僕は息を吸い、また吐いた。床がゆっくりと沈み込み、遅れて畳がこすれ合うかすかな音が聞こえる。瞼の裏を柔らかい春の光が染め、体は浮き上がるように軽く、苦痛は何一つ感じられなかった。やさしいあたたかさのなか、体の怠さとともに僕はまどろんでいた。
まるで熱を出した時のようだ。父は畑に出て、階下では母がテレビをつけている。ざらついた人の声に僕はまどろみ、時折わっと大きくなる雑音に目をさます。そして、あれはテレビの中の笑い声だとしばらくしてから思い至るのだ。そうするうちに電話がなり、テレビの中の声よりもずっとはっきりとした声音で母が「もしもし? あぁ、こんにちは」と話をはじめる。僕は目をつぶったままそれを聞いている。僕の幼い頃の記憶だ。
しかし僕の意識はまたすぐに、ゆっくりと沈んでしまう。
くらい沼の底で僕はさまよっている。どれだけがむしゃらに光の方を目指しても、一向にこの沼から抜け出すことができない。たとえ縁に手をかけたとしても柔らかな泥はすぐに崩れ、僕の手はまた水の中に戻ってしまう。草をつかんでも引きちぎれ、あるいは脆い泥から離れ、浮草になるだけだ。僕はぼんやりと、泡が水面に登っていくのを仰いでいる。ずっと、ずっと暗い沼の底にいる。そんな心地がする。
再び頭のなかの記憶が蘇る。弱々しい老婆の声が繰り返し同じことをささやいている。これは祖父が村に戻った日のことだ、と僕は思った。嘉平さんが死んだ後、祖父が村に帰るかどうか決めるために、治郎吉さんが足を運んだときのことだ。
嘉平さんの父、つまり僕の高祖父はその時にはすでに死んでいたが、高祖母はまだかろうじて生きていた。腰が悪くなり、頭もボケて、ほぼ一日中眠ってばかりいたらしく、面倒は森江がみていたと記憶している。いや、そのことは祖父がもう少し大きくなってから理解したのだったか。いずれにせよ、高祖母はもはや幼子を育てられる状態ではなかった。
道中、祖父ははしゃいでいた。家族がみんな死んでずいぶん塞ぎこんでいた祖父が珍しく走り回っていたので、治郎吉さんも目を細くして喜んでいた。かつては嘉平さんの手をひいてその坂道をのぼった治郎吉さんの手を、祖父はぐいぐいと無遠慮にひっぱって坂道を登った。まだ青い米の穂が風になびき、稲穂の上で跳ねる初夏の日差しが靄がかったようにきらめいている。祖父は嘉平さんが覚えた軍歌を元気良く歌い、治郎吉さんにほめられながら歩いた。
用水路にはどうどうと音を立てて清水が流れ、その上をオニヤンマが流れるように飛んでいる。一面の田圃のなかにぽつ、ぽつと時折人の頭があらわれ、また背を屈めて沈み込んでいく景色は、祖父にとって初めて見る、しかし見慣れた景色だ。
しかし、祖父が元気だったのはそこまでだった。森江の家で挨拶をしている時にはすっかりおとなしくなり、治郎吉さんと森江の話し合いの間も神妙にちんまりと座っていた祖父が何を考えていたのか僕は知らない。話し合いの後、彼らは高祖母に会うために村外れのあばら屋へ行った時も祖父はおとなしかった。森江の当代は、ここで暮らすんは無理だんなぁとぶつぶつ言い、婆やん、調子はどうかねぇ、と立て付けの悪い戸を叩いた。
祖父があの家の中に入ったとき、板間と囲炉裏があるきりの小さな小屋の隅には、黒ずんだ布団が敷かれ、黒い板間の上に白髪がばらばらと乱れていた。のそのそと布団が動くと、辺りに苦い煎じ薬の匂いと饐えた汗の臭いが漂う。暗闇の中でほのかに光る白髪の下に、日焼けした老婆の顔があり、なにか小声でつぶやいているのが見えた。祖父は治郎吉さんの腕をしっかりと掴み、記憶の中に残る高祖母の面影を探した。
記憶の中に最後に残る高祖母は高祖父が死ぬ直前、すでに老境には達していたがまだしゃきしゃきと野良仕事はできる歳だった。高祖母は高祖父のために粥を作っている。日に焼けた横顔を白い湯気が撫で、額にも口元にもしわがよって苦労をしてきたことが伺われる。
すまんなぁと高祖父は言った。すまんなぁ、苦労ばかりかけてぇなぁ。高祖母は笑ったのだったろうか。それとも口をへの字に曲げてそげぇなこと言うとる暇があったら、などと小言を言ったのだっただろうか。気の強い女性であった。
半分暗闇に沈んだ家の中に、障子紙をすかす太陽の光が差し込み、せんべいのように平らな布団を照らしだしている。布団は垢で汚れ、隅は黒くなっている。
かへい。
高祖母は怯えるように頭を振り、目を開いて祖父を見つめた。信じられないという、そんな顔をしている。しかしその顔に浮かぶのは決して喜びではない。むしろそれよりも恐怖が――
かへい、と再びほとんど聞こえない声を吐いて老婆はしゃっくりをした。
どがして戻ってきたんか、ここは――かすれた息にどうにか言葉が混ざる。彼女は細かく頭を振った。森江の主人は嘉平の子だがな、と無遠慮な声で言っているが、彼女はその言葉を聞いていなかった。カッと目を瞠り恐怖に顔をこわばらせ、闇の中に逃げ込もうとしている。まるで祖父を恐れるようにもがいている。
鼻孔をくすぐるかすかな黴の匂い。重い空気に胃がぐっと締め付けられるような心地がする。祖父は治郎吉さんの腕にしがみつき、ただ老婆を見つめた。そこにいるのは祖父にとっては祖母にあたる老婆だったが、決して歓迎されていないことを祖父は十分に理解していた。
「なぁ、婆やん、孫だがな。大阪から帰ってきたんだと。嘉平がなぁ、流行病で死んでしまってな、そいで身よりもないけぇ――」
「どがして戻ってきたんか……ここはわぁの里でなからぁが――……」
「婆やん……いけんなぁ、すっかりボケて……」
いけん、いけんと高祖母は早口で言った。祖父は治郎吉さんの腕に頬をぴったりとつけ、そんな高祖母の様子をみつめるほかなかった。
高祖母はなにを恐れていたのだろうかと僕は思う。高祖父も嘉平さんも特に何かを感じ取っていたふうはないが、祖父だけがはっきりとその怯えを感知し、しかし逃げもせず見つめているのだった。あれは嘉平さんが祖父に向けた眼差しと同じだった。あるいはなにも知らぬ大阪の人々が嘉平さんに向けた視線とおなじだったのだ。祖父はそのすべてを知っていた。そしてなぜそんな視線を向けられるのかわからなかった。
祖父にとって、嘉平さんの様子はなにもおかしいものではなかったが、他人が奇異な眼差しで見ることは知っていた。異なる在り方に恐れを抱いているらしいことも知っていた。
だがそんな中でも一部の人間は嘉平さんに対して優しいことを祖父は見抜いていた。異なるありようを理解しうる人間なら、優しくしてくれることを、七歳の子供が持ちうる知識のありったけあつめて理解したのだった。
じいちゃん、と小さな声で祖父は治郎吉さんを呼び、ぎゅっとその腕にしがみついた。
「たっちゃん?」
たゆう水面が遠い。目を赤くしている治郎吉さんは、祖父の頭をそっとなで、口元を笑みの形に整えている。祖父は治郎吉さんがそんな顔をする理由がわからず、息を吸い、祖父が唯一知っている軍歌をまた歌い始める。下手くそで歌詞がところどころ抜ける脳天気な歌だ。ちっとも勇ましくない。
しかし、それでも祖父は歌った。なにかを披露せねば可愛がってもらえないと祖父は知っている。それは嘉平さんが父だったからだ。祖父が尾古の男だからだ。
「……たっちゃん、きこえるか? 聞こえるなら返事しぃ」
「病院ついたって! 取りあえずできるとこまで処置したら、マチの方に救急車で行くぅ言うてた」
僕は息を吐いている。息を吸っている。意識していないと体の中に空気が入ってこず、風船のようにしぼんでしまう錯覚をする。胃から喉にかけていやに熱く、そのうえ重く、指は誰かの腕を掴んでいるような錯覚がする。右耳は砲弾の音に怯え、左耳は風にそよぐ稲穂の声になぐさめられている。
僕は息を吸う。そして吐く。視界はかすみ、輪郭はぼやけ、どこか一点を注視しようとしても勝手に動いてしまう。まぶたは重く、まつげは鉄のように皮膚に刺さっている。鼻の穴から出てくる空気は熱く、皮膚にこすれて痛みを伴うほどだ。
しかし僕は生きている。頭は混乱しているが、体はしぶとく動いている。生きている。
(――吐いてごせいや、頼むよ、考ちゃん)
(なんしてこげぇなことしただか、農薬なんか……! 吐いてくれよ、頼むよ)
たしかに誠二さんの声が聞こえる。弱り切って、おろおろとしている声だ。ぎゅうぎゅうと腹を押している手の感触もある。ぽつん、ぽつん、とまぶたの裏に赤い点が散るたび、その声が聞こえる。これは僕が聞いている声ではないのだろうと妙に冷静に僕は思っていた。
(誠二さんは頭支えてや、はよう!)
(クソオヤジ! なんで目ぇ離すか!)
「たっちゃん!」
がつん、と頭を殴られたような衝撃を受け、僕の口からうめき声が漏れた。沼はかすかに揺れ、こぽこぽとかすかな音を立てながら泡が登っていく。
「たっちゃん、きこえるか? えらいなぁ、えらいなぁ、ちぃとがんばりや、すぐ楽になるからな……」
「病院連れてったほうがええんちゃうか……」
「しかし考ちゃんがどうにもならんことには……」
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