スキゾロヂック(6)

スキゾロジック(第6話)

渟足川祐也

小説

6,420文字

回想と酔いどれのモノローグ。大衆酒場につどう大学生たち。疎外感を覚えるボク。にわかに昂ぶる帰宅欲。折しも肥満のトリック・スター、東真一郎が登場。東は酒の酔いにまかせて由無し事を言いふらす。ボクは大人しく拝聴する。生贄に捧げられる映画スターたち。

大学に入りたてのころは、まだ与えられた課題を期日まで体裁だけでも整えて仕上げるくらいの、言うなれば高校で培った偏差値の余力が残されていた。しかし世間で誤解されている大学生の平均的なイメージからそれほど遠くない自由と放埓の日々を、ボクもその男に少々うなされたおかげでいくつか経験することになった。それまでの余力が直滑降で堕落していくのは最初、その人の意志が強いか弱いかに関係しているとばかり思ってあきらめていたのが、本当はお堅いパブリックスクールみたいな高校での規則正しい生活によって鬱積した諸々のエネルギーを、いきなり移しかえられた自由に束縛されどこに向けるべきか戸惑うまま盲めっぽうに乱射するしかないためだった。その的を人命に定めるほど阿牙原の食人鬼的でもなければ実体のある異性に向かうほど健全でもないボクは、嫌なずれ方をした真ん中の脇でだらしない生活にくすぶるだけだった。お友だちが少ないからとはいえ、ボクも他人の目にうつらない幽霊や透明人間ではないので、ごくたまに口をきく学生の一人や二人はいた。ただボクが友だちとみなしている学生は多かれ少なかれゼロであるだけで、大学で形成できるコミュニティがどれだけ希薄なものだとしても、そこに大学生として帰属しているかぎり、何らかのかたちで他人との関係に巻き込まれるのは避けられないのだろう。人付き合いが苦手なボクも例外は認められず、類は友を呼ぶの自然法則にならって、その男は友人関係の大きな位置を占めるとまわりから決め付けられても仕方ないレベルにまで深く侵入していた。古い小説のようにアルファベットで呼称するのも芸がないので、彼の名はストレイトに東真一郎、またの名を真東としておこう。同じクラスの真東は人より目立つところもなければ特定の学生と仲良くするわけでもなく、話しかければ明るくほがらかに返事をしてくれるし、隠そうとすればできなくもないくらいの肥満体質だというだけで、表面上は無害な男だった。身長は六フィート前後だからボクより少し高いぐらいであるにもかかわらず、彼より太った学生がキャンパスにいないというだけで彼は大学でいちばんの肥満にならざるをえなかった。ほかの学生が彼のことをデブだのブタなどと冗談でも中傷することはなく、彼の気さくな性格からしておそらく誰もそのような悪感情は持っていなかったろう。ボクと真東が最初に話したのは、一年になって早くも頭角をあらわしてくる社交家の男子に半強制で誘われる、本来なら違法な飲酒コンパのときだった。そこは自制心の破壊を大なり小なり望む連中にとってニーズがないように思えるせせこましいサービス精神を、あまり年の変わらないアルバイト定員に叩き込んだ居酒屋だった。これっぽっちの心細さをポケットの中でにぎりつぶす疲労感に引きずられて参加したボクは、幹事の社交家が仕切るクラスメイトの自己紹介に付き合って自分も二言三言しゃべらされた。乾杯してからほとんど酒に口もつけず煙草ばかりがぶがぶ呑んでは、受験や通っていた塾の話を投げかけて共通の話題を模索する連中を「はい」と「いいえ」だけですかしていた。影より軽くなったボクのまわりからは三十分もしないうちに人が消えてゆき、注がれたビールだけ腹におさめたら適当な言い訳を放置して帰ろうと決めていた。神経症ぎみなのでいなくなったあとに彼らがどんな汚い悪口を言い合うのか、想像するのも楽しい。考えれば考えるほどボクの存在など他人の意識にあがってこないことがわかる。きっとイアン・カーチスもボクと同じ気分だったにちがいないと、不必要に自分を持ちあげて安心させた。ちょうどそのとき内耳に入ってきた、肥満に特有の音波を閉じ込めてゆがめられた声が、真東のものだった。だんまりのボクにかまわず彼の陽気な饒舌は鋭く切れて、とうぶん立ち去れそうな様子ではなかった。話の内容など耳にもしなかったが彼の紳士的で上品ぶったしゃべり方はどうにもいけ好かなかった。ボクは強く噛んだ煙草に火をつけると、彼の脂肪がたらふくあつまる下腹部でしもぶくられた映画女優のTシャツに向かって言った。「そのブスを見てるといまにも吐きそうだ」皮肉なほどボクが痩せているせいもあってか、肥満の男に対して異常なまでに強気な出方をした上、キャメロン・ディアズの顔に濃厚な発癌性の煙を浴びせる、往年のヤクザ映画を髣髴とさせる行為にまで及んだ。これでやっと帰れると喜ぶ間もなく、ボクの態度に落胆も動揺も見せない彼はよくしゃべる頤を閉じ、煙をかぶった映画女優の口もとを指でつまんで左右に引っぱりながら、悪ふざけのはなはだしい裏声で人形劇のまねごとをはじめた。

「わたし、実は口裂け女なの」前世紀の冗談にボクは冷たく「知ってるよ。申し訳ないけどそんなジョークなら中学生のころに散々やった」と答え、真東は残念そうに口をタコにしてから普通の低い声にもどった。

「キミねえ、甘いよ。世の中には聞けば聞くほど面白くなる話ってもんがあるんだよ。講談師が同じ話を何回したって廃れることはないだろ。それと同じさ。俺がキャメロンのファンでもないのにわざわざキャメロンのTシャツを着ているのはぜんぶここにいるみんなのためさ。赤の他人と談笑を交わすためのね。まあ赤といってもキミを左翼呼ばわりしてるわけじゃないぜ」「ならお好きに。どうせ笑いやしねえし」「ノリが悪いねえ。酒も進んでないし」「よく言われる。昔から」「どうして」「どうしてって、まあそりゃ簡単に言って自分の理屈に合わないからだろ。あんたが言うノリってやつとボクの理屈がぶつかりあって二者択一を迫られたら、ボクは理屈を選ぶだけのこと。信じられるのは自分の理屈だけなんだ」「そういうの心理学でなんていうか知ってる?」「さあ、なんだろ」「わがままだよ」「たぶんそんな言葉は心理学に出てこないだろうね。それにボクがわがままだなんてことは、あんたが自分のことを口やかましいカビゴン野郎だと知っているように、ボクだってそんなこと、太古の昔から重々わかってるし、いまさら他人に何か言われたからって改めるつもりはない、あんたの体型と同じように」「俺ってデブだったの?」「さあねえ」「ところでキミのわがままは生まれつきかい?」「いや、たぶん酔いの乱行でしょ」「いやちがう。キミがわがままだと言えるのは、俺が他人に妥協する能力をキミより持っているからか、キミが絶対的なわがままであるかのどちらかだ」「どんどん言って卓袱台。その手のすり込みには耐性があるから」「こっちは白々しい悪口に慣れてないんだ」「慣れれば気持ちよくなるよ、ヘロインみたいに」「キャメロンってさあ、」「ちょっと待って。その話をするならボクはもう帰るよ」「なんで」「つまんなそうだから」「じゃあもしキミが笑わなかったら、そのときは、」「一万」「一万ルピア?」「帰るよ」「わかった、日本でいちばん強い通貨、円でいこう。その代わり、いや、なんでもない」「あっそう、じゃあどうぞ」「ゴホン、エヘン。キャメロンは口裂け女でしかも一三七歳」「一三七?」「そう、億を×けたら宇宙とタメ」

ボクはその話が必ずどこかで破綻をきたして幕を閉じるだろうと確信して、顔面下ぎりぎりに苦笑をこらえていた。よくよく思い返せばボクはコップ二杯のビールしか摂取していないのに対し、真東はその肥満体を考慮しても大脳の諸機能をにぶらせるのにじゅうぶんな量のアルコールを鯨飲していた。真東が札つきの酒豪であっておまけに普段からよくしゃべることを知らなかったそのときのボクは、それが酔いまかせの口から発せられたバカ上戸であることもまた知らなかった。

「キャメロンは農家の長女として生まれた。兄弟や姉妹もいない。とてもおとなしい子で母親の手を焼かせたことはなかった。父親は麦畑を育てる近所でも評判の働き者だった。一家三人はそれほど裕福ではなかったが、仲良くしあわせに暮らしていた。でもキャメロンのおかしな口は小学校のクラスメイトからこっぴどくからかわれた。キャメロンは風邪をひいてもいないのにマスクをつけて登校していた。母親は、いつかきっとあなたの口を治してやるとキャメロンに誓った。キャメロンはマスクをはずしてにっこり微笑んだ。それから何日かして、麦畑が火事になった。赤々と燃えさかる炎を見つめていたキャメロンの父はいてもたってもいられなくなり、必死で火を消そうとした。そうしているあいだ、火のうずにかこまれたキャメロンの父は焼け死んだ。父親を失ったキャメロンと彼女の母親はどん底の生活におち、三度の飯もままならずに水でごまかす日がつづいた。暴利をむさぼる借金取りは大声で怒鳴り散らし、キャメロンの家にレンガを投げて窓ガラスや壁をめちゃめちゃにした。借金取りの嫌がらせは隣の住民まで巻き込んでいった。町のなかでキャメロンの貧しい生活について知らないものはいなかった。そのことで同級生による苛めは以前にも増してひどくなった。やいテテなし、人様から借りたものはキッチリ耳そろえて返せ。そう言ったのはガキ大将のジム・キャリーだった。ジムは機嫌がよくても悪くても関係なく、キャメロンからマスクをとりあげて苛めを指揮していた。ところが見境のない借金取りはジムの家にも訪れ、両手でやっと持ちあがるほど大きな植木をジムの眠る部屋に投げ入れた。大けがしたジムの姿を見た母親はかんかんに怒り、キャメロンの母にあたり散らした。ご主人を亡くされたのはお気の毒さまですけど、お宅が借金を返さないせいでご近所はみんな迷惑しているの、わかるでしょ。ごらんなさいジムの顔を、こんなに落ち込んでしまって。でも安心なさって、治療費や慰謝料を払えなんて言うつもりはないの。あなたの家が貧しいことは町じゅうみいんな知ってるんですもの。ただね、お金のない人にはそれに見合った土地柄というものがあると思うわ。この町はあなたにふさわしい町じゃない、かわいそうだけど。キッチンの影にこっそり身をひそめて話を聞いていたキャメロンは、床の下からなけなしの赤ワインを静かにとり出した。キャメロンはジムの母が座っているテーブルまで忍び寄り、手にした赤ワインをジムの母が自慢していた真っ白なドレスにひっかけた。幼いキャメロンはそんないたずらで問題が解決すると信じていた。なんてことすんの、このイグワナ娘。ふざけんじゃないわよ。ジムの母は折りたたんだ扇子でキャメロンの頭をぴしぴしひっぱたいた。マスクで顔がおおわれているキャメロンはふてぶてしいほど無表情に見えた。ジムの母は気味悪がってひき下がり、急いで帰り支度をはじめた。気の抜けた声で謝りつづけるキャメロンの母に、さっさと出ていけと言い捨て、ジムの母は消えた。これ以上この町にとどまることはできないと感じたキャメロンの母は、どっぷり抵当につかった家屋を明けわたし、キャメロンといっしょに都会へ引っ越した。物価の高い都会ではほんのわずかな手切れ金が底をつくのも時間の問題だった。キャメロンの母はすぐに仕事を探し、運よく生命保険の外交員として働くようになった。当時の不況ではおいそれと生命保険に加入するほど金をもてあましている人などおらず、二人は以前よりも貧しい生活を強いられるようになった。母親はまだキャメロンの口を治してやるという約束を捨てきれないでいた。でもやっぱり保険の新規開拓は伸び悩んだままで、それはキャメロンの母親だけではなくほかの外交員も同じだった。外交員たちは傷を嘗めあうように仕事をサボった。そうしているあいだに思いつくことはたいていよからぬことで、ある日、外交員の一人が銀行強盗の計画を打ち明けた。キャメロンの母はもちろんほかの外交員もその計画に乗ることはなかった。だけど金がほしいのはみんな同じで、誰もがみんな最初に手をあげてくれる人を待っていた。ひととおり共犯者がまとまると話はなめらかに進み、キャメロンの母と外交員たちは着々と計画の演習を重ねた。こうして銀行の金をうばった外交員たちは逃走車のなかで仲良く山わけにし、ばらばらに別れた。計画が成功して金を得ても、いずれ警察の手が及ぶことを知っていたキャメロンの母は浮かれていられなかった。キャメロンの口を治療するために、彼女を急いで形成外科へ連れていった。キャメロンの口が普通の女の子と同じくらい美しくなるころ、彼女の母親はすでに容疑を認めて刑に服するばかりだった。それからキャメロンはグレた。そりゃグレた。グレた、グレたの、グレタ・ガルボ」途切れることなく進んでいたはずの話がいきなり中断した。

「おい、まじめに聞いてんだぜ。ていうかグレタ・ガルボってなんだよ」「初歩的なことだよ、キミ。古典を観たまえ」「あっそう」

見た目にはシラフである真東の酔いは、自分の話をコントロウルすることさえ妨げているらしかった。彼の想像力はまるでボクの無意識を暴かれているようで寒気がする。

「それからグレタ・ガルボはというと、朝も昼も午後も夜もfuck fuck fuck fuck fuck fuck fuck fuck」

ボクは大きな声で叫ぶこの酔っぱらいの右耳をカミソリで切り落としたい気分になった。店の中がうるさいおかげで近くの客は振り向かず、あるいは聞こえていないふりをしてくれたことにホッとし、眼球を吊りあげるように天井をにらんだ。

「グレタ・ガルボじゃなくてグレたキャメロンだろ。酔って浮かれちゃう気もわかるけどグレタ・ガルボから離れろよ」話の続きを聞きたくて、なだめるようにもとのレールを暗示した。

「酔ってなんかないさ。人をからかうのが好きなだけだよ。まあキャメロンはというと、えっと、なんだっけ」「親が二人とも消えちゃってグレましたと。それから、」「うるさいなあ。気が散るからあまり口を挟まないでくれよ。デブでも神経は細いんだから、余計なこと言われると話が飛ぶだろ」「わるかった。もうなにも言わない」「うん。で、気になるキャサリンの口は縫合手術で治したものじゃない。多少の傷が残ろうと普通なら縫って治すものだ。それがいちばん安全だし、金もかからないし、だいたい縫合手術じゃなけりゃ裂けた口を治す方法はないはずだった。なんせ百年以上も昔の話だから麻酔の技術もおくれてるし、木の棒くわえて痛いの我慢してたわけさ。そういういい加減な治療をしていた当時の中でもひときわ強烈だった医者が、キャメロンを手術したハルリドンヒル先生だった。先生はオペの手段に糸目をつけず、自分の仕事に誇りと結果だけを求める男だった。飛びぬけて腕がいいわけでもないのに診療費や手術費はクランケに全額を負担させた。それでも国の許可を得ている医者にかかれない貧しい人たちのなかには、ヤブと知りつつ彼のところへ行く者もいた。ハルリドンヒル先生のオペは、キャメロンの唇と小陰唇を総とっかえする方針で決行された。人口脂肪を注入してやれば形は整うし、同じ粘膜だからヘルペスだって発症する。大規模な手術になるから邪魔になる鋭い犬歯は抜き、以前よりなめらかな歯に差しかえれば完成だった」

真東がなめらかさを表現するため肉厚な手のひらを宙に泳がせたとき、おそらく二人ともこの話がどういうルールの下にはじまったか忘れていた。何がどうしてそこまで没頭したのかはともかく、普通に呑んでいるまわりの学生たちとは、もう二度と口をきいてもらえないほど遠のいている取り返しにボクらは気をまわすべきだった。

「バカも休みやすみ言ってくれ。あんな顔の整った女優さんがメス入れてるはずないでしょうが」「わかんないよ、そんなの」「仮にそうだとしてもだ、あれはどこへ行ったの」「もちろん切除したさ。あんなもの口のはしっこについてちゃ、目立ってしょうがないからね」

2010年9月7日公開

作品集『スキゾロジック』最新話 (全6話)

© 2010 渟足川祐也

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