G線上の404 Not Found

合評会2023年11月応募作品

河野沢雉

小説

4,231文字

2023年11月合評会「海老とストレート・ネック」参加作品。ノスタル爺の誕生秘話、ついに明らかになる!

秋が深まり、夜明けは遅くなる。セリが終わると、僕はまだ磯の香りがこびりついたツナギを着たまま坂道を上った。振り返れば熊野灘の黒い潮を照らす朝日がじわじわと高度を上げている。

後藤とすれ違った。僕は目を合わせないようにしながら道の端を早足で駆け抜けようとしたが、このいつも薄ら笑いを浮かべている男は、「ようオタク、ええエビ獲れたか?」と茶化すように言った。

「まあ」

僕は口ごもりながら、先を急いだ。逃げるように坂を上っていく僕の姿を、後藤が首だけ曲げて振り返り、蔑みの目で見ているのを、背中に感じる。

地蔵の角を右に折れて一軒目の家からは毎朝この時間、ピアノの音が聞こえてくる。決まってバッハのG線上のアリアだ。クロマツに縁取られた木の門には大理石を手彫りした「丸戸」という表札が埋め込んである。僕は白く長い指が鍵盤の表面を撫でる様を想像しながら二階建ての大普請を横目に見て四軒目ほど進み、かまぼこ板にマジックで書かれた「多胡」という表札がかかったあばら家に入った。

「久作、父ちゃん帰ってくっか?」

「知らん」

父はセリのあと、すぐ長島へ向かった。博打か女か知らないがどうでもいい、僕には関係ない。

母は一人で朝飯を済ませ、洗濯や掃除をしている。僕は先ず仏壇に向かい、じいちゃんとばあちゃん、七歳を前にして死んだ妹の位牌に向かって手を合わせると、飯と味噌汁をかき込んで、自室に引っ込んだ。

自室といっても廊下の突き当たりに自分でベニヤ板を張って仕切った一畳半程度の空間である。中学生の時、狭い家の中に自分だけの空間がないのが耐えられなくて、自力で作った。壁沿いにはマンガや特撮・アニメをダビングしたビデオテープ、同じくコピーソフトのフロッピーが積み重ねられ、自作のDOS/Vマシンが床に直置きされている。僕はデスクトップマシンには見向きもせず、東芝リブレット20を起動した。リブレットはWindows95が動くPCとしては最小で、VHSテープほどのサイズだ。僕はツナギのポケットに手を突っ込んで富士フイルムのデジカメDS-7をまさぐり、スマートメディアを取り出した。2MBのスマートメディアをPCカードアダプタに挿してリブレットのPCカードスロットに挿入する。

VGAサイズ、30万画素のデジタル画像をHDDにコピーすると、一枚ずつ確認していった。父が船上で刺網を巻き取る様子や水槽でひしめく伊勢エビ、公設市場でセリにかけられるエビ。これはという写真を選んで加工し、今度はエディタを開いてHTMLコードを編集した。スマートメディアを抜いてモデムカードを挿し、ダイアルアップを開始する。プロバイダへの接続が完了すると、FTPソフトでさっきの写真とHTMLをアップロードする。僕はネスケに表示されている「伊勢エビ漁師・久作のホームページ」と題されたサイトを再読込して出来映えを確認すると、バックグラウンドでメール送受信が終わっているのを確かめてすぐに接続を切った。今はテレホーダイタイムじゃないから、無駄に長くは繋いでいられない。

新着メールはプロバイダからのお知らせと、メールフォームから送られたいくつかのスパムメッセージだけだった。

 

僕は別の画像を画面に表示させると、自分の陰茎をしごき始めた。

夏祭りのときに、懐に隠したDS-7で撮った不鮮明な写真。浴衣の下に存在するはずの、生身の肢体は今の僕には想像するしかない。白い首筋が輝いて見えるのは冷陰極管の光がトランジスタの薄膜を通して出てきたものに過ぎないが、僕にとっては本物の、温かみのある、柔らかい光だ。

裕美子。僕は小さく呟きながら射精した。本人の前でその名を口にしたこともないのに。ピアノを弾くその後ろ姿を、遠くから見ているしかないのに。

裕美子の浴衣姿の隣にはもともと後藤の薄ら笑いが写っていたが、割れ物のフォトショップで加工して消した。リブレットを閉じると、精液を処理し、立ち上がった。極端な猫背で長時間PCを弄っているので、最近は首が痛い。

僕は右手で頸の後ろをさすると、首を左右に曲げてコキコキと鳴らした。

 

その日の夕方、僕は出漁前の僅かな時間をついて、組合長のところへ行った。最後に一度だけ、もしかしたら耳を貸してくれるかも知れない。そんな希望を抱きながら、訊いた。

「丸戸さん、こないだの件、考えてもらえました?」

組合長は刺網を船に積み込んでいた。恰幅の良い男で、色白で細面の娘とは似ても似つかない。

「あんだあ? また多胡んとこの倅か」日に焼けて皺だらけの額の下から爬虫類のような目で睨みつけてくる。「インターネットだかなんだか知らんが、そんなもんやってる暇があったら早よ網の補修覚えろ」

そう言って組合長は作業を続けた。すべてが崩れ去っていく、ガラガラという運命の音が僕の中にこだました。父の船の方へと戻っていく僕の顔は、蒼白だったに違いない。

「どこで油売っとんじゃ。もやい解かんかい」

父にどやしつけられ、僕は船に飛び乗った。もやいを外すと、父はエンジンをかけた。

「久作、もう組合長にうんたらネットの話はやめえ」

父は二言目にはそう言う。無論耳を貸す僕ではない。

「嫌や、いつかインターネットでエビを売る日がくる。漁協も古いやり方のままだとダメなんや」

「あほか、漁協があるから儂らはやっていけるんやろが。せやから組合長は偉いんや」

その時船のコントロールパネルでけたたましい警報音が鳴った。

「クラッチオイルや。おかしいのう」

父が言い、エンジンを止める。エンジンルームを見ると、船底にビルジがたまっている。父はしばらくエンジン各部を点検していたが、やがて諦めて言った。

「ダメや、今日は出れんで、網を丸戸さんに預けてこい」

僕は刺網を外して組合長の船へ走った。走ったと見せかけて、公設市場の裏にある岸壁へ向かう。

裕美子が待っていた。といっても僕を待っていたのではない。僕の気配に振り向いた裕美子は、やって来たのが後藤ではないと知り表情を凍らせた。

「多胡くん?」

高校時代は後藤に虐められる雑魚キャラにしか過ぎなかった僕の、名前を覚えてくれていただけでも奇跡みたいなもんだ。

「丸戸さん。いや裕美子」

僕は裕美子ににじり寄る。そのただならぬ様子に裕美子は眉をひそめて後じさった。

もう後戻りはできない。チャンスはやったのだ。組合長も、父も、誰も僕に耳を貸そうとしなかった。これは彼らが招いた結果なのだ。

「ごめん、きみに罪はないけど、組合長の目を覚まさせるにはこれしかないんだ」

言うと、僕は刺網の沈子を先に付けたロープを振りかぶり、思い切り裕美子の頭めがけて打ちつけた。げふ、と変な声を出して裕美子は倒れた。

僕は呆然として、岸壁に力なく横たわる裕美子の身体を眺めていた。すぐに後藤がやって来る。いつもこの時間、後藤が車でやって来てカーセックスをするのだ。裕美子の父親の目が届く場所で逢い引きできない二人は、組合長が漁に出る時間を狙ってここで会う。

僕は躊躇わずに裕美子の身体を蹴って海に落とした。暮れかけた黒い波間に、あっという間に裕美子の姿はのまれていく。僕は首を前に突き出す姿勢でその様子を見届けると、思い出したように漁港へと駆け出した。

 

そう遠くない将来、漁の様子をインターネットで生中継し、世界中の人が見るようになる。伊勢エビを水揚げしたその場でセリにかけ、見ていたネットの先の誰かが瞬時にカード決済して買い付ける。そんな時代がもう目と鼻の先に来ているというのに。

この町の漁師たちは変化を嫌い、新しいものを受け付けず、未来から目と耳を閉ざしている。であれば、僕は皆が大切にしているものを奪うことで、無理矢理にでも彼らの目を開かせよう。そのために周到に計画した。船のスクリューシャフトのパッキンを薬剤で劣化させ、完璧なアリバイを作った。誰もが、僕はあのとき網を届けに組合長の船へと走ったと思っている。

捜査本部が開設され、県警が来て捜査を始めた。裕美子と後藤の関係を知らない者はいなかったから、みんな後藤があの時間裕美子と会っていたはずだと証言した。組合長は後藤が最愛の娘を殺したと信じて疑わず、葬儀の席でも後藤の野郎をぶち殺すと泣いて騒いだ。

あの日から、ピアノの音は聞こえなくなった。

 

「どうも、いつもありがとうね」

県警本部の刑事が僕に話を聞きに来るのは何度目だろう。僕が町の人間関係を説明するのに、リブレットを使ってわかりやすくプレゼンしたら、それをいたく気に入ったらしく、捜査で町にやって来たときにはいつも僕のもとを訪れた。

「きみ、それ首痛いだろ」

その年配の刑事は言った。僕は猫背でリブレットの画面にかじりついていた。刑事によれば、警察でも事務をやっている職員に多いのだという。本来緩やかなカーブを描いているはずの頸椎が、真っ直ぐになってしまうのだそうだ。

「整体で診てもらうといいよ。俺もね、歳とって腰を痛めたんだが、整体通ったら大分楽になった」

警察は後藤を疑っていた。後藤以外に犯人はいないと結論づけ、なにがなんでも後藤をクロにしようとしていた。苛烈な取り調べによって後藤がやってもない罪を認めるのは時間の問題だろう。

「そうそう、きみのホームページも見たよ。なかなか面白いもんだね」

PCやインターネットなんかとは縁のなさそうな老刑事から出てくる台詞としては、かなり意外だった。

「警察もね、これから増えそうな犯罪には対応できるようにしなきゃならんだろ。対面だろうがパソコン通信だろうが、犯罪者のやることは同じさ。騙す、盗む、犯す、殺す。そうだろ?」

一瞬、僕は金縛りに遭ったように動けなかった。刺すような視線を向けてくる刑事に、僕は自らの犯行を見透かされているような気がした。心臓を素手で鷲掴みにされたようだ。

「そうだ、きみ、まだ若いんだから警察官の中途採用に応募してみたらどうだい?」

刑事は物腰柔らかに、続けた。金縛りの解けた僕は「はあ」と魂の抜けたような声を出した。

刑事が帰っていったあと、僕は「伊勢エビ漁師・久作のホームページ」にアップロードしたファイルをすべて削除した。CGIカウンタの数字は二万七千あまりだった。

「警察か」

僕は空っぽになったリモートディレクトリを眺めながら、独りごちた。

悪くない。そして、整体にも行ってみよう。

高まる未来への期待に、僕は裕美子の弾くG線上のアリアを重ねていた。

2023年11月2日公開

© 2023 河野沢雉

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"G線上の404 Not Found"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2023-11-02 19:59

    【アイキャッチ画像について】
    今回のために書き下ろしたイラストを、敢えて製作過程を残してアニメーションにしてみました。絵を描く作業と小説を書く作業って結構似ている気がしていて、これを見て何かを感じ取って頂ければと思います。

    著者
  • 編集者 | 2023-11-22 14:08

    デッサンの描き始めから、素人の自分とは観点が全然違うと感心しました。

    デスクトップの前での自慰や、不倫が漁に出る間のカーセックスというのが妙に生々しくて良かったです。最初から狂っているのがノスタル爺らしく納得です。

  • 投稿者 | 2023-11-23 17:41

    もしかしたら、早すぎたのかもしれないなあ。と思いました。時代に対して早すぎる考えだったのではないかと。そんな風に思いました。いや、今でもそういうのはあるのかもしれませんけども。ガチガチで。ある所にはあると思いますけども。あと、リード文の感じと本文の感じが全然違うじゃないかと思いました。テンションが違うじゃないか。と。まあ、私も他人の事言えないですけども(笑)

  • 投稿者 | 2023-11-24 22:29

    Windows95やデジカメを使う世代なのだから、ノスタル爺とは言えないんじゃ?と思った自分が悲しい。昨日のことのようですが、30年近くも前なのでしたね。
    昭和の影を色濃く引きずった漁師町の雰囲気がよく出ていました。それにしても「エビのインターネット販売」を目指して裕美子を殺したわりには、あっさり警察に就職を決めるあたりがノスタル爺なのですね。

  • 投稿者 | 2023-11-26 16:41

    セリをしていたりツナギを着ているということは体育会系なのか?という感じを読者に思わせるので、後藤の「ようオタク」の呼びかけに少し?となってしまった。「久作、父ちゃん帰ってくっか?」とは誰のセリフでしょうか?多分母だと思いますが、そうすると、母はボケていることの伏線をもっと張った気がいいかもしれません。「伊勢エビ漁師・久作のホームページ」を漁師である僕が作っていることは別に”オタク”なのか?と思います。
    いきなりのオナニーシーンで面喰いました。なにかクッションがあってもいいと思います。なんだかピアノと漁師とHPと…というのがうまく整頓されていない気が…。「嫌や、いつかインターネットでエビを売る日がくる」って結構なビジョンを持ったマトモな若者だと思うので、やっぱりオタクと罵られるのはちょっと可哀想だなあという気も。
    なぜか、ユミコを殺してしまいました。
    ユミコがいきなり出てきて死んだので、ここ補完が必要かもしれません。

    • 投稿者 | 2023-11-26 16:42

      妹が死んだ謎もありますが…合評会でまた聞かせてください。

  • 投稿者 | 2023-11-26 18:54

    インターネット老人会としては細かなディテールの緻密さに感動すら覚えました。「ネットなんちゃら」などと言えているならまだ興味が少しはある方なので、まだ将来性はありますが、Webサイトの有用性を上の世代に説明することの難しさは90年代後半ならではのよい小道具だと気付かされました。

  • 投稿者 | 2023-11-26 23:29

     海辺の田舎町を舞台にした昭和の文学作品というテイストを感じたが、漁業の未来を見据えている主人公がなぜ殺人に走るのか、首を痛めている素人が一撃で人を殺せるものなのか、警察の捜査はそんなに甘くないのではないかなど、いろいろ気になった。

  • 投稿者 | 2023-11-27 03:24

    漁村を変えるために殺人に走るのが突拍子もなく狂ってるなと思いました。それと個人ページで2万以上もアクセスがあるなんて羨ましい。沢雉さんも昔のネット環境を話し出すと止まらない口っすね。私もです。

  • 投稿者 | 2023-11-27 11:33

    そういう殺人の動機もありうるかもなあと思いました。なんとなく昔の阿部和重のテイストを感じました。

  • 投稿者 | 2023-11-27 14:01

    私もインターネットでの海老販売に腐心して裕美子を殺したのに、あっさり警察官になっちゃうのか!と意外でした。
    関連作品のリンクとかがあるとパッとわかりやすいと思いました。記憶が朧気で私がノスタル婆になりそうです。まとめて読みたくなりました。

    • 投稿者 | 2023-11-27 17:24

      すんません、一応過去作を読まなくても単独で楽しめるように書いているつもりなので、敢えてリンクは示しませんでした。ノスタル爺ファンの方はこちらをご参照ください。
      G線上の…… https://hametuha.com/novel/49799/
      G線上の事故物件 https://hametuha.com/novel/62415/
      G線上の大脱出 https://hametuha.com/novel/66362/

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