スキゾロヂック(1)

スキゾロジック(第1話)

渟足川祐也

小説

10,140文字

痙攣的高架橋。休日のデパート。雑貨屋。喫煙室。さして仲がよくない友人のためのプレゼントを買いに、デパートへ。煙草に関する被害妄想。喫煙者三人集。喫煙室で怪しコートの少女と邂逅。少女はデパートの警備員といさかいになる。そのときボクは、その仕組まれたような展開に巻き込まれるのであった。

十字に交差する高架橋のだいたい中央あたりにたたずんでこれからデパートへ行ってからするべきことを整頓しているうちに、煙草が吸いたくて辛抱たまらなくなる。四方から伸びた階段が地上およそ5mの高さで反対側の歩道にわたるための通路になっている。通路の幅が狭く感じられるのは転落防止のためにすえつけられた強化プラスチック製の側壁に圧迫感があるためなのか、それともただ本当に通路の幅が狭いだけなのか、錯覚の正体に気づくことはできない。でなければそこから飛び降りることへの恐怖が無意識に身投げさせないための理由を探して狭く感じさせているだけなのかもしれない。高架橋の下には片側二車線以上の幹線道路が走っていたかもしれないし、社会問題になっている開かずの踏切が敷かれていただけかもしれない、ひとつとして自信の持てる記憶は存在しなかった。そこから見下ろせる輸送機の様相だけで判断のつくことでも、そこから身をのり出した拍子にそのまま飛んでしまうかもしれないから、さしあたって中止するのだった。ここ最近とはいっても、ずいぶん前から不眠症および、誰かに背中をつけられているような妄想の病気にかかっている。病原について考えをめぐらすと、陰謀かとおもうほどの唐突さでぷっつり思考回路が断たれ、合併症のようにそこから飛び降りたくなるよう仕向けられるのだった。用事を思い出してすんでのところで後じさり、路上喫煙をひかえ、デパートがある方角の階段を降りる。数少ない友人への誕生日プレゼントを買いに行くため電車に乗って巨大なデパートに繰り出したのが暇つぶしの手段であるとみせかけておきながら、それよりも重要なのはどんなプレゼントを選ぶかでもなければプレゼントに費やす金額でもなく、ボクのせち辛いふところ事情でもなければ相手の友人がどのような趣味の持ち主でどのようなプレゼントに喜ぶかでもなく、ましてプレゼントに添えるメッセージの文章や文体は手紙っぽく堅苦しい丁寧語を使うべきか、はたまた友人っぽくブロークンな言葉を用いるべきかに親切ぶって悩み入ることでもなかった。実のところすでに買い物を済ませたボクがふと煙草を吸いたくなって、そして向かった先は喫煙所ではなく喫煙室になっていた喜劇が、ここで語りたい話の主旨であった。しかしながらプレゼントに何を買ったのかという情報もことによると重要になってくるかもしれないから、そのくだりは省略できない。立体駐車場の入り口には家族総動員用の大きなバンが並んで、長蛇を築き、電光板に浮かぶ赤色LEDの群れが満車の字を形づくっている。その日は子供向けのイベントが催されていたらしく、建物のエントランスではトカゲの着ぐるみをかぶったマスコット人形が無口にテキパキと、うろついていた。よせばいいのに爬虫類の着ぐるみなど案の定たいへん不評で、耳をつんざくような大声で泣きわめく子供が続出するだけだった。子供の泣き声に胸を痛めながら、縦に二つ並んだ入り口ドアのうち一つ目を越えたところの案内板で、安全な店を探した。安全でない店とはすなわち危険な店であり、その店が危険でなければ安全であると言える。人がいなければもっと広いはずだったが、どこに向かって歩いても親子連れがだらだらしていて進路を妨害した。どこもかしこも人ばかりハリネズミのハリほど高密度に大勢たかっていて、死にたくなるほど目障りだった。一階から上にあがりたければ階段かエスカレーターかエレベーターに頼らなければ建物の構造上、あるいは指先に蜘蛛の遺伝子でも受け継いでいないと生物学的に不可能であるため、目的の五階に行くためのより一般的な手段としてエレベーターを選んだ。するりすり抜けてエレベーター前の広場にたどり着いた。さっきまで感傷に浸りきっていたあの高架橋といま立っているデパート内の広場は似た形状をしている。10m四方くらい配色のちがうタイルで埋められた一階の空間をまたぐようにして二階にだけ通じる階段があり、広場のちょうど真上あたりに筒の中を上下する透明の丸見えになったエレベーターが貫いている。エレベーター乗り場の前には最低限、人が乗り降りできる床面積と骨董品もどきの金属でつくられたヤング・アメリカンのベンチがある。エレベーターの現在地を示した数字が、時間をかけて減ってゆくのを待つあいだ、しつこく案内板の表面を指でなぞらないと気が済まず、エレベーターの到着を知らせるやわらかい音色が聞こえなくなるほど、すぐ下の広場からは子供の騒ぐ声がよく響いている。五階までゆくのにわざわざ階段を使う体力がないのもそうであり、といってもその混みようはとてもではないが乗る気にさせてくれなかった。五階に到着してエレベーターから降りる。何気なく歩いていると漏れるため息。珍しさ以外にほとんど価値のなさそうな品々が所狭しと押し込められている雑貨屋。雑然と放り出されている商品はときに驚くほどべらぼうな値札が貼られているため、店の中で移動するにも細心の注意を払わねばならなかった。ピストル型ドライヤーにしようか正十二面体の地球儀にしようかで迷い、やっとのことで、しかしこれといって乗り気でもなく後者に決めた。申し訳なさそうにプレゼント用の包装を頼むと、快諾した定員は十分ほどしてから店のロゴが刻まれた紙袋を手渡し、近く父の日に際して行われるセール内容を説明してくれた。ボクはそれを聞き流してそそくさと店から出た。子供の数は一向に減るきざしがなく、むしろさっきデパート内で散策していたときより増えた気がする。今日が快晴の日曜日で絶好のお出かけ日和だからでもあろうが、それにしても自由すぎる子供の追いかけっこや不意打ちの奇声にはうんざりさせられた。

それが言い訳になるのか、たとえそこがもっと静かで落ち着いた場所であったとしても、きっと煙草を吸っていたにちがいない。12×5(㎝)の覗き窓しかないドアからコの字にせり出したステンレス製の取っ手。やや強い警戒心をはたらかせつつ片手で引き開け、その喫煙室とやらにはじめて入った。副流煙が外へ漏れないよう厳しく配慮された設計になっているのは、滑稽きわまりなかった。朦々とした煙に囲まれ、えも言われぬ心地よさと安堵感が気管支をふらり伝って流れ落ち、立っているのが嫌になって壁に背を凭れた。もちろん受動喫煙だけでは満たされず、すぐさまジーンズのポケットをまさぐってカエルみたいにつぶれたソフトパッケージをねじり抜き、常習性の慣れた動作でひしゃげた一本の臀部にかじりつくと、ガスライターで先っぽを焼いた。喫煙室といえどもすみずみまで清掃が行き届き、部屋じゅうがさわやかなクリーム色に塗装され、高ワット数の蛍光灯がまぶしいくらいに輝いている点は、たとえデパートに裏の事情があるにせよ喫煙者にとってはありがたい場所だった。ほかでもない裏の事情とは嫌でも追々説明することになるだろう。がしかし二〇平米は下らないこの空間に、窓が一つしか取り付けられていないのはどことなく違和感が残り、それもとびきり小さな窓であるからなおさらだった。喫煙室で煙草を吹かすボクには、この喫煙室が近頃の嫌煙狂時代から身を守る、核シェルターのような役割をはたしているようにも感じられたが、嫌煙者からしてみればダイオキシンを吐きちらかしているに等しいボクら廃人どもを、あたり障りなく土にかえすために設けられた処理場の設備に過ぎないのかもしれない。そこに子供が入れないわけは、未成年者の喫煙が法律で禁止されているからでもあり、仮に紛れ込んでいるとしても、あえて自分が子供であるとまわりに悟れるような振る舞いに及ぶ人物はいなかった。それによく観察してみると、喫煙室にはボクを含め四人しかいない。一人は黒地にピンストライプの三つ揃えでめかしこんだ初老男性。彼の仕事に興味もないが、このデパートのオーナーと言ってもおかしくない下劣な威厳のある男だった。二本指で挟んだ煙草はやたら長く伸び、おそらく高級な洋モクだろう、恰幅のいい男を渦まく煙にはほんのり甘く生ぬるい香りがただよっていた。もう一人は埃まみれで日焼けしたブルージェイズの野球帽をかぶっている、おおよそデパートに用もなさそうな浮浪者まがいの中年男。耳穴にねじ込まれたイヤホンからはラジオの放送がかすかに漏れ聞こえ、男の貧相な身なりから野球か競馬の実況中継であると断定的判断が下せる。火種がフィルターを焦がすぎりぎり最後までみすぼらしく、がめつく吸おうとする男に、ボクはぼんやりわびしさが募ってくる。男の仕事に興味もないが、煙草を吸うしか生きがいのない男の人生を腹の中で徹底的にこき下ろす所業は、めぐりめぐって自分に帰着する確信があったのでやめておいた。たかだか五分やそこら、見ず知らずの人間が同じ空間を共有し、ただひたすらもくもくと煙草を吸いまくるだけで会話のないディスコミュニケートな雰囲気は、おびただしい余計な想像にふけるのにこの上なく適切であった。またそれらはたいてい性質の悪い人間観察に走りがちだった。喫煙者の目的は言うまでもなく煙草を吸うことであり、たまたま喫煙室に居合わせたからといって喫煙者同士で親睦を深めようなどのひなびた空気はさらさらなく、むしろ喫煙者であっても他人の吐いた煙を吸わされるのは嫌煙者と同じように忌々しく不愉快なのであって、それはある種、目的の駅に向かうのに特定の電車を利用せざるを得ないまでは我慢するとして、そこにいる同乗者にいちいち挨拶したり話しかけたりマナーのなっていない兄ちゃん姉ちゃんをあえて注意したりしない一般常識と似ているが、喫煙室にいる人間はもちろんみな喫煙者であるため、数十年前ならいざ知らず、この嫌煙時代まっただ中にあっていまだに喫煙者であろうとするツワモノが俗世の常識を持ち合わせるはずもなく、現時点での喫煙者とはとりもなおさず相当なひねくれ者や頑固者、ならびに禁煙セラピーが役立たずの意志薄弱な連中であろうと推察できる。情け容赦ない嫌煙者一味と血風戦をかまえる度胸のドの字の濁点の一粒さえない一人の喫煙者であるボクは、気管支にこみあげる閉塞感だけでこのデパートの無礼な待遇を我慢するほかない。煙草は健康に与える害を規準に論じれば必ず負けてしまう代物だとしても、宗教的な問題を交えれば嫌煙者の耳に届く可能性も残されており、ましてそれ以上に手ひどい差別を連中から受ける筋合いはないのだ。犬や猿を喰う大陸の人間と同じように、他者へ迷惑さえかけないかぎり、すべからくその人の形而上学的自由である。車の排気ガスですら密室で吸えば三十分で死亡するという理論によって相対的に煙草の害悪はゼロに等しいとするなら、公共の場に煙が蔓延しようとも有害だと主張することは誰にもできないと言える。この理屈を行使するためにはまず嫌煙者の原理主義的な喫煙に対する誤解を解かねばならないところであり、それがこの時代にもなるともはや不可能である積年の無念は否めない。がらりと視点変換して喫煙の文化的価値を主張してみたところで、片方でも聞く耳のある嫌煙者がいない虚無感は、既存の喫煙者をいまよりもっと不健康にさせるばかりである。どれほど救いようなく陰々滅々とうなだれていても喫煙者が目の前にいるだけで、彼らの気管支がきしむ音や肺腑の黒ずむグラデーションを想像すれば、肩の荷が下りるようだ。それは猥褻なゆらめき方で流れる煙への憧れとかではなく、気まぐれから入店した中華料理屋の入り口に置かれた水槽ですいすい泳ぐ熱帯魚の物珍しさに癒されるときの、言葉では言いあらわせない安らぎや、獲物を求めて宙を嘗める爬虫類の愛らしい眼球の動きと似ている。それほど珍妙な存在として扱われるようになった喫煙者の経験はボクにも覚えがあった。いつだか親戚と顔をあわせなければならなくなったときに親戚の子供が小学生二人と中学生一人で、年長者であるボクが親戚の親父さんから子守と言われてシケた駄賃をわたされ、それらをシネコンの映画館まで連れてゆく任を負ったとき、あまりに退屈な●●●●●の映画を辞退し、ひとりで煙草を吸っていると、シアターから出てきた子供たちがボクを犯罪者だと言ってわざわざ咎めにきたのだった。どうやら煙草をマリファナか何かと勘違いしているらしかったのだ。理解者になりそうな中学生の割としっかりした少女ですら、ボクを援護してくれず、またわれ関せずを決め込んで、携帯に夢中でいた。ボクは共犯者をでっち上げるため子供にも煙草を吸わせてやり、そのあとで嫌というほど親戚の親父さんから怒鳴りちらされ、駄賃も巻きあげられた。それからというもの親戚と会うことが禁じられるというご大層な特典が無期限でついてきたのだから、笑うしかない。このように煙草というものはおかしな誤解に踊らされた経典みたいに、首をもがれてもなお喧々諤々の論争に怒り狂う後世の人々によって、神格化されてはおとしめられる心理テストの道具と化している。煙の向こうにある世界を信じられる人は、それによってこうむる害悪などとるに足りないくらい莫大で、両手には抱えきれないしあわせを得るのだ。そんな人々が一堂に会するこの場所で、ボクのように排他的妄想を繰り広げる人間がいたとしても無理はない。最後の一人もやはり中年の男で、お化けカボチャくらいの買い物袋が二つ、彼の足元にだらっと崩れていた。おそらく配偶者による超長時間のショッピングに同伴するのを嫌い、あるいは命からがら配偶者の魔手を振りほどいてこの避難所へ逃げてきたのかもしれない。日ごろから何かしらのストレスにさらされているのだろう、男の眉間は八の字を保ったまま元に戻らない。まるで見えもしない幽霊に怯えるように、卑屈や惰弱の色で塗りつぶされた表情だった。自殺をしたくても上手いきっかけがつかめず、喫煙への逃避というなし崩しの緩やかな死を選ぶことしかできない男の人生について、いったい彼は道徳責任を負う必要があるのかないのかについて、医学的見地から一〇〇%有害の烙印を押された悪魔の嗜好品によっていい大人が肺を汚したがる心理は、はたして大人としての責任をまっとうするものなのか否かについて、なまじ二十歳になってからでないと喫煙権が得られない法律を布くため、喫煙に特権的意識を付与し延いては悲劇の喫煙者を増長させている件の真偽について、それらを論じる前に、そもそも男が煙草をやめないとかやめたがらないのではなく、配偶者をはじめとして男を取り巻く環境が、男に煙草をやめさせまいと働きかけているのであって、そのため善悪の二項によって論じつくせない男の喫煙を追及する資格は誰にもないと言うしかない。したがって男の喫煙権は煙草の有害性を差っぴいてもなお余りある立派な動機により保障されるものであるとも言える。ボクはたぶん男の死相を直感で読みとり、なけなしの優しさに突き動かされて他人事でいられなくなり、純粋に煙草を吸いたいだけの人間があれほど苦渋に満ちた表情でいなければならない矛盾を、頭の中で考察していた。男はスタンド灰皿の網目に吸殻をぽとり落とすと、横にふくれた二つのカボチャっぽい袋を持ちあげ、足早に喫煙室から出ていった。ほかの二人も示し合わせたようにそこから退出し、いつの間にか喫煙室にはボク一人しかいない状況になっていた。

音もないひっそりかんの時空をときどきぶっ壊す子供の絶叫。室内に垂れこめる煙は、蛍光灯の光をぼんやり濁らせている。天井めがけて蛇行しながら逃げてゆく煙は正方形の排気口に呑み込まれ少しずつ消え失せ、その隙間を縫うように火種は不規則にジジッと音を立てている。気がつくとまたひとつ、人影が喫煙室に入ってきた。それがあまりに静かな身のこなしだったので、異化というか脱馴化というかそんな調子で、静かすぎる人影に振り返ったわけだが、そのとろけたマシュマロみたいな女の子にボクの視線は瞬間接着したまま意識もろとも盗まれた。少女が可愛いだけならどうってことないのに、まず不可解な点は、たっぷり膝下まである生地の余ったトレンチコート。サイズといい型といい、誰がどう見ても男ものだった。前を全開にしたカーキ色のコートの下には、薄っぺらい黒のキャミソールがちらっとだけ窺える。肩から背中、茶髪のショートはぬれているようである。外は雨が降り出したらしい。ボクは傘を持っていなかった。女の子は入ってくるなり部屋の奥までふらつきながら歩き、立ち止まってポケットから電気コードみたいなものを引っぱり出すと、いじめられっ子のように部屋の隅でしゃがみ込んだ。何をしようというのか、どうやら壁に備え付けられたコンセントから電気を拝借し、携帯を充電するつもりらしい。がさごそ作業を終えると、少女はトレンチの裾を床に垂らしたまま、ふと煙草に火をつけた。煙が淡くゆらゆら立ち昇る。煙草の似合う女性という形容が褒め言葉にあたるかどうだか存ぜぬが、少なくとも彼女については煙草の似合う女性ではなかった。ごく自然な桃色で染め抜かれた唇は黄金律の神秘さで控えめにきらきらしている。そこを化学物質で汚れたフィルターが行ったり来たりする有り様は、やはり少女の魅力を削ぐものだった。とかなんとか品定めしているうち、とっさにボクの視線に気づいた彼女がこちらを見やるので、ボクはすっかり少女に奪われていた鈍感な意識をあわてて連れ戻した。目が合っていた時間は限りなくゼロに近かったが、嫌悪でも緊張でもない新種のパニック障害みたいな熱エネルギーが心をかき乱した。ボクが生来、人見知りの激しい性格であるのも原因のひとつだが、正面から見た少女の顔が期待を裏切らないどころか予想以上の、もしかしたらトラファマデリア人あたりのハーフかもしれない美貌であるからでもあった。どうせ五分しか一緒にいないのであれば、むさくるしい野郎どもより彼女のようなコがいいに決まっている、とボクの男がわめきたてる。ところで彼女はどうして男もののコートなんかを身につけているのだろうか。考えつく点はいろいろあった。たとえば典型的なところだと、ケンカ別れした恋人の部屋から腹いせにがめてきたとか、実は変装しそこねた私立探偵であるとか、実はコートの下にトンプソン機関銃が一挺したためてあってこれからデパートを襲撃するに際して仲間と電子メールで打ち合わせているとか、実はコートのポケットに最先端医療技術を駆使してつくられた新薬がこっそり隠してあって、それをつけ狙う秘密組織にコートの持ち主は捕獲されてしまったがひょんなことから薬だけは彼女の手にわたったとか、実は男もののコートをだぶだぶにして着るのが流行っているとか、である。そういえば雨はどうなっただろう。もしまだ降っているようなら傘を買う必要があるかもしれないけど、デパートに安物のヴィニール傘を置いているか疑わしい。傘なんて間に合わせで事足りるのに紳士用の傘に千円も二千円も払うはめになったら癪だ。そんなことを考えながら、ボクは三本目か四本目に火を放った。しばらくすると入り口のドアが勢いよく開いて、空気の流れが大きくうねった。それは一人の警察官、と思いきや単なるデパートの警備員だった。警備員の男は隙のない足どりでボクの前を通り越し、一直線に女の子へと向かった。警備員はユークリッド幾何学の背筋で女の子の前にびたりと立ちはだかり、時代がかったぶ厚い眼鏡から彼女を見下ろしている。

「そちら、ご遠慮ください」白い手袋が人差し指だけのばして壁のコンセントに向いている。色のない低い声が女の子をたしなめた。警備員はそれほど威圧的に振る舞わず、しかし女の子がコンセントからプラグを抜くまで絶対に帰らない構えだった。

女の子はうとましげに警備員を仰ぎ見て、首をだらしなく斜めにかたむけて前髪をよけ、その隙間から芯のある黒い瞳をぎょろり上げ下げした。まるですばる望遠鏡が宇宙のはるか彼方にある星に焦点を定めているかのようである。

「なんのためのコンセント?」女の子はささやく程度の細い声にかすかな怒気を込めてくい下がった。壁にあるコンセントは客が使ってしかるべきだという言い分らしい。

「清掃員が掃除機を使うためです。こぼれた灰を吸い取るために」警備員は間髪入れずに答えた。「ほかのお客様のご迷惑になりますので、なにとぞご理解ください」

ほかのお客様云々についてボクは何のことだか解せず、女の子も納得がいかないようで、不満そうにふて腐れた面持ちだったが、しぶしぶと警備員の勧告に従い、鷲づかみにしたコードを乱暴に引っこ抜いた。ご協力ありがとうございますと言って警備員は制服の帽子を親指の先で軽く浮かせた。それだけで飽き足りない警備員は、続けてその場にたたずんだまま動こうとしなかった。「失礼ですがお客様、年齢を確認できるものお持ちでしょうか」と言う。女の子が未成年に見えるのはボクだけでなく、だいぶ年老いた警備員の感覚でも同じらしい。女の子は指に挟んだ煙草を額の前で右左に振りまわしてみせ、警備員に見せびらかした。「タバコ吸ってんじゃん」「ええ、ですからお尋ねしてるんです」「だからあ、タバコ吸ってるから二十歳だっての。それが身分証」ボクは彼女の幼稚な屁理屈におどろきあきれた。よほど知られたくない秘密でもあるのだろういやいや相手は警察じゃなくて一介の警備員なんだから適当にあしらってしまえばそれ以上ぐちゃぐちゃ穿鑿される心配もないはずだし、だいたい警備員ごときに職質の真似事をする権限はないのであって、そんなことも彼女は知らないのか、あるいは知っていてそれでもあえて立ち向かおうというのか、見たところことさら興奮してわれを忘れている感じでもないし、頬杖ついて受け答えするほど冷静というかふてぶてしいというか、とにかく警備員をやり込めようと意地になって引っ込みがつかないだけかもしれないもしくはきっと警備員に対する彼女の反抗にはボクの想像にも及ばない深い訳があるのだろうでなければ携帯の充電をやりはぐったくらいで頭でっかちの老警備員にとやかく言われるのはあまりにも割に合わないし仮にボクが彼女の立場であったとしてもこの警備員の事務的な態度は頭にくるかもしれないがいや待てそれ以前に彼女の女性にしてはいささか奇妙な服装について第三者のボクがそれなりに合点できる説明が与えられる保証はどこにもないわけでどれほどがんばって彼女の発言ひとつひとつに聞き耳たてて推理してみても彼女と警備員が口論するだけの通俗ドラマから得られる情報は限られているからボクがこうしてくどくど思い悩む意味もいっさいないのではないかだとしても、ボクは自分の視点から現状をゆっくり噛みなおしてみて、もはや喫煙室にとどまる必要はこれっぽっちもないと知った。

「タバコ吸ってなきゃ、訊いたりしません」メカニカルな警備員の態度も小生意気な女の子を前にややほころび、直立の姿勢が崩れ、伸ばした片足をじれったげにゆすった。警備員と女の子がしばし睨み合う最中、館内放送は嫌味な猫なで声で迷子の子供を呼び出している。よく見ると喫煙室の壁にはB3くらいの巨大なポスターが「未成年者の喫煙は法律で禁じられています」を謳い、赤と黒を使いわけた仰々しい活字で印刷されている。「速やかにご提示ください」警備員がそそのかすも、女の子はクールに完全黙秘を決め込んでいる。さっさと逃げればいいものを、彼女は吸殻を灰皿に投げ捨てると新たにパステルピンクのボックスからもう一本取り出して、警備員を挑発するようにぷっかぷか吹かしはじめた。たとえ彼女が成人であるにしても年長者に変わりない警備員に対してふさわしくない不遜な口のきき方はどういう教育を受けた所産なのかと訊いてみたくなって、といってもボクにはまったく関係ないことだった。警備員も警備員でよほど暇なのか、引き際をわきまえないため、女の子がねばり勝ちする奇跡もなさそうであり、一向に見えないこの睨み合いの出口が当デパートの閉店時間になる危険性もあり、傍観者のボクにとってそれはそれで面白い展開だった。完全なる第三者を気取っていたボクに、女の子はまたふるりふと向きなおり、ぎょっとしてボクはさっきと同じように目を逸らそうとしたが、彼女は意味ありげに眉間を寄せ、困った顔をしてみせるので、行き場を失ったボクの視線は退路すら絶たれて、そしてまた彼女に奪われてしまった。「お兄いちゃあん」彼女は子供がダダをこねる声を巧みに模倣してボクに訴えた。それまで借用書の片隅に署名した善意の保証人でしかなかったにもかかわらず、にわかに争いの渦中へとボクは引きずり込まれた。これがお茶の間のテレビなら、ガーンというサウンド・エフェクトに合わせてボクの間抜け面がネガフィルムの静止画で液晶いっぱいに映し出されることだろう。当然のなりゆき、警備員は首だけぐるんとボクに向けた。

2009年12月22日公開

作品集『スキゾロジック』第1話 (全6話)

© 2009 渟足川祐也

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