恋は盲目

渟足川祐也

小説

9,760文字

重度神経症のサラリーマンが色眼鏡をかけた盲人の集団に喫茶店で出くわしたら、彼らを産業スパイと誤解するかもしれません。そのような人間同士のもつれ合いを、近未来の設定で書いてみました。スプラッタアぎみですので心臓の弱い方はご注意ください。

まずは視覚障害者と健常者とをひと目で見わけるのがとても難しくなった時代について話そう。人が視覚障害者かそうでないかを判別する基準はおおむね、白い杖や日中夜間に関係なく装着しているサングラスなどである。特に白い杖をついていなければ一瞥して視覚障害者だと見抜くことはまずできないだろう。素人であればなおさらである。といっても別に視覚障害者を看破するプロフェッショナルが存在するわけでもないし、視力を比べる以外に健常者の視点や観察眼などの話題を扱いだすとややこしくなるのでここでは差し控えよう。冗談はよそう。ここからが本題だ。その時代においてはGPSのデータを電気信号変換して視覚障害者の脳に直接、外界のイメージを伝えられる意識デバイスが商品化され、不恰好な白い杖でアスファルトをかつかつ叩きながら歩く必要がなくなっていた。製品名称は《盲手引き(メクラヴィゲーション)》。これは眼鏡のように好きなときに好きなだけ着脱できるものではなく前額部に数ミリ口径の穴を医療用ドリルで開けて脳に内蔵させるのだが穴というのもインド人の眉間にある赤ポチくらいの、前髪を伸ばしておけば隠せるサイズの穴である。ただドリルを使うのでごく稀に感染症を患う危険があり、半身不随になり車椅子の生活を余儀なくされて泣き蜂になる例も報告されている。発売当初は精神に異常をきたす恐れのある機器として人権擁護のNPOを筆頭に使用の中止を呼びかけられていた。彼らの主張はあながち独我的倫理に基づくものでもなく、かなり低い確率であるが試験段階で《盲手引き(メクラヴィゲーション)》使用にともなう癲癇発作が認められていた。この事故は使用者の過失に関わりなく起きたので原因はすべて製造会社にあった。その詳細はというと《盲手引き(メクラヴィゲーション)》から流れる電気信号が干渉して精神抑制系の電位を弱める効果が働いたことによるものだった。21世紀に盛んだった脳研究の成果をもってしてもいまだ解明されていない脳の神秘が《盲手引き(メクラヴィゲーション)》のような人工物と混じりあったときに不測の誤作動を引き起こすのであると、大衆に向けて脳神経工学の布教に努めまたその道の権威でもあったアハモジャ博士は、日本脳神経学会における発表でそのような宗教的意味づけに結ぼうとした。しかしそれから製品のさらなる小型化が進むにつれ癲癇は発症しなくなり、《盲手引き(メクラヴィゲーション)》にとどまらず脳の機械化はいっそう進んだ。前進あるのみといった脳開発の姿勢はかつて核爆弾がつくられたときの狂気と瓜二つだった。また万が一《盲手引き(メクラヴィゲーション)》の使用中、癲癇発作が発症するかもしれないときに備え、パルス状の電位変動が規定値を超えたときには機器そのものを自動的に停止させる安全システムが導入された。つまり軸索内の電極がふれて一〇〇ミリボルト以上の電位差をあらわしたときは機器が強制終了され、形質膜内のNaイオンとKイオンの差が規定量を超えても強制終了されるという仕組みだ。したがって《盲手引き(メクラヴィゲーション)》を脳に植え込んだ視覚障害者は歩くときでもゆっくりと歩かなければ脳の血流が活性化しすぎて機器が止まり、路上のどまん中で以前のような全盲になって立ち往生するはめになる。そのためこの機器に順応しようとする視覚障害者はいやがうえにも冷静沈着さが求められ、普段からちょっとしたことですぐ腹を立てたり泣きわめいたりイライラしたり物に八つあたりしたりヒステリックになったり感情をむき出しにしたりするような気質では適正試験にも通らない。おまけにあの視覚障害者によく見られる不自然な眼球運動や、倫巴里、鶏目などと揶揄される目つきを隠すためのサングラスはいまだに必須だったので、体格のいい人によってはハードボイルドな外見的印象を与えるのだった。

丸の内線の某駅を出てから徒歩七分のところにある、某大通りに面した某テナントビルの一階の某喫茶店。それまで兎角死角だった菱橋久司のななめ後方には、サングラスをかけてボックス席を陣取る盲人の集団が、店内に響きわたるほどの大声で談笑していた。彼らはみな《盲手引き(メクラヴィゲーション)》使用者だった。盲人らはだいたい三十分ほど前に入店してアイス・カプチーノ、渦状の泡を浮かべるキャラメル・マキアート、マンデリン、生クリームのたっぷり乗ったチョコレート・パフェ以上四点を注文したのち、その一時間ほど前に観てきた映画の感想をはじめは静かに語り合っていた。盲人のための《音で楽しむ無像映画上映会》では、007の旧作を上映していた。好きなシーンや気に入った女優の話をしていた盲人たちがいつしか映画の批評をぶつけ合うようになると、空中を肌で探るような盲人特有の動作が一段と激しくなる白熱ぶりで、休憩しにきただけで無関係なまわりの客に騒音を押しつけた。サングラスを装備したままで007というレッキとしたスパイ映画について談話している様子はただでさえいささか怪しげな節があるのに、ましてやこれから取引先との大事な商談を控えている神経症ぎみの営業マン菱橋にいたっては、このサングラスをかけた男たちが彼を陥れようと計略している組織のメンバーに思えて仕方なかった。菱橋の会社が売りに出している業務会計ソフトは決して他社に抜きん出る有力商品でもなければいちじるしく悪質であったり型遅れしているわけでもなく、すなわち売り上げは菱橋の腕、自社のソフトを売ろうという熱意や弁論術にかかっていた。受験勉強のころからもそうであるように菱橋はプレッシャーに弱く、特に内発的プレッシャーに押しつぶされそうになると彼の精神機構はそのハケ口を求めて働きはじめる。次に出る問題は、次に飛んでくる質問は、相手の要求を満たす答えは、そしてこの不安はどこからやってくるのだろうか。責任の所在はいつもだいたい菱橋のデタラメな空想によって構築され、後づけのセメントである論拠を是が非でも塗りたくり、挙句のはてには崩れるぎりぎり寸前の論理を下敷きにしてさらに、その上にまた誤った理屈を積みあげるのだった。

たとえばいまカウンターの奥から歩いてきた二十歳前後のウエイトレスの手によって銀盆からテーブルへと下ろされたティーカップに青酸カリが混入されている、という仮説を先に立てたとき菱橋はその説を裏づけようとして、ウエイトレスがカップを置くのにうしろめたそうな口調で「アメリカンです」と言うのを心の中で指摘せずにはいられないのだ。菱橋にとっては罪悪感めいて感じられるウエイトレスの態度でも、彼女は連日の長時間にわたる単純労働で疲れているのかもしれない仕方ない見過ごそうと、普通の人ならそう判断するに違いない一般的観察眼を彼は顧みない。一顧だにしない。会計ソフトを売り込む商談への不安とプレッシャーが彼の常人的寛容さを蝕むのだと言い訳するまでもなく、そういった心のゆとりや寛容さが元々、彼にはまるで欠けていたのだ。そして菱橋が毒殺魔だと勘違いしているこの愛らしいウエイトレスが客にそっ気ないふるまいをする本当の理由は、実はかれこれ生理が二週間以上きていないからというものにほかならなかった。心あたりのある男と妊娠検査器具の陽性反応と産婦人科と仲のよくない両親などの雑念が、そのときの彼女をうしろめたくさせていた主たる原因だった。そうとは知らずいまだに毒の混入されている恐れを捨てきれずにいる菱橋は、自分のキチガイじみた論理からどうにか逃れたくもあった。とりあえず気休めに量産型のいかにも手のかかってなさそうな唐草模様が塗られたティーカップをしばらくじっと見つめてそれに砂糖を加えるべくテーブル脇の小瓶にため息をつきながら手を伸ばした。

そのときふと横の席で一人レポートの構想をひねっている大学生の男とばったり目が合ったので、もしかするとこの男が砂糖の瓶に青酸カリやヘロインの粉を混ぜたかもしれないと菱橋は疑いはじめた。大学生が自分と同じアメリカンをおかわりしたのは油断させて毒を呑ませるために決まっているのだきっとそうだ、といった被害妄想を菱橋は全方位に展開した。しかしさすがにそれを裏づける根拠はこの大学生の険悪そうな目つきを除いてほとんどなかったのですぐさまキチガイじみた理屈を壊すことができたし実際、大学生と目が合ったのもまったくの偶然であった。菱橋は小瓶のふたを持ちあげ、備えつけられた耳かきほどのサジを二本指でつまんだ。しかしまた彼の視線は本来なら砂糖をすくったサジの先端からティーカップへと移るべきところなのにテーブルの表面に刃物か何かで彫られた、かろうじてアルファベットの組合せであるとわかる知性のない落書きへと向かった。それは地元の不良少年が彫ったお茶目で他愛ない悪ふざけかもしれないし、薬物売買を生業としている反社会勢力の仕業かもしれない。もしそのような組織の人間がこの席に座っていたのであれば当然この砂糖の小瓶にもあらゆる類の夾雑物が混じっていてもおかしくないじゃないかそうじゃないかと菱橋のキチガイじみた妄想は最高潮に達した。サジを運ぶ手が止まり、砂糖の小瓶はもとあった位置へと静かに戻された。

静まりかけていた盲人の談笑が菱橋の神経を逆なでする勢いでまき返してきた。口やかましい盲人どもは《音で楽しむ無像映画上映会》がよほどお気に召したらしく先ほど盛況だった007の話に再び花を咲かせている。

「おい、あれ見ろよ。今日のボンド役だったやつにそっくりだぜ」

「あん? どこにいるよ」

盲人Aは意識デバイスの光学ディスプレイを右目の少し先まで移動させ、設定ウィンドウを開くと受光部の感度を上げ、スペクトルの変位を立体化装置でシャープにした。別の盲人Bは27年式の意識デバイスをあくまで冷静にコントロールしようとして目を細めた。

「バカ野郎、ちっとも似てねえだろう」ジェームス・ボンドにそっくりな男が外にいるという盲人Dの言い分を盲人Cはとてつもない大声で否定した。「どこに目ェつけてんだよ」

「目がねえのはお互いさまだろが」と盲人Dは即座に言い返した。「目の不自由なお前ェの代わりに教えてやる。いいか、ボンドはどっちかっていうとだな、もっとこう何ていうかヨーロピアンな顔立ちだろうが。あのガイジンは誰がどう見たってアメ公だぜ」

「アメ公かどうかなんて、アジア人のお前ェにどーしてわかんだ?」盲人Aは口をすぼめて不満げに言った。

「何だと。お前ェこそアメ公とブリ公の見分けもつかねえのかよ。笑わせるぜ」

「ごまかすんじゃねえよ。知ったかぶったならゴメンナサイと言って取り消せや」盲人Bがさらに追及した。

見知らぬ白人を勝手にアメリカ人だと決めつけた盲人Dは口ごもり、盲人仲間たちから笑われた。

「うるせえぞコノ野郎。いいか、俺がアメ公だと言ったらチンパンジーだろうがボノボだろうがアメ公になるんだよ。それに見ろ。あの野郎のどこがボンドに似てるんだ。あれは誰がどう見てもただのゲイだぜ。しかもエイズだ」

盲人たちはいっぺんに笑いだした。

「お前ェの言うとおりだぜクソッタレ」

「こいつは傑作だ」

「まったく、笑わせてくれるメクラだぜ」

盲人たちの笑いがいっそう高まった。自棄になっておかしなことを口走った盲人Dの《盲手引き(メクラヴィゲーション)》はすでに強制終了されていた。興奮しすぎて電位差が規定値を超えたのだ。盲人Dはカスタマーセンターに電話して安全システムを解除してもらった。お互いを冷やかしあって意識デバイスを停止させる自虐的な遊びが盲人たちのあいだで流行っていた。それはまわりの健常者からすると不愉快で迷惑な場面もあった。耳ざわりな会話ほどいったん意識しはじめたら聞かずにいようとしても音が知らぬ間に流れ込んでくるものだ。特に菱橋のような神経過敏な男にとってそのような会話はチンピラの口論となんら変わらず、自分が部外者だとしてもその場に居合せるだけでびくびくしてしまうのだった。しかし盲人たちはみな特徴のない黒のスーツを着てサングラスを装着していただけなので、それと知らない人にとっては確かにチンピラの会話に聞こええなくもなかったが、菱橋の分裂的思考はもはや彼らをスパイと断定するまでに実話と呼べる最大範囲を誇張していた。こいつらは俺の商談を台無しにしようとして裏を嗅ぎまわってるライバル会社の産業スパイ野郎だ、と被害妄想を燃えたぎらせていた。それまでの不安はやがて盲人たちへの、菱橋はスパイだと思い込んでいるサングラスの男たちへの、憎悪や呪詛へと変化していった。そのときもうすでに彼の頭からは商談を成功させるためのあれこれがすっぽり抜け落ちてその代わりにこのスパイをどうやって黙らせるべきかという課題が大きな位置を占めていた。菱橋は肚をくくって席を立った。

「あのう、ちょっと」猫の足どりでそっと視覚障害者らのテーブルへ歩みよった菱橋は謝罪でもするかのような卑屈さで彼らの注意を引いた。「ちょっと声のトーン下げてもらえますか。騒がしくて仕事にならんのですよ」

「あん? なんだ手前ェは」盲人Aはソファーの背もたれに肘を乗せながらふんぞり返って首をだらしなく傾げた。彼は国際ピアノコンクールで優勝の経歴を持つ、ピアノの名手だった。

「サラリーマンだろ。月給もらってクソッパゲの言いなりになる賃金奴隷のサラリーマンさ」盲人Bは返答する形で菱橋にあてこすった。彼は障害者特別支援金を必要以上に受給して生活していた。

盲人たちはいかにもチンピラがやりそうな、集団によるふしだらな爆笑を菱橋に浴びせたが彼はめずらしく引き下がらなかった。連中がスパイだという仮説がいまだに頭の一部にこびりついて放れなかった。仮にサングラスをかけたこの騒がしい野郎どもが本当にスパイだとしたら工作目標である俺みずから接近することで目立つのを嫌う連中は大人しくなるに違いないそうに違いない、と菱橋は戦略を練っていた。四本の不気味なサングラスが動かずに菱橋の方を向いているところからすると腰の引けた菱橋の戦略もそれほど遠くはなかったが妨害工作の対象から接触されてもそれを撹乱したりうやむやにして誤魔化したりといった事後処理をしないスパイなど存在するものだろうかと、彼にしては正気な考えをめぐらせた。そもそも工作対象に気づかれるほど大声でしゃべるスパイはきっと何か別の意図があってのことに違いないし、そうでなければとんだ間抜けなスパイか、はたまたスパイではないということだ。しかしまた奇妙なところでこだわりを発揮する菱橋はいったん積みあげた陰謀論をそうやすやすと崩せず彼らがスパイである証拠をありとあらゆる側面から探してまわった。こいつらはきっと俺がスパイはこういうふうに行動するものだと承知していることを知っているからあえて裏をかいた大胆な作戦に打って出たに違いないそうに決まってる、と過度に込み入った尤もらしい理屈をあっという間に組み立てなおした。盲人らにしてみたら根も葉もない言いがかりでしかなかった。ぬらりとあらわれた珍妙なサラリーマンに無邪気なおしゃべりを邪魔されただけでもじゅうぶん不愉快だというのに、ユダヤっぽい卑屈なほほ笑みを浮かべてなおもテーブルから立ちのこうとしない目ざわりな男に怨嗟の感まで湧きおこってきた。郡盲の一人が攻撃を仕掛けた。

「あんたの仕事なんて知らないよ。どこでしゃべろうが俺らの勝手だぜ」

「そうだ。だいたいなあ、喫茶店はおしゃべりするところだ。仕事にならないってえならいますぐ店を出て、あんたんところのオフィスに帰ってやればいい話だ」

「そいつの言うとおりだ。おい、あんた。さっさと消えてくれ」

盲人どもはたたみかけるように菱橋の要求をはねつけた。

「ですから、ちょっと静かにしてくれれば済む話でしょ。なにも黙れとは言ってないんですから」

「やなこった」

「どっか行っちめえ」

「あんたまさか、障害者差別するつもりか?」

「そーだぞ。あんまりしつけえと人権団体にチクるからな」

あまりに意外な反論にあった菱橋はたじろいだ。盲人たちはいささか卑劣な切り札を切ってきたのだが、彼らが盲人だと知らない菱橋は何を言われているのかちんぷんかんぷんであった。それでも彼らに黙る様子がないところを見ると、まだ撤退できる状況ではなさそうだ。

「障害者? いったい何の話です? 僕はただちょっと声を下げてくれと頼んでいるだけなんですよ。盲人のフリなんかされたら困ります。それにもしあなた方が盲人だとしてもうるさいものはうるさいのですから五体の自由不自由に関係なく静かにすべきです。喫茶店はおしゃべりするところだとおっしゃいましたが騒いでいいところではありません。騒ぎたければ居酒屋でやってください」

「何ィ? コノォ。」

見知らぬサラリーマンの不適切な発言を受けて怒り狂った盲人Cはテーブルにどかんとこぶしを突いた。その勢いを殺さず、サラリーマンの次なる言動によっては実力行使も辞さないつもりで立ちあがった。しかし興奮しすぎたせいで《盲手引き(メクラヴィゲーション)》は音もなくスッと暗転した。Cがテーブルを強打した際、マンデリンのティーカップがひっくり返った。まだ熱い液体がほかの盲人たちの肌や衣服にもかかり、液体の触れた皮下からマイナス静止膜電位の急減少により神経線維を強烈なインパルスが伝った。盲人らの《盲手引き(メクラヴィゲーション)》のうちDの分を除いた三つは無効化され、一瞬にして彼らは失明全盲の闇に放り込まれた。長いあいだ高性能な機器に頼って脳の視覚領域を多用していたので盲人に特化しているべき人間本来の触覚領域は鈍りきっていた。

「なんてこったチキショウ」

「おい、電話を探せ。カスタマーセンターに電話して安全システムを解除してもらうんだ」

盲人たちは盲滅法にあちこちべたべた触りまわって携帯電話を探した。それを目にしても菱橋は依然として彼らが睾弄省の障害者申請に通った、正真正銘の国家のお墨つきの視覚障害者であるという厳然たる事実を認められず、コーヒーがこぼれたくらいで異常に慌てふためく挙動不審な彼らを、CIAから遠隔操作を受けて気が狂ったのだと推測していた。電話を探そうとして盲人たちは上着のポケットやテーブルの表面をまさぐっている。それはトチ狂ったゾンビの所作にも似ていた。こいつらに噛みつかれたらキチガイが感染する、という中世人じみた根拠のない恐怖につき動かされた菱橋は背広のふところから護身用に持ち歩いているスタンガンをとり出した。親切なウエイトレスはこぼれたコーヒーを掃除しにやってきて菱橋と盲人たちのちょうどまん中でしゃがんだが、麻薬患者の禁断症状並みに被害妄想を炸裂させている菱橋はこのウエイトレスをとんでもない罵声とともに突き飛ばした。ウエイトレスはほかのテーブルに腰をぶつけて気絶した。コップや伝票立ての透明な円筒が床に転がった。菱橋はスタンガンの安全装置をはずして放電させた。

そしてなおも盲人Dの《盲手引き(メクラヴィゲーション)》はうまく停止せずにいた。自動抑制システムが作動しないまま興奮性のシナプス電位差が連鎖反応的に増幅した。盲人Dは癲癇発作を起こしてガタガタと震え、デスメタルのような野太い悲鳴をあげていた。

「ふざけやがって、この腐れスパイども」スタンガンをつかんだ右手をふりかざしながら菱橋は叫んだ。「おい、近づくんじゃねえよ。ぶっ殺すぞ」

身体の動きさえ抑えきれない盲人Dが震えながら菱橋のすぐそばまで近づいた。

「なんだ、どうした。どこにスパイがいるんだ」盲人Cが叫んだ。

「この悲鳴は何事だ。クソッタレ、何も見えやしねえ」盲人Bがぼやいた。

「喰らいやがれスパイ野郎」

凶暴性をアピールするように電極針のあいだでバチバチと放電するスタンガンを菱橋は、腕を直角にじたばたさせる癲癇ダンスのふりつけですでにじゅうぶん震えあがっている盲人Dの首筋に押しつけ、感電させた。通りすがりの外人をゲイだのエイズだのと呼んでいた盲人である。体毛の薄い盲人Dは非常に通電性がよく、電気抵抗はたったの二三五Ωだった。盲人Dが暴れるとサングラスがゆがんでずれ下がり、そこらへんのコーヒー茶碗や砂糖の小瓶が床に叩きつけられて割れた破片に騒がしさが集中した。やがて盲人Dの動きは痙攣から硬直へと変わっていき、さらに感電した状態がつづくと命に関わりそうだった。

「きゃあああああ、ひひはひひはひ、ひッ、ひッ人殺しィ」ウエイトレスは通俗ドラマの端役みたいなセリフをここぞとばかりに叫んだ。

意識を取り戻したウエイトレスは悲鳴といっしょに屋外へ出ていった。ドアの上にかかった鈴ベルが鳴りやむよりはやく、レポートに悩んでいた大学生は広げていた資料や文献を大慌てでかばんに押し込め、財布から千円札をひねり出すとレジスターの方へ投げ捨てて足をもつれさせながら店から駆けだした。カウンターの奥にいたマスターは事態を把握する間もなかったがとにかくみなと同じように店から避難した。

ほかの盲人たちはあふれかえる悲鳴や異音や落下音の渦に背筋の凍る戦慄を覚えた。全盲に戻った瞬間から聞いたことのない奇妙でけたたましい音が耳へと入り、ひっくり返ったコーヒーのアロマだけが鼻腔までとどいた。盲人たちはそれこそゾンビのように、残されたアンテナである両手を伸ばしてまっ暗闇から自分のたすかる術を探し、いつどこで何が手に触れるか知れない恐怖と戦っていた。

盲人Dはまだ感電させられたままだった。前額部から脳内に埋め込まれている意識デバイスはチタン酸バリウムでつくられているため、誘電率が真空のおよそ五〇〇〇倍だった。つまり筒状の意識デバイスに電気を流し込めばライデン瓶と同じ効果が得られるわけだが、電荷集積力は想像もできない大きさになる。電気ショックを浴びた盲人Dが意識を失って倒れた拍子に意識デバイスの電極が接触し、スタンガンから取り込んで蓄電した数万ボルトのエレキテルが脳内で放散した。間近で落ちる雷の轟音といっしょに盲人Dのズガイコツが吹き飛ばされ、耳がついたまま砕けた側頭骨、眼球をぶら下げた前頭骨、粉々になったサングラス、痙攣のあまりに食道から飛び出した腹わたのフルコース、ちぎれた下顎骨、バラバラになった豆粒大の門歯、犬歯、差し歯、鼻片、唾液、鮮血、リンパ液、脳漿、脳汁、脳物などがあたり一面に飛び散った。下顎のあったところと頚部のあいだ辺りから穴の開いたスプレー缶の勢いで血がしぶいた。頚動脈が断線していたのだ。スタンガンを押しあてていた菱橋は返り血のすさまじさにびっくりしてうしろに飛びのいた。生き残った衆盲、といってもいまやたったの三人だがそのうちのCは油分の多い血だまりに足を取られてすっ転びその際、反射的に袖をつかまれたBは同じく連鎖的にAの背中を引っぱり、盲人どもはみな臓物まみれの血だるまに染まった。こま切れになった脳みそは菱橋の顔面や店の内壁にぶちまかれ、焦げたベーコンの薫風が尾を引きながらただようと、床にこぼれたコーヒーアロマと混じりあってなんとも芳しい朝の香りになるのだった。

それから十五分もしないうちに駆けつけた慈池刑事に菱橋は殺人の現行犯で逮捕された。腐乱死体や白骨化した死体などを見慣れている木刑事ですら、その首のないホトケを前にしたらコートの袖で口元を隠さずにいられなかった。スプラッター・ハウスと化した喫茶店の天井からはしぶきあがった血がしたたり落ちてきた。スタンガンは押収され、菱橋は手錠をかけられた。手錠の冷たい感触が両手首をしめつけた。店の外にできた野次馬の人だかりをやりすごし、パトカーの後部座席で刑事二人に挟まれた菱橋はネクタイをゆるめ、気の抜けた声でつぶやいた。「もう商談の心配はしないでいいんだ。ひひはひひはひ」

2009年7月25日公開

© 2009 渟足川祐也

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