濡れもこそすれ

十丸早紀

小説

54,835文字

なんてすかね。ちょっとした余裕が立腹を誘うっていうか、オシャレが身の丈にあってないっていうか、攻める場所を間違えてるっていうか。
「だったら割り切って全裸になればいいのにさー」
あー、そう! わかりましたよ! やりますよ! で、おお脱いだ脱いだ、って見てたら、靴下だけはちゃんと履いてる、って、そういうの。
とはいえ服着るのは一応ルールだよなー、とかまァだ思ってる。ほんといい加減にしたほうがいい。

11

 

日曜日の朝は、お母さんの朝食から始まる。

テーブルに置き去りにされた最後のペコちゃんを見たお母さんは、

「懐かしいやん。きょうびこんなん買うー?」

と興味津々。姉妹は口の中だけで微笑んで、特に説明はしなかった。

「保恵、好きやったもんなァ、これ」

お母さんがいちびり風味で言う。正味、そんなイメージ持っとらんかったけど。あたしも保恵も、そこにあったから舐めとったくらいのもんちゃうの。

「そんで一回、お父さんがアホみたいに買うてきたん。喜ぶ思て。アホやから」

お母さんは大きく笑って、「虫歯なるから全部没収」と付け加える。

「なんかでも、あれやね。なんかあるたんびに、アホのおっさん思い出すね。アホが亡くなって三ヶ月。別にもう時間とか関係ないけど、もうミツキ」

悲壮に言わないところが、成長ってかな。お母さんもお母さんで、だいぶ慣れたっていうか。

でもなんや。やっぱりあたし、なんか欠けとる気がする。気のせいかもしれんけど。

とっても抽象的な思いのまましかし、食卓はとても具体的。朝食は、玉子焼きとアルトバイエルンとお味噌汁、そして白いご飯とある。とても立派で嬉しい。こういうのが一番嬉しい。

ちなみに母は灘区の生まれで、ウインナーはアルトバイエルンと決めている。もちろんこれが灘区生まれに起因するものと仮定しているのは、このあたしである。本人の言質はない。ただし、異常なこだわりがあるのも事実である。

さて、何食わぬ顔で朝食を喰らうあたしだが、あ、矛盾か。まあいい。慣用句として何食わぬ顔で、実際の行動では朝食を喰らうあたしだが、めんどくさいなもう。とにかく心に決めたことがあるから白状する。これから起こることを、事前に公表するのは極めて間抜けではあるが、主体性を重んじて行動するのだから、これで誰から何と思われるかは、本質的にはあたしに関係がない。ちゅうか、関係がないと思うしかない。皆さんに委ねますよ全て。

はっきし言うたる。今日あたしは、西辻と対峙する。

勇気とか根性とかそういう言葉は、はっきり不要や。精神的な問題はいつだって後付けや。

決戦は正午。歓楽街、堺東ジョルノ四階トイレ前。

ご存じない方が大多数でしょうから、一応説明しますけど、ジョルノは駅から立体交差点で直結しているにも関わらず、大半のテナントがシャッターで閉ざされている、いわば廃ビルなのだ。四階はとりわけひどい。歩いている人がいれば、まず幽霊を疑うべきってくらい。誰もおらん。

土曜日の深夜から日曜日の早朝にかけて、一睡もしない奈津の習性を利用して、あたしは西辻の連絡先をゲットした。まだ日も昇らないうちにカタキに連絡を入れると、コンマ二秒で返事が返って来て、トントン拍子に予定が決まる。あたしの作戦が、あたしの思っていたよりもスムーズに進んだところで、今に至る。朝食を喰らう。パキパキウインナーをパキパキさせる。

この戦いに、客観的勝敗はないと思われる。

だってそうやん。なにをしたら勝ちとか、どうなったら負けとか、そういうルールなんかないんですもん。じぇじぇじぇ! みたいなのもないし、こりゃあいっぱい食わされましたなァ、ガハハ、的なのもない。ないんですよ、なんも。でもないほうが楽です。話はデカくしないことですよ。いろんなことを巻き込まないことですよ。あくまでも個人的に、高木聖奈のやり方で、ヤローと対峙するんです。

「お姉ちゃん、なにがそんなにおもろいん」

武者笑いでもしていたか、保恵が怪訝な目でこちらを見る。

「人生」

「狂った」

するとお母さんが割り込んで、

「聖奈のそれは昔から」

だと。

 

家を出る直前、なんでこんな日に、わざわざちょっとおしゃれな服を選んどんねん、と自分を叱責。可愛く思われる必要ないのに。でもそういう問題ちゃうよな。アイラインと一緒でさ。

お母さん寝てるし、保恵見当たらんしで、玄関飛び出し無言の出発。スタンド蹴って跨って、出発進行発車オーライ。自転車のペダルを思っきし踏んで、堺東を目指す。嘘でも奮い立たせる。

不安がないといえば嘘になる。もうバックれたって、戦わんかったって、おんなじやんか、とも思う。西辻と戦って状況が悪くなる可能性やってあるやん。やっぱやめといたほうがええんちゃうん。なんかこれ以上の大きな問題になったとて、あたしも被害者のひとりです、みたいな顔しとったら、助けてくれる人やってたくさんおるやろうし。動く必要ないんちゃうん。リスクしかないんちゃうん。

巡る。脳内を。不安が巡る。

負けてたまるかと、より一層脚を動かす。脚を動かすと車輪が回る。車輪が回ると前に進む。汗をかく。息があがる。

いつだって人生は主体的や。主体的であること、それが人生や。

好きにやらせてもらう。戦わせてもらう。あとのことは知らん。考えたって無駄や。なるようにしかならん。そんなもんや。

ほぼ一直線の道をすっ飛ばし、中百舌鳥の小さな踏切をギリギリで渡る。遮断機が髪を撫でる。知ったこっちゃない。こうやって生きて行くんや、あたしは。

三国ヶ丘を越えて、堺東までずっとずっと下る。車やって二十キロで走らなあかん道。一輪駆動のママチャリは、車輪が浮くほどのスピードで転がる。どんどん行く。まだまだ行く。行け行け進め、ズンシャカ進め。ズカンズカン走れ。もっと速く。もっともっと速く――。

――いつしかを思い出す。お父さんとふたりで、珍しくふたりで、この道を走った。あたしはまだ小学校にも入ってない頃、お父さんの漕ぐママチャリの後ろに乗せられて、あたしは叫んだ。

「ダナさん、速すぎやって」

ダナさん、全くブレーキ掛けへんかった。ネジ飛んだんちゃうかってくらい、笑ってた。

「聖奈ァ、転けたら怪我するんも死ぬんも、俺と一緒やで」

「嫌や」

「なんえ、俺と一緒に死にとうないか」

「死にたない」

「せやけどお前、俺のブレーキ壊れとるわ」

「ウソや」

「ほんまやで」

そう言ってダナさん、猛スピードでカンカン鳴る高野線の踏切を突っ切った。突っ切ってすぐ右に曲がって、コンビニの前で停車する。

心臓が、これでもかってくらいバクバクしているあたしに向かって、ダナさんは大きく笑い、そして、

「お前、よう耐えるやないか。さすが俺の娘やの」

そう言って、ハイライトを取り出して、百円ライターで火をつけた。

「ええか聖奈。今生きていること、それだけがすなわち真理や」

あたしは、このジジイ殺したろけ、って表情でダナさんを睨みつけるけど、ダナさんは更に笑ってこういうのだった。

「死んだらあかんで。死んだらそんな顔もできひんで」

しこうして、自転車は踏切を抜け、コンビニに到着する。背中で呼吸しているのは、自転車が速すぎたせいだ。ただし、どこにもお父さんの姿はない。

きっと、心の中にも常いない。

死んだらあかんと言いながら、さっさと死んだお父さんは、常いないお父さんは、これからもあたしの人生のことある瞬間に、絶妙なタイミングで現れて、それっぽいことを言って、きっとまた消える。

そして消えるたんびに思うんだろう。あたし、お父さんのこと、ゼロやと思ってるわけちゃうんやなって。

お父さんは、あたしにとってそんな存在や。

コンビニでお茶を買う。一番安い五百ミリ。それだけレジして、すぐに店を出る。配管むき出しの古い雑居ビルの一階に、おそらく、もうしばらく営業されていないであろう、占いの看板が立て掛けられていて、ポップ体の活字には「最近、導伝念……?」とよ。

――茶を。半分飲む。

発散された。いろいろと。

呼吸が強くて上手に飲めなかったけど、一息にいった。瞬間的により強くなる呼吸は、しかし次第に落ちついてゆく。気持ちも少しは穏やかになる。ストーブのように燃えるのではなく、オイルヒーターのように、じんわりと。それは、じんわりと。

よし、やるか。

 

わざと十分遅れでジョルノに入った。

辛うじて営業している一階のCDショップには、モーニング娘。の文字が色画用紙にくり抜かれている。これを最先端と見るか、時代遅れと見るかには、議論の余地があるだろう。ただ、今は余裕がないのでまた今度。私見だけ述べておくと、時代遅れだと思う。

利用者ゼロ名のエスカレーターに乗っかる。歩みを止めると熱も冷めそうだったので、階段のように上る。二階、三階と目だけでフロアを確認するも、そこにはシャッターしかない。人間の気配もなく、蛍光灯だけが無駄に明るい。

あるいは、ジョルノはショッピングモールやねんから、この明るさは適切なはずやけど、でもなんやろか、この無駄遣いな雰囲気。別にあたしやって、いつもいつも節約しとるわけちゃうけど、ここまで必要ない明るさを、一日中提供しとんかと思うと、なんか、めっちゃなめられてる気がしちゃう。この不用意が、あたし自身の不用意な感情を呼び覚ましたところで丁度。

辿りつく。四階は、静かだった。

しかし、これは平穏にまつわる静けさではないと、直感的に。

ともすれば、捜す、という行為すらしなければならないのではないかと、あたしは焦った。あたしの計画では、少しでも立場を優位に保つために、西辻を待たせておく必要があったから。

トイレに差し掛かる角の前で、人の気配を伺った。

物音ひとつない。

耳に幽かに届くのは、建物に流れる誰ぞのコンチェルトだけだ。ヴィヴァルディだかストラヴィンスキーだかメンデルスゾーンだか知らないが、いつぞやのどこかで、一度聴いたことのある、

「先輩」

遠くより声。低くもなく、高くもなく、丁度いい。機械的でもなく、間違いなく血の通った声だ。不意とは、まさにこのことだ。あたしが通路の西端にいたとすれば、西辻は東端より声を発した。表情は見て取れない。ねずみ色のパーカーに、オーソドックスなジーンズ、そして肩から鞄を下げていた。

「やっぱトイレってここだけっすよね。他にもあるんかなと思って探しましたよ」

喋りながら近づいてくる。速くもなくゆっくりでもない、その普通な速度が怖い。普通が、こんなときの普通が、なによりも怖い。

一度失神した思い出が蘇る。もしここで意識を失ったら。駅のように他に人はいない。どうなることか、想像もつかない。いや、想像したくない。

「ヤー、急な連絡でビックリしました。学校で言ってくれればよかったんですけど」

会話するのに、適切な距離で西辻は立ち止まって、爽やかに笑った。笑ったが、耳だけは赤かった。

このままだと負けてしまう。負けるわけにはいかない。

あたしは自分でも驚くくらいゆっくりとリュックを下ろし、中からペットボトルを取り出した。中腰でそれを西辻の方へ向けて、睨みつけるように見る。

西辻は一瞬カッと目を見開いたが、すぐに笑ったような表情に変わった。あたしは、ここでなにか言ってやることが、戦いの勝敗に影響すると踏んでいたが、作戦を変更して、ただ黙った。

「あの、マジで言いにくいんすけど」

あたしはまだ黙っている。

「シャレっすよ。先輩のことは好きっすけど」

嘘だ。いや、八割嘘だ。なにかのときのために二割分の逃げ道を用意しただけだ。顔を見ればわかる。

だって、昨日のあの顔と、おんなじや。お前のそのわざとらしい笑い方が。昨日の男の子に見せた、あの顔と。

「シャレでしたけど、せっかくなんで、貰っときます」

西辻は肩掛けから長財布を引っ張り出して、千円札を三枚取り出した。

「これ自分、なにに使うん」

あたしには、オカネよりも大切なものがある。勝ちたい。こいつに。自分自身の人生に。だからこれは単に用途を尋ねたわけではないのだ。勝つために、必要な質問なのだ。

「飲むん」

言っていて嫌になる。本当に嫌になる。

すると西辻は、いつもの爽やかフェイスに戻って、

「ヤ、浴びようかなと」

などと。

瞬間、変態ってのは、どこまで行っても、変態なんや、と怖くなるでもなく、呆れるでもなく、むしろ感心したものだ。

そしてあたしは無表情のままボトルのキャップをねじり、西辻に向かって思いっきりお茶を掛けた。胴体反射で手を翳す西辻に、何度も何度もボトルを上下に振って、これが上手く掛かっているのか、自分でも判断できないままに、ただ遮二無二お茶を浴びせ続けた。世界に音はないように思えた。あるいは、この時空における、この瞬間ってのは、あたしが知っている時間の流れとは、まるで違うスピードにあったのかも知れない。速いとか、遅いとか、そういう次元の話ではなくて、もっともっと命題的で、相対的で、ハードボイルドで、主体的な。あたしは、空に近くなったペットボトルを、最後は西辻の顔面目掛けて、思っきし投げつけた。

「これは昨日の男の子の分じゃ! ヨゴレが!」

叫ぶだけ叫んで、あたしは全力で走った。リュックのファスナーも閉めないまま、勝敗の確認だって後回しにして、ただただジョルノの階段を一気に駆け下りた。

遠くで、何者かの高笑いが、永遠に響いていた。

コンチェルトを背に。

2017年10月9日公開

© 2017 十丸早紀

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