スキゾロヂック(5)

スキゾロジック(第5話)

渟足川祐也

小説

4,563文字

舞台はひきつづき、はきだめのアパルトマン。 少女との対話。気の狂った躁病的言辞が口をついて飛び出す。少女との距離感がつかめず、ボクは年甲斐もなく困惑する。ボクの被害妄想はアパルトマンの構造 にまで及ぶ。夕霧のたれこめる頭は、ふたたびCIAの虚像を生み出す。

「あのさあ、初対面の人間に携帯を預けるとは、いったいどういう了見なわけ」きっと彼女に浴びせる第一声はいやがうえにも怒りの混じった語気になるだろうと承知していたので、意識の手が届く範囲でボクは穏やかに切り出した。彼女は目を丸くしてとぼけてみせた。それはふてぶてしいというより、ボクのセリフが大きく的を外れた異物であるために処理できないでいるようだった。「お兄いさんがパクったんじゃないの?」「は? そんなバカな」自分でも恥ずかしいほど古めかしい間投詞をこぼしたことで、それをとりつくろうさらに愚かしいセリフを吐く義務が生じた。「なるほどね、謎はすべて解けたよ」「何が」「CIAさ」加熱した詭弁家の身振り手振りで、ボクは電話を彼女の目の前に突きつけた。「こいつはキミの携帯じゃない」「あたしんだけど」「いいや、これはCIAの新型盗聴器だ。このまえBBCのニュースで黒人のコメンテイターが説明してたんだよ。いいか、こいつは可及的速やかに処分しないと大変なことになる。すでにアンドロメダの向こうからタミオン星人による鬱纈電波の交信が確認されている。この距離で赤方偏移zがこれほど激しく乱れるのは、連中が大型ブラックホールをつくり出すのに成功したからだ。うかうかしているうちに、ボクらの会話から何から何まですべて盗聴盗撮されてしまう」レポートのために徹した夜のツケがまわって軽い躁状態にあるため、やたらと滑る口を自覚しつつ、うやむやになった異常な入電を繰り返す携帯について訊ねておけばよかったのに、と反省する心を吟味しても結局、ボクには関係ないことだった。人を不愉快にさせるボクの冗談を右から左に聞き流した少女は、前ぶれなく携帯をとり返すと、ここ一週間の履歴を気にすることもなく枕の下に押し込めた。「その枕が実は粒子分解変速機とかで、中に入った物体が空間を瞬時に移動できるわけだ。たとえばCIAの本部があるバージニア州の、」「もういいから」と彼女は言う。とりあえずこの埃っぽくよどんだ、鬱陶しい空気を追っぱらうべきだとボクは感じて、カーテンのかかった窓を開けるため、足もとの障害物に気をつけて歩いた。部屋の中央あたりで硬い何かにぶつけた足の指先から予想外の激痛を受けると同時に、捕捉した卓袱台らしき黒いテーブルの存在と、テーブルの上に置いてあったスターバックスの紙コップに溜めてあるピスタチオの殻が、民族楽器のパーカッションそっくりな音色で腹立たしいほど豪快に飛び散ったことで涙をこぼしそうになった。つま先を持って片足で跳ねまわるといった慰めの方法も、足の踏み場さえなく散らかったこのアパートにおいては、さらなる二次災害を引き起こすものでしかなかった。うずくまって指先を雑巾がけのようにさするボクに対して彼女は容赦なく「あーあ、やってくれちゃって」と、興味なさげに吐き捨てた。そのことでボクは深く落ち込んだ。もともと散らかしていなければこんな目に遭うこともなかった、そのような反論はみじめさを強調するだけだったので、つま先の痛みと一緒にこらえるしかなかった。突然、何か聞くかと訊ねられ、ボクは空まわりする舌を抑えられないまま何でもいいとだけ答え、すべりの悪い窓を開けると、聞くという動詞が音楽を示しているのだとようやく悟り、特にそれがどうというわけでもなく、広がる駐車場のブロック塀を前にして、一服ついた。ステレオからはギターの轟音をゆったり奏でるサイケな音楽が、意識の底へと染みわたった。ぬるくて湿度の高い七月の、梅雨が明けきらない季節によく調和する幻想的な曲だった。「いい趣味してるね」文脈からしていやみに聞こえなくもないボクの独り言に対し、あたしが聞くのはもっとガレージ寄りの泥臭くてダーティーな音楽で、これはたまたまお兄いさんのしめっぽい雰囲気に近いからかけてみただけで、あたしはそんなに好きじゃないんだよねとのことで、その音楽に聞き入っていると、CDを無理に貸してくれそうになり、どういうわけかボクはあっさり断った。そうしてから台所で作業を終えた彼女は、茶カスのこびりついたマグカップをボクに手わたした。その上から覗き込んでみると薄くて白い油の浮いたコーヒーであるとみえ、一口すすってボクの舌にそぐわないとわかれば、出窓に放置するまでだった。

窓は縦長のひし形で、開閉にあたっては中心を突き破るようにして四枚のガラスが稼動するようになっている。窓の外は一階にいるとしか思えない高さにまで地面が上昇していた。たしかに階段で地上2mの高さまで少なくともあがったのだから、それに伴って外の景色も2m下に位置するはずなのに、埃で曇ったひし形の窓から望める月極駐車場の景色は、自分が一階にいると判断するしかない高さまで地面をリフトアップしていた。もしかするとこのアパートを挟んで2m前後の急勾配ないし段があって、部屋に入るためのベニヤドアを通過してもまだ一階にいるよう錯覚させているのかもしれない。階段をのぼったことが疑えない事実であれば、当然そのようなぎりぎり現実性を保てる可能性が生じてくる。しかし大股で五歩もかからないアパートの奥行きに、はたしてそんな急勾配ないし段の入り込む広さはあるのか、いますぐ背中のドアまで駆け出て屋外からたしかめてみる価値もありそうだったが、背中あわせになっている玄関のドアをこえたうしろは地上2m、その地点から大股でたったの五歩ばかり進むと、砂利の敷き詰められた月極駐車場が水平になった視線の先に、低いコンクリート塀を経由して広がっているだけだ。あるいは一階に二部屋しかない理由も、足りていないもう二部屋の埋め合わせとして、二階からの景色をあたかも一階のそれと同じであるかのようにしている急勾配ないし段の存在であるとすれば、おおむねの説明はつくだろう。テーブルに灰皿を見つけると、ボクは根元まで火種の迫る煙草を処理するために立ちあがって、盛りあがった吸殻の隙間に忍び込ませた。テーブルの上にはジュースの空き缶、ミネラルウォーターのペットボトル、ジャンクジュエリー、袋のあいたジャンクフード、ファーストフードの紙くず、各種リモートコントローラー、ガム、チョコレート、それらの銀紙、鍵の束、少女マンガとハーレクイン小説、小指くらいのデジタルオーディオプレイヤーなどなど、その手の音楽再生機にはあるべきものがあるはずだと目をこらせば、だまし絵のように黒いノーパソが埋もれていた。人の部屋にはそれぞれどこかに主の特徴を決定づける因子があるもので、彼女については音楽好きと極度の怠け者がそれにあたる。

彼女がボクに家庭教師を依頼した理由は、とりあえず高校を卒業しておこうというチープな目標のためだった。高校を卒業してからその先はどうやって生活していくのか、仕事のあてはあるのか、両親はいるのか、もしいるなら彼等と和解してしばらく比護を受ける気はないのか、そもそもなぜ君はこんなぼろアパートに一人で暮らしているのか、家賃の出所はいったいどこか、まさかとは思うけど非合法な真似をしているのではないか、売春くらいならまだしも、あぶない薬剤師とかはごめんだぞ、などといった質問と道徳的諸注意のはてに彼女がどのような人であり性格であるのか察する手掛かりはいっさいつかめなかったし、彼女の超適当な返答に確固たる信憑性などなく、それはこの部屋の悲惨な清掃状況から帰納的にわかる事実であり、ボクに勝るとも劣らないだらけた懶惰の人であることだけはたしかであるようだった。そうこうしているうちに方向性を失った雑談は、いつしかボクの大学や学業成績をめぐりはじめた。しかしそれは彼女にしてみれば自分の目的を達するために抜かりなく計画した会話であったのかもしれない。

「いいわけないじゃん、偏差値六〇きってんだよ。受験のときだって三教科しか勉強してないし、そりゃ負け組とか言われて当然ですよ」ボクの自分証明として名前の次に大きな比重を占めている大学生は、まぎれもなく低能と呼べるものだった。四大学の中でもひときわ学力の劣るボクの学校は、思い出すだけで劣等感を誘う。こんなときこそ東束大学とでもするり虚偽申告しておけば世間知らずな女子高生の尊敬くらいは買えるはずだったが、その手の高次な嘘は必ず後味の悪さに毒されて重い自己嫌悪につきまとわれるだろうと経験から知っていたので、正直に答えるのだった。問題なのは在籍大学の良し悪しではなく、望みもしないボクが、会話の中心に祭りあげられていることだった。

「いや、勉強おしえてもらおうと思ってさ」首の後ろに手をやりながら、彼女は柄にもなくこちらの様子を気にかけて、おもねるように上目の視線を放った。大学に入ってまっとうなロックバンドを結成したいのだそうだ。

「ボクに? それは光栄ですね」一度は真摯に受けとめたようにみせかけて、頭のほうはすでに断る口実を隅からすみまで模索していた。勉強など親戚の生意気な中学生に初歩的なことを教えていたくらいで、それより高学年になるとあまり自信が持てない。ここでまたもや浮上してきた無意識の奇想は、CIAが検体であるボクを手はじめにテストするのではないかというお約束だった。ここで断れば帰り道の電柱で、そこに隠れたエージェントから処刑される気がして、判断基準を失ったボクは、不覚にもいい返事をしていた。「要するにもぐりの家庭教師ってことね」「そうね」「キミはどの教科が苦手なの?」「ぜんぶ」「なるほど。じゃあいちばん苦手なのは?」「数学」「その次は?」「英語」「国語力はあるみたいだね、安心しました。いいですよ、たいしたことは教えられないと思うけど、やるだけやりましょう」「ホント? やったあ」「その代わり、」彼女が喜ぶのを目にして反射的に「その代わり」とさえぎったものの、そのあとにつづくはずの交換条件が、ボクに支払われるべき報酬を含めて、いっさい咽喉から外に出てこなかった。これが本当の条件反射だとしか思いつくことのできないボクの無意識は、CIAに支配されて自由を損ないはじめているのかもしれない。しかし彼女の頼みを聞いたのは、ごく自然に彼女の愛らしい笑顔をちょっとでも長く目にしておきたかったからかもしれないわけで、そういう許される範囲の不純な動機に突き動かされて承諾したなら、ボクは自分の思考組成に占めるポジティブフィールドを再評価するだろう。「あたし援交くらいしかできないけど、お金はきっと払うから」というような確信犯の、小さくて巧妙な悪意のある態度の切り返しに、舌を抑えられ逆らう気力もなくしたボクは、狂気の流れに結論を任せた。「え、ああ、いらない、いらない。金なんて一コペイカもとらないよ」自分の愚劣さにはあとでひとり部屋の中で反省するからいいとして、金で腰をあげたとおもわれるのも癪だし金には目もくれない竹割野郎だとおもわれるのも気持ち悪いし金も時間もありあまっている放蕩者だとおもわれるのも嫌だし自分より三つも年下の少女に反論さえできない男だとおもわれるのも情けないし、とにかくボクに対して向けられる意識がすべてCIAの陰謀である気がしてきた。

2010年8月8日公開

作品集『スキゾロジック』第5話 (全6話)

© 2010 渟足川祐也

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