まぶたをあけると、かたわらに伊藤くんがいた。
窓越しにみえる紫陽花はまだ色づいていない。
雨にけぶる紫陽花は輪郭を淡く失ったようで、ささやかな親密さがあった。
いろんなものがにじむように融けあっていた季節があった。
梅雨に入ったけれど、エンジンを止めたヴィッツの車内はそんなに蒸していない。
「ずいぶんやさしい顔をしてたよ、茶谷くん」
僕はやさしいという言葉の意味がわからず困惑する。
運転席の伊藤くんは後部座席に手をのばして七輪に火を灯した。
着火剤のビニールが焦げる匂いがひろがる。脳髄に蒼白い炎がゆらめいて浸透していく。
ふしぎな感覚が、からだをゆっくりと流れた。
僕たちはこれから死のうとしている。実際に死のうとしている。
助手席の僕は身をふかく沈め、暮れていく山道とそのうねりをながめた。
窓を打ちつける雨音が、誰かへの音信みたいに、時折、響いた。
「うまくいったみたい」
点火を終えた伊藤くんはハンドルに向き直り、シートにゆるくからだをもたせた。
彼はどんな表情をしているんだろう。よくわからない。わかったところで、その先はない。
方法の検証にはお互い数年をかけた。練炭は未遂が起きやすいという点については議論を尽くした。
「どうせなら、あたたかいほうがいいんじゃない」という僕の言葉に彼は妙に納得した。準備には細心の注意を払った。
音楽はかかっていない。エアコンの目張りも大丈夫。煙草が吸えないけれど、いまは気にならない。
ここはただしずかで、僕たちはその時を待っている。
僕たちはずっとその時を待っていた。
僕たちは生まれてからこの日を求めてきた。
かたわらに伊藤くんがいる。
沈黙のうちに、言葉をつかってしまう。
言葉をつかってしまうことが、ここまで導いてきたのかもしれないのに。
「なにをかんがえているの?」
「茶谷くんのこれからについて」
僕はすこし笑った。
「伊藤くんが言っておくことは?」それなりの時のそれらしい台詞を口にしてみる。
「ないよ。もうおびえなくていいとか、君を愛しているとか、添えておいた方がいいのかな」
着ていたチェック柄のシャツの襟を僕は寄せ合わせた。
「寒い?」
寒くはない。からだが反射的に動いたようだ。抱きしめてもらいたいだとか、そういうことじゃない。
「震えてるよ。お酒、いる?」伊藤くんが尋ねる。
「いらない。きちんとみつめていたいんだ」
みつめるのは彼でもなく、紫陽花でもない。死ぬことですらない。
ここにいる僕たちのあいだの約束事は多かった。そのひとつは、思い出さない、ということだ。
陽はほとんど落ちた。あたりはほの暗さを増している。羽虫のうなりが近くで聞こえた気がする。けだものの吠え声が遠く聞こえた気がする。
密閉された車内では山の匂いを嗅ぐことはできない。背後で燃焼している熱源を感じた。いのちを奪っていくものは、いつもあたたかい。
「こんな感じ、か」
つぶやく彼は雨音に耳をすましているようにみえた。
「練炭ってのは、はぜる音がないからしずかだね」
「君なら、風情がないって文句をつけるとこなのかな」
そう言って、伊藤くんは息をひとつ、ついた。窓ガラスがほのかにくもる。彼は窓に頭をもたせて、車内のやわらかな灯りに照り返される自分の顔をじっとみつめている。僕のこともみつめている。
「土壇場で逃げるだろう、って思ってた」くもったガラスを親指の腹でなぞりながら、ぽつりと伊藤くんが言った。
「伊藤くんが、ね」
「逃げようとする僕の手を君が握りしめるんだ。なにも言わず。その時の君の目って、かなりマジなんだろうな、なんて想ってた」
「僕が引き止める役まわりということ?」
返事はない。何から彼を引き止めるというのだろう。
「むかし読んだ本の話だけれど、あるところに男の子がふたりいて」
僕は思い出しながら話す。
「男の子たちは寝ころんで星空をながめてる。船での航海をゆめみながら、この世界のひろさやゆたかさについて思いをめぐらしているんだ。この先、どんなに素晴らしいものが自分たちを待っているんだろうって」
となりに目をやると伊藤くんは窓にもたれかかったまま目を閉じていた。唇からゆっくりとした呼吸音が漏れている。
彼のまぶたをみつめた。もうしばらくはもちこたえられるはずだ。
「これまで話してきたゆすらうめだけど」
ゆすらうめ、という言葉が唐突にでたからすこし身構えた。
「ここにもってきてる」
伊藤くんはポケットから一粒のちいさな果実を取り出してダッシュボードに置いた。
「こういうイレギュラーは約束違反だよ」僕は規律を乱したことを糺す。
「もぎたてなんだ。この山道に入る手前の家になってたから、ちょろっと拝借してきた」
目の前に置かれた果実をぼんやりみつめる。彼はこの数年、ゆすらうめという果物に固執していた。ゆすらうめについての企みがあると言いながら、なにかの時間をかせいでいた。
「食べてみなよ」
その果実にふれても
生きることの偶発性はない
あかく透きとおった果実を口に含んだ。
強くなく、弱くない、こまかな振音がこころを浸した。
「茶谷くんにふれたことがない」
「ふれてるよ」
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