この辺りの舟はすぐに休む。日が照りつけ川底がからからに乾けば舟は動かせないから、人も動かない。野分が来ればなににぶつかり、どこへ流されるかもわからないから、家に引っ込んで出てきもしない。大水だっておんなじことだ。しょうがないね、龍神さまがご機嫌斜めっちゃぁ手前らにゃどうもこうもしようにないさ、と言って船頭はすぐに仕事を休む。
特に大水の時には、船頭はすばやく陸に舟をあげ、龍神さまが早く鎮まるようにと祈るほかなかった。川が荒れ狂うのは、龍神様の機嫌が悪いからだ。それなのにその背中を竿でちょいちょいとつついたりしようものなら、龍神様はとたんに怒り狂ってまちごと濁流に飲み込んでしまう――とこの辺りのものはみな信じているのだった。
二人が来たのは、そんなふうに舟が休んでいる日だった。
雨脚が強まり始めた昼下がり、僕と捨八は茶屋の長いひさしの下で雨を避けながら、釘を拾っていた。野分に家を飛ばされてしまわないようにと二人で雨戸に板を打ち付けていたのだが、捨八がけつまづいて釘をばらまいてしまったのだ。僕はぶつぶつと捨八に文句をいい、捨八はすっかりしょげかえって、無言で釘を拾っていた。だというのに、どういうわけか僕たちは二人、同時に背後を振り返ったのだった。
景色は雨に破られ、白く霞んでいる。その中にぼんやりとふたつ、灰色の影が滲んでいた。それがなにかは僕達にはわからなかったが、少なくとも木や家でないことだけは確かだった。右は入道のように大きく、左は豆粒のように小さな影が雨の中に灰色に滲んでおり、小さい方の影はうさぎのように飛び跳ねていたからだ。影は少しずつ濃くなり、そして二人は雨の中からあらわれた。
蓑をつけず、傘さえもささずに二人は街道を歩いていた。ぬかるんだ道に雨がはね、足元が白く霞んでいる悪天候だというのに、ちっとも困っているようすはない。
こんな雨だってのに、平気な顔して歩いてるなんて、ありゃ雨入道と雨降り小僧じゃないか、と捨八は眉をひそめて僕に囁いた。僕達はしゃがみこんだままじっと息を殺し、影の行方を見守った。その人影が僕達の知っている誰よりも大きかったので、怖かったのである。
奇妙な二人組だった。
大きな影は男のようだ。相撲取りのように巨大な体躯の上に、申し訳なさそうにちょこんと頭が乗っかっている。雨よけのつもりなのか手ぬぐいをかぶっているが、その下の髪の毛はざんばらに乱れ、しかも今は雨でぺたりと頭に張り付いて情けなさそうな風体だ。着物はぐっしょりと濡れて袖から水が滴っており、脛から下はべっとりと泥がついて汚らしい。しかし、その大きな体からは湯気が立ち上り、この雨の中だというのにさして寒そうには見えなかった。
そんな大男が、小さな影の手をひいている。それがなにかちぐはぐとして見えて、僕は気付かれないようにそっと首を伸ばし、かれらを伺った。
大きな影は茶屋の軒先をかすめたところで不意に足を止めた。かれの前には土手を削って作った階段があり、そこを下っていけば船着き場がある。男の場所からはたぶん誰もいない沈みかかった桟橋をのぞむことができるだろう。そしてそのむこうにはごうごうと音を立てて流れる川がある。
大男はその場で緩慢に二度ほど足踏みをした。覇気のない音をたてて泥がはね、小さな影がきゃあきゃあと甲高い声をあげた。
「舟がない!」
小さな影は事実を端的に述べた。降りしきる雨の中だというのに、その声はよく響いた。大きな影は手ぬぐいをひらりとほどき、だなぁと呑気に同意した。
「舟がないならどうしょうもねぇよ」
捨八はしげしげと大きな目をさらに丸くして、この不思議な二人を眺めている。
「どっかに泊まってかなくちゃなんねぇけど、どうしたもんかね……」
左右をみまわした大男だが、僕たちのことはまだ気づいていないようだ。かれは足にしがみついている子供の頭をなで、どうしたもんかね、ともう一度言った。
「ま、あっちに戻るっきゃないか、雨の当たんねぇ場所を探さねぇと――」
「六睦! さっさと支度しなさいって言ってんだろう! いつまで――あら」
突然とびかかってきたおかみさんの声に、僕はびくりとして首を縮めた。捨八も飛び上がった拍子にごつん、と壁に頭をぶつけたが、うんともすんともいわずに腰に下げた手ぬぐいをひらりと広げた。だが、目はまんまるに開いたままだ。
その点、戸から顔だけ出したおかみさんはたいしたものだ。突然の人影にも慌てず騒がず、おかみさんは舟は仕舞いですよと愛想よく声をかけた。
「風も吹いてきたし、出歩いてちゃ危ないですよ」
「ここも仕舞いかい」
「そうですよ、お天道様が帰って来なさるまではずっと仕舞いですよ」
仕舞いだとさ、と大男はこどものように傍らの影に伝えた。小さな影はうんともすんともいわず、小首を傾げているだけだ。雨脚はますます強まり、二人の頭を叩いている。
「そこを真っ直ぐ行くと宿場がありますから、あんたたちも早く宿をとって今日は外に出ないこってすね。こんな陽気じゃ――」
「それができりゃ苦労しねぇんだけどさ。どうしたもんかね」
そののちも捨八はこの大男のことを「どうした右衛門」などと呼んでいたが、たしかにかれは鷹揚な口調でそんなふうに繰り返すばかりの男だった。おかみさんも困ったように肩をすくめたが、ふと大男の隣に佇む小さな影に気づいたのか、あらまぁと素っ頓狂な声をあげた。
「雨に濡れてちゃ風邪引いちまうだろう! 六睦、傘持っといで! なんだい、捨八もそんなとこでぼやっとして!」
くるりと踵を返して奥にひっこんだおかみさんは、家の中に入ってもまだなにか喚いている。僕はしかたなく軒先に立てかけていた蛇の目をはらりと広げ、男にさしだしてやった。きゃあ、とまた小さい影が声をあげる。
「あんたたち、どっから来たんだね」
捨八は急に尊大な口調でそんなことを言った。二人に軒下に入るように手招きをしているが、まだ顔はこわばっていて二人のことを妖怪なのではないかと訝っている様子が知れる。
「八幡さまのとこから」
僕から傘を受け取った大男は、開いている手で子供を軒下に押しやった。子供も子供でまるで臆することなく、するりと雨のかからないところに入ってくる。よく見れば後頭部の髷に小梅色の手絡まいており、女の子のようだ。衽もずいぶん長くとっているので四、五歳といったところだろう。前髪がぺたりと白い額にはりついてすっかり濡れぼそっているが、彼女は屈託のない笑顔を僕と捨八に向けた。
「てぇとぉ、下小野かい。それとも成田かい」
「なりた?」
「お不動様がいるとこさぁ」
捨八は元来子供が好きなたちだ。すっかり大男のことはどうでも良くなったのか、彼女が頭に載せている手ぬぐいをさっと奪い取り、かわりに先ほど広げた彼の手ぬぐいを彼女にさしだしてやった。彼女も人見知りをしないたちなのか、黒目がちの目をぱっちりと開いてにこにこと笑っている。
「お不動様もいた!」
「本所ですよ、本所の深川からずっと街道を歩いてきてさ」
困ったように男は口を挟んだ。大柄な体に見合う低い声だが、脅すような響きはない。捨八はすい、と黒目だけを動かし男をみやっただけだ。
「ずうっと天気が良かったんだが、急に風が吹いてきやがって……」
すとんと子供の前にしゃがみこんだ捨八は無言のまま、こどもの腕を引いた。そして彼女の濡れた顔をごしごしとこすりはじめる。彼女は嫌がるように身をひねったが、泣き出しはせずに、むしろケタケタと笑い声をあげてひどく楽しそうだ。
「……本所ってぇのは、どこいらだね」
「大江戸だよ」
首を傾げた捨八は大江戸と聞いて合点がいったのか、あぁと曖昧な返事をした。この辺りは小江戸などと呼ばれているが、だからといって本家本元の江戸――東京に明るいわけではない。そこは単なる遠い街で、そこへ行ったりそこから来たりする荷物のことはわかっても、土地のことは何一つしれないのだ。
「そりゃずいぶん遠いとっから……お参りかい」
「いやぁ、お江戸が東京になっちまってからいろいろ物騒なもんでさ、この子の母さんも死んじまったことだし、この際故郷に帰ろうかって……まぁそれはいいんだけどさ、餞別が尽きちまってよ――」
「お前さん、名前はなんてんだい」
男の話を無視して、捨八は唐突にこどもに話しかけた。男は妙な顔をしたが、気分を害したわけではないらしく、口をすぼめて静かになる。捨八はこどもの髪の毛から水気を荒っぽくぬぐいとり、手ぬぐいを絞った。
軒にあたる雨音が強さを増している。茶屋は木に遮られているので少しましだが、風がときおりゴオォと唸り声をあげ去っていくたびに、屋根が細かく震えた。こどももぷくんとふくれたほっぺたを上に向け、音の過ぎていく方向を確かめている。
「龍神様の機嫌が悪いんさぁ。でもそのうち疲れて眠っちまう。龍神さまが大人しくなったら風だってどっかいっちまうし、心配するこたねぇさ」
「ほんとう?」
「ほんとさ。俺はずっとここに住んでっから間違いねぇよ。明日はまだ舟は出せねぇけど、三日もすりゃぁ龍神様もおとなしくなんべ」
うん、と彼女はうなずき、口をきゅっとすぼめた。赤らんだ頬をのぞけば彼女は幽霊ではないかと思うほど肌が白く、黙っていると今にも消えてしまいそうな気がする。かよわい、小さな女の子だ。
「名前、なんて言うの?」
「ん? 俺かい? 俺は捨八だよ。あいつは六睦。へんてこな名前だろ」
「りつむく?」
りくむつ、と僕は訂正したが、ようやく戸口に戻ってきたおかみさんに頭をひっぱたかれて口をつぐんだ。その間も男はぼんやりとした顔をして、傘を片手に突っ立っているだけだ。なにか生気の感じられない目をした男だが、素早く視線を動かして辺りを探っていたりはしないので、きっと悪人ではないのだろうと僕は思った。だいたい悪人がこんな小さな女の子を連れて歩いているなんて変だ。
「あたし、やえ」
にかりと白い歯を見せ、彼女はそんなふうに言った。
大水が来るとき、おかみさんはいつも街の旅籠に世話になる。そこはおかみさんの妹が嫁いだ旅籠で、妹以外に親類のいないおかみさんにとってはほとんど自分の家のようなものだ。
ここいらの人間は川の氾濫で人が流されることが少なくない。現におかみさんの旦那さんと娘は大水で氾濫した川に飲まれ、死体も上がっていないのだった。かれらが川に飲み込まれて以来、おかみさんはずっとひとりで茶屋をしており、女手ひとつではどうしようもないことがある時は、旅籠に頭を下げに行く。
旅籠のひとびともおかみさんのことは好いており、なにもないときでもおすそ分けをくれたり、便宜を計ってくれたりするので暮らしに不自由はなかった。こんなふうに野分が来る時だって、ただで部屋を貸してくれる。僕はただ、おかみさんにくっついて街まで行き、あとは誰も居ない客間で家が震えているのに怯えながら、眠るだけでよいのだった。
しかし今日は土産がふたつもある。やえはまだ小さな女の子だから構わないが、問題は大男――かれは丈次と名乗った――の方だった。
ずぶ濡れのやえを腕に抱いて捨八はせかせかと旅籠に行ってしまったが、丈次はまったくのんびりとした様子で、おかみさんと和やかに話をしていた。
東京からここに来るまでの間に道賃をすっかり使い果たしまったので、宿を取る金がない、ということをかれは語った。ここ数日は野宿でしのいだという丈次におかみさんはすっかり呆れ返った顔をしていたが、叱りつけることはしなかった。叱りつけても仕方がないと思ったに違いない。
「全く姉さんもすぅぐ子供を拾ってくるんだから……犬や猫じゃないんだから」
「仕方ないじゃないのさ。あのままほったらかしにしてたらすぐに病気になって死んじまうよ」
「ねえさん」
おかみさんの妹はおみつさんという。眉間にしわを寄せたおみつさんはさっきからずっと首を横に振ってばかりいた。
「姉さん、あの子はしようがないけど、あっちの男のほうは――やくざもんでしょう」
旅籠屋についてすぐ、湯をつかわせてもらったやえだが、道中の疲れがよほど溜まっていたのか、すこし沢庵をかじったかと思うと、座ったまま眠りに落ちてしまった。捨八がもしそこにいたら、彼女を起こし食事を取らせようと躍起になったに違いないが、僕は彼女のために座布団で寝床を作ってやり、その上にどてらをかけてやっただけである。それでも彼女はくうくうと気持ちよさそうに寝息をたてて眠っている。
「わかりゃしないね、そんなの。確かに図体はでかいけどね」
「どっかから攫ってきたのかも……」
「もしそうだってんならおっつけわかるでしょうよ。佐原にだって邏卒とかなんとかいうのができたんだから、人さらいならしょっぴいてくれるさ」
「おかみなんて信用できるもんですか、どうせあたしらじゃわからないむつかしいことしか眼中にないんだから」
ふん、とおみつさんは鼻をならしまた首を横に振った。
「お人好しなんだから、ねえさんは……」
「お代がいただけりゃあたしはなんだっていいんですよ。どうせ茶屋にくるお客なんてすぅぐどっかに行っちまうんだから。それにしてもひえるね……六睦、ちょっと火鉢もらっといで」
「そんなこと言ったって」
僕はすなおに立ち上がって火をもらうために台所へ向かった。襖越しにひそひそと二人の話はまだ続いている。おみつさんの声は剣呑だが、それにやり返すおかみさんも負けてはいない。
風が唸り声を上げるたびに家が静かに震える。雨戸をしっかり閉めた上に板を打ち付けているので外の様子はわからないが、隙間風はどこからともなく入ってきて、しんしんと寒さが染み入ってくる。この野分が去れば空が抜け、秋が来る。
それにしても、と僕は思った。
確かに丈次というあの男からはなにか不思議な雰囲気が漂っている。やくざものかといえばたしかにそんな風体に見えないことはないし、体も大きいからおみつさんが警戒するのも無理はないだろう。しかし賭博師や的屋というようにはみえないから、単にぶらぶらと歩きまわるのが好きな頭の足りない男というだけかもしれなかった。現にかれの目つきはむしろ穏やかで、なにを聞かれてもやえにむかって「どうしたもんかね」というあたり、あまり頭の回転は早くなさそうだ。
「火鉢ある?」
「あ? あぁ、誰かと思ったら六睦じゃねぇか、驚かすんじゃねぇよ。まったくお前さんは猫みたいにするっと入ってくっから心臓に悪くていけねぇな」
「火鉢どこ?」
「なに。あぁ、みつが火鉢がほしいって?」
「うん」
あいあい、と答えた初老の男はぽんと膝をたたき、上り框から立ち上がった。奥で暇をつぶしていたらしい仲居が声を立てて笑ったが、かれはしかめっつらをして片手を腰にあて、よっこらせ、よっこらせと土間を歩いている。どこへ行くのやら、僕は訝ってぱちぱちとまばたきをした。
「火鉢を出すにゃ少し早かろうよ。確かに冷えるが……六睦、ちょっとここ開けてくれっかい」
この男はこの旅籠のご隠居で、いつも台所でとぐろを巻いているのだった。おみつさんも仲居も煙たがっているが、かれはなぜかカカカと高笑いをして嫌がらせのようにそこに居座っている。僕はといえば、飴をくれるこのご隠居のことを無碍にしてはならないと昔から胸に誓っているので、おとなしく土間に飛び降りて、かれの指差す方をみやった。
「歳を食うと腰が悪くなっていけねぇな」
「うん」
「しっかしなんだい、あの子はどっから湧いたんだね。おめぇみたいに川から湧いたってんなら大変なこった」
「歩いてきた」
「歩いてきたってどっから」
「道」
「そりゃぁ人間様は道の上を歩くもんだよ。それが道理ってもんだろ。すると小童(こわっぱ)の妖怪じゃぁなくて、人間様だってことか。ふむ」
僕は首を横に振り、土間に膝をついて物入れの蓋をずらした。とたんにぷん、とかび臭い匂いがする。客間に出すものと違って、身内で使うものはたいていこの物持ちの中に雑多に詰め込まれているから、一夏をこえるとすっかり湿気てしまうのだ。
「あれ、雨降り小僧だよ」
「ははん、おめぇも妖怪だと思ったな」
「捨八も言ってた。雨降り小僧と雨入道だって」
「捨八はなぁ。あいつぁ肝っ玉が小さいから、何でも妖怪のたぐいに見えんだろ」
長持ちの中にあった火鉢を腕で抱え、僕は勢いをつけて腰を伸ばした。がたり、と何かが落ちる音が聞こえたが、火鉢自体はひょいと持ち上がり拍子抜けするほどだ。
「小さな子でしたねぇ。随分元気がいいですけど」
「寝ちゃったよ」
「そりゃあれだけ濡れたら疲れるでしょうよ。こんな雨ん中歩かせるなんて、まったくなにを考えてんだか」
部屋の隅にいた仲居はよたよたと僕らの方に歩いてきて、ふうと一つため息をついた。今日はお客が一人もいないので暇でしかたがないのだろう。どっかりと上框に腰をおろし、彼女はまたため息をついた。
「六睦が出た時と同じくらいかね」
「それより少し大きいんじゃありません? 捨八がまた随分世話を焼いてねぇ……そんなに子供がほしいんなら早くお嫁でも貰いなさいって言ってんだけど、なんかもごもごはっきりしないんだから困ったもんですよ」
仲居の話はぽんぽんと左右にふれるので、僕は黙って火鉢を抱えていた。湿気った火鉢だが、炭を入れないことには話が始まらない。しかし二人はまるでそんなことに気づいていないように、捨八がどうのこうのと話をしている。正直僕は捨八なんてどうでもいいと思ったが、黙っていた。
「あの子、名前はなんてんだい」
「やえ」
「はぁ、えらく縁起のいい名前だねぇ」
「うん」
「さあさあ、そんなとこつったってないで、早いとこおみつに火鉢持ってっておやり」
「炭がないよ」
あぁ、と膝をうった仲居はなにを思ったか顎を逸らして笑った。そしてなにやらご隠居の二の腕を叩き始める。
「あたしったらやだねぇ、最近ぼけてきちゃって……炭がないのに火鉢もなにもないわねぇ」
「しっかし六睦もちったぁ成長したもんだな。昔なんかあれだろう、持ってけって言われたら火鉢そのまんま持ってって後で炭だけ取りに来たもんさ。こりゃぁ捨八よりずっと賢いなぁ」
「なに言ってんですか。六睦は最初に来た時からずっと賢いですよ。ここにのぼんにも抱き上げてやらなきゃなんないくらいちいさいころからさぁ、筆を持ったらさらさらって、おもしろがってお前さん、いろいろ書かせてたじゃないか。難しい漢字でもすらすらかくって」
僕は首をかしげ、上り框に腰をおろした。ひとかかえもある火鉢をずっと抱えていてはつかれてしまう。それに炭に火を入れてから暖かくなるまでには少し時間がかかるだろう。まだ秋の半ばだからそうたくさん炭を入れる必要はないが、しかし同じくらい僕がずっと抱えている必要もないのだった。
「六睦、最近寺子屋には行ってんのかい」
「ううん。つまんない」
「さすがにむつかしいかい」
「ううん。簡単でつまんない」
「まったくこいつは」
カカカとご隠居は声を高くして笑った。
「あんたそりゃぁ、おゆうさんに出納帳を叩き込まれてんですよ。金勘定なんて息するようなもんでしょう」
「寺子屋は金勘定のことばっかりやってんじゃねぇだろうよ。文明人のなんたるかを学びに行くんだろ。それにここいらじゃ伊能先生さまさまだからさぁ、えぇと、なんてぇんだったか、あれだよあれ。あれだ」
「あれじゃわかりませんよ」
「とにかくあれだよ。地図を作れるようになるとかなんとか」
「へぇ。六睦、あんた地図作れんのかい?」
ううん、と僕は首を横に振った。
おかみさんのすすめで僕はこのまちに来た時から寺子屋にかよっている。今でもたまに顔を出すには出すが、読み書き算盤はもう何年も前からできるし、師匠の持っている書物もだいたい読んでしまった。それに僕は志士になるわけではない。たぶん、ずっとここで龍神に会いに行った母を待ち続ける一生だ。仕事は船頭で、それ以外にはない。そう悟ってしまった僕にとって、書はさして面白いものではなかった。算術は面白いと思うこともあるがのめり込むほどではないし、外国語は読めないことはないがつまらないことばかり繰り返しているので興味はそそられない。
「炭は?」
「あぁそうだった……ちょっくら取りに行くかね。ついといで」
うん、と僕はおとなしく頷いてまた口をつぐんだ。ご隠居と仲居は話し込んで、立ち上がる気配がない。
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