スキゾロヂック(2)

スキゾロジック(第2話)

渟足川祐也

小説

8,762文字

デパートの陋劣な喫煙室。警備員と少女との、ちょっとした揉め事に巻き込まれたボク。偏執的にあらぶる意識。仕方なく少女を窮地から救う。警備員、退場。喫煙室に二人きりでいると被害妄想が渦巻く。おどける少女。ぎこちない会話。なすり付けられた携帯電話。帰途のメトロ車内。そしてあらぬ陰謀が紡がれるよりも前に、ボクの意識はいまだ書き終えてないレポートの件へ、ゆっくり推移してゆくのであった。

「保護者の方ですか?」「え、まあそのう」「そうなんですか?」

どうやら警備員は本当にボクが彼女の兄であると疑っているようである。常識的に考えれば年長者である警備員にタメ口きく妹を野放しにしたまま煙草を吸い続けるような兄がいるはずもないと言いたいところだが昨今の価値観相対化現象のいわゆる何でもありな風潮に流されれば必ずしも保護者が保護者の役割をまっとうするとは限らないといってもせめて年寄りの警備員くらいは一昔前の偏った価値観に頼って明快な実践的判断をしていただきたいなあと切に期待しておりそれと同時に彼がその期待にこたえる義務もないわけで要するにボクの主張としてはボクが兄貴のわけねえだろこのバカ野郎といったところでありはしても警備員の質問がただのカマトトであるとしたらその技術は絶賛に値するどころかアカデミー助演男優賞くらい授与すべきカマトトぶりでありまさに勲章もののカマトトであってそうやってスットボケているのは警備員のほうなのになぜだか追い詰められているのはこちらである方面へと役柄がすり替えられるきわめて高度な用例であり不肖このボクの推理によると警備員は少女の嘘を大きくする目的でいったんボクに質問しておいてそしてどうにか言い逃れようとする女の子のでたらめな発言の道義責任にそれがさも重大であるかのような演出を施したのである。

「こちらの女性の保護者様でいらっしゃいますか?」警備員はしつこく訊ねる。その女性とやらはいかにも仕立て上げた顔で申し訳なさそうに略式の合掌をボクへ送り、ボクは試験前にノートを無心にくる愚物どもに向ける腹立たしさを感じつつ彼女の美貌に免じて、というよりナボコフの小説状態である彼女の美貌は不可知かつ不可避の不可抗力で、原則としてボクに選択の余地はなかった。ロリータで思い出したキューブリックの同名映画をいまさらながら正気で観たいと願えるのはいまだけかもしれない。

「ええ、まあ」咽喉まで出がかった存じませんを呑み殺して言った。「おじさんの言うことちゃんと聞けよな」おかしなことを口走った理由がなければ、その場の空気をねじまげた少女と警備員による二人がかりの、手のこんだ超能力と考えるしかない。とくに迷惑そうにもせず妹役を演じようとする彼女がせめてもの救いだった。「うん」と聞きわけのよい返事がする。彼女は最後の一服をキメると、まだまだ長く残った吸殻を灰皿の真上から落とし、網目を通って底の消火用水にぽとりと浸かった火種は、エントロピーをぐうんと沈下させ熱平衡に引きずり込まれて消えた。警備員は歩哨ばりに年のくせしっかりしたステップでボクの前までくると、かたそうな帽子をほんの少し上げて「よろしくお願いします」と、いかようにも受け取れる意味深な言葉を残し、速やかにそこから退出していった。ドアが開いてから再びぱたりと閉まるや否や、すかさず女の子は言葉を飛ばす。

「助かっちまったよ」馴れなれしく、また軽々しく投げかけられたお礼に、ボクはまったく構えることができず、底なしに無防備な面でいたことだろう。そこであらためて女の子と目が合い、二十数ミリ口径のつぶらな瞳がぶっぱなす弾丸で、おもいきりハートを撃ち抜かれた。「そんなに怒んないでよ」という彼女のセリフでようやく正気の欠片を取り戻したボクは、顔のほころびからこぼれるのろ気を月並みのダイアローグですくいあげる。

「怒ってませんよ、怒るわけないじゃないですかこれくらいで。気にしないでください」このどうでもいい与太咄の中でボクが最初に方向性と主体性をもって吐いたセリフらしいセリフが、これほど薄っぺらなものになるとは、いやはやそれはみっともない話であり、とりあえず丁寧語を使っておけば不備はないと考えた上でのことだった。彼女はビル・ゲイツですら買えない、裏も表もない笑顔をくれると、三たび煙草にかじりつく。彼女がそばにいるだけでどんどん非論理的になってゆくボクは、どうして彼女が男もののコートなど身にまとっているのか訊こうか訊くまいか、訊かないとみせかけて遠まわしに訊きだす方法はないものか逡巡しては、もともと喫煙者のわれわれがともにできる時間は五分やそこらであると思い出した。まるで十二時の鐘の音に連れもどされる電波シンデレラの気分で、おそらく彼女とも別れなければならない虚しさに加えてもう二度と会うこともないだろう推測は、すでに確信の領域まで手をのばしていた。百億歩くらい譲りに譲っておまけにまかり間違えれば、喫煙室がダンスフロアになるかもしれないが、いくらなんでもガラスの登山靴ばかりは代用できない。まさかこのラッキーストライクが二人を引き寄せてくれるはずもないわけで、いいとこ一回だけの無作為な出会いを与える使いきりの招待状でしかない。いままではそれで事足りたのに、なぜ彼女に限って特別なのか、その理由はボクのあずかり知らぬブラウン運動のカオティックな道筋をたどり、そのついでにこの先どこへ行くのかといえば、彼女との距離を心理座標系に沿って縮めなければ話が前に進まない都合上そこらへんに絞られる。警備員に難癖つけられた彼女を、ボクはたしなめる。

「もっと上手くやりなよ、そのやけにでかいカビ色のコートで隠すとかさあ」威勢よくそう言ったものの声が届かなかったのか、彼女は座り込んだままがっくりうつむき、指のあいだからゆらめく煙が心なしさびそうだった。ボクは言葉をつぎ足す。「あんなアホの警備員なんて放っときゃいいのに」「うっせえなあファック野郎。いま忙しんだよ。お利口にしてな」ボクの耳が確かならそう聞こえた彼女の悪態は、氷点下を突っきって絶対零度まで真っ逆さまに、そして一直線だった。

「いや、そのう、無神経なこと言ったならあやまるよ」

面倒くさそうに立ち上がった彼女はちょっとちがった意味であぶない歩き方をしつつボクの真横まで近づき、なぜか動くこともしゃべることもできないボクの手首を優しく持ちあげた。この脈絡がぶっちぎれた不可思議な挙動に、言うまでもなくつきまとうクエスチョンマークの渦巻き具合を目がまわるほどぐるぐるにする彼女の次なるアクションは、give me moneyのポーズでつまんだ煙草の、しっかり火がついているその先っぽをボクの手の甲に押しつけようとするものだった。煙草の火種はセ氏八〇〇度前後でありボクの体温は三六度だから煙草の火のほうが七四六度も高く、もちろん熱いゼだけでは済まされず、火傷を負うのは必至だし、そのあとも弾痕みたいなケロイドが発症することだろう。男の子だからという一昔前の精神論を取り除くまでもなく、絶叫してしかるべき場面であるのに、声帯は一向に震えてくれない。恐怖らしき感情が切迫点に達すると、ボクは瞼を上からも下からも強くかたくふさいだ。ボクは立場として彼女をたすけたのだから、礼こそ言われても根性焼を食らう筋合いはないのである。まるで浦島太郎がウミガメにがぶりつかれるみたいだという発言者のユーモアにおどろかされる比喩にもならないし、つまりこのような拷問は不相応かつ理不尽であると判断できる。小さな走馬灯を低トルクでまわしながらも、灼熱が手の甲を焼く感じはおとずれない。おそるおそる目を開いてみると、半裸になった眼球に蛍光灯のおびただしい光が流れ込み、少しずつ同心円にすぼまる瞳孔でせき止める。そしてやはりはてしなくボクのハートを燃やしまくる永久機関な彼女の横顔や、ボクの手首を握りつづけるやわらかく、ほのかに暖かい感触もある。不眠症のせいで脳に幻覚を映されているのではないかと疑いはじめ、それでも手をにぎられている知覚は、なおも有効である。おもった以上にバカバカしいから帰りしなに道端でうっかり命を落とすかもしれない。

「あたしのことなんか放っときゃいいのに」煙草を床に落として踏みにじる彼女はおどけまじりに囁いた。

「え、ああ、うん、でも、だって」頭の中で恐怖のあぶくがはじけるかわりに、不可解に悩み続けるボクは、金閣寺に放火しそうなくらいどもりどもる。それを聞いて彼女はくすくすと、スモーキーでかわいた笑い声をもらし、ひとまず安心したボクは、すばやく振りほどいた手を大切にさすり大きく溜め息を吐く。

「勘弁してよ、その類の冗談は通じないんだから」「あなたバカなの?」「いや、ちがうけど。そう見えたなら謝るよ。悪かったね。でも好きでバカやってるわけじゃないぜ。ボクが小心者だなんて見るからにわかるでしょうが。そういうことするのやめてくれよ」

開きなおるボクはジーンズにGジャンという恰好で、いかにもアムロ・レイの世界にのめり込んだ気の小さい男と看做されることはあっても、決してクレイジーでファンキーなチョッパーを乗りまわすアメリカの暴走族とか、血気さかんな全共闘の活動家には見えない、ひ弱な長身痩躯であった。「で、なんなの君は。未成年の分際でいっぱしにヤニなんか吹かすなんてえらい度胸じゃんか」「だったら?」「いや別にだったらどうっていうか、ひとつ言わせてもらうとさあ、そのなりでうろうろするのはどうかと思うね。ボクは嫌いじゃないけど、ちょっとあやしすぎるぜそのトレンチ」「お兄いさん知らないの?」だらしなく余ったコートの袖を四谷怪談の亡霊みたいに胸のあたりでぶらつかせ、それから「おっくれってるう」という古い定型句。「待てまてまてまてまて、いくらなんでもそういう恰好は流行らねえだろ。お兄さんそこまでバカじゃないぜ」と言いつつ内心では時代に取り残された可能性を徹底的に洗いなおしていた。しかし彼女が「バレたか」とこぼしたことによって根拠のないあせりは解かれた一方、コートの謎はさらにふくらんだ。それ以前にボクの考えていることをいともたやすく見抜いてしまう力が彼女にはあるらしく、その雰囲気を呈しはじめたときにさっさと気づくべきだったろう。ドアに嵌った小窓の向こうに、軽めのグリーンと濃い青のゴム風船が糸に引かれてふわふわただよっている。喫煙所を去ると決めたさっきの予定から、すでに数えられないほどずれ込んでいるせいで、感覚が狂ってしまった。

「言いたくなけりゃ言わなきゃいいさ。ボクらは所詮、五分やそこら同じ空間を共有するだけのいわば限りなく他人に近い関係なわけで、こうして記号化された言語を介してそれとなく会話が成立してんのさえ本当は奇跡なわけよ」ボクは理屈をこねなければいけない状況に直面し、追い詰められた気分で説教をたれていた。

「へえ、それって宗教の勧誘? それとも新手のナンパ?」そんなつもりはちっともなかったが彼女には口説いているように聞こえたのか、それならそれでボクは特に困らないし、仮にこれらの単なる屁理屈がナンパとして成功をおさめるなら万々歳である。

「笑わせるぜお譲ちゃん。あまり軽口たたいてると誘拐して肉切り包丁でバラバラにして自宅に送りつけちゃうぞ。それともビーフシチューの具材にしてやろうか」映画の真似をして暴力的な言葉を吐けば、たいていの人は一歩引いてくれるので、あらゆる対処法の最後に暴力は存在する。しかしボクの場合は途中にあるべきものが何もないから、あっさりバカなセリフが出てくるし、言うなればすべてのセリフが捨てゼリフのようなもので、そうでなければただじっと押し黙っているかだ。それが世界共通のコミュニケーションだと確信できるくらい暴力は物理的にも心理的にも役に立つのだから、ボクはめでたい。それにしてもこういうインスピレーションの濫觴をめったやたらに酷使するユリシーズごっこは、知識もIQも長つづきさせてくれそうにないし、適当にいいところで切り上げておくべきだろう。

「誘拐ですって? お兄いさんになら誘拐されてもいいよ」「なんだと」不眠症のせいで聞こえるリビドーの代弁かと思えるくらい同様に確からしい甘い響きだった。これがアニメや漫画の中ならいまごろ主人公はヘモグロビンを多量に含んだ2000cc以上の鼻血を、床一面にぶちまけているはず。彼女はとんと壁にもたれ、乾きかけた前髪を指の根元で荒っぽくとかした。雨の降り具合はどんなものか訊ねると「ふつー」という素っ気ない返事。してから調子よく続けて彼女が何者なのか穿鑿しようとするのを越され、ボクの足元に置かれたひも付きの紙袋を指して「それ、何」と訊かれ、ボクは正十二面体の地球儀を買った店から正十二面体の地球儀に関する細かな解説と正十二面体の地球儀に限らず使うはずだった贈物の予算と実際に正十二面体の地球儀を買うのに費やした額となぜ正十二面体の地球儀を買ったのか筋の通るフキを述べ、対立候補のピストル型ドライヤーを見合わせたのは本物とすり替わってしまったときに誤って頭がはじき飛ばされないように、そして正十二面体の地球儀を贈る相手は女でなく特別に仲良しでもない友人の男であると強く言って、たぶん冷やかしのつもりから出た誤解をといた。ぼんやりのめり込んでいるボクの上着に、意図してかせずしてか手を掠めた彼女は、みずみずしく淡い桃色の唇の、その絶壁の延長から頬にかけてえくぼの影がぼやつく程度、うつむきがちに微笑んでいる。訊きたいことは山ほどあったがどうせ訊いても返ってくるのは中途半端な笑顔だけだし、その甘く尖った微笑みに捕まるや否やボクのささやかな穿鑿衝動はすっかり無効化されることも知っているから、もう何も訊かない。

「そういうことだから、お兄いさんも達者でね」

咽喉と口腔のあいだまで這い出たさようならの言葉がどうしても音声化できないボクをよそに、通りすぎる彼女はひらつくコートの裾をへその下でしゅるりと寄せ集め、その空間から消え去った。今度こそ誰もいなくなった喫煙室に、それ以上ボクは留まる理由や道義責任を失い、いまが何時なのか気にしながらひどく重い足取りで、どっちでもいい喫煙所から出所した。やかましい子連れの師団はぐんと減り、猟奇的なトカゲのマスコットも姿をくらましていた。デパートの時計はだいたい午後四時半を示していたので、それほど暗くなっていないだろうと高をくくって外に出てみれば、ねずみ色のよく太った雨雲が陽の光をことごとく遮っているおかげで、真っ暗だった。どしゃ降る雨量は全身を水浸しにするのに目測およそ一分とかからないほど強烈だったが、ボクはGジャンを頭に覆いかぶせると、色んな傘を広げる人々にぶつからない足つきでアスファルトの歩道を息せき切って走った。走りながら思い出したことにそういえば雨天における被雨量は歩こうが走ろうが同じだったという、この猛ダッシュがまったく意味をなさない運動であるうつけぶりに、後悔しようがいまさら歩くのも冗談ではないので、そのまま東束メトロの階段を飛ぶように駆け下りた。そのころ水にぬれたデニムは濃密な藍に変色してしまい、おかげさまでプレゼントの包装も台無しとなり、全速力から一気にスローダウンして地下通路の蛍光灯を仰ぎながら、ボクは15dBの溜め息を吹き放った。びしょぬれのまま電車に乗り込むと、一瞬だけいやそうな視線がすべての乗客から飛んできて、またすぐに平穏無事を得る車内環境の欺瞞にボクは背を向けた。しかしさすがにGジャンのポッケから叫ぶピート・ドハーティーの着信音らしきものにはかなわない。何事かと慌てふためいて服をまさぐりたおすと、身に覚えのない携帯電話があらわれ、それがいったい何んなのかを考える前にまず音を遮断するのが優先事項だと判断して、カパッと開いた携帯のボタンを手あたり次第に押してみた。するとどうだろう、ディスプレイには通話時間の表示とともにデジタル時計が0:00からご破算で願いましては勘定しはじめた。車内の誰もがうつむくだけで迷惑そうな視線さえ投げかけないことから醸し出される不穏な空気に、ボクは脆弱な精神力を総動員して耐え忍びながら、電話の尻に話しかけた。「あのう、持ち主の方?」「hello、あたしだよん。さっきはどうも」陽気な少女の声が答え、ハッとしてボクは咄嗟に電話を耳から離し、その電波を飛ばしたがる小道具に、あわただしく目を落とした。その携帯は老警備員の制止を振り切ってまでさっき女の子が充電していたものとまったく同じ機種であった。携帯電話の普及率は世界最大を誇る日本において、他人と同じ機種を持ち合わるのはよくある事例である。しかし色まで同じとあっては、おそらくあの少女が去り際、Gジャンのポケットにすり入れたのだと推測するしかなかった。ボクは車内にうずまく狂気に居直って、再び電話を側頭部に押しあてた。「もしもーしお兄いさん、聞いてんのか?」「ああ」さっき出会って面識を得たばかりの少女とこうして仲良くおしゃべりしている珍事は、あまり気味のいいものではなかった。無駄に賢いボクはこれが罠や策謀の類だとのっけから勘ぐり、にもかかわらず彼女の人なつこくてよく通る声が考える力を奪った。これは新手の詐欺だと根拠なく決め付けたボクは、さっさと電話の受けわたしを済ませたくてあせる一方、彼女はどうにも都合が悪いらしく、言動が定まらないでいた。ボクはこのように要求する。「悪いけど地下改札まで来てくれるかい。また切符を買うのも金の無駄だから」「もういいよ今日は。また今度ってことで」超小型スピーカーから聞こえる身勝手な言い分にボクは決して納得したわけではなく、とはいえ走行中の電車内で声を荒げてまで反駁する精神的強靭さもなかった。ただでさえびしょぬれのいかがわしいジーンズ姿であるボクが、ふざけんなとか叫ぼうものなら最悪、鉄道警備員沙汰になりかねない。抵抗して暴れまわるボクの腕を、サングラスをかけた筋骨隆々な黒人の鉄道警備員が引きずっていく光景は、おかしなことにたやすく想像がついてしまう。地下鉄の些事くらいでそうはなりたくないという人間らしい羞恥心が嫌でも働く。ホームで連行される男を目にした周囲の人々は是が非でも彼のことを鉄道犯罪の代名詞である痴漢と看做すだろうし小さい子供の目に留まればたちまちその子は死ぬまで忘れようのない痴漢のイメージをボクに見出すことになる。その子にとってボクは、鉄道犯罪者の中でサンダンス・キッドの次くらいに高い報酬の賞金首になるだろう。そういうわけでボクは大人しく彼女の言葉を受け入れた。要するに携帯を返してもらいたいのは山々なのだが今日はそれより大切な用事があるのでまたの機会に返してくれればいい、とのことだった。自分ですり入れたくせにどういうつもりなのか詰問したくて仕方がない。「こいつはどうすりゃいい?」とだけ訊ねてみると、彼女の返事に代わって携帯が耳元でピーピー鳴きはじめた。運悪く電池切れの知らせだった。さっき充電していたときには息も絶えだえだったのだろう。電源ボタンを殴るように押し、やかましい泣き声を殺してやった。話相手を失ったボクは一瞬で疎外感を覚え、自分のつま先に視野を狭めながら、使い物にならない電話をポッケにしまった。吊り革の強度に全幅の信頼をおいて、がたりがたり揺れる電車に身を任せた。そして彼女との会話を事細かく反芻し、彼女と会う日がまたやってくると期待するポジティブ思考を裏切るように、依然として新手の詐欺である可能性は捨てきれないでいた。静謐な憎しみで淀みきった車内環境は、煙草の副流煙よりよっぽど有害だった。病的な自意識が活発に蠢動すればするほどニコチンへの渇望も正比例し、苛立ちが募るので、無抵抗な吊り革をよじったりねじったりしてやりすごすしかない。車窓から望める地下鉄の駅はどれも似たり寄ったりで、退屈しのぎにあてもなく何かを考えてみた。どうしたって乗り過ごすときは乗り過ごすのだから、帰宅してそれからどうするかを考えておいたほうがいい。気が向けば溜まったレポートに手をつけるかもしれないけど、どうせ調子に乗って明け方までテレビを観るのが関の山だろう。総じてノルマ四万字以上のレポートをあと二週間と少しで確実に完成させなければ、単位は出してもらえない計算である。草稿も仕上がっていなければ構想も練っておらず、資料に目を通すはおろかその収集さえ手つかずであり、はっきり言って窮地に追い込まれている。いったい今日まで何をしてきたのかと回想する暇があれば一文字でも多く捻出すべきであろう。今日まで何をしてきたのかという問いかけは想像を絶する広範囲な出発地点を要する。つまり考え出せばきりがない。単位よりテレビを優先させるのが破滅的愚行であると承知でボクはテレビを選ぶだろう。レポートの提出期限がボクを待つことはなくとも、テレビは何時如何なるときでもボクを待っていてくれる。そんな律儀で忠実な彼女を放ったらかしにできるほど、ボクはクールな男になれないわけで、時間さえあれば朝から晩までテレビにめろめろ首っ丈だった。そんな具合であいまいな行動予定が脳内のいたるところに錯綜するうち、あっという間に東束郊外の自宅から最寄りの駅へと、どうにか乗り過ごすことなく着いた。重苦しい電車の大気から解き放たれてもゆがんだ気分は晴れなかった。帰宅しても離れない単位喪失の恐怖に、取り繕った繊細な感性がもてあそばれ、心ここにあらず、鬱々とした気分で身が入らないまま、ブラウン管に流れる白黒映画のすばしっこい動作が虚しさを逆なでした。こんなことなら少しでもレポートを書いておけばよかったという、お決まりの情けない後悔で泣きぬれても、ちっともレポートを書く気はしなかった。

2010年1月26日公開

作品集『スキゾロジック』第2話 (全6話)

© 2010 渟足川祐也

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