさせるために、次の被害者が出る前に、動くなら今だし、それでなにかが平和になるなら、絶対そうするべきなんやけど。
できん。無理や。ごめんなさい。
あたしは、あたしを取り巻くこんな小さな世界すら、どうすることもできない。
「悪を悪として、平和を試みるなら、自らも完全たる悪者になることです。そして悪者の仲間をたくさん作って、その仲間がさらに仲間を作って、全員悪者にしてしまうのです。気づいた頃には、悪者がひとりもいなくなっています。裏切り者が現れたとき、すなわちその人間こそが悪者になります」
やめてくれ。
「人生はいつも主体的? バカを言ってはいけません。人間が社会的な生き物である以上、あなたがあなた自身をどう評価していようが、誰の何にも関係がないのです。人は他人の評価からによってしか、為人を形成できません。あなたが善人なのか、美人なのか、頭がいいのか、努力家なのか、真面目なのか、バカなのかアホなのかクズなのか、決めるのはいつだって他人です」
やめてください。
「待ちや」
能面で天井に貼りつく男を見つめ、部屋の隅から短髪の小柄な男がくわえ煙草で言う。能面が声の方へ顔を向けると、小柄な短髪は煙草を携帯灰皿の中で握り潰し、右手で頭を掻きながらあたしの横たわるベッドの角に腰を下ろした。
「徒らに女の子傷つけたあかんで、じぶん。それっぽい理屈で話しとるけど、一個決定的に大事なこと、端折っとるな」
小柄はまた煙草に火をやった。ライターの炎が照らした男の顔は、眉間に深い皺のある、現代受けしないコワモテだった。
「自分自身の評価は他人がする。確かにその通りやけど、じゃあ他人が評価する材料を、その他人に与えるのは誰や。その評価を噛み締めて、改まって生まれ変わるのは誰や」
能面は天井から窓辺に移動し、半身の姿勢で桟に手をついた。
「人生はいつでも主体的や。いや、主体的に生きること、つまりそれが人生や」
コワモテが二口目の煙草を早々に消したところで、能面は風の速さで窓から逃げ去った。訓示は夢の中だけで終結するものではない。だって、ものすごい動いとる。心が。今までに経験したことのない、カテゴリ不明の鼓動が。いや、心だけちゃう。それは肉体的にも、恐怖でも寒気でもない、もっともっとあたし本人に依拠した、震え。 生、を実感する。反動で。
コワモテは暗闇の中で左の口角を少しだけ結び、あたしをチラリと見ると、
「しっかりせえよ」
そう言って、闇の中に消えた。
このとき確かに、男が腰をおろしたベッドの角が、体重で少しだけ沈浮したのだった。
あたしが初めて、生まれて初めて、男の人、を感じた瞬間だった。
恥を忍んで告白すると、濡れかけた。目頭と、どっかが。
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