オーガスタス・メロン

渟足川祐也

小説

9,769文字

メロンといえばお見舞い、お見舞いといえばメロンだ、という点から出発して自由連想式にアイディアを書き連ねました。内容は、盲腸を切除したOLの山蓬彩乃が回復を待って入院している五日間の話です。短編ですので説明はそんなに要らないかとおもいますが、時間がいくらか前後しているのでそのあたりを注意して読んでいただけると理解しやすくなるでしょう。

生えかけた陰毛が足のつけ根にあたってちくちくする痛みを山蓬彩乃は感じながら、術後五日目にしてようやく見舞いに行く都合のついた同僚の若林法子と衣笠伊織の二人をまじえ、ほかに三人いる共同病室の患者たちを無視した個人的で他愛ないおしゃべりを交わしていた。明るい髪色の伊織はお嬢さまみたいなシャネルスーツと見るからに本物の真珠でない単なる白い球の連続体を二本、首元にぶら下げている。背の高い法子は逆に質素すぎる黒のパンツスーツに大きく胸までえぐれたTシャツを着ているだけで、飾り気といえば左腕にチタン製のごろっとしたG‐SHOCKをはめているくらいだった。三人の患者は窓側に寝ている彩乃の隣でいつもゲームをしている少年と、向かいで読書にふける同い年くらいの男と、対角線上でひもすがらテレビの通俗番組を笑いもせずに観賞しつづける老人である。決算期で立て込んだ財務処理の下請けを、つまり節税とは名ばかりでどれほど杜撰な税務署でも脱税とみなすにちがいない犯罪の片棒を、パソコンにデータを打ち込むというかたちで担がされていた彩乃は、勤務中に急性の虫垂炎から仕事そっちのけで病院へと担ぎこまれ、盲腸を摘出する手術を受け、いまはその共同病室の一角を借りて療養中だった。さっきから癇高くて気味悪い伊織の笑い声に心なしか病室の空気がヘンなよどみ方をしていると彩乃は感じ、また誰よりも彩乃自身がいちばん伊織の奇声に違和感を覚えていて、それは新卒で入社してから二年、変わらぬ良き友人でありながら消えることのない不思議な感覚だったが、さすがにそれが気になって話がぎこちなることもなくなり、彩乃は自分の身に起きたありのままの話を語れるまでに成長していて、そしていまも一週間の入院しなければならない患者である彩乃が三人の中心で話をしていた。

「まだ半年も使ってないのにデータだけ消えちゃうっておかしいでしょ」

「まあね」

「日ごろの行いが悪いからだよ」口をとがらせてしゃべる彩乃を試すように法子は言った。法子は生まれてこの方ポケモンも、携帯ゲームも、したことがなかった。

「だったらあんたらは毎日どれだけ記憶が飛ぶことやらね」

「うけけけけけ」

「ははは、それはごもっともですな」人使いの荒い仕事を手っとり早く片付けてやってきた法子は男らしい豪快な声で言った。

「てか、本当に心あたりないわけ?」

「あたしじゃないよ」伊織は少しまじめな顔をした。

「あたしでもないし。また最初からやればいいじゃん。どうせあと何日かは寝たきりなんだから」

「そうだよ。今日までにだいぶ進んだでしょ」

「そういう問題じゃないよ。誰かがデータ消したんだよ。冗談じゃないよ」

「あたしらに言われても困るんですけど」

「困ってください」

「彩乃さん、あんたちょっと冷静になりなさい」

「母さんみたいな言い方すんな」

「お母さんは悲しいわ」法子は芝居がかった口調でベッドのパイプをつかみながらしくしくと泣く真似をした。

「だから、やめてってば。それにあなたたちの容疑も晴れてないんだからね」

「だったら犯人さがす? 私は探偵ごっこしてるほど暇じゃないのよ」

「うきゃ、うきゃ、うけけけけ」

「ああそうですか」

投げやりにそう言った彩乃は一呼吸おいて気をとり直すと、同じ病室で腕っこきのポケモントレーナーである少年に話しかけた。

「ねえ麗一くん、ポケモンってまったく同じようには育たないよね」

隣のベッドに寝ながら小型ゲーム機に熱中する少年は途中で手を止めてまで嬉々として彩乃の質問に答えた。

「あたりまえさ。ポケモンはただのゲームとわけがちがうぜ。育てた人のハートがバトルの内容に色濃く影響されるのさ。同じように育てたつもりでも一匹ずつ心を持ってるから、それぞれが違った行動をするものだよ。心ない育て方してたら、肝心なところでドジ踏んじまうぜ」

「だそうよ」

「じゃあ前より愛情を持って育てればいいじゃん」肩をせばめて両手を広げた法子は一言で反論した。

「そうだよ」と伊織が賛同する。

「そうだね」

ちょうど対角線にあたるベッドの老人は横に備えつけられたテレビの昼メロを退屈そうに眺め、真向かいの若い男は手当てをしにくる清楚に髪を結わいたナースと談笑している。彩乃は法子に切ってもらったリンゴをほおばりながら、窓の向こうにたれこめる曇天へ顔を向けた。ああもういったいどこのどいつが私のセーブデータ消したんだろ信じられないベロリンガをベロベルトまで育ててジャイロボール覚えさせるのにどれだけ苦労したかデータ消したやつに思い知らせてやりたいわまた一からやれですって笑わせんじゃないわよデータ消すなんて一分もかからないけど育てるのは何百日もかかるんだからねクソッタレそれにしてもいつになったらこの人たち帰ってくれるのかなこれから私のダーリンがくるっていうのに自分たちがとてつもないお邪魔虫だってことに気づきなさいよねああ私ったらそんなこと考えてはいけないいけないせっかくお見舞いに参じてくれた人に対して失礼じゃないそれに今日だってまだたくさん仕事が残っているはずなのに法子も伊織も顔じゃ笑ってるけどこの時期はぜったい多忙にちがいないわ二人とも怒ってるのかな怒ってないかな気をきかせて怒ってないと見せかけているだけだろうないやいやきっと私のことうまくサボる理由を手に入れたもんだとかひがんでいるにちがいないよだって私が忙しいときに同僚の生意気な女が盲腸で入院なんてことになって余計な仕事が増えたらぜったいムカつくもんムカつかないなんてことはありえないもんやだなあこの人たち会社であることないこと勝手な噂とか流してないかな復帰したとたんに社内の空気が異常に悪くなってたりしたら最悪だなあまあ別に今までもそんなに楽しい会社じゃなかったことは確かだけど今より悪くなるっていうのは本当に最悪だわ胸クソ悪いわただでさえ派閥とか男尊女卑とか頭を悩ます忌々しい些事が絶えないクソ会社なのにさあそれよか伊織の香水は強すぎてさっきから鼻っ柱がへし折れそうなんですけど自分は臭いと思わないのかな臭いの我慢してまでつけてるんだとしたら身の危険を感じたドブスが仲間の応援を呼んでいるとしか思えないですけどそのケバいお化粧しかりキショい笑い方しかりあんたがせっかく持ってきてくれたほっぺたの落ちそうなくらいヤミーなリンゴの味も台無しになるんですけど早く帰ってくれないとその死体の腐敗ガスみたいな臭いが部屋に残るんですけどてかさてかさいっしょにきてくれた法子さんはよくそうやって屈託ない顔で話していられるよねあたかも自分は仲良しこよしの同僚を見舞いにきただけだといわんばかりのさあ尊敬するよ感心するよ参っちゃうよ恐れいるよ恐れ入谷のきしししししいやああああああそれを言ったらお終いだ腹の底じゃあなに考えてんだか知らないけど伊織のこと気づかないふりしてるんだとしたらあなたはもうアカデミー女優賞もんの白々しい女ですよ将来は女性代議士にでもなるつもりかねえ本当は神経が太すぎて人の匂いとか周囲の空気とかぜーんぜん気にしないってだけでしょうけどそういうあなたたちのこと私は心から大切に思っているわよ私のぶんまで仕事をしてくれるなんてやさしくて誇らしい友だちだと思っているわだから今日のところはお引取りいただきたいだけです私にはベロリンガをまたぜんぶ一から育てる仕事も残されているし素敵で愛しいダーリンがいるんだからあなたたちと遊んでいるほど暇じゃないのよ早くきてくれないかなあ待ち遠しいなあ退院したら私の毛がないおまんこにずぼずぼはめてくれるのかなあ何んだか想像してたら愛液があふれてきたよ

下腹部に死ぬほどの痛みを与えていた盲腸を切除してから一日がたち、空いている病室に放り込まれた彩乃が鉄面皮で色のない表情を補うのにじゅうぶんな持ち前の話術によってほかの入院患者と親しむより以前、彩乃の処女膜を充血して怒張するペニスによって破いてからいまでも彼女の恋人でありつづけている夕張真人は、回復を待つ虫垂炎患者の病室に最初の面会人として訪れていた。彩乃のパジャマやその他の日用品をたずさえて真人がやってくるより少し前に、病室で暇をもてあましていた彩乃は慣れない空間でテレビをみているうちにいつもは使われない頭の一部が活発にはたらいて種々雑多な妄想をくり広げなければならず、ゲームのデータを消した犯人のことやゲームに登場する仮構の生物でひときわ思い入れのあったベロリンガのことなどにあてもなく思念をめぐらせているうち、最終的にたどりつくのはまわりに患者がいる中でいても立ってもいられないほど気になった剃毛による陰唇一帯のその後であり、かたい掛け布団をそっと持ち上げ、支給された水色の不恰好な装束をまくりあげてまだ手術で切開したときの傷がうずくヘソのあたりに手をひっかけないよう避けながら昨日まで毛の生えていた場所だけ優しく触ってみると、そこは陰唇の盛り上がっている部分まですっかり除毛された、いわゆるパイパン状態だった。ベロリンガに比べればことさら大切に育てていたわけではない陰毛ですら、実際になくなってみると両者とも同じくらい強烈なショックがあるものだと彩乃は痛感していた。夕方の愚にもつかないニュースの特集で品性のかけらもないナレーションをする男の声が、彩乃の沈んだ気分をいっそう逆なでするので、彼女は逆手に持ったリモコンの電源ボタンを押し、テレビの電力をひとまず遮ることに成功し、窓の下に広がるメタセコイヤの並木道に点滴スタンドを滑らせながらびっこをひいて歩く老い先みじかい老人や、激しいスポーツかあるいは二輪自動車の転倒で負傷したのだと考えさせるガタイのいい健康そうな男と、彼が乗っている車椅子をほほ笑みながら押している恋人らしき女をずっと眺めていた。

パイプ椅子が床にこすれる音がして窓から向き直った彩乃は、それがいまにも座ろうとしている真人であると知った。黒を基調としている以外これという特徴のない服装の真人はパジャマなどの日用品が入ったデパートの紙袋をおくと、無言で彩乃の手をとり、英国紳士がやりそうな方法で彼女の手の甲に軽くキスをした。真人が見舞いにきてくれたうれしさと安心から、彩乃は冗談半分で彼の愛を確かめようと訊ねてみた。

「傷が残っても私のこと好きでいてくれる?」

「さあね」

突然にぎっていた手を放した真人は同時に、気まずそうに目をそらし、含みのある横顔を彼女にみせた。それは冗談に対する冗談の受け答えとはとても考えられない真実味のあるものだった。それに対して彩乃もつい本気になった反応をしてしまう。

「どうして」

「傷に欲情する趣味はないんでね」

「そんなの、ひどいよ」

「ひどいもクソも、君だって僕の身体に醜い傷があったら、それなりに警戒するだろ。それとまーったく同じことさ」

「私は、そんなことしない」

「どんなことがあっても、ってやつか。でも前とまったく同じように君を抱くことはできないだろうね。それはどうしたって仕方のないことさ。僕はこのごろ君との関係について考えるところがあってね。いい機会だと思うんだ」

「どういう意味?」

病室の不穏な空気を察知した真人はすぐさま眼球だけで天井をあおぎ、さらさらの前髪をため息で吹きあげると話題をほかにそらした。

「どれ、ちょっと見せてごらん」

「切ったとこ?」

「うん」

そう言って真人は、まだ手術してから時間のたっていないため青白い顔をした彩乃が横になっているベッドの下に手をやり、掛け布団の隙間からしのびこませた。

「どこらへん? おヘソの近く?」

「いや、もっと下のほう」

「布団が影になって見えないなあ」

「ダメ、まだ痛いから」

「ああ、消毒薬の匂いがしてきたよ」

手術で切り開かれた傷の縫合具合を確かめるふりして、真人の指は彩乃のうすっぺらな下着へと侵入しかけていた。むき出しになった陰核に指先が触れたとき、彩乃は彼のしようとしていることを頭では理解していながらどうすることもできなかった。

「あ、あん」と小さな声を漏らすとヘソの下をまさぐっていた真人の手は止まり、たばこの香りが染みついた反対側の手が、彩乃のわずかに乱れた呼吸をくり返す口におおいかぶさった。

「しいー。だめだよ、変な声だしたら」

「でも」

抵抗しようとして力を入れると、まだ縫いたてで生々しい傷痕からじくじくと痛みが伝った。と同時にさっきまでからからに乾いていた膣内の湿度は不可抗力であがっていった。彩乃は彼の手に落ちそうな自分をどうにか制御しようとした。

「本当にダメだってば、まだおなか痛いんだから」

「そうなのか」

「退院したらね」

「そんなに痛いの?」彩乃の秘所から手をどかした真人は心配そうに訊ねた。

「手術のときは麻酔が効いてたんだけど、いまは動くとまだ」

ついさっきまで恋人から思わぬ言葉が飛び出して動揺していたところだったが、それについて不安がる必要はいまのところないだろうと彩乃は楽観的に考えていたし、真人については、誰にでもある気の迷いが今日たまたま彼を襲っただけで、腹部に縫い跡が残ったことを理由にして自分と真剣に別れるつもりはないだろうとも考えていた。

「さすがに僕も腹は切ったことがないから、どれだけ痛いかわからないよ。手首なら何度も切ってるけど。そういえば」

そう言って真人は腰をかがめると紙袋の中身をあらため、そこから携帯ゲーム機をとり出した。彩乃は麻薬患者のような手つきでそれをさっと奪い、さっそく電源を入れると主人公の名前を入力するところからはじめた。その病室におけるゲーム人口比率がちょうど五〇%になったところで真人はもう一人の使用者である麗一少年に「そんなんで遊んでばかりいると、このお姉ちゃんみたいになっちゃうぞ」とからかい、しかし五分や十分するとひとまわり以上ある年の差がまったく問題にならないほど二人は仲良くなっていた。陽も暮れて面会が締め切られる時間まで麗一や彩乃と話しこんでいた真人はむしろ彼のほうが疲れた様子で病院を去っていった。どうしてダーリンはあんなことを言ったんだろう私たちこれまでずっとずーっと理想的で普通の恋人同士だったのにあんなこと急に言い出すなんておかしいわダーリンはいっつも優しくて私はいつでも彼にとって可愛かったはずだよ誰かほかに好きな人ができたのかもしれないそれなのに私がおなか切った傷を理由に別れようとしているんなら許せないでもダーリンに限ってそんなことはないだろうしもしもそういう人がいるんだとしたら正直にうち明けてくれるはずだでも僕には好きな人がいるんだなんて真正面から言われたらそれはそれでどう対処していいやらわからないんだよねいい年こいて惚れた腫れたで乙女チックにうじうじ悩むのいやだなあ退院した途端にそんなこと言われたら私どうしていいか本当にわからないよそんなこと考えたくもないし麗一くんと楽しそうに話しているところから鑑みるとそんなに心配しないでもよさそうだけどだからといってそのような彩乃の憂慮に反して入院してから二日、三日、四日と経過する中で真人だけは欠かさず見舞いに訪れ、それはまるで生まれてはじめて付き合った異性に無我夢中で尽くす高校生のようなふるまいであり、どうしてあのとき真人が別れ話めいたセリフを口走ったのか、彩乃は少しも理解できなかった。そして看護師でもない彼が縫合したところを確かめるとみせかけて性懲りもなく膣内に指をいれるような、それも日ごとに指の本数は増えてより奥深い湿地帯をじらしながら刺激するような行為を、彩乃はほかにも人がいる病室の中で自分をもてあそぶ猥褻さに真人が悦んでいるのだと了解していた。布団一枚を隔てて密かに行われている真人のいたずらを知っているのは当人と彩乃の二人だけではなく、彩乃と足の裏をつき合わせるかたちで寝ている向かいの若い男も、そこで何が起きているかうすうす感づいていた。ブローティガンの小説を盾にして、顔の前に開いた本の上から二人を窺い、ふと彩乃と目が合えばすかさず本で顔を隠した。夜になれば彼のほかに老人と少年しかいなくなる病室で男が彩乃をどうこうすることは難しくなく、彩乃も一日じゅう本を読みふけっている男にマイナスの印象は持っていなかったが、真人を心から愛している彼女にそのような節操のない真似はできなかった。真人から生殺しにされたせいもあって、夜になればフロイトでなくても性的衝動と結びつけるに違いない夢にうなされていた。天高くそびえるエッフェル塔のてっぺんに直径三〇〇メートルはあろうかという巨大なウォーターメロンが突き刺さってばらばらに破裂し、その果肉でセーヌ川を真っ赤に染める、そんな淫夢だった。

そして手術を終えてから五日目、彩乃と法子と伊織の三人で日本じゅうどこにでもいるOLの下世話な雑談に興じている最中に彩乃がふとしたことから恋人の真人について心中から語りはじめる意識の道すじは、同僚でありながら数えるほどしか口をきいたことのない嵐ヶ池千尋が息を切らして病室に入ってくると、おだやかなOLの集いもろともばっさり遮断された。その鼻筋が美しくてキリリとした爬虫類っぽい顔のためか、あるいは病院という場所に不自然なほど激しく息をあげている彼女を珍しがってか、ほかの患者は誰しも目を奪われていた。伊織はともかく男勝りで気の強い法子までもが借金とりにでも出くわしたかのようにびくびくと萎縮し、明日も仕事があって朝はやいんだよねと、上ずった口調で彩乃に別れを告げ、すれちがう千尋に会釈してそそくさと立ち去った。千尋が手に提げている白い袋には、シルエットからして納骨箱よりひとまわり大きい物体が入っているようだった。彩乃のベッドまで呼吸を整えながらゆっくり歩いてくると、真横にある木製の物置台にその怪しい物体を置き、呑み込むような微笑を浮かべながら薄手の黒いコートを脱いだ。千尋のするどい視線が自分の手元にある小型ゲーム機を捉えていることに気がついた彩乃は、とっさに布団の中へそれを押し込めて隠した。千尋の手土産は何かと思えばそれはただのマスクメロンだった。千尋のおかしな様子から爆弾や危険物の類であることも彩乃は予期していたが、明けてみれば何の変哲もないただのマスクメロンだった。

「食べるでしょ」

「え」脅迫の色さえ感じさせる千尋の言葉に反応できない彩乃は、いままで駄弁を弄していた女二人があれほどまでに臆して去っていった理由についても説明が与えられないまま、千尋のいかがわしいほほ笑みにただ「うん、食べるよ」と返すしかなかった。「きてくれてありがとう。まさか嵐ヶ池さんがきてくれるとは思わなかったよ。私たち普段あんまり顔を合わさないっていうか、会ってもそんなにしゃべらないから、それなのにメロンまで持ってきてくれるなんて、すごくうれしいよ。メロン大好きだから。私がいなくて仕事たいへんだったでしょ。別にそんなことないか。そろそろバカな男がくると思うけど、ゆっくりしていって下さい」

言われないでもそうさせてもらうわよ、とでも聞こえてきそうなほど態度を豹変させてメロンを切りはじめた千尋は、慣れない手つきでメロンのぶ厚い皮を切るときにナイフを滑らせ、怪我こそ負わなかったものの大きな音を立てて舌打ちをし、握り締めたナイフをメロンめがけて勢いよくぶっすり突き刺した。その瞬間、もうほとんど治りかけている彩乃の傷が突如として激しくうずきだした。千尋が網状になったメロンの皮に刺さったナイフの刃をねじると、そこから血のように赤い液体がこぼれ、真っぷたつにわかれた果物の中身は、痙攣に近い蠕動運動をしている盲腸だった。それが五日前に摘出された彩乃の盲腸であるかどうかは定かでないが、だとするとメロンからあふれ出した赤色のつやが新鮮すぎるし、そもそも主人を失った盲腸が動いていられるはずもなかった。

「嵐ヶ池さん、あなた、何したの」彩乃は痛みのほとばしる腹を抑えながら、千尋が何か呪術みたいなものを使ったにちがいないと疑い、しどろもどろの言語野をはたらかせて訊ねた。

「余計なお世話かもしれないけど、あなたに真人くんは似合わないとおもうの」千尋は関係ない話をした。

説教がましい口調に腹を立てる一方で彩乃は、真人の気持ちがゆれ動いていた原因の尻尾をつかんで、にわかに今日までまとわりついていた不安がしりぞいた。

「たしかに余計なお世話ね]

事態の重大さを把握していない彩乃にわれを忘れて激昂し、千尋は白く細い腕をぎりぎり目いっぱい後方まで反転させると、容赦なく彩乃の横っ面を張り飛ばした。聞いたことのない生肉の音におどろいた麗一はゲーム機をほっぽりだして、言葉にならない叫びを発しながら一目散に病室を飛び出した。腹の痛みを抱えている彩乃は綺麗に整えられている布団に吐血し、おまけに顔面を引っぱたかれた衝撃で鼻血まで垂らしていた。動くことのできない向かいの文学青年はあたふたとナースコールをいじり、同じく動けない老人はちらりと二人のほうを一瞥しただけでまたすぐテレビに向き直った。

「内臓記憶って知ってる?」冷静さをとり戻した千尋は、再び説教くさいしゃべり方で語りはじめた。

「知るかアホンダラ」

「たとえば食欲旺盛な人の胃袋を、痩せた人に移植したとする。すると移植された胃袋は元の主人が食べていた量と同じだけ食事したがる。つまり痩せた人は移植された胃袋の記憶にそそのかされて少なからず食欲が増進するって仕組み。同じことがあなたの盲腸にも起こっていて、あなたの盲腸に蓄積された記憶を遠心分離にかけて極限まで純度を高め、それを培養してやると、いたって科学的な藁人形ができあがるってわけよ」

「失せろドブス」

「失せるのはあなたのほうよ、山蓬さん」そう言って千尋はすでに原形をとどめていないメロンを念入りにしつこくメッタ刺しにした。すでに痛みまでも遠のいている彩乃は、真人がどうしてこの女に惹かれ、また一瞬でも自分ではなく嵐ヶ池を選ぼうとしたのか想像し、それはきっとこの薄汚い女が手をまわして彼を脅したからにちがいないと、彼女の死に際にはふさわしいご都合主義の解釈を下していた。そのとき病室の入り口から声がした。

「どうなってんだ]

今日もまた足しげく彩乃の見舞いに訪れた真人は、血みどろの彼女とその前でナイフを手にしている千尋を視野におさめた。その光景に動転し、とにかく彼女のベッドまで駆け寄った。

「彩乃、彩乃、しっかりしろ」力の抜けた彩乃の肩を、真人は両手でゆすぶりながら叫んでいる。「千尋さん、先生は呼んでくれたのかい」

「え、ええ。さっきお向かいの彼が呼んでくれたわ」

「ちくしょう。どうして盲腸なんかでこんな目に遭わなくちゃいけないんだ」

「ダーリン、キテクレタンダ」朦朧とする意識の中で恋人の声を聞きわけた彩乃は、残された力で薄目を開け、か細い声でしゃべっている。「嵐ヶ池サンネ、ヒドインダヨ。私ガ大切ニ育テタベロリンガ消シチャッテ、モウ帰ッテコナイ。真人、私ノ代ワリニ育テテ」

「そんなの君が退院したらいくらでも育てられるだろ」

「ダメナノ、アタシモウ死ヌッテワカッテルカラ。アナタニ会エタコトガ私ノ人生デイチバンノシアワセダッタ。私タチキット来世モ恋人同士ダヨ。ダカラオ願イ、私ノベロリンガ、オ願イ」

それから集中治療室に運ばれた彩乃は、数時間の手術もむなしくかえらぬ人となった。彩乃の葬式で笑いころげた伊織はその場にいた親族から袋叩きにあって死亡し、まったく無関係だったにもかかわらず集団暴行の主犯に祭りあげられた千尋はスピード量刑ですぐさま死刑を言いわたされ、いちどきに有用な社員を三人も失った会社は間もなく倒産し、彩乃の友だちだった法子は行くあてもなく、そんな彼女を真人は嫁に迎え、いまは二人で仲むつまじく甘い新婚生活を満喫している。

2009年3月8日公開

© 2009 渟足川祐也

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