濡れもこそすれ

十丸早紀

小説

54,835文字

なんてすかね。ちょっとした余裕が立腹を誘うっていうか、オシャレが身の丈にあってないっていうか、攻める場所を間違えてるっていうか。
「だったら割り切って全裸になればいいのにさー」
あー、そう! わかりましたよ! やりますよ! で、おお脱いだ脱いだ、って見てたら、靴下だけはちゃんと履いてる、って、そういうの。
とはいえ服着るのは一応ルールだよなー、とかまァだ思ってる。ほんといい加減にしたほうがいい。

 

確かになにをわざわざって感じやけど、今日も保恵のチチがないことを指摘した。登校前のこと。

いつもやったら、うっさいアホ、で終わるとこやけど、今日は調子がおかしい。保恵がため息などつきやがる。えー、ローテンションタイプぅ? ローテンションシスターまじでェー?

「傷ついた? 傷つけてしもたあたし?」

ほとんど奈津嬢の受け売りな口調でちょけるあたしを、しかし妹の保恵は神妙を崩さず、でいて呆れてる、や、諦めてるけど一応てな具合であたしを見る。

「お姉ちゃんさ、鈍すぎっしょ」

「なにがいな。事実やん」

ちょっと意固地になってあたしは返す。正味、貧乳を指摘されて怒るような妹だと思ってなかったから、くだらんことでキレんなや、ってこっちもこっちで甘怒り。

「や、その発言がすでに鈍い」

「鈍いってなんなん」

「鈍いもんは鈍い。普通言わへんやん」

「ええやん。シャレやねんから」

「いろいろ考えるやん」

「考えることちゃうやん。ていうかあたしも別にでかないし」

「ちゃうって」

「なにが? なに? 本気で悩んでんの?」

「ちゃうやん」

「じゃあなに?」

「成立してへんやん」

「せやから、貧乳なんもシャレやんて」

「ちゃうやん」

「なに? 意味わからん」

カーッと息を吐いた保恵は、「こんなこと言いたくないけど、しゃあなしに言うわ。よう聞いとけ」と、顔だけで表現した。実の妹の、これは女優的ニュアンスのない、正真正銘の表情だった。

「チチって言うなや。ムネって言えや」

 

伊達眼鏡なう、で登校なう。自分らなァ、女子の伊達眼鏡にはいろんな理由があるからな。顔むくんでるとか、化粧乗らんとか、そんな単純なことばっかが理由じゃないからな。めんどいやつもあるからな。まあ可愛いからってのもあるけど。

吐いた息が窓を白くするまでには、まだまだ季節を要するようで、秋のポテンシャルってこの程度でしたっけ、ってほど暑い。右肩一点に体重を預けて、窓外の街並みをぼんやり眺める。代わり映えしないベッドタウンの生活の有様を、高架路線から見下ろしていると、このまま意識だけでも高野山あたりまで飛んでかんかねェ、弘法太子ィ、とかなんとか。レアリスムとは無縁の感情が湧き起こる。ちなみに奈津は仮病でお休みだ。あの子ちょいちょいあるんすよ、嘘の生理休暇。

三国ヶ丘で殿下に遭遇する可能性が高いことはわかってたけど、もうそんなんもどうでもいいかな、って気分だった。保恵まであんなんやったら、もうどこ行ったって、お父さん死んだこと意識せなあかんしや。もうほんま。みんな敏感なんすよ鬱陶しい。

あたしが鈍感なだけ?

まあいい。もういい。なんでもいい。

ほとんど無意識に乗り換えを済まして、三国ヶ丘に到着。吐き出された瞬間に殿下の姿を探すも、それらしき人はおらず。サッカー部、朝練かなんかかな、と油断したところで。肩を叩かれる。振り向く。

「にゃす」

イッツメーン。その人である。爽やか染みたその微笑みがまた。溜まってないけど、ため息出ますぜ。右手で敬礼なんかしちゃってさあ、ねえ、なんでそんなに余裕なんすか。照れるべきですよね普通。なにその「あーどうもどうも」的な挨拶。てか、にゃすってなに。あたしあんたの旧友か。「おう、覚えてる? 昔なんかわかんねえけど俺らの間で流行ってたあの!」チックなさあああああ、一応先輩なんすけどー。一個上なんすけどー。まだ堺が政令指定都市じゃなかった頃の記憶とか、はっきり残ってる世代なんすけど! ほんで! なんか! でかいな! お前、背!

「にゃす」

あたしもあたしよね。なんだよとか思いながら、ちゃんと返してますもん。「アレね。うちらの間のアレね」みたいな。ないけど、そんなの。ないけどもよ。じゃあ他になによ。一番変なのは「おはよー」でしょ。一番変でしょ、それ。「あ、おはよー」も変でしょ。二番目に。じゃあ、変ランキングの後ろのほうにある挨拶選ぶでしょ。「にゃす」でしょ。普通な挨拶が変なんだから、普通だったら変な挨拶が、この場合の変ランキングで下位にいるでしょ。にゃすでしょ。

「持ってきてくれました?」

すごい。斬新、その言い草。もうふたりの間の確約みたいになってる。あたしなーんにも、ほんま、なーんにも返事してへん、ってか、返事とかする以前に考えるだけで身体が完全に拒否っとるわけで、あれからうまいことしっこできんくて、微妙に悩んどんのにさ。パイセン! 例のアレ、おなしゃーす! 新鮮なやつおなしゃーす! みたいなよ。これ完全にソクラテスな考え方なんで、先輩拒否権ないっすからって風味の。おもんないねん! なに微笑んどんねん。なに電車がどっか行った風圧で髪なびかせとんねん。アホが。

声が出ないのです。怖いとか気持ち悪いとかではなくて、ビックリしたとかなに言ったらいいかわかんないとかでもなくて、単純に声が出ない。「持ってない」って言えない。ちゃんと持ってないって教えなあかんのに。西辻、あたしのカバンに採取したしっこが入っとる可能性があると思っとるのに。それが声にならん。声にならんわー、と思ってたら。

 

気付いたら、駅の医務室にいた。駅員のおっちゃんと、西辻と、お医者さん的なポジションの人がいて、「貧血や。まだ暑いで」と、聞き取れたのはこの言葉だけ。声の質的に、おっちゃんが言ったんかな。西辻ちゃうのは確か。

「新学期ってなにかと疲れるんです」

「わかるわかる。おっさん、高二の二学期なんか、ほとんど学校行ってへん」

「それやんちゃやったからでしょ。普通行きます」

この辺で、あたし気ィ失ったんや、って思った。ほんまに気ィ失うこととかあんねやー、貴重ー、とかも思った。思って、なんでかわからんけど、もうちょっと気ィ失い続けてる演技をしようと。ほんま、なんでそう思ったんかはわからんけど。意味不明やし、今思ったら。でもそのまんま目ェ閉じて、横になっとった。

「彼女、同い年?」

「一個上っす。あと彼女ちゃうっす」

「彼女ちゃうの?」

「ちゃうっすちゃうっす」

「茶臼山?」

「おもろいっす」

おもしろしおもしろし、と心の中でひとり。将来の旦那がこんなんやったらエグいなァ、などとも。

しかし西辻はこんなおっさん相手でも、まともに談笑を続けている。おそらくお医者さん的なポジションの人が、「救急車呼べへんねやったら、俺もう行くで」と部屋から消えて、駅員のおっちゃんと西辻と寝たふりをしているあたしが残る。そろそろ身体起こすべか、と思ったとこで。

「ほいでも、兄ちゃんこの子と喋っとったんやろ?」

と、おっちゃん。

「そうっす」

「体調悪そうやな、とか思えへんかったん?」

「元気ないんかな、くらいには」

「いきなり倒れよった?」

「そっすね。ぼくがおしっこ売ってくれって頼んでたんで、そのことに触れたらいきなり」

茶でも飲んでたら、盛大に吹いてたろうよ。大陸的なやァ、えェ? 見ず知らずの他人にその話する? 頭湧いとんちゃうの。や、聞くようなことちゃうすわ。湧いとる。完全に。それともなに。西辻の中では、しっこを売買するのってごく当たり前な? 日常茶飯事行われてる取引って認識なん? てかもう誰かのを買ってたりすんの? まあ、 仮にそうやったとしてもよ。世間的には全然普通に、誰でも気軽にやってることちゃうってのは、知ってるはずよね。いきなり初対面のおっさん相手にこんな話する? わからん。わからんほんまに。

ただ、あたしも一点気付いた。西辻、あたしに「くれ」って言っとるわけじゃなかった。「売ってくれ」って言っとるんやった。つまりカネ払うでって。購入するでって言っとる。これ、どうよ。タダではない、タダでは貰えない、カネ払えば可能性ある、って踏んどるわけや。アホやからか? 湧いとるからか? 慣れとるからそうなるんか? なんも推理できん。ちゅうか、ちゅうかな。相場はなんぼやねん。コップ一杯なんぼやねん。売り手の利鞘はどうなんねん。しばいたろけ。

間があった。考えを巡らすには不十分な短さではあったが、直感的に破滅が近い気がした。

「おもろいやんか」

――おもろい。

おっちゃんの一言は意味や内容や状況等、ライブが終結した小屋でしか成立し得ないグルーヴの余韻を引き起こし、強烈な虚無と強烈な喪失感を、つま先から心臓にもたらした。あたしの血の気は見事に失せた。肌は死体のように青白くなり、身体は微塵も動かなくなり、思考も完全に停止した。ともすれば、これはあたしの最後のプライドだったのかもしれないが、失禁しなかったことだけが、唯一の救いなのかも知れない。むしろ、ここで漏らすようなことがあれば、それはあたしが死んだ証拠にもなりえただろう。裏を返せば、あたしが生きているという確認は、そんなことでしか取れなかったということだ。

だからと言ってはなんだが、死んでようが生きてようが、もうそんなことはどっちでもいいことだった。たまたま生きていた、ただそれだけのことだった。

2017年10月9日公開

© 2017 十丸早紀

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