1
いつもより長めにシャワーを浴びていたせいで、ジムのロビーに「とびうおSC」のメンバーは数人しか残っていなかった。
ロビーにたむろしているのは全員が女性メンバーで、男たちは早々に帰ってしまっていた。ロビーのベンチには女性たちが隙間なく座り、半乾きの髪をそのままに雑談をしている。ソーシャルディスタンスなんてどこ吹く風といった感じだ。幸則は女性たちの一人をつかまえて言った。
「関口さん、僕、明日お休みしますね」
「えっ、そうなんですか」
痩せ形で極端に頬のこけた関口弘美が目を丸くすると、ムンクの叫びみたいな顔になってしまう。日焼けした肌には皺も目立つ。
「はい、鈴広さんにもお伝えしといてください」
「鈴広さんならまだその辺にいると思いますよ」
関口の声はハスキーというか、ほぼ嗄れ声といって差し支えない。
「あ、そうでしたか」
幸則は当然、鈴広はもう出ていったあとだと思っていた。トイレの方から戻ってきた鈴広がロビーにひょっこり顔を出したときには、幸則は内心しまったと思った。
「まだいらっしゃったんですね」
幸則が今日に限って長めにシャワーを浴びていたのには理由がある。
一つは大磯の実家に帰るのに、塩素の匂いをプンプンさせるのはあまり好ましくないから。母は何も言わないが、父の命の灯火が消えたまさにその時、幸則がいつものように東京のプールで泳いでいた事実を知っている。できれば母のもとに水泳を連想させる匂いを持ち帰りたくなかった。
もう一つは鈴広をやり過ごすためだ。練習を休むと言えば鈴広が執拗に理由を聞いてくるのは想像に難くなかった。もし正直に父の遺灰を海に散骨するためだなどと言ってしまえばたちまち鈴広の下世話な好奇心を刺激し、質問攻めと蘊蓄攻めに遭ってしまうだろう。
通夜と葬儀、四十九日の法要のために練習を休んだときの鈴広の反応を思い起こせば、幸則の懸念が決して杞憂ではないとわかる。やれ昨今の家族葬の急増が示す社会の変化だとか、坊主へのお布施の相場だとか、浄土真宗では檀家とは言わず門徒と呼ぶのだとか、訊いてもいないのに長々と話してくれる。
「鈴広さん、僕明日休みますね」
「えっどうしたの」
やはり鈴広は食いついてきた。幸則は散骨については伏せておこうと決心していた。
「百箇日になるので父の納骨に」
嘘ではなかった。骨を砕いて、船に乗って、海に納めるのだから。
「そうかあ、引地さんとこももう三か月経つんだねえ」
それから鈴広は幸則の心配していたとおり、「墓はあるの?」とか「そもそも永代供養というのは……」など延々とやり始めようとするので、電車の時間があるから、と理由をつけて退散した。
ジムは下北沢駅から歩いて十分くらいのところにある。
マシンもそこそこ置いてあるが、六レーンの二十五メートルプールはプールサイドも広く、多くのスイミングクラブが拠点にしていた。「とびうおSC」もそんなクラブのひとつで、平日午前七時から八時半までを朝練の時間として三レーン借り切っている。
コロナ禍でしばらくの間ジムは営業自粛、とびうおの朝練も中止していたが、最近になってようやくクラブの活動は元どおりになった。
秋が深まって朝の空気はだいぶひんやりしてきたといっても、三千メートルあまりを泳いだ直後の身体は火照っていて少し汗ばむ。
幸則は駅にむかって歩きながら携帯を取り出し、発信履歴から「引地珠代」を呼び出した。
「もしもし母さん? 予定どおり今から帰るからね。昼前には着くよ」
「そうかい、気をつけて」
母の声にすこし張りがないのが気にかかる。
「ちっょと疲れてない? 大丈夫?」
父が他界してからまだ三か月だ。大丈夫なはずがないと思いつつも月並みな言葉しか出てこない自分に嫌気がさす。
「大丈夫よ。他人の心配はいいから、あんたも無理はいけないよ」
母が何を心配しているのかわからなかったが、「うん」とだけ答えた。仕事だろうか、それとも水泳だろうか。どちらも無理なんかしていない。無理などしていたら、二十年も続くはずがない。
小田急線で藤沢まで行き、東海道線に乗り換える。それほど遠い道のりでもないのに、妙に長く感じるのは途中で目にする風景がみすずとの生活を思い出させるからだ。電車の車両も沿線の街並みもずいぶん変わったが、都心から湘南に向かう路線の、薄暗いトンネルから明るい外の世界に出ていくような独特の空気は昔のままだ。独身時代にデートをするのに使ったのも、幸則の両親にみすずを紹介するため二人して緊張しながら乗っていったのも、赤ん坊の明莉を抱いて孫の顔を見せに帰ったのも、同じ路線だった。
すべてが太陽のように眩しい記憶だった。
みすずと明莉は今、みすずの旧姓である竹下に苗字を変えて、この青く高い空の下のどこかに暮らしている。幸則と母子の関係を示すものは区役所に保管された戸籍謄本の除籍の跡と、銀行通帳に毎月記載される養育費の振込記録だけだった。離婚が成立したあとは元妻とも、娘とも一度も会ったことはない。
おそらく、幸則が求めれば定期的か不定期かは別にして、会おうと思えば会うのは許されるだろう。でも幸則は面会を求めなかった。会わないことが、自分への罰だと考えていた。
離婚の直接の原因はたった一度の妻への暴力だった。たった一度とはいえ、暴力はアウトだ。レッドカード、一発退場だ。
今になって思えば、当然振るわなくて済んだはずの暴力だった。もし四十二歳になった現在同じ状況に置かれたら幸則は間違いなく感情をコントロールし、衝動を抑制し、振り上げた拳を収めるだろう。
だが当時二十代だった幸則にとってはどだい無理な話だった。若さのせいにして許される問題でないのは解っている。解ってはいるが、他にどうすれば良かったのか、いくら省みても答は出ない。
思うに暴力は離婚に至るきっかけのひとつに過ぎなかった。夫婦の関係はとうに修復できないまでに壊れていた。理由は色々ある。性格の不一致だとか、感情のすれ違いだとかいった言葉で表される、小さな齟齬の積み重ね。
明莉が生まれてからは特にそういうぶつかり合いが増えたような気がする。ささやかな考え方の違いが気にかかり、感情が高ぶる。売り言葉に買い言葉。
みすずにも明莉にも、本当に悪いと思っている。すべては幸則のせいだった。罰を受けるのは当然だと考えていた。ただ、両親に孫の成長を見せてやれなくなったのは残念だった。父はついに明莉にじぃじと呼ばれることなく、この世を去った。
電車が二宮に着いた。幸則はほんのり潮の匂いがする駅に降り立った。
2
都心から一時間ちょっと、接続が悪いときでも一時間半と少しで二宮だ。駅からバスと徒歩またはタクシーで合計二時間はかからない計算になる。
実家は父が母と世帯を持ってから新築した家で、海岸からは少し奥まったところにある。子供の頃は、仲間といっしょに自転車にのって大磯の浜に行くのがお決まりの遊びだった。浜にはいつもサーファーがいて、幸則はみんな大人になったらサーファーになるんだと思っていた。でも両親はサーファーではなかったし、結局そのときの仲間でサーファーになった奴は一人もいないはずだ。
じゃああの途切れることなく海岸に押し寄せてくるフナムシのようなサーファーたちはどこからやってくるのか、と幸則はずっと疑問に思っていた。彼らが東京というはち切れんばかりに膨張を続けるメガシティから供給されるというからくりを知ったのは、幸則が東京の大学に進学してからだった。
幸則はそのまま東京で公務員になり、膨張に飲みこまれた。飲みこまれついでに、九州出身のみすずと出会い、すぐに結婚した。
海の近くで育ったからかどうかはわからないが、泳ぎは得意だった。水泳部で本格的にやるほどの才能はなかったが、大人になっても個人的にジムなんかへ泳ぎに通った。マスターズ水泳の存在を知り、スイミングクラブに入ってマスターズ大会に出るようになった。
離婚をきっかけに幸則はさらに水泳にのめり込むようになった。独り身になったおかげで、幸いにも金と時間だけは有り余っていた。
最寄りのバス停から実家までは歩いて七、八分くらいの距離だ。
家に着くと、イヌツゲの生垣を通して、線香の匂いが流れ出てきているのに気づいた。幸則は玄関に回って施錠されていない引き戸を開けた。
「ただいま」
奥の方に呼びかけるが、しばらく返事はなかった。居間の方から人の話し声らしき微かな音がする。
「母さん、上がるよ」
幸則はそう言って靴を脱いだ。ふと、玄関の三和土に一足の革靴が揃えられているのに気づく。かなり程度の良さそうな靴で、ぴかぴかに磨かれている。父の持ち物はもう処分されたはずなので、来客に違いなかった。
玄関から廊下を進むと居間に続く襖が開け放たれているのが見える。そっと中を覗きこむと、真新しい仏壇の前で初老の男が母と向かい合って座っていた。
「あ、どうも」幸則は一度は外しかけたマスクをまた口に当てて言った。
「お邪魔してます」
男はスーツを着て黒ネクタイを締めていた。身なりもさることながら、背すじがまっすぐに伸びて品の良さを感じさせる。おそらく父の仕事の関係だろう。
「おかえり、幸則」
母がしんどそうに腰を上げた。男は一瞬手を貸そうとしてぴくりと身体を動かすが、男の助けを拒否するように母は素早く立ち上がった。
「今井さん、息子の幸則です」
幸則は会釈をした。今井と呼ばれた男が目礼を返す。
「幸則、こちらは父さんと同じ大学で教えられている、今井さんよ」
やはり思ったとおりだった。
「父が、生前お世話になりました」
幸則はもう一度、深々と頭を下げた。
「いえいえ私の方こそ、引地教授にはいつもご指導いただいておりました」今井は手に持った数珠を懐に仕舞った。「教授が退官されてからは連絡もあまりとらずに大変失礼しておりました。お体の具合がよろしくないと風の噂に伺ってはおりましたが、この度突然の訃報に接してお別れに参りました次第です。長らくご無沙汰しておりまして、本当に申し訳なく存じます」
「いえいえ、申し訳ないなんて。わざわざお見えになって、主人も喜んでいると思います」
と母が言い、遺影に目を遣った。
遺影に選んだ父の写真は膵臓がんの病状が悪化する前に撮った。大学を定年退職して、仕事としてではなく余生の趣味としてライフワークである地質学の研究に打ち込んでいた、父の最も充実していた時期を写し取ったものだ。
「明日、海洋散骨されるそうですね」今井は続けた。「先ほどお母様にそう伺いました。危なかった、一日遅かったらお骨にお会いできないところでした」
今井が仏壇に目を向ける。幸則もつられて骨壺を見た。ケースには「故 引地功」としか書かれていない。戒名不要、墓不要というのが父の遺志だった。葬儀も家族だけで行えばいい、人は絶対呼ぶな、とエンディングノートには書かれていた。母と幸則は父の言いつけを忠実に守り、二人だけで父を見送った。他の親族や生前の仕事関係、交友関係にも一切の連絡はしなかった。
それでも今井のように、どこからか話を聞きつけてお別れを言いたいという人がちらほらやって来る。やって来るのを追い返すわけにもいかないので、こうして上がってもらい、焼香をしてもらう。ただし香典のたぐいは頑なに固辞した。
「ところで」今井は仏壇から幸則に向きなおった。「立ち入ったことをお聞きしますが、海洋散骨は引地教授のご遺志なのですか?」
幸則は母に目配せした。母は頷いた。この人にはありのままを話しても構わない、という意味だ。
「えっと」
どう説明すべきか、幸則は逡巡した。
「父は墓は要らないと言い残しましたが、具体的にどう埋葬するかという意思表示はしていませんでした。なので母と相談して、相模湾に灰を撒くということにしました。父はこの海が好きだったので」
「なるほど」
今井は考えるような仕草をした。
「それが、どうかしましたか?」
「いえ、なんでもないです。ありがとうございます」
今井はもう一度、丁寧な礼を言って暇を乞うた。
来客がいなくなって静かになった家で、幸則は改めて線香をあげた。
母はお茶を淹れるために台所へ立った。最新型のIHコンロを操作する電子音が、築四十年を超える家には不釣り合いに響いた。
「お骨は、あとで葬儀社の人が取りに来るからね」居間に戻ってきた母が言った。「明日までに粉砕して、そのまま船に乗せるんだって」
「父さんも、まさか自分がコーヒー豆みたいに粉々にすり潰されるなんて思ってなかっただろうなあ」
幸則は言ってしまってからちょっと冗談が過ぎたかと後悔したが、母は気にするふうでもなく、「そうね」と言った。
父は自然科学者らしく意味のない因習や儀式を嫌っていた。自らの死後についても出来るだけ簡素に済ませるよう繰り返し希望を述べていた。エンディングノートも裏紙に殴り書きしたメモに署名捺印しただけだった。
死後の扱いを簡素にするという希望には、残された家族の負担をできるだけ減らしてやりたいという意図もあったろう。大々的に葬儀をとり行い、何かの度に坊主を呼んで親戚も呼んでなどとなれば、年老いた母と東京に離れて住む幸則の二人しかいない家族には大変な負担になる。
で、あれば、と幸則は思う。お骨と遺灰をどうするかという問題についてもきちんと答を用意しておいてもらいたかった。父は三男で実家とも疎遠だったから祖父母と同じ墓に入るわけにもいかない。永代供養墓を利用するにもそれなりにお金がかかる。骨の行き場所は、頭の痛い問題だった。
母とも長い時間をかけて話し合ったが、なかなか良案が出てこなかった。母以外誰にも相談できないので、幸則はネットで調べたり図書館で本を漁ったりするしかなかった。父なら何を望むだろうか、という観点から考えに考え抜いた。
そうしてとうとうたどり着いた結論が海洋散骨だった。
学者である父にとって、死んだ後の身体は人間ではない。死体は鳥についばまれ、昆虫に運ばれ、微生物に分解されて自然に還る。仮に父がそれを望んでいるとすれば何処かの山林に埋めなきゃならないが、それじゃ死体遺棄になってしまう。
土葬は難しい。となれば、あとは散骨しかない。粉々に砕いた骨を湘南の海にばらまいて、魚やプランクトンの栄養分になれば父の本望ではないか、と思えた。
母も、幸則の散骨というアイデアに異は唱えなかった。
3
船は静かな海上を進んだ。浪も風もほとんどない。
聞こえるのは船のエンジン音だけ。出航するまでは強い潮の匂いが鼻をついたが、外洋に出るにしたがってエンジンから排気されるディーゼル燃料の焦げた匂いにとって替わられた。
出港時にはマスクをしていた幸則と母だったが、あまりに日射しが強くて暑いのと、船上には他に客がおらず孤立した空間では感染のおそれがないので早々に外してしまった。
「ベタ凪ぎですなあ」
日射しを避けるためキャビンに入っている幸則と母のところに船長がやってきた。
「静かですね」
幸則は答えた。母は何も言わずに俯いている。キャビンに設えられた祭壇には小分けされて白い紙袋に包まれた父の骨が置かれている。骨は葬儀社によって機械で粉砕され、粉々になっている。骨壺に入っている状態ではそれなりにかさばったが、粉末状にしてしまえばこんなに小さくなるんだ、と最初見たときは思った。
「あと五分ほどでポイントに到着します」
船長といっても着ているのは普通のスーツで胸には葬儀社のネームプレートをつけている。暑くてもさすがにマスクは外さない。クルーザーにはもう一人若いスタッフが乗っているが、出港直後からずっと船尾の方で携帯をいじっている。さっき通りがかかりに画面を覗きこんだら、ゲームをしていた。
「操舵室を離れて大丈夫なんですか?」
スタッフは二人しか乗り組んでいないはずだから、操舵室はいま無人だ。
「大丈夫です」船長は自信ありげだった。「今どきちっちゃな漁船だって自動操縦装置を積んでますよ。目的地の緯度と経度を設定しておけば、あとはGPSが勝手に連れていってくれます」
「そうなんですね」
幸則は船尾の方にちらと目をやった。
「じゃ船員は一人いれば十分ですね」
なるべく皮肉に聞こえないように言ったが、船長は幸則が何を言いたいかを察したようだ。
「おっしゃるとおりです。ただ乗組員の数は法律で決まってましてね。この船だと最低二人です」
本来二人もの船員は不要だけれども、法律で決まっているからには必要数を乗せないといけない。そのぶんの人件費は幸則がカード一括払いで支払う散骨費用にきっちり反映されてるってわけだ。
「引地様は本当にラッキーです。実質貸切でこのコンディションですからね」
親族を失ったばかりの遺族にラッキーと言ってのけるスタッフはどうかと思うが、幸則たちの運が良いのは間違いなかった。幸則が申し込んだのは乗合のクルーザーを利用する散骨プランだった。船を貸切にするとなるとかなり料金が高くなる。たまたま、同じ日の同じ時間帯に他に申込者がいなかったので、定員四十人乗りのクルーザーは引地家の貸切状態となった。
「ではそろそろご準備の方をお願いします」
準備といっても日除けに帽子を被る程度だ。遺灰や花はスタッフがデッキまで運んでくれる。航海中、若い方のスタッフがやった仕事といえば、結局それらを運び出す作業だけだった。
散骨自体はごく簡単に終わった。坊主が同乗してお経をあげるオプションプランもあるが、幸則はもちろん申し込んでいない。スタッフから手渡された紙袋をひっくり返し、中身をぶちまけるだけの儀式だ。
「じゃ、さようなら」
デッキの手摺から乗り出して紙袋を傾けると、真っ白な粉がさらさらと流れおちた。粉は黒い潮に吸い込まれていったかと思うと、すぐ海面に戻ってきて花が咲くように広がった。続けてすべての袋から粉を撒き終えると、海面にミルクを流したような白い航跡が漂っていた。
母にも一袋撒くようにすすめたが、やめておくと言った。
「続きまして、お花とお酒をどうぞ」
葬儀社が用意した生花を投げ入れ、二合瓶から日本酒を注ぐ。瓶から流れ出る酒はデッキの高さから海面に落ちるまでに無数の小さな水滴になって広がり、液体の粒一つ一つが陽光を反射してきらめいた。母は花を何輪かだけ、投げ込んだ。
散骨が終わると船は再びエンジンをかけ、散骨ポイントをあとにする。デッキから船尾方向を眺めると、投げ入れた花が水蜘蛛の群れみたいに漂っている様子が見てとれたが、船が速度を上げるにしたがってあっという間に遠ざかっていき、すぐに海原に紛れて判じつかなくなった。
デッキは直射日光に晒され、じっとしていると干物になってしまいそうなくらい暑かったので幸則は母とともにキャビンに戻った。遮る物のないデッキから急に船室に入ると暗さに目が慣れるまで十数秒かかった。
幸則と母はキャビンの右舷と左舷に向かい合うように並んだベンチ状の椅子に腰かけた。今や主を失った祭壇と空っぽになった生花のケースを見つめながら、幸則は言った。
「これで、よかったのかな」
母は脱いだ帽子で自分の顔を扇いだ。
「よくなくても、もう撒いちゃったでしょ」
「そりゃそうだけど」
幸則は苦笑いした。数秒間の沈黙のあと、母が言った。
「お父さんは私たちに任せたんだから、私たちがいいと思って決めたことなら、いいのよ」
そりゃ正論だけど、と幸則は思うが喉に刺さった骨みたいに残っている言葉が脳裏によみがえる。海洋散骨は父の遺志か、という今井の問いだ。
二人ともしばらく黙ったまま座っていた。若い方のスタッフは相変わらず船尾の方で携帯ゲームをやっている。
しばらくして幸則が訊いた。
「母さん、昨日の今井って人の名刺か何かもらってる?」
母はもの思いに耽っていた様子だったが、
「もらったよ。それがどうしたの?」
と、はっきり答えた。幸則は慎重に言葉を選んだ。
「いや、父さんの散骨方法が気になってたみたいなんで、いちど連絡とってみてもいいかな」
母は訝るでもなく、かつて自転車で仲間と一緒に浜へ遊びに行く幸則を送り出したときのような口調で、言った。
「好きになさい」
潮の色が黒い鉄の色からガラスのような青に変わっている。陸地の方を望むと、遠くにクルーザーの母港が見えてきた。
4
翌日の朝練に行くと、第一コースに見知らぬ女性がいた。
とびうおSCは三コースに分かれており、レベルに応じてコース毎に練習メニューを決めている。第一コースはいちばん高いレベルのメニューで、幸則は第一コースのなかでもさらに先頭近くを泳ぐ。
女性は慣れない様子できょろきょろと周囲を見回していた。誰かに話しかけたり、逆に誰かが女性に声をかける様子もない。
なによりも周囲から浮いていたのは、女性が飛び抜けて若いからだった。マスターズのクラブであるとびうおには十代のメンバーはいない。厳密には未成年の入会をお断りする決まりはないが、十代にはジュニアという戦場があるので敢えてマスターズの練習に参加する意味はない。
今朝の第一コースは五十メートルのプル、キック、コンビをそれぞれ六本という内容から始まった。合計九百メートル。幸則たちにとってはウォームアップに過ぎない内容だ。
「じゃ僕が先頭で行きますね」
幸則が先頭を引き、女性は最後尾からスタートした。
泳ぎながら観察していたら、十代らしく体力にものを言わせた泳ぎをする。最初こそ調子がよかったが、プルを終わる頃には案の定、遅れ始めた。キックの途中で完全に息が上がり、周回タイムを守れなくなる。先頭の幸則に追いつかれると、女性はコースの端で立ち止まり、先に行くよう手で合図した。周回遅れだ。
結局女性はコンビの終わりまでにさらに二度、周回遅れとなった。
次のメニューまでの休憩時間、コースの端に溜まっているメンバーは雑談を始める。みんな余裕の表情だ。女性だけが、土砂降りの雨に降られたような顔をして肩で息をしている。
「きつい?」
余計なお世話とは思いつつも幸則は話しかけた。女性は返事さえできない。
「もっと力を抜いて。最後までもたないよ」
女性は無理に笑顔を作ろうとしたらしいが呼吸の辛さには逆らえず、引きつって泣いているような表情になった。
幸則にはわかる。「力を抜けったって、抜いたらそんなに速く泳げないじゃないか」と言いたいに違いない。かつて幸則も体験した。初めてとびうおの練習に参加したとき、涼しい顔をしてすいすいと泳ぐメンバーに置いていかれ、必死に最後尾でもがいていた幸則に声をかけたのは鈴広だった。
「もっと力を抜かないと」
とびうおSCに入ってから二十年近くが経ち、泳力はいまや鈴広より幸則の方が上になった。それでも初日に受けた手痛い洗礼を幸則は未だに忘れていない。
女性は下のコースには移動せず、最後まで第一コースのメニューをこなそうとした。どのメニューも後半はバテてどんどん遅れ、二周回三周回と追い越されていく。
結局女性が何者なのか分からずじまいで練習は終わってしまった。
朝練が終わると、幸則は手早くシャワーを浴びて身支度をした。一昨日、昨日と役所を休んだので仕事が溜まっているに違いない。髪を乾かすのももどかしく、いつもより雜に荷物を片づけて足早にロッカールームを出ようとしたところに鈴広が声をかけてきた。幸則は心の中で舌打ちをした。
「やあ引地さん、納骨は無事に済んだ?」
「済みましたよ」
「そうか、これでまずは一段落だね」
「そうですね」
幸則は早く解放してくれないかとイライラする。またぞろ納骨について長広舌を振るい始めるつもりかもしれない。用事もないのに話しかけてくるのはいつもと同じだが、今は急いでいる。
「春花ちゃんと話してたね。彼女どうだい?」
それって誰、と聞き返そうとして気づいた。第一コースにいた女性か。春花っていうんだ、と幸則は合点した。鈴広は隣の第二コースから見ていたらしい。
「どうって、体験か何かですか? ジュニアでしょ?」
鈴広は割れるように笑い出した。何がおかしいのか分からない幸則は困り顔をする。
「あれは弘美さんの娘さんだよ。高校生だって」
「ああ関口さんの」
幸則はこけた頬と日焼けした皺だらけの顔を思い浮かべた。春花はどちらかというと色白で丸顔に近いから、似ても似つかないというのが正直な感想だった。
「弘美さんが誘って、今日だけ飛び入り参加なんだって。第一コースとは、頑張ったね」
関口に娘がいるというのは聞いたことがある。旦那とはずいぶん前に別れていてシングルマザーだとも。幸則は、自分が急いでいるのをすっかり忘れて訊いた。
「高校生だったんですね、水泳経験者なんですか?」
「以前はやってたらしいけど、もうやってないみたいだよ」
さもありなん、と幸則は思った。未経験者にしてはフォームがしっかりしているが、がむしゃらに全力で泳ぎ切る小中学生の泳ぎ方だ。無駄が多いので長くはもたない。
「若い娘はいいね。また連れてきてくれるよう、弘美さんにお願いしようかな」
鈴広は鼻の下を長くして言った。
「じゃもし次に来ることがあったら、第二コースをおすすめしておきますよ。今日は全然ついていけてなかったから」
そうか、よろしく、と鈴広は言い、シャワーを浴びに行った。幸則は時計を確認すると、慌ててロッカールームを出た。
5
昼休み、区役所と道路を挟んで向かいにあるコンビニでツナ玉子サンドとサラダチキンと豆乳ドリンクを買ってきて、区役所の屋上で食べる。雨の降る日は屋上を諦め、コンビニのイートインスペースか、空いてなければ階段室を使う。
離婚してからはずっと同じ食事だ。ものぐさでも生活力がないわけでもない。自炊はしているし栄養も考えている。ただ食事を楽しむという行為に意味を感じなかった。
食事はいつも一人だから無理もない。練習前には炭水化物を摂り、練習後や就寝前にはたんぱく質を摂る。昼食についてもあれこれ試した結果、コンビニたんぱく質メニューが手間やコストの面で最も効率が良いという結論になっただけだ。
家では冷凍庫に大量に買い置きしてある鶏のむね肉を焼くか、茹でるか、煮るかするのが常だった。そこに季節の野菜を添えるだけ。強いて言うなら、1Kの自宅のキッチンは狭くてガスコンロも一口しかないのが不便だった。凝った料理は作らないから問題ないといえばないのだが、数年前にリフォームしてオール電化にした実家のキッチンを見たときはああいうのもいいな、と思った。
屋上から見上げると、高い空が広がっていた。透明な天蓋に細い爪で無数の引っ掻き傷をつけたような雲が浮かんでいる。幸則はサンドイッチを頬ばりながらポケットのスマホを取り出し、一枚の写真を表示する。
東京大学大学院 地球惑星環境学科 教授
理学博士 今井徹
母が今井から受け取っていた名刺を撮ったものだ。研究室の電話番号とメールアドレスが印刷されている。いきなり電話をかけるのも不躾かと思ったが、くだらない用事で何度もやりとりするのはかえって良くないと幸則は考えた。
「はい、今井研究室です」
一昨日実家で聞いた、今井の声だった。
「あ、今井教授でいらっしゃいますか」
「はいそうです」
「突然申し訳ありません、私、引地幸則と申しまして……」
「ああ、引地功先生の息子さんですね。一昨日はどうも」
「こちらこそ。実は」
幸則は手短に用件を告げた。海洋散骨が父の遺志かどうかを訊いたのにはなにか理由があるのか、あるとすればなんなのか。
「そうですか」
今井は少し間を置いて、
「引地さん、お近くでしたら、お会いしてお話しできませんか。食事なんかどうです?」
と言った。意外な提案に戸惑ったが、幸則はいいですよと答えた。
「今日は金曜ですから……引地さん、週末はお休みですよね。来週の方がいいですか?」
「私は今日でもいいですよ。今井さんがよろしければ、ですけど」
幸則はなるべく早い方がいいと思った。
「わかりました。本郷へおいでになることは可能ですか?」
「はい、仕事が終わってからいけば、そうですね、六時くらいになると思います」
今井は理学部一号館という建物への道順を教えてくれた。建物の正面玄関で待ち合わせになった。
電話を切ると、LINEの通知が入っているのに気づく。とびうおSCのLINEグループだった。通知を開くと何件かの投稿があった。
「東京都大会のリレーメンバー選出について」
「いつものとおり、記録会のタイム順でいいでしょうか」
「いいですが、引地さん前回の記録会、忌引でお休みしてますよ」
「記録会への参加は必須なので、引地さんは申し訳ないですが」
「わかりました。一応、本人の了解を待ってそういうことに」
幸則はすぐにグループへ返信した。
「了解です。問題ありません」
コロナの影響で中止されていたマスターズ大会は秋以降、規模を縮小して開催される予定になっている。ただし規模の縮小にともない競技種目も減らされているので人気種目への出場は狭き門だ。大会中もっとも盛り上がるクラブ対抗リレーも出場チーム数を減らされてしまい、どのクラブもトップ選手で構成する一チームしか出られない。
幸則のタイムであれば自由形リレーも、メドレーリレーの自由形も十分選抜圏内だった。残念ではあるが、父の法要のためとはいえ、記録会を休んだのだから出場できないのは仕方がない。
悔しさはない。リレーには出られなくとも、大会には参加できる。個人競技である水泳のいいところだった。
幸則の発言に対してすぐに反応があった。
「引地さん、すみませんでした」
関口だった。彼女自身はリレーメンバーに選ばれるほどの泳力はないが、面倒見のよさととびうおSCへの愛着を買われて、役員的なポジションを任されていた。役員といえば聞こえはいいが、体のいい雑用係だ。
幸則は関口の発言には応えず、携帯を閉じた。
6
二日間の休暇でたまっていた仕事をなんとか片づけ、定時に仕事を終えた。
本郷三丁目の駅から赤門をやり過ごし、正門をくぐる。正面に有名な安田講堂があり、その裏手に回ると理学部一号館だった。六時までには五分ほどあったが、今井はすでに建物の前で待っていた。
「お待たせしてしまいました、すみません」
「いえ、今出てきたばかりです」
一昨日会ったときはスーツに黒ネクタイだったのでかっちりした印象だったが、今日は柄物のシャツにカーディガンを羽織っただけのくだけた格好だ。食事といってもどこへ行くのだろうと思っていたら、今井は学食へ行きましょうと言う。
「ここの学食はいいですよ。綺麗だし、安くて、うまい」
戸惑う幸則に今井は言った。騙されたような気分でついていったが、今井の言葉に嘘はなかった。リニューアルされたばかりという中央食堂は開放的な空間で、学食と聞いてイメージするような暗く雑多な雰囲気はない。イスラム教徒用のハラールコーナーなどもあり、世界中から学生が集まる場所なんだと実感する。
幸則は海鮮丼を頼もうとしたが、今井はやめておいた方がいいと言った。海鮮丼はあまり美味くないのだろうかと思い、ロースとんかつを頼んで席に着く。今井は親子丼を選んだ。
幸則はとんかつから衣を剥がして囓りついた。今井は親子丼の三つ葉を端によけて食べている。
今井がおもむろに切り出した。
「改めて、この度は本当にご愁傷様でした。引地教授と私は研究テーマこそまったく違いますが、院生時代にご指導いただいた関係でとても懇意にしていました」
幸則は話が専門的な方向にいってしまう前に釘を刺しておいた方がいいと思って口を挟んだ。
「私は……」
「ええ、大丈夫ですよ」今井は幸則の懸念を解っている様子だった。「学術的な内容については、できるだけ噛み砕いてご説明します」
「はい、ありがとうございます」
幸則は父親の研究内容などなにひとつ知らなかった。幸則自身は自然科学の研究にはまったく興味がなかったし、大学に進学したときもなにか目標があったわけではない。ただ就職のときに潰しが利きそうだから、というだけの理由で法学部を選んだ。
父は賛成も反対もせず、進路の選択は本人に委ねていた。本当は自分と同じように、幸則にも学者になってほしかったのかどうかはわからない。わからないまま、父は亡くなった。
「お母様から海洋散骨されると聞いたとき、これはご家族の判断だな、と直感したんです」
「父なら、海洋散骨は選ばないと?」
今井は幸則の質問には答えず、逆にわけのわからない質問を返してきた。
「引地さん、サケやウナギが海で大きくなって、川に戻ってくるのはなぜだと思います?」
「え」
「なぜかは、わかっていません」
質問に質問で返し、「わかっていない」という答にならない答をすぐに出してくるんだから、人を馬鹿にしている。
「それが海洋散骨と、なんの関係があるんですか」
今井は箸を置いて、ティッシュで口を拭いた。
「川は、陸から海に流れますよね。山に雨が降り、森の養分を溶かして、谷をくだり、平野を流れ、海に注ぎます。栄養分というのは、常に上流から下流に流れるんです。逆は、ありません。それがどういうことか、わかりますか?」
「ん……つまり栄養分は最終的に全部海に流れ込む?」
「そうです。だから本来は陸地なんてのはすべて不毛地帯になって、海だけが豊かになるはずなんです。さらに、陸地はぜんぶ水の流れに削られて、重力には逆らえず、どんどん平らになっていきます。どんな高い山も崩れてなくなります」
「はあ」
「でも現実には山には木が生い茂り、豊かな森にはたくさんの動物や昆虫が棲んでいます。何者かが海から陸へ、養分を持ち帰っているんです」
「なるほど、それがサケやウナギというわけですか」
「そうです。彼らは海でたくさんの餌をとって育ち、川にのぼってきて死にます。陸上動物の餌になったり、彼らの死骸が流域に養分をもたらします。それだけじゃありません。たとえばサケにはアニサキスなんかの寄生虫がついていますよね。実は陸上の水際において、寄生虫が動物の生活史に果たす役割というのはカロリーベースでみても相当大きいんです」
幸則はやっと、今井が海鮮丼をすすめなかった理由がわかる。そして海洋散骨に今井が疑問を持った原因も、わかった。
「えっと、その、じゃ父ならば遺骸は海じゃなくて陸に還って栄養分になるべきと考えたと?」
今井は静かに首を振った。
「引地教授にはそこまでのこだわりはなかったと思います。教授が埋葬の仕方を指定しなかったのは、ご家族に決めていただきたかったからでしょう。引地さんとお母様が海洋散骨がベストだとお考えになったのなら、それが教授にもベストだったということです。できるだけご家族の負担が少ない方法がよかろうとか、そういう意図だったんじゃないでしょうか?」
「はあ、まあ……」
今井は突然、テーブルに両手を突いて頭を下げた。
「引地さんに謝らなければなりません。申し訳ありませんでした」
幸則は慌てて顔を上げるよう、言った。だが今井は面を伏せたまま続ける。
「引地さんから電話を頂いたとき、失敗したと思いました。一昨日伺ったときに海洋散骨が引地教授のご遺志かどうか質問したことです。あれはまったく私の興味本位でした。不適切な質問だったと思います」
幸則はもう一度、顔を上げてくださいと言った。
「どうかもう。私も母も、気分を害されたり嫌な思いはしていません。むしろ私たちが知り得なかった父の話を聞かせていただき感謝しています」
今井はやっと頭を上げた。
「そう言っていただけて安心しました。もしお気に障ったのであれば大変申し訳ないです。言い訳にしか聞こえないと思いますが、疑問をもつのは学者の性分みたいなところがありまして」
「わかります。父もそうでした」
とは言ってみたものの、幸則が父を身近に見ていたのは高校生を卒業するまでだし、明莉が生まれて孫の顔を見せに帰っていた頃を除いては実家にほとんど寄りつかなかった。幸則の記憶の中で父はほとんど表情を変えず、動作もなく、言葉も発しなかった。ひどく曖昧な存在だった。
おそらく、目の前にいる今井教授の方がよほど父のことをよく知っているだろうと思った。
「海だけが豊かになって、陸地はいずれ崩れてなくなるという話、とても興味深いです。人間の存在なんて、とてもちっぽけなんですね」
「はい、失礼ついでに申しますと、海と陸だけじゃなくて宇宙全体で起こっている現象なんです。エントロピー増大の法則というのがありまして、あらゆる物は意図的に維持したり力を加えない限り、どんどん均一に混ざり合っていくというものです。コップの水にインクを一滴落とすと、自然に薄まってコップ全体に広がっていきます。この地球や太陽のような惑星や恒星も宇宙に落とされたインクの一滴のようなもので、今は丸い形を保っていますがそのうち宇宙の中へ溶けていく運命にあるんです。宇宙の始まり、ビッグバンの瞬間は宇宙の全エネルギーが一点に偏在した状態でした。ビッグバン以降、宇宙はどんどん拡散して薄まり、均一に混ざり合っていってるわけです」
「なんだかわかるような、わからないような話ですね」
幸則は昨日クルーザーの上で見た光景を思い出した。デッキから撒いた父の遺灰は海面に白い染みを作っていた。あの、ミルクを流したような白い染みも、いずれは海全体に広がって無限に薄まっていくのだろう。
宇宙の創始からずっと続いてきた営みなんだ。
物理学というのだろうか。幸則はたしか学生の頃にホーキング博士の一般向けの本を読んだ記憶があったが、内容は一割も理解できなかった気がする。あれを理解する今井や父の頭というのはどういう構造になっているんだろう。ますます父という人間が遠く、つかみどころのない存在に感じられていく。
食事を終えると、幸則と今井は互いに丁寧な礼を言って別れた。中央食堂を出ると外はもう真っ暗だった。日に日に短くなる昼は東京の空気を重く冷たく変えていく。
控えめな街灯を頼りに安田講堂から正門、本郷三丁目へと来た道をたどって帰る。かつて父が、おそらく毎日歩いて通った道だ。
金曜日の夜、コロナ禍からゆるやかに回復している街は活気を帯びている。幸則は活況を横目に世田谷の自宅へと帰った。離婚直後に移り住んだ賃貸マンションに、今も住み続けている。
1Kのマンションに帰宅すると、すぐに冷蔵庫に貼りつけられているホワイトボードの前に立った。ホワイトボードにはびっしりと、大会に向けて自分で組んだ練習メニューが書かれている。幸則はちょっと考えてから、リレーのために作っていたメニューの一部を消して書き直した。またちょっと考えてから再度書き直す。書き直しを三度ほど繰り返してから、やっと満足のいくものになった。
何も用事のない週末は近くのジムに泳ぎに行ってオリジナルのメニューをこなし、帰ってきてから家でネット配信の映画を観るのが常だった。
幸則はなんとなくホーキング博士の伝記映画を選んだが、想像していたのと違って恋愛とか三角関係とか結婚生活とか、悪く言えばメロドラマみたいな内容だった。
7
月曜日の朝練に入ると、また春花が来ていた。
しかも第一コースに入っている。幸則は第三コースにいるはずの関口を探したが、関口の姿は見えなかった。
「関口弘美さんの、娘さん?」
幸則は大人の中にひとりぽつんと立つ春花に声をかけた。
「はい、関口春花といいます。よろしくお願いします」
「金曜も来てたね。今日は関口さんは?」
「今日は仕事が早いので、一人で行くように言われました」
「そっか」
第二コースへ行けとは言えなかった。本人も、第一コースの練習メニューについていけないのは金曜の練習でわかっているはずだ。なのにあえて第一コースに留まろうというのだから幸則がどうこう言っても無駄だろう。
練習が始まると、やはり春花はすぐに遅れだした。
「こっち来ないの?」
セット合間の休憩時間に、隣の第二コースから鈴広が声をかけてきた。
「らしいね」
幸則は鈴広の方を見もしないで答えた。
朝練が終わるまでに、春花は四度周回遅れを喫した。最後は息が上がってまともに会話さえできないのも金曜と同じだった。
シャワーを浴びて着替えを終え、ジムを出て駅に向かう。そのとき背後から幸則を呼ぶ声が聞こえた。
「引地さん」
振り返ると制服を着た女子高生がいた。はて誰だろうと思ってよく見ると、春花だった。マスクをしているのですぐには判らなかった。ジムから追いかけてきたのか、肩で息をしている。
「あ、関口さんの」
「すみません、練習のあとにお話ししようと思ったんですけど、先に出ていかれたと聞いたので」
はて、自分に何か用だろうか、と幸則は訝しんだ。
「本当は金曜日にお話ししたかったんですけど、引地さんなんだか急いでるようですぐに出られたので」
「ああ、すまないね、金曜は休み明けで仕事が忙しかったんで」
「そうだったんですね。引地さん、下北の駅ですよね。私も同じなので、歩きながらでいいですか」
もちろん、と幸則は快諾したものの、女子高生と朝の下北を歩くなど、変な気分だった。ちょうど明莉と同じ年頃だろうか。もし自分がまだ明莉といっしょに暮らしていたら、とうに味わっていた気分なのかもしれない、と埒もない想像をする。
「お母さんから聞いたんですけど、引地さんのお父様は東大の教授だったんだそうですね」
「うん、そうだよ」
「私、お母さんからは水泳をやれって言われて、小中学校とやってたんですけど、高校になってやめたんです。嫌いじゃないんですけど、水泳だけをずっとやってるわけにもいかないし。そしたらお母さん今度は大学は絶対現役で行けるところにして、適当に仕事してなるべく早く結婚しろって。あんまりですよね。私だってやりたいことがあるのに」
幸則は思わず笑ってしまった。
「関口らしいね。で、それと僕の父となんの関係が?」
「私、学者になりたいんです。まだ何学とか決めてないんですけど、大学院に進んで、自分の興味がある分野を研究してみたいんです」
変わった子だな、と思った。普通は何か興味のある分野が決まっていて、その分野を研究するために学者になるんじゃないのか。研究対象も決まってないのにまず学者になりたいというのは、まるであべこべな気がする。
「それで、どうせ研究するならいい大学でやりたいし、東大で研究者になるにはどうすればいいのか知りたくて。お母さんに話したら、とびうおSCのメンバーにお父様が東大の教授だった人がいるから聞いてみるといいって言われたんです」
「なるほど」
「すみません、お父様亡くなられたばかりなんですよね。こんな時に」
「いいんだよ。でも」と、幸則はあまり期待を持たせないよう早めに断っておこうと思った。「学者だったのは父であって僕じゃない。僕は学問とはまったく縁のない生活を送ってきたし、実家を出てからは父とも疎遠だったから、学者を身近に見てきたとは言えないね。残念ながら、お役には立てそうにない」
春花はあからさまに落胆の表情をみせた。
「そうなんですね……」
「まあでも、進学したいんなら、とにかく今の学校の勉強をしっかりやっておくしかないんじゃないかな」
月並みな言葉しか出てこない。自分だって、本気で勉強したと自信をもっていえる時期なんてなかったのに。
「そうですよね。ありがとうございます」
礼をいわれるような助言はなにもしていないので、背中の辺りがむず痒かった。駅が近づくにつれ、人通りが多くなってくる。
「そういえば引地さんって」春花はさっきまでの落胆などなかったかのように、明るい調子に戻って言った。「バツイチなんですよね。どうして別れちゃったんですか?」
幸則は思わず立ち止まりそうになった。ストレートな質問をぶつけられて動揺を隠せない。口ごもりながら答えた。
「どうしてって、いろいろあってね」
「いろいろって?」
「いろいろさ」
春花は大人は卑怯だ、いろいろって誤魔化しておけば済むと思っている、などと恨みごとを言う。
「しかも奥さんと娘さんにもずっと会ってないそうじゃないですか」
関口のおしゃべりめ。幸則は鼻白む。
「そうだけど」
「どうして会ってあげないんですか? 娘さん、絶対に会いたいと思ってますよ」
知りもしない他人の気持ちを推し量って「絶対に」などと断言する自信の根拠がわからない。おそらく春花は母親から聞きかじった幸則の話に、自分の気持ちを投影しているだけなのだろう。
「きみはどうなんだい、お父さんには会ってるの?」
「……会ってない」
関口がシングルマザーになったのは春花がまだほんの小さい頃のはずだ。考えてみれば、ちょうど明莉と同じ立場になる。
「会いたいんだ」
「会いたい」
「会えば?」
「お母さんが会わせてくれない」
「関口さんはどうして別れちゃったの?」
「いろいろあって」
幸則はだまりこんだ。よその家庭の事情など知りようもないし、話を聞いたところで幸則の参考にはならない。春花もそれきり口をつぐんだ。
もうすぐ駅に着こうというとき、春花がまた話しだした。
「引地さん、再婚とかしないんですか?」
「さあ、わからないね」
「うちのお母さんとかどうですか?」
今度は思わず立ち止まってしまった。
「関口さん?」
春花の目は笑っていない。冗談のつもりではないようだ。
正直なところ、関口を異性として見たことは一度もないし、恋愛対象として魅力があるかと問われれば、ないと答えるしかない。だが今ありのままの気持ちを告げてしまえば、本人に伝わってしまうのではないか。関口親子の関係が開放的であれば――恋愛や人間関係の悩みについてあけすけに語り合うような母娘の関係ならば、幸則が喋った内容は春花をつうじて関口に筒抜けになるだろう。
幸則は慎重に言葉を選んだ。
「うーん、関口さんはとびうおSCの仲間だからね。それ以上でも以下でもない」
「そっかあ」
春花と幸則は再び歩き始めた。駅は通勤通学客でごった返していた。幸則は下り方面、春花は上りの電車に乗るので別々のホームに向かう。春花が通う高校は隣の駅にあるのだという。
別れ際に幸則は言った。
「朝練はもう来ないんだよね?」
「はい、会員でもないのにあんまり行ったら、お母さんの立場も悪くなりますから」
そんなの誰も気にしないよ、と言いそうになるのを幸則はぐっと我慢した。春花の言うことは、正しかった。
8
母が倒れた、という報せをきいて電車に飛び乗ったのは翌日、火曜日の朝だった。役所に電話を入れ、休む旨を伝えると上司は同情しているような口ぶりだったが、声色には迷惑そうな響きを含んでいた。リベラル派で知られる区長をトップに戴き、なかでも風通しが良いと世間的には思われている職場でもこんなものだ。
気は焦るが車窓の風景は普段と変わらず流れていた。降り注ぐ太陽の光、鉄橋を渡るときのくぐもった音、工場地帯からたなびく白い煙。ひとつひとつがみすずや明莉との生活を思い出させるのもいつもどおりだった。
いま見えている風景も、いずれは風雨にさらされてボロボロに崩れ去り、ぜんぶ海に流れ出てしまうのか。いつしか黒い潮と青い浅瀬の区別もつかなくなり、地球は一様になっていく。そして地球は宇宙の虚無と一体になる。
そう思うと、たかが二十年たらずで不変と思っていた風景が急にはかなく、脆い物になる。人が一生の間に見る風景など、限りなく薄まっていく変化のなかの一瞬を切り取った断片に過ぎない。
今井によれば、人間の活動というのは、圧倒的な均一化の力に逆らい、ほんのわずかでも変化を遅らせようとする無駄なあがきのようなものだ。区役所で仕事をするのも、毎日プールで泳ぐのも、電車や自転車に乗って海へと向かうのも、みなエントロピー増大の法則に対するささやかな反抗でしかない。
コップの水に落とされた一滴のインクが、コップ全体に広がり薄まっていく変化をほんの一瞬だけ遅らせるためだけの、空しい抵抗だった。
幸則自身もいつかは父の遺骨のように、海と溶け合ってしまうのだろう。
二宮でおりた幸則はタクシーをつかまえた。
母の異変に気づいて幸則に連絡をしたのは実家周辺の地域を担当する民生委員だった。母は幸則への連絡は不要だと言い張ったらしいが、民生委員としては知らせないわけにもいかない。
母にしてみれば、連絡すれば幸則は仕事を休まざるを得ないと考えたのだろう。ちょっとした体調の変化でも、知らせてしまえば幸則は飛んで帰るに違いないと思っているし、現にそうだった。なにしろ、幸則は父の死に目に会えていないのである。
タクシーをおりて実家の玄関をくぐると、線香の匂いがした。
「母さん、上がるよ」
居間を覗きこむと、母が五十絡みの女性と向かい合って座っていた。
「あ、どうも」
民生委員の多胡さんだ、と母が紹介した。幸則は畳に座った。
「この度はご連絡ありがとうございました」
畳に額を擦りつけるようにして礼を言うと、多胡はひどく恐縮した様子で言った。
「いえいえ、息子さんにはお知らせしないようにと珠代さんに何度も言われたのに勝手なことをしてしまいました。珠代さんにはこっぴどく怒られましたよ」
「いいんです、どんな小さなことでも構わないので、連絡をいただけると有難いです」
幸則は骨壺のなくなった仏壇を仰ぎ見た。遺影の父は相変わらず活き活きとしていて、目を輝かせている。それから庭に目をやった。イヌツゲに囲まれた庭は夏の終わりに手入れをしたからか、こざっぱりしていた。クロマツの幹が良い具合にうねっている。
母の具合を聞くと、
「私ゃ大丈夫よ。季節の変わり目でちょっとだるかっただけだからね。お医者さんはなんとか神経が……」
「自律神経」
「そう、自律神経ね。ちょっと寝ていれば治るのに、まあみんな大げさなんだから」
「そう言うもんじゃないよ母さん、多胡さんだって心配して来てくれたんだから」
それから少し雑談をして、多胡は帰っていった。幸則は母と二人になると、金曜日に本郷で今井と会って海洋散骨について話した経緯を母に伝えた。母は学問的な難しい内容はわからないと言いつつ、今井が散骨方法について気にかかったのは理解できると言った。
「お父さんは理屈っぽい人だったからね。湘南の海が好きだからって、自分の亡骸を海に還して一緒にして欲しいなんて、感傷的なことを言う人じゃなかったよねえ」
「でも母さんだって」海洋散骨に同意したじゃないか、と言い募らないうちに、母の詰るような目と正対した。
「あの人は」と、母は目を伏せた。「お金には人一倍うるさくてね。家計のことも私には任せきりにせず、何かにつけて細かく口を出してたのよ。とにかく無駄な出費は一切しなくて、何かを買うときには値段とか品質とかアフターサービスとか、事細かに調べて比較して、やっと決めてた。念願の教授になって、あんたが独立して、お金の心配があまりなくなってからも、やってることはちっとも変わらなかった。あの人は根っこから、お金が好きだったのよ」
幸則にとっては意外だった。父については、世の中であれほどお金に興味のない人はいないくらいに思っていたからだ。
「そりゃそうよね。お父さんはもともと経済学者になろうとしてたんだから。なにをまかり間違って地質学をやるようになったのか、自分でもわからないって笑ってたわ」
幸則は唖然とした。初めて聞く話だった。
「海に骨を撒くのがいちばん簡単で安い方法だったのなら、お父さんはそれで喜んでくれるから。お母さんが保証しますから、あんたは気にしないで」
母は仏壇に背を向け、座布団の上にちょこんと座って遠い目をしている。幸則は頷くしかなかった。
それから母がお茶を淹れようとするので、幸則は母を制して自分が淹れるといって台所に立った。でもお茶っ葉の保管されている場所とかどの急須や湯呑みを使えばいいのかとか、IHコンロの操作方法とか色々とわからないのでいちいち母に確認しながら作業した。結局、最初から母が自分でやった方が早かったような気もしたが、大事なのは気持ちだ、と幸則は自分に言い聞かせた。
お茶を飲みながら、庭木の造作についてあれこれ話したが、やがて話題が尽きる。沈黙を嫌った幸則は、すっと息を吸い込んで新たな話題を振った。
話そうと思っていた内容ではない。幸則はなんだか誰か別の人間が入りこんできて、彼の口を借りて喋っているような感じがした。
「母さん、明莉に会いたい?」
母は手の中で湯呑みを回した。
「そうねえ、そりゃ孫に会いたくないばぁばはいないでしょうね」
幸則は辛抱強く続きを待った。母は湯呑みを回し続けている。
「でも結局、あんたとみすずさんが決めることじゃない? 明莉は二人の子でしょ」
「そりゃそうだけど」
「だけど?」
今さらどの面下げて会わせてくれと言いに行くのか、幸則にはうまくやれる自信がまったくない。だから今までだって避けてきた。自らに課した罰だなんてのは、自分に対する言い訳だった。本当は恐いだけだ。
言葉に詰まった幸則の様子を見て、母は続けた。
「幸則、あんた今でこそ水泳が得意だけど、小さい頃は顔を水につけるのを恐れてて全然ダメだった。覚えてる?」
幸則は首を振る。
「鼻に水が入ったり、苦しかったりするのが嫌だったんでしょうね。一度失敗すると、次に同じ失敗をしたくなくて、二度とやりたがらなかった。水泳だけじゃない、なんにでも消極的だった」
母はお茶を一口すすった。
「水泳はね、お父さんが何度もプールに連れていって特訓して、それでもなかなか顔をつけられなかった。もうあきらめて匙を投げたら、あんた、自分でこっそり練習するようになって、だんだんと顔をつけられるようになったのよ」
幸則には初耳だった。自分でも覚えていなかった。
「あれはね、お父さんにあきらめられるのが嫌だったとか、できるようになって喜んでもらいたいとか、そういうのじゃなかったと思う。自分で考えて、このままじゃまずいって思って本気になったのよ。お母さんはそう思います」
そんなことがあったかな、と幸則は思い出そうとするが、どうも記憶にない。てっきり、自分は物心ついたときから泳ぎは得意だったんだと思っていた。
「そんなことがあったんだね」
幸則は冷めたお茶を一気に飲み干した。
9
休みを取ったのに午前中で用事が済んでしまったので、期せずして半日の空白ができた。
幸則は二宮の駅には向かわず、大磯の浜へむかって歩いていった。かつては自転車でも長いと思っていた道のりだったが、歩いてみればさほどの距離ではなかった。
海に近づくにつれ潮の匂いが強くなる。真正面から海風が吹きつけてきて、幸則は目を細めながら歩いた。東海道からさらに海側へと下り、西湘バイパスをくぐればもう海岸だ。
波の音が心地よかった。空の色は深く、遠い水平線の上に群衆のような雲がわきわきと踊っている。左右を見渡せば黒い砂浜と磯が果てしなく続き、ところどころに胡麻粒のような人間が遊んでいる。ほとんどがサーファーだった。
幸則は海岸線沿いに歩いた。防風林の際には大量の砂が溜まっていて足をとられるので、ちょうど防風林と波打ち際の中間点くらいを歩く。
「砂が、黒いのね」
初めてみすずを地元の海に連れてきたとき、彼女が発した第一声だった。みすずは九州の出身で、白い砂浜しか見たことがなかったという。幸則はそれまで海岸の砂の色なんか気にしたことがなかった。湘南の海しか知らなかったから、白いとか黒いとかじゃなくて、砂浜の砂とはこういう色だ、としか思っていなかった。
みすずと自分では見ているものが違うという当たり前の事実を突きつけられた、最初のできごとだった。
波打ち際の方から、甲高い声が聞こえてきた。
声は高いのと、低いのと二種類あった。近づいてみると、兄妹とおぼしき子供たちが砂遊びをしている。少し離れたところから母親が子供たちの様子をじっと見ていた。
兄の方はくすんだ赤色のTシャツとデニム生地の短パン、妹はフリルのついた薄紫のカットソーに紺色のスパッツをはいていた。プラスチックのバケツとスコップを使い、黒い砂をうずたかく盛り上げている。
兄が大きな砂の塊を山のてっぺんに乗せると、塊は崩れて山の斜面をなだれ落ちる。頂上に留まるのはほんの数粒の砂に過ぎない。
崩れた砂の一部を妹がスコップですくって、山へと戻す。二人の作業はその繰り返しだった。ときどき、海からの強い風が山を直撃して頂上の砂を吹き飛ばす。兄妹は少し低くなった山にまた砂を追加する。
延々と作業は続いた。母親は手を出すでもなく、声をかけるでもなく、ただ彫像のように風にたたずんで兄妹を見守っている。
「どんな高い山も崩れてなくなります」
そう語った今井の顔が脳裏をかすめる。
ではこの兄妹がやっている作業は無駄な努力なんだろうか。いくら砂粒を積んだって、自然はあっという間に砂を削り、吹き飛ばし、海へと流す。人間は、あまりに強い自然の力の前には無力だ。
サケやウナギが海で栄養分を蓄え、川に上ってくる。持ち帰った栄養分が木を育て、森をつくる。植物が根を張ると砂は山の上にほんのしばらく留め置かれる。陸地の崩壊はほんの一瞬だけ、遅くなる。
「そういうことなんだ」
幸則は独りごちた。我知らず、ポケットをまさぐってスマホを取り出した。電波が入っているのを確認すると、電話帳から関口の名前を探しだす。仕事中かもしれないなんて考える余裕はなかった。
通話ボタンを押す。二コール目で聞き慣れた嗄れ声が応答する。
「はい、関口です」
「すみません、引地ですが」
「あ、引地さん、どうしたんですか。今日も朝練来られなかったんで、心配してましたよ」
「すみません、用事があって。もう終わったんですが」
「そうですか、よかったです」
「お電話したのは、ひとつお願いがあって」
「なんでしょう?」
幸則は唾を飲み込んだ。潮風にやられて喉がイガイガする。
「リレーメンバーの件、やっぱり私が出られないか、その、検討していただけませんか?」
束の間の沈黙があった。聞こえてきた関口の声は、幸則の申し出を予期していたような響きがあった。
「わかりました。役員全員にかけあってみます。引地さんの持ちタイムだったら私はいけるような気がします」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
「ただし」関口は語気を強めた。「すでに決まったメンバーで持ちタイムがいちばん遅い鈴広さんを蹴落とすことになっちゃいます。それで大丈夫ですか」
今さら躊躇ったって仕方がない。幸則は「大丈夫です」と答える。
「わかりました。またご連絡します」
電話を切りそうな関口に、幸則は慌てて畳みかける。
「あ、あと」
「なんでしょう?」
「その、きのう娘さんに進路のことを相談されましてね」
「ああ、春花がね。すみませんでした。ご迷惑でないといいんですが」
「いえいえ迷惑なんて。そのことで、もう一度きちんとアドバイスをさせていただけないかと」
スマホを握る手に汗がにじむ。こんな自分に有用な助言ができるとは思えない。それでも幸則は伝えなきゃいけないと思った。今は白い粉になってここ湘南の海に溶けてしまった父の、生き様を誰かに伝えないといけない。
「わかりました。ではまた朝練で」
電話を切った幸則は砂浜に目を戻した。
いつの間にか、兄妹と母親の姿はなくなっていた。波と風と、高くそびえる砂山だけが、陽の光を反射して星屑のように光っていた。
(了)
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