天と地と僕

合評会2023年05月応募作品

河野沢雉

小説

4,077文字

2023年5月合評会参加作品。キリスト教にはあまり詳しくありませんが、これはそういう作品ではないです。

――中国天主教愛国会が保定市教区司教に河北大学教授楚衛中チューウェイジョン氏(49)を任命。ローマ法王庁広報局は暫定合意を無視するものだとしてこれを批難。

 

僕はブルームバーグニュースでその記事を見つけると、居ても立ってもいられなくなり、すぐさま楚先生にメールを送った。具合の悪いことに、昨日まで普通にTLS※1でアクセスできていた日本のメールサーバに接続できなくなっていた。

HSBC※2武漢支店の片隅で、僕は金盾※3と格闘を始める。中国電信China Telecom中国網通China Netcomはだめ。日本とUSへのVPN接続も上手くいかない。こうして昨日まで使えていたサービスに突然接続できなくなるのはよくあることだったが、全人代開催中とかならともかく、四月の何でもない平日というのがちょっと分からない。

ダメもとでTor※4も試してみるがやはりブリッジノードにTCPが通らない。結局、携帯に香港版中国聯通China UnicomのSIMを挿してなんとかメールを送った。

 

有先生信息

叫分开天地

但愿家人宁

我扭动身体

 

メールも当然検閲されているので、内容はそのまま書かない。検閲に引っかかりそうなメッセージを漢詩に扮して送るのは、相手にそれなりの教養レベルを求めるので誰にでも使える手ではない。五言絶句にしたためた先生へのメールは意訳するとこうだ。

 

先生についての報道を聞きました

先生の身は天と地に分かたれています

どうかご家族が安寧でありますように

私は遠くにいて身悶えすることしかできません

 

折しも今日は別のニュースが飛び込んできたばかりだった。HSBCのアジア事業を分離独立させるという提案が株主総会で否決されたというものだ。一従業員の僕にはどこか遠い世界の出来事という感覚だが、かねてから筆頭株主である中国平安保険がアジア事業分社化を働きかけてきていたのは知っている。彼らの目的は明らかだ。中国平安保険は政府すなわち中国共産党の強い影響下にある。アジア部門を欧米と切り離せば、より中国にとって都合の良い経営方針をとれるというわけだ。

銀行ほど権力の操作を受けやすい業界は他にない。ドイチェバンク※5も第二次大戦中はナチスの御用聞きだった。それが現在のようにグローバル化したビジネス環境になれば、各国の政府から受ける圧力は互いに矛盾して銀行は難しい舵取りを迫られる。ファーウェイのCFO訴追に際してHSBCがアメリカ政府に証拠を提供したのに対し、中国が猛烈に反発してきたのは記憶に新しい。一方では香港の民主化運動に関してHSBCは一貫して中国寄りのコメントを出しており、欧米からは中国共産党の手先と目されている。大きな収益を見込める中国市場で不利益を受けたくなければ、民主化運動を支持する立場は取らないように、という中国政府の圧力が背後にあることは想像に難くない。

どちらにもいい顔というのはできないのだ。

 

楚先生から返事が来るとすればすぐだ。来ないのなら、きっと先生はかなりまずい状況にあるのだろう。僕が落ち着かなげに待っていると、すぐに携帯がメールの着信を知らせて震えた。平文で、心配には及ばない、家族も元気だ、という短いメールだった。僕はとりあえず胸をなで下ろしたが、油断はできない。共産党の監視を想定して、当たり障りのない書き方をしているだけかも知れないからだ。楚先生の短い返事は僕の不安を増幅させるだけだった。

夕刻近い武漢の街を窓の外に望む。濃い靄のかかったビル群は藍鼠色に沈み、陰鬱な気分をさらに低く押さえつけた。

先生の奥さんは遼寧省出身で同じく河北大学でフェローとして働いていた。息子さんと娘さんはそれぞれ今年で十四歳と十一歳になるはずだ。僕が学部で先生に師事していたとき、何度かご自宅へ遊びに行った。まだ小さかったお子さんたちを先生は溺愛しておられた。

「アオイ、ちょっといいかい」

同じ部署の張に広東訛りの英語で話しかけられて我に返る。

「すまないけど、至急で口座開設を頼む」

この時間から口座開設の諸手続を始めれば残業は確実だ。本来なら張が自分でやればいい仕事だが、彼には二週間前に子供が生まれたばかりである。せめて一ヶ月くらいは、独り身の僕が残業を肩代わりしても罰は当たらないだろうと殊勝な気持ちになっていた。

「蝶野君、きみは中国で生きていくにはお人好しが過ぎる。日本ではそれでもいいのかも知れないが、ここではいいように利用されてしまうだけだぞ」

まだ二十過ぎだった僕に、先生は言った。先生は本気だったろう。純粋に僕を心配してくれていたのだ。

「先生は神に仕える身でありながら、隣人愛を否定されるのですか」

僕はまだ若かった。若いがゆえに、先生の気持ちも考えずに自分の理屈をふりかざしていい気になっていた。先生は悲しそうに俯くと、

「自分を愛せぬ者に隣人など愛せぬ」

と呟いた。

 

バチカンはヨーロッパで唯一、中華民国すなわち台湾と正式に国交を持つ国家である。宗教を全否定する共産党により中華人民共和国が成立すると、これと断交した。以来、中国国内の司祭職叙階について、中国政府とバチカンの間で対立が続いてきた。断交したにもかかわらずバチカンがここまで中国にこだわる理由は、十四億という「市場」規模にある。宗教にしてみれば信者数というのは力である。世界最大の人口をもつ中国での布教は、バチカンにとって大きな魅力であった。

一方で中国共産党はバチカンとの断交後、国内の宗教統制のため中国天主教愛国会を創設し、中国国内の唯一の公認カトリック教会とする。中国天主教愛国会はバチカンからは独立しており、ローマ法王庁からはカトリック教会として公認されていない。

長らく続いてきた中国共産党とバチカンの対立に俄然宥和の兆しが見えてきたのは二〇一八年、中国とバチカンの間に司祭叙任に関する暫定合意が交わされた時である。合意の内容は非公開となっているが、中国天主教愛国会の聖職叙階を中国とバチカン双方の同意のもとに行うといったものであるらしい。バチカンに公認されていない中国天主教愛国会の司祭をバチカンが認めるという矛盾した内容が、この件について抱えるバチカンの悩ましさを表していると言っていいだろう。この合意は二〇二〇年、二〇二二年と二度にわたり延長されている。

ちなみに司祭叙任権をバチカンから奪ったのは中国が初めてではない。フランス革命の後、ナポレオンが権力を握ると彼はバチカンの同意を得ることなくフランスの司教を叙任するようになった。ナポレオンの失脚後、叙任権はバチカンに戻されたが、この経緯があったため未だにフランスではフランス大統領が同意しなければローマ法王庁は司教を任命できない。

 

時計は午後七時を指していた。

フロアを見渡すと、僕の他に五人ばかりが残業をしている。どのみち今日中の口座開設はもう無理だった。KYC※6のために返答待ちをしている相手先が三件もあり、いずれも今日の業務は終了していると思われた。僕はPCをシャットダウンすると、上着を手に取った。四月も終わりに近づいたとはいえ、まだ夜は肌寒い。

そろそろ楚先生も帰宅している頃だろうか。僕は個人のものとは別の携帯をポケットから取り出し、先生の番号をダイヤルした。ぷつっ、と通話が繋がる音を合図に、通話の録音を始める。

「先生、こんばんは。蝶野葵です」

「ああ」

先生はそれきり黙っていた。無言のうちに、警戒心を露わにしている。

「大丈夫です、これは安全な回線です」

それを聞いてようやく先生はぽつりぽつりと話し始めた。

「困ったことになりましたね。地下教会の方はどうされるんですか」

中国にもバチカンとローマ法王を奉ずるカトリック教会がある。中国天主教愛国会に属さない教会は、中国では地下教会と呼ばれ違法だ。楚先生は僕を教えていた頃からずっと、地下教会の活動も行っていた。カトリックの聖職者であるにもかかわらず妻を娶り子供をもうけているのも中国共産党に対するカモフラージュだった。

「なあに、これまで通りさ。CPCA中国天主教愛国会の司祭になったからといって、神の愛を捨てるわけじゃない」

中国天主教愛国会は天、地下教会は地。僕が先生への漢詩に「天と地に分かたれて」と書いたのは、先生がこの難しい立場に立たされ共産党と地下教会の信徒の間で板挟みになっている状態を指している。

「しかし先生、バチカンは怒り心頭ですよ」

どちらにもいい顔などできるものではない。先生は、いずれ過酷な選択をしなければならなくなるだろう。それならば、いっそのこと教え子の僕の手でけりを付ける方が良い。

「覚悟は出来ているよ。私は神の愛とともに生き、神の愛のために死ぬだろう」

「それは、バチカンを選ぶということですか」

先生は長い間逡巡した。僕は乾いた喉を鳴らす音が先生に聞こえぬよう、唾を飲み込むのを我慢して次の言葉を待った。

「そうだ」

僕は通話の録音を終了した。「わかりました。奥様へも、よろしくお伝えください」と言い添えて電話を切る。

 

すぐに録音をアップロードして電話をかける。

「はい、武漢市共産党委員会」

無機質な男の声が応答する。

「楚衛中ですが、やはり反革命思想の持ち主です。ようやく証拠となる録音をとれましたので、今アップしました」

「よし、よくやった、蝶野。親愛なる同志習近平国家主席への多大なる貢献である。委員会はきみを高く評価するだろう」

「ありがとうございます」

僕は電話を切ると、深い溜息を一つついた。良心の呵責? そんなものはとうになくなっている。七年前、出来心から横領をやった。バレなければいいと思っていた。公安がやって来て、僕は終わった、と思った。逮捕され、形ばかりの裁判にかけられ、刑務所に入るのだ。そう思っていた。だが奴らは取引を持ちかけてきた。僕が楚先生の信頼篤い教え子だと知った党委員会は、先生の尻尾をつかむのに僕を利用しようとした。

「きみは中国で生きていくにはお人好しが過ぎる」

先生の言っていたのは本当だった。携帯を強く握りしめ、僕は家路を急いだ。

2023年5月15日公開

© 2023 河野沢雉

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"天と地と僕"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2023-05-17 23:30

    リアルな世界を作ろうという心意気が注番号の多さから伝わってくる。私もHSBCにお金を預けているので、ある意味中国共産党の協力者か。「先生は、いずれ過酷な選択をしなければならなくなるだろう。それならば、いっそのこと教え子の僕の手でけりを付ける方が良い」などと都合よく自分の密告を正当化する主人公のクズっぷりがいい感じ。

  • 投稿者 | 2023-05-19 21:08

    あーあ、本当にこんな奴いそうだな。最近の日中の国力の差からして、そろそろこんな連中が暗躍していそうだな。外国人のスパイなんて用無しになったら切り捨てられるのになあ、などと切なく思いながら読ませていただきました。
    ウチのダンナは上海人なんですが、ダンナの両親は山東省出身で中国共産党の「解放」前からプロテスタントでした。長老会か何かだったのかな、表立った組織等はなく、普段教会に行くこともなく、折に触れて静かに家でお祈りをしていました。比較的プロテスタントには寛容だった中国政府も、この頃は弾圧を強めているようで心が痛みます。

    話の進め方が相変わらず上手いですね。一見、本筋とは関係なさそうな「HSBCのアジア事業を分離独立」が述べられて「どちらにもいい顔はできない」と伏線を張り、やがて「中国天主教愛国会」と「バチカン」の天と地へ持って行ったのはハードボイルド的でかっこよかったです。

  • 投稿者 | 2023-05-19 23:02

    かつての教え子のユダ的な裏切りによって殉教するというのは、キリスト者の人生としてはむしろ理想的と言えるのかなあなどと、そんな事を考えました。好みの問題ですが、最初から蝶野くんが裏切りますという事をネタバレしてても、それはそれで蝶野くんの先生に対するアンビバレンツな感情や葛藤が描けて面白そうに思いましたが、それだと長くなってしまいそうですね。

  • 編集者 | 2023-05-20 23:48

    沢雉さんはビジネスライクな駆け引きを描く作品の印象が強い気がします。心理戦のようなことを生業にもされているのかなと思ったり。中国での宗教は確かに政治体制からしても大きな軋轢を生みそうですね。

  • 投稿者 | 2023-05-21 10:17

    前半の語り口からまさか共産党と繋がっているとは思いも寄りませんでした。中国はインターネット空間でも言論の自由ができないので漢詩によるメッセージのやり取りとかなるほどと思いました。

  • 投稿者 | 2023-05-21 10:36

    いつもの沢雉さんと違うテイストで新鮮でしたし、むしろ沢雉さんが慣れていらっしゃる感がありました。
    リンク貼る機能ってこんな感じで使えるんですね。勉強になりました。
    主人公の名前が華やかすぎて僕っ娘なのかと穿った見方をしてしまいましたが、知人の男児も葵くんですし、そんなことを言ったらポリコレに怒られそうですね。

    • 投稿者 | 2023-05-21 10:53

      本当は脚注付けたかったんですけど、破滅派は脚注機能がないようなので苦肉の策でこのような形になりました。
      男児でアオイは結構周りにいます。ハルカ、カエデなど中性的な名前は思ったより多いですね。ノエルなんて都市伝説かと思ってましたが普通にいますし……

      著者
  • 投稿者 | 2023-05-21 11:34

    馬鹿馬鹿しさと深刻さが共存する中で、こういった突飛かつリアリスティックな作品にどう対峙したらいいのか、笑い飛ばせばいいのか、深刻に受け止めて、語ればいいのか、考えさせられました。

  • 投稿者 | 2023-05-21 16:08

    信心と裏切りは宗教バトルの醍醐味ですねー。長めの作品ならこの後主人公が地獄に堕ちていくわけですが、今回はここまで

  • 投稿者 | 2023-05-21 16:11

    死んでからも、例えばあの世に行ってからもこういうことで揉めたくない。本当に揉めたくないって思いました。本当に思いました。心から思いました。

  • 投稿者 | 2023-05-21 19:07

     前段の説明の多い部分をもっと刈り込んで、緊迫した場面描写を加えれば、さらにいい仕上がりになったと思う。

  • 編集者 | 2023-05-21 19:25

    裏切りは様々な宗教で大きなテーマになっている。イスカリオテのユダ、提婆達多、善鸞……。その意味で重要なテーマに向き合っていると思う。

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