スキゾロジック(3)

スキゾロジック(第3話)

渟足川祐也

小説

9,153文字

おそく起きた朝は、歯が抜け落ちる悪魔的幻覚に脅かされる。大学へ行くまでにまとわりつく煩悩。少女の携帯電話。講義にふまじめな学生たち。そしてボクは大学教員に殺され、幻覚の海で溺れる。

何んとかしつこいまどろみから逃げおおせたボクは、空色チェック柄のブランケットをかきわけ、ベッドから起きあがった。顎を痛めそうな欠伸に涙腺がゆるむ。そこら辺にあるジーンズから任意の一つを拾いあげてすばやく履く。コーヒーを落とすため、耐酸アルミニウムの円錐型ケトルを手に、便器脇の洗面台に向かった。ふたをとり外すのも不精して注ぎ口と蛇口をくっつけたまま汲水する。台所にも水道はあったが先月から故障しており、いまは洋式便器の真横で水をまかなっている。水道水が入って重くなったケトルをいったん便器のU字に置くと、再び蛇口をひねった。さらにそれから冷たい水道水で寝ぼけた顔をぬらしてTシャツの裾でぬぐい、歯磨きにとりかかる。フッ素配合の歯磨き粉がなすり付けられた歯ブラシを口腔に含ませると、犬のクソにでもすりかえられてないかぎり普段は気にしない香料が、嗅覚に触れる。口腔内の歯垢やその他の雑菌を滅殺するために泡立つ粉と歯ブラシの無作為な上下運動は別段、目新しくもなく、自律神経の延長であるかのように合目的的な作業として稼動している。ふとしたことから歯ブラシを引っかきまわす手が止まったのは、奥歯のあたりでガリっという違和感を覚えたからだった。差し歯でも外れたのかと、にわかに口腔内の神経が意識からの戒厳下におかれた。しょっちゅう歯医者に通っているとはいっても差し歯をつくってもらった記憶はないから、歯ブラシの頭部が砕けたのかと予想を訂正した。とにかく奇妙な音がしたところへ舌をすべらせてみると、それらしい物体に接触する。舌に乗せた未確認物体をベロごと口から出してみて、正面の鏡に検証してもらった。まぎれもなく歯とおもわれる欠片に少量の血が混じっていることを、アインシュタインのあっかんべえ状態で確かめた。この歳にもなって抜けそびれた乳歯があるわけもなければ、歯がすっぽ抜けるほど力をこめて磨いていたわけでもない。突然で、しかも稀有な出来事におどろきつつ、二本の角が生えた大臼歯を端に寄せ、まだ根を張っている三十本前後の歯にブラシをあてる。するとさきほどの異物感が再来したので、抜けた歯の残骸があったのかとおもって同じように口腔外へ出してみると、それはさっき抜けた歯とはまた別の歯だった。いつしか歯磨き粉のあぶくはマーブルピンクに変色している。あまりのことに急いで歯茎を上から下から舌でなぞってみても歯間に隙はなく、抜けた歯が両方とも奥歯であると判明した。心なしかほかの歯までもグラついているようなので、よくわからないが、歯磨きによるこれ以上の負荷は禁物だと察知し、水道水をためておいたコップでうがいする。口に含んでゆすいで吐き出した水は、流血さわぎの赤に染まっていて、さらに洗面器の湾曲したところをルーレットの玉みたいに、抜け落ちた歯がカラカラ音をたててらせんに滑った。排水口の入り口にひっかかった歯を拾って洗面台の隅に置き、何が起きているのか見当もつかずに再び口をゆすいだ。ルーレットの玉は次々と数を増やし、それにともなってボクの顎はとても軽くなってゆく。鏡に映る姿はもはや芸術的ともいえる目の血走り方とあいまって、まるで入れ歯をはずした吸血鬼のようだった。なるべく清潔そうなタオルを一枚とり、口に突っ込んで止血しながら、エナメル質の小片をいくつか手の上に広げてみる。歯茎に刺さっていた根っこの部分から米粒大のシロアリがうごめき、ボクの指をいっせいにかじりはじめた。かき毟ったり振り落とそうとするのは無駄に終わり、そのあいだにもシロアリたちは、集団で規則正しく指の肉をちぎりとっていった。このペースだと片手を蝕むまで一分もかからないだろう。

それらが幻覚だとわかっていてもなかなか洗面所から立ち退かずに所在なく頬や顎をなでまわすのは、うすのろの表情をみせる水銀のはげ落ちた鏡に、ほんの少しでも脚色がないかと望んだからである。キッチンに戻るとガスコンロの炎にケトルの底を舐めずらせ、そのあいだ、ざらつくペーパーフィルターの口が丸くなるように指先で広げ、実家から失敬した本格エスプレッソマシーンに設置した。極細挽きのチコリー一さじ半を加え、蒸気圧でがたつく前のほどよい熱湯を上からちびちび注いでゆく。エスプレッソマシーンといっても先月から故障しているので、お湯は自分で沸かすのだった。火薬のように黒く染まる粉末が、密造された南米の香りを運んだ。琥珀色の張ったマグカップを慎重にたずさえてベッドのへりに腰掛けると、枕元にある少女の電話が視界に入った。共通規格のケーブルで充電し終え、息を吹き返した明るいディスプレイに目をやると、新着メールが25件と着信が7件あった。友達の少ないボクの一ヶ月で発生する通話料金はあてにならないので、一日で7件という着信がはたして多いのか少ないのか、判別できなかった。急な用事かもだから次にかかってきたら代わりに出たほうがよおござんすと老婆心が囁き、他方で人の電話に出るのはプライバシーの侵害や非紳士的行為であるのみならず、ボクが誰なのか訊ねられたら絶句するほかないと懸命に諭すのだった。言っているそばからピート・ドハーティーの叫び声に合わせて着信が入ってきたので、どうすることもできず知らんぷりしておいた。呼出音が鳴り止むとマナーモードに切り替えて枕元に放置しておいた。胃の腑に染みわたるカフェインの覚醒効果に促されてにわかに活動しだした脳味噌が、テレビをつけろとボクに命じる。大学の講義は午後も遅くからなので、それまでまだじゅうぶんある時間は、映画鑑賞に充てることで自ら合意した。リモコンでHDDの中身をフォルダごとに漁ってゆく。このごろ妙に視力が低下して、字幕を追うのがひどく疲れてしまい、そういう労力が要らない日本映画ばかり観ている。邦画の魅力は目もあてられないほどいい加減な構成が第一に挙げられ、そのハチャメチャぶりが白黒の映像で展開されていく様子は、なんとも愉快でたまらなかった。昨日プレゼントを受け取った友人は、築四十年以上のカビとコケが生えた社宅の玄関でお決まりの謝辞を述べると、贈答品の中身を確かめないまま奥へと引き下がっていった。彼はまったく友人としての価値などないゴミクズ未満の男で、きっと彼もボクについて同じ見解を持っているに違いない。そんな彼にプレゼントを贈るのは形式以外の何ものでもなく、彼と友人でありつづける実用的で政治的な理由などないわけで、まったくもって互いにナンセンスな関係だった。今年もよろしくと書いたきり一年じゅう会わない年賀状の宛先と似た関係である。友人はそこそこ喜んでいたようなので、それが形式的な反応だとしてもボクの気持ちが及ぶ範囲ではないし、そういうボクの気持ちこそ形式だけの空虚なものであろう。そんなこんなで二本の映画を立てつづけに見終えると、手帳の時間割から確認した教科書と仏和辞典を布製のかばんに押し込み、アパートを出た。大学もバイトもサボって一日じゅう好きでもない映画を観ていたい。原書講読の授業があるというのに予習もそぞろで、教員の説明していることが次第に意味を持たなくなっていた。それもこれも学生の反応をうかがわずに実用性のない話をつづける担当教諭に責任があるのだと責めてみても、まちがった学部をえらんだボクの過失は否定できない。それでもいまさらアスファルトにうつむいて反省したふりをしたところで、心の底ではなるようになるでしょうと完全にあなどっていた。自分のだらしなさもここまでくれば貸本漫画の主人公と似たようなもので、悔いあらためる気がないところまでそっくりだった。それもこれも優しい両親が半ばニートであるボクを心配して、相当額の仕送りをしてくれるおかげである。その金の重みに耐えかねて、自分の人間性を葬り去りたくなる日もざらにあるため、ボクの神経はまだ正常だと信じて自己完結する。このままでは救いようのない非人間的な道まっしぐらだとわかっていても、引き返す場所や方法が見つからなかった。いっそのことさっぱり己が夢へと突っ走ったほうが清々するだろうと無責任の血が騒ぐ。どうせボクなんか死のうと思えばいつでも死ねるから、せめて存命中に悔いが残らないように何かしらしておくべきなのだろう。少なくともいまはまだ人間らしい感性を保持しているみたいだし、それをすべて消却してからでも死ぬのは遅くなさそうだ。あの世はいつでもボクを待っていてくれるから、あせる必要はどこにもない。常識として教員はみな十分かそこら遅れて入室する。きっかり時間どおりに開始される講義は、ボクが受けている中に存在しなかった。大学に入ってから早一年が経ったというのに、このミルクシェイクみたいに甘い規則にまだ不慣れでいる。管理規則への絶対服従を強いる高校生活から釈放されたのは、大学に受かるため血を吐き、夜を徹してまで打ち込んだ勉強の報いというもの。その見返りとして大学の糖分含有量はじゅうぶん適当であるようにおもえる。ひたすら気ままな放蕩生活が一生つづく幻想によって、浮ついたいまのボクは支えられていた。特に絶滅危惧の罰直主義が横行する風変わりな高校に通っていた関係で、ボクには自由すぎる大学生活が、死にいたるショックだった。何をしても許される夢の状態を信じきる自信がなくなってゆく。誰だって道端に落ちている7千億ドルを躊躇せず懐に収める根性はないだろうし、頬っぺたをつねる古典的なリアクションとか、片手で握れる札束に甘んじるくらいであっても、7千億ドル丸ごと遠慮なくパクる人は頭がどうかしている。日夜テレビ三昧の大学生活は7千億ドルをドブにばらまく真似に近いかもしれない。事実ボクの頭は不眠症に随伴するテレビの見過ぎで、かなり狂いはじめていた気がする。巨大な講堂は後ろに座る学生からも黒板が目に届くよう段になっていたが、後ろに座る学生で黒板に集中する気力のある者は誰一人としていなかった。省エネで蛍光灯の発光はほかの教室より鳴りを潜め、それが無関心な学生に対する迂遠な嫌味であるとも考えられた。内職にいそしむ学生はalways一丁目の地獄、堂々と悪びれもなく熱狂的な手つきで携帯をいじくりまわす学生、飲食する学生、机の下で漫画や小型ゲーム機に没入する学生、ヘッドステレオのアーチで頭をしめつけたまますやすや机に突っ伏す学生、そして、平均的学生がいた。音もれしている音楽はマーキー・ムーンだとすぐにわかった。教員はもちろん自分の講義が最優先だから、それを中断してまで注意することもなく、機械人形のきっぱりした仕事率で一人しゃべりつづけている。とても美容室に行くような印象は感じられない教員の、首まで下がった長髪は、先天性で乱れ飛んだ縮毛になっている。くすみの目立つ白いスイングトップは前をだらしなく開け広げ、どちらかというと肥満にあたる体型にもかかわらず肩を余らせていた。文学のことしか頭にないというより、まるで水素の原子核が奇跡的に衝突して生み出すエネルギーのように文学と彼はすでに一体化して、人間ばなれした空気を発していた。そのために捨てなければならない質量はこの教員の場合、身だしなみや衛生管理といった社会性の営為あるいは一般常識になるのだろう。たしかに学者然とした彼に清潔という言葉は、似合わないどころか対極に位置するものであるロブ・グリエの小説を原書で読ませる彼の講義はお世辞にも優れているとは言いがたかった。辞書や参考書を引けば三分で理解できる話を、彼はゾウより長い時間でゆっくりと文法の説明から掘りすすめ、語源にいたるまで長広舌を振るい、明晰な模範解答はいっさい与えないまま次の文章へと移っていく。進行速度が遅いだけならまだしも、彼の滑舌はたいへん粗悪なもので、音節や文脈から話の内容をひも解ければラッキーだった。子供のころ母親からふにゃふにゃしゃべるなと叱られた記憶から、彼の話し方がまさにそのふにゃふにゃを体現するように聞こえてならなかった。きっと彼の親は子供の話を聞かずに育てたので、他人に話を伝える意欲が得られないまま大人になったのだろう。それからボクは板書だけ手早く書き写すと、授業の後半は久方ぶりの眠りに落ちそうな意識を保ちながら、レポートの構想をルーズリーフに書きなぐることに充てた。ろくなアイディアが湧いてこないのは、さざ波のように寄せては返すまわりの雑談が、カクテルパーティ効果でがやがやと耳に流れてきたからだった。

「今日は☆√◇◇∮○∑。ぜったいくるって」「お前のぜったいはぜったいウソだ。いわばハズレの★∫★∑◇√▲だよ」「んなこたあねえから。今日ばっかりはぜったい◇∃☆∀∮∮◇◇∑☆∬だよ。行こうぜ。な? な? な? な?」「じゃあ、もしハズレたら俺の○√☆∞★∫●∑◇∀どうすんの? 代わりに◇◇◇√☆∮○∃てくれるんかい? てゆうか俺の可処分所得いっくらだと思ってんだよ。甘く見んなよ」「え、え、いくら?」「先月は☆∮●∑★√☆≠、今月は○∫▲●∞□⊥☆∑だ」(……)「●●≒だよ●●≒。そりゃ●●≒だよ」「●●≒じゃないし」「いやぜったい●●≒だから。●●≒でなきゃなんだよ。脱腸か?」「待てよ。お前が●●≒だと思いっ込むのはかまわないけど、そんなこと誰かに吹聴するなよ」「んなこと言っても●●≒は●●≒。わかるだろ、●●≒なんだよ」

聞く気がなければ出席しなければいいのだが、この授業は出席点だけで単位が出る形式重視の講義だったし、かつて跳梁していた点呼時返事代行などのインチキは、網膜認証システムを採用してからきれいに一掃されていた。そのしわ寄せとして単位を落とす学生があとを絶たなくなり、それを危惧する教員たちは半ば保身に近い低レベルの講義を組んだため、このような上辺だけの講義が増えていた。大学教育に未練のない学生にしてみれば手放しのハッピーだろうし、勉強する人はひとりでに勉強するという法則も健在だった。中身のない講義をされて困るのは哲学や自我の欠けたボクのような人間だった。これほど大量の自由を一度に配られても、どの自由から手をつければいいのやら、ボクには皆目わからない。主を失った自由は誰に従うこともなく、ただ無為を消化するため、蝿男のような消化液を分泌しつづけた。講義を聞く気がないのに出席点で単位へ近づこうとする卑しい学生の行動観察に興じるのは、自由を持てあますボクにとってすでに趣味の域へと入りつつあった。出来の悪い学生に変わりないボクが誰かに観察されている恐怖などかえりみることなく、気分はモルモットの行動を数値化して記録する生物学者だった。教員は聞いたことない著者の書いた、聞いたことない出版者の刷った、とてつもなく古い本を紹介したところで、その日の講義を終了した。ボクはかばんを肩に引っかけて出口に歩を進めた。

「キミキミ、ちょっと」教卓の後ろにたたずむ男は皮肉に微笑みながら持ち上げた人差し指を挑発的に前後運動させている。「キミキミ、ちょっと」のあとに省略されている「こっちへ来い」の意は、敵愾心をあおるようにその指が物語っていた。さっきまでの曇ったしゃべり方とは打って変わって、鮮やかに聞きとれる発声だった。やればできるじゃないかと感心しながら、表情に出さないように、ボクは教員がボクを呼び止めた理由について考えてみたが、私的な付き合いなど一度もない彼に制止を受ける筋合いはなかった。

「何か」寄せつけない乾いた口ぶりで答えた。

「ずいぶんぐっすり眠っていたじゃないか。まったく、私の講義には催眠効果でもあるのかな」それは本題に入る前、相手の緊張をほぐすために叩く憎まれ口とかではなく、純粋にボクの授業態度を戒めようとするものだった。ボクより授業態度の悪い学生、というか消去法でいくとボクは優等生に分類されるのであって、おそらく落ちこぼれ以上の無礼な粗相でもやらかしたのだが、それに心当たりなどあるはずもなかった。

「催眠効果。さあ、どうですかね。もともと寝不足な上に夜行性なもんで、昼間は眠いんですよ」「そうか、眠れないの」「ええ」「深夜のバイトかい?」「いえ、バイトは昼間にちょこっとあるだけでして」「何してんの」「交通整備の仕事を」「時給はどれくらい」「自給ですか。まあ三千円を切るくらいです」「そりゃ世知辛い」「あの、ちょっと、いいですか」「はい」「いろいろ用事があるので、もう帰らないとマズいっていうか」「帰る。まあ待ちなよ。たまには世間話もよかろう。これは取調べでも苛めでも、ましてや説教でもないんだから」「知ってます」「君の単位がどうのこうのって問題でもないし」「ええ、よく知ってます」「うん、それでさあ、君はどうして寝てたわけ」「ですから、軽い睡眠障害っていいますか、なんていいますか、そんなところでして」「睡眠障害。それは何かな」「眠れない病気です」「だよな。でもさっきまで寝ていたじゃないか」「あのですね、睡眠障害とひとくくりに言っても、眠れないのは時間帯との兼ね合いもあるので、昼間はよく眠れるのに夜になると一転して目が開くという症例もあるわけですよ。しかもボクの場合はおそらくまだごく初期の段階ですから、症状も軽いわけですよ、ええ」「あっそう。睡眠障害っていうほど、顔色も悪くなさそうだけどねえ」「そんなことないです」「もともと顔立ちが整ってるからかなあ」「からかわないでください」「睡眠薬は?」「は? のんでません」「処方箋なくてもそこらの薬局で買えるよ」「は? でも副作用とか怖いじゃないですか」「のみすぎなきゃ平気さ」「は? そういうものですかねえ」「君のためをおもって言っているのだよ」「お気遣い感謝します」「睡眠は深く短くが肝心だよ。とにかく眠らないのは心身ともによろしくない。だからって私の講義で眠るのはいかがなものかね」「反省してまーす」「私が思うに、君が眠れないのは性的な問題を抱えているからじゃないか。ん? そうだろ」「たとえそうだとしても、それはいわゆる大きなお世話です」「そうか、なら済まない。長いこと大学にこもってると、つい常識に疎くなってね」「お察しします」「これだけは言っておくけど、私は君の安眠を妨げるつもりもないし、君の私生活に口出しする気もないんだ」「もうわかりましたから」「そいつはよかった。ところで君、例のものは書くつもりだろうな」「例のもの? ああレポート。ええ、そりゃもちろん。もう万全を期してます」「ふん、幸か不幸か私の講義はね、ここだけの話、レポートさえ書いてくれればその内容はどうあれ単位を出してやれる。つまり教務課の連中を黙らせることができるのだよ。どれだけぐーすか寝ていようがね」「次から気をつけます」「うん、まあそうだな。それも結構だが、私の講義が嫌ならもう来なさんな。単位なら君の興味ある講義でとればよかろう。それとも何か、君は睡眠不足を解消するために私の講義を利用しているというのかい。だとしたら迷惑な話だ。ほかの学生への影響もあるから、二度と来ないでくれないか」

言われなくてもそうさせていただきます、とでも言い捨ててきびすを返せば絵になるシーンだったが、彼の言い分が想像を絶するふざけたものだったので、この先にひかえている口論に期待して、ボクはごった返す反論の言葉を整理した。

「ほかの学生って、あなたの講義を聞いている学生なんているんですかね」

「ほおう、そうくるか。よろしい、それなら私もやりたい様にやらせてもらうよ」

教員が教卓の下をまさぐると巨大な刃物が姿をみせた。鋭く反りかえった切っ先を天井に向けるナイフは、ムスリムの戦士が処刑に用いる、肉厚で刃渡り一〇インチを軽く越える凶器だった。授業中に居眠りしていた学生をそれで殺す気らしい。足がすくんで動けないでいるボクにつかつか歩み寄ると、下腹部をぶっすり刺し貫いた。刃が背中まで突き抜け、内蔵がいつもとちがう場所にずれている感触、その気持ち悪さから嘔吐してみると、出てきたのは鉄錆の味がする真っ赤な血だった。ナイフが引き抜かれるといくつかぼとぼと臓物の欠片が床に落ち、心臓のポンプに合わせて全身の血が循環器系の終点を目指した。こんなしょぼくれた大学教員ごときに刺し殺されるとは夢にも思わず、ただ舵を失った指先が、教員の顔に朱色を塗りつけるだけで、ブレーカーのスイッチをぱちぱち切るように、感じるものが次々と消えていった。最後の一線に近づくと景色はかえってサイケデリックにゆがんできた。中華料理屋らしきところの水槽で熱帯魚が泳いでいる画面が見えている。ハート型の鱗をつけたおとなしい魚のような、柄をたたんだ黒ぶちの眼鏡が水槽に沈んでゆくような景色か気分だった。誰かが魚に喰われたことの暗示なのかもしれない。淡く透けている緑の水草のゆらめきと同じように水中でただようがまま、水面から射す蛍光管の明るさはギョロつく魚眼を暴き、その瞳はどこに焦点を絞っているのか悟らせない。ふと大きな水泡が数発、震えながら水面へ昇った。身体をひるがえす魚の横腹から剥がれ落ちた鱗は左右に踊って翻って水槽の底へと着地した。この魚は誰かの化身だと呟かれると、ガラスの割れた水槽から飛び出したのは珍しい魚ではなく、推定一トンの黒ぶち眼鏡だった。アルキメデスの浴槽みたいに波うつ水の中から魚が出てきた。尾びれがびしばし床を叩いている。輝かしい18-8ステンレスの医療用メスが飛来して魚の眼球を串刺しにした。走り出したバスらしきバスとしか思えない箱型の直方体に車輪のついたバスは魚の位相写像だったので、三半規管はいまにも反吐を誘おうとしていた。粘着質の吐気を胸にひかえたまま錆に強そうな鉄の階段をかんかん鳴らしながら駆けあがり、広々とした甲板に大の字で寝転がって、まっさらな空と対面した。ウェルニッケが丸裸の男はあちこち汚れた蛍光オレンジのジャンプスーツを腰からぶら下げ、支離滅裂の言葉を右手のピストルが通訳している運転席のすぐ後ろと、最後尾の席にふんぞり返るサングラスの女は、破けそうな風船ガムの球体を下品な赤い艶めきの唇の中に吸い込んだ。弾丸が窓ガラスを直撃すると、そこから一気に浸水して、バスのヘッドライトは深海へと傾いた。救命胴衣の毟り合いにすっかり疲弊した被差別人と、最初からたすかる気のないボクは、大人二〇〇円分の目的地に着くのをいつまでも待ちわびていた。

2010年4月4日公開

作品集『スキゾロジック』第3話 (全6話)

© 2010 渟足川祐也

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