精神エネルギー保存の法則

合評会2021年09月応募作品

河野沢雉

エセー

4,286文字

合評会2021年9月参加作品。ジャンルを評論にしようか迷ったのですが、内容と文体が限りなくエセーなのでエセーにしました。
[アイキャッチ画像:ヒトラーの飼い犬、ジャーマン・シェパードの『ブロンディ』写真より模写]

次回合評会のお題は「ホロコースト」

そう聞いた僕の脳裏に先ず一冊の本が思い浮かんだ。おそらく、ホロコーストについて何かを書くとすれば、その本なしでは無理だろう。と、僕は直感していた。

『自由からの逃走』(エーリッヒ・フロム著/日高六郎訳/東京創元社刊)という書物である。合評会が終わり、風呂に入りながら僕はその本に書かれていたことを思い出そうとした。ところが、学生の頃に通読しレポートまで書いたことがあるのに、内容がちっとも頭に残っていない。風呂から上がると、およそ四半世紀も本棚の肥やしになっているその本を僕は探した。折角さっぱりした身体がエアコンをつけていない部屋で本棚をひっくり返したせいで忽ち汗だくになってしまう。それでも本は見つからなかった。

何処か積ん読本と一緒に段ボールの底に沈んでいるか、知らない間にブックオフ行きの束に紛れて手放してしまったのか、定かではない。それ以上探す時間も気力もない僕は仕方なくアマゾンで検索する。Kindle版があることを期待したが、残念ながら電子書籍にはなっていなかった。かつて所有していた本をもう一度購入する行為に若干の罪悪感を覚えつつ、新訳版だからと自分に対する言い訳を指先に込めて実体本をポチる。

翌日、アマゾンプライム便の封筒が郵便受けに放り込まれていた。

 

 

ここで、『自由からの逃走』と著者フロムについてバックグラウンド情報を記しておく。大学で西洋哲学を専攻してましたけど何か? みたいなノリの人には釈迦に説法だと思うので、次節まで読み飛ばしてもらっても構わない。

フロムは1900年に当時のドイツ帝国で生まれたユダヤ系の人である。大学でマックス・ヴェーバーの弟やヤスパースに師事し、精神分析の道に進む。ナチスが政権をとると、スイスを経由してアメリカに移住。『自由からの逃走』は1941年にアメリカで上梓された。1941年といえば前年にフランスなど西ヨーロッパ諸国が占領され、日独伊三国同盟が締結され、ナチス・ドイツが最大版図を形成していた頃である。つまり全世界が「ナチスつええ、やばい」って戦々恐々としていた時期に、書かれた本だ。

それまでのんびりと(かどうかは知らないが)マルクスやフロイトの研究をしていたフロムはここに至って焦りまくる。何がやばいって、ナチスが独裁者とその取り巻きという一部の人間によって恐怖支配を行っているわけではなく、ドイツ国民が積極的であれ消極的であれ、ナチス台頭の引き金を引き、いまもなおその体制を支えているという事実が、やばいのである。

かくしてフロムは『自由からの逃走』を緊急出版した。ちなみに同じくユダヤ系であるフロイトは、周囲の親切な人たちからナチスへの恭順や国外への亡命を勧められるが、やめときゃいいのに「逃げも隠れもしない」と意地を張ってウィーンに居座ったためにせっかくの親切も台無しになり、仲間の研究者や四人の実妹たちがガス室送りになってしまう。結局フロイト自身はイギリスに亡命し、そこで客死した。

 

 

さて、『自由からの逃走』を一言で要約すると、表題の通り「なぜ人は自由から逃げるのか?」という考察がなされている。ものすごく大雑把に言えば、「自由は不安定で面倒くさい。だから人は何かに従属したり依存したりすることによって、自由を捨てて安定を得る」のだそうだ。

ここで疑問に思うのは、自由と安定は完全なトレードオフの関係にあるのか、という点である。フロムの文章は回りくどいのでいまいち要点をつかめないのだが、どうやら彼はトレードオフ関係が成り立つ、と考えていたらしい。これはフロイトの影響であろう。フロイトは人間の精神にも「質量保存の法則」「エネルギー保存の法則」みたいなものを適用したがっていたようだ。当時最先端の科学知識であった、すなわち「イケてる」学問である物理学の分野でもてはやされている法則を心理学にも準用することで、怪しげなものを一気に真理っぽく見せる効果を期待したのだろうか。

実は僕自身も、フロイトなんか一ミリも知らない頃、具体的には高校生の時に似たような説を唱えていた。当時、スクールカーストの底辺にいた僕はどうして世の中はこうも不公平なのだろうと思い悩んでいた。そこで到達したのが「精神エネルギー保存の法則」だ。今でも当時のメモが残っている。

 

☆精神エネルギー保存の法則☆

・第一法則 誰かが幸せになれば他の誰かが同じだけの不幸を請け負っている

・第二法則 同時に過大評価されるものと過小評価されるものがあった場合、各々が感じる不本意の度合いは同等である

 

みるからに厨二くさいが、その時の僕は大真面目だった。いつか論文にまとめて発表してやろうと思っていた(どこに?)。いや、当時の僕も馬鹿馬鹿しいとは薄々感づいていただろうと思う。それでも、大上段に構えてそれっぽい理屈を大風呂敷にして広げるしかなかったのが底辺なのである。人間は抑圧されるとどんな馬鹿げたことでもやってのける。奇妙にも、第一次大戦後にドイツが受けた連合国からの抑圧、ナチス時代にドイツ国民が受けた抑圧は、僕が個人的に受けていた抑圧と相似形を成していたわけだ。

 

 

さて話を本題に戻そう。

フロムは人間の自由獲得のプロセスを個人の人生にたとえる。人は生まれ落ちたとき、親に完全に依存している。おっぱいを飲まされなければ死ぬし、夏の車内に放置されれば死ぬし、真冬の屋外に放置されればやっぱり死ぬ。親の庇護を離れるまでには相当の歳月と本人の親離れ努力、そして親の子離れ努力が必要だ。だが、そうやって子供がようやく親から独立した時、すなわち個体としての自由を獲得した時、彼または彼女は社会という新たな不自由の中に自分を発見するのだ。

社会というのは厄介だ。それは時として個人を圧し潰す強大な力にも見えるし、庇護者の顔をして現れることもある。時として冷徹なまでに無関心を装って通り過ぎることもあれば、箸の上げ下げまでいちゃもんをつけてきたりする。

ああ、不自由だな、と僕たちが感じ始めるのはそんな時だ。せっかく親への依存というがんじがらめの状態から自由を獲得して飛び出したというのに、飛び出した先は親なんかよりもっと複雑で得体の知れない「社会」ってやつなのだ。

社会という壁に突き当たった僕たちは二択を迫られる。ひとつは社会への依存度を減らし、ステータスを自由に全振りする。もうひとつは社会にとって都合の良い人間になる代わりに、社会が提供する福利厚生を最大限に享受する選択である。

 

現代のように複雑化した社会では、後者を選んだ方が端的に楽だ。

勿論、社会にいいように使われるのは言うほど簡単ではない。そのためにストレスを溜めて鬱になったり自殺したり人を殺すようになったりする。最近でいえば、小田急線車内で無差別に人を切りつけたミソジニストもそういった社会の犠牲者という側面があるだろう。

だがそれでも、社会の保障する「言いなりになった見返りとしての制限された自由」を捨てて「ほんまもんの自由」をつかみ取ろうとする試みは、あまりに困難だと言わざるを得ない。余程、完全なる自由を志向してその大いなる価値を信奉する揺らがない覚悟をもたぬ限り、この険しい道を行く動機にはならないだろう。

 

 

僕の筆名「沢雉」も実は右に述べた「制限された自由」と「ほんまもんの自由」の間で揺らぐ自分を表象している。一応由来を記しておくが、漢籍の素養は四書五経を諳んじるレベルですが何か? という向きには釈迦に説法だと思われるので、次節まで読み飛ばしてもらって構わない。

 

『荘子』養生主篇第三

澤雉十歩一啄 百歩一飲 不蘄畜乎樊中 神雖王不善也

 

(読み下し文)

澤雉は十歩に一啄し、百歩に一飲するも、樊中にやしなわるるをもとめず。神はさかんなりと雖もたのしまざればなり。

 

(意訳)

野性のきじは十歩あるいてやっと餌にありつき、百歩あるいてやっと水を飲めるが、それでもカゴの中で飼われたいとは思わない。飼われていれば滋養は足りて気力は旺盛になるけども野山を駆け回る歓びはないからだ。

 

さて、どうだろう。プロアマ問わず文士のはしくれとしてどちらを選ぶかはなかなか厄介な問題である。文豪と呼ばれる作家の中には、実家や出版社やその他パトロンに寄生して自堕落な生活を送っていた人もあれば、賤業に身をやつして日銭を稼ぎながら原稿を書いていた者もいる。小説家に限らず、例えば晩年のモーツァルトだって借金に苦しみ才能を切り売りしながら作曲をしていた。

 

 

話は芸術家にとどまらない。

国民、と要約される人類は未だこの軛から自由ではない。

国家がなくなれば僕たちは自由になれるのか、というとそういう話でもない。

アナーキズムは自由のひとつの形だが、僕は昔から、無政府という考え方には重大な陥穽が潜んでいると思っている。二十世紀のとある巨大な教祖はImagine all the people云々と歌い、皆が唱和した。だが彼らはひとつの厳然たる事実を忘れてはいまいか。

 

人は、自分と似ているものを最も苛烈に攻撃するのだ。

 

自由を愛する僕たちは集ってワンワールドになろう、という考え方ほど危険なものはない。

犬を愛する人々が集まってワンワンワールドを作った方がまだしもだ。

後者はせいぜいレトリバー派がチワワ派を虐殺する程度で済む。

前者は最後の一人になるまで殺し合うであろう。

 

同族嫌悪は人類にDNAレベルでインプリントされた本能なので、遺伝子組み換えでもしない限りどうしようもない。唯一の救いは、通称「幸せホルモン」と呼ばれるオキシトシンの機能がこの嫌悪を幸福で上書きしてくれるというバグが人類には存在することだ。

あくまで個人的な想像であるが、ユダヤ人を焼いたりガス室に送り込んだり、小田急線で人に切りかかったり、無政府状態で殺し合ったりする人々にオキシトシンを大量に分泌させる何かをすれば、少しでも悲劇は防げるのではないだろうか。

余談であるが、犬は人間以外で唯一、人間にオキシトシンの分泌を促すことができる動物らしい。だからワンワンワールドはオキシトシンパラダイスをこの世に現出させるのに、案外都合が良いのかも知れない。

だが僕は猫派なので、残念ながら参画できそうにない。

ちなみにヒトラーは犬派でジョン・レノンは猫派だったらしい。

2021年9月1日公開

© 2021 河野沢雉

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"精神エネルギー保存の法則"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2021-09-18 09:14

    沢雉さま。ペンネームの由来が分かって嬉しいです。フロイトが最後のギリギリまで逃げなかったというのは聞いたことがあります。たくさんの優秀な学者や芸術家がホロコーストで亡くなったのは有名な話ですが、聞いたところでは、彼等の宗教が「自己実現」を目標に掲げているから、みんな子供の頃から努力をするということです。ほんとかどうかは知りません。それから私が聞いた話では、オキシトシンは猫でも小鳥でも、更には植物でも、愛でれば増加するそうです。ほんとかどうかは知りません。ちなみに私は猫派です。ひろしという猫を飼っていました。腕白小僧でした。

  • 投稿者 | 2021-09-20 03:24

    小田急サラダ油の事が出てきて、うれしくなりました。私も別所で小田急サラダ油の事を書いたことがあって、でも不謹慎かなと思ってたんです。まあ、別にあの方を信奉するとかそういう内容じゃないんですけども。でも、やっぱりこうやって書く人もいるよねえって思いました。あと自ら創造したワンワンワールドを自分は猫派だからっていう理由で簡単に切り捨てるの好きー。

  • 投稿者 | 2021-09-22 18:03

    ワンワンワールドでオキシトシンドバドバの世界を想像してしまい、ラストに持って行かれてしまいました。私も猫派なのですが、最近犬にも心揺らいでいます。
    浅学なので、ホロコーストからこの話に繋がっていくのにとても感心しました。そしてそれでいて、小難しさもなく分かりやすいので、すんなりと自分の中に入ってきました。

  • 投稿者 | 2021-09-22 21:03

    恥ずかしながら『自由からの逃走』はマストと言うべき名著でありながら未読です。が、スクールカースト底辺に押し込められた抑圧から生まれた思想だとおっしゃる「精神エネルギー保存の法則」は案外世の中に瀰漫しているように思います。我々は「誰にでも価値がある」などと言われるとそこに胡散臭さ、さらには偽善をも感じますが、「誰にも特別な価値など無い」と言われるとそりゃそうだと納得しがちではないでしょうか。この法則の立脚点はまさにそれであり、しかし「自分には何の価値もない」という意識こそ致命的な害を及ぼすように思います。
    それはともかく、結びのくだりが個人的に少々不満でした。これでは『自由からの逃走』を読んでみようという気にはなっても、特にこのエッセイで言われていることをよくよく吟味してみたい気にならないと言いますか、当たり障りのない「最初からわかっていた結論」と言いますか……希望を化学物質に見出すというのも現実的な処方と言えばそうなのかもしれませんがどうなんだろと思ってしまいました。
    ちなみに自分も猫派で、実は犬は大嫌いです。

  • 投稿者 | 2021-09-23 18:49

    おもしろかったです。いつも小説を読ませてもらっているので著者の考えを知ることができて新鮮でした。私は小説の中に言いたいことを書いてしまう方なので、これだけまとまったものを面白おかしく書けるのは羨ましい限りです。
    ちなみにアナキズムは無政府よりも無支配と訳されることが最近は多いようです。アナキズムは自由の形の一つですが、その逆で国家や政府や法律は支配の形の一つになるかと思います。どれだけ優秀な人材で政府を組織し、かつ平和な国家を作り上げても、税金を払わないという「自由」を行使すると捕まります。卵が先か鶏が先かじゃないですが、犯罪が先か法律が先か、支配が先か無支配が先か、ホロコーストそっちのけでそんなことを考えてしまいました。

  • 投稿者 | 2021-09-23 22:59

    味わい深くいろいろなことを想起させられるエッセイです。
    何を隠そう、『自由からの逃走』は学生一年目で課題図書に出されて、もっともらしいレポートを提出して「優」を貰ったはずなのですが、それ以外の記憶が全くありません。
    質量保存の法則の変形版として、「お前が今腹一杯食ったそのせいで、世界のどこかで誰が飢え死にする」なんてことも吹き込まれました。
    荘子の澤雉のくだりも良いですね。小さくても独立独歩、と言う思想は、秦の始皇帝以降、統一原理が主流となった中国からは消えていったように思われますし。大中国大統一原理。中国人の多くはこれの前で思考停止します。これまた「自由からの逃走」に思われます。
    思考停止して楽に生きる道を選び、ホロコーストを招いたことを思えば、昨今の我らの社会も全く危うい気がしますね。ここは猫に平和の道を託すしかないのでしょうか。

  • 編集者 | 2021-09-24 22:29

    『自由からの逃走』、恥ずかしながら未読ですので読んでみます。ホロコーストに関して、全体主義というのは確かに大きい要素かと自分も考えます。ペンネームの由来が格好良いですね。余計かもしれませんが、高校時代のことを私小説にすると面白そうな気がします。

  • 投稿者 | 2021-09-25 10:09

    私もフロムは大学生の時に読んだ。フロムを学生に読ませる知的流行は世代的な意識を露呈させるのかもしれない。私は辺境の大学生だったので、たぶん流行が多少遅れて届いたのだろう。流行に乗る場合も、支配に順応する場合もそうだが、内側にいる人間は自分が特定のイデオロギーに加担していることをなかなか意識できない。当時のドイツ人に「あなたは自由よりも支配を望むのか?」なんて問いを突きつけたら、ひょっとしたら自由がいいに決まってるなんてうそぶくかもしれない。これを書いたあなたやこれを読む私が今まさに加担してしまっているものは何だろう、なんてことを考えながら読んだ。

  • 投稿者 | 2021-09-25 16:20

    勉強になりました。フロイトについては少し知っていましたが、フロムについては初めて名前を聞いたほどの浅学の私でも、とても分かりやすく説明されていて流石だなあ、と。

  • 投稿者 | 2021-09-25 18:24

    フロムの自由についての議論から、国民の問題へ議論を広げられた終盤を特に面白く読みました。制限された自由とほんまもんの自由から語られるアナーキズム批判に納得いたしました。他方で、ホロコーストは制限された自由の中で、もっと言えば、制限された自由を体現する国民国家体制の限界から生まれたと思われるので、制限された自由(国民国家)も、ほんまもんの自由(アナーキズム)も、どちらも悲劇につながるということなのかなと思いました。民族同化も多文化主義もどちらもパーフェクトでない理由が、このあたりにありそうだなと思いました。大変考えさせられました。

  • 投稿者 | 2021-09-26 10:10

    ここめっちゃ好き>犬を愛する人々が集まってワンワンワールドを作った方がまだしもだ。鈴木さんのキャラが僕の中で明確になったのでとてもよかったです。

  • 編集者 | 2021-09-27 20:14

    フロムの話も興味深いのだが、後半の同族嫌悪の話が身に染みた。この歯車から逃れられないのかと思うと辛い。

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