ラザロの曙光

合評会2023年03月応募作品

河野沢雉

小説

3,342文字

2023年3月合評会参加作品。テーマはゾンビ・パニック・ロマンス。ほとんど推敲なしの一発芸です。

「ラザロ徴候って知ってるかい」

僕はリースリングの新物をグラスの中で回しながら言った。美鈴は顔を斜め十五度に傾げたまま、首を振る。顔の横に垂れ下がった触角ヘアが膨らんだ頬から口許にかかり、それがなんとも色っぽい。

同時に、十五度というのは晋哉の首が永久に固定された角度と同じだった。二年前のあの日、美鈴を隣に乗せた晋哉の車はセンターラインをはみ出した対向車と正面衝突し、大破した。

「脳死になって、自発的に身体を動かせないはずの人がさ、手足を動かすことがあるんだって」

「そう」

美鈴は答えながら、気もそぞろな感じだった。誕生日くらい、嫌なことは忘れて綺麗な夜景と美味しい料理を楽しもうよ、と僕はドレスコードのあるレストランに誘った。僕の唯一の不満は、サックスにパールをあしらった、美鈴の一張羅を今日は着ていないことだった。そのスクープネックのワンピを最後に見たのは、晋哉が美鈴の誕生日を祝った時だった。

嫌なことは忘れよう、と言い出した僕の方から銀座の夜景に相応しくない話題を振っているのも、ひとえに彼女の仕打ちが受け入れ難いがためだった。

「ただの脊髄反射だという人もいるし、脳幹の働きによるものだという脳外科医もいる。脳ってのは、つくづく不思議な器官だね」

「その話、もう止めましょう」

美鈴はチョコペンで誕生日メッセージの書かれた大皿デザートの、最後の一片を口に運んでから言った。

「とてもおいしかった。ありがとう、統哉」

彼女は同じように言ったのだろうか。「ありがとう、晋哉」と。胸の中が、掻き回される。

食事を終えた僕たちは銀座五丁目に面したビルのエントランスに降りてくる。介助ヘルパーさんが、約束通り晋哉を連れて待ってくれていた。ヘルパーさんに手を繋がれた晋哉はパーカーのフードを目深に被り、静かに立っている。

「……連れてきてたの」

美鈴は晋哉の姿を見ると、そう言ったきり絶句した。

「しようがないじゃないか、兄さんの面倒を見られるのは俺だけなんだから」

僕は言いながら、晋哉の頭部を守るよう、フードの紐をきつくした。小さく空いたフードの開口部から見える暗闇には、何の光もない。晋哉の頭部の七割は「義顔」だ。事故で両眼と耳鼻口、大脳すべてと小脳の半分を失った。それでも生きていたのは奇跡だ。脳幹部が無傷で残った上、失血が最小限だったからだろうというのが担当医の見解だった。

担当医は「首なし鶏マイクを知っていますか?」と訊いてきた。知らないと答えると、医師はそのあらましを話してくれた。

太平洋戦争の終わった年、アメリカ・コロラド州の農夫が鶏を屠殺していたところ、一羽の鶏が首を切られた後も生きていたんです、と言って医師はタブレットで画像を検索して見せた。モノクロ写真の中で、二本の足でしっかり立っているそれは、確かに首から上がない。切断面は羽毛がせり出してきて、真ん中に気道と食道がひとつになってぽっかりと口を開けている。竹輪の端っこみたいな切り口だった。おそらく後頭部の脳幹すなわち視床下部・中脳・延髄が残っていたため生命維持機能に障害は残らなかったのではないか、というのが専門家の見解だそうだ。マイクと名付けられた鶏は、自分で餌こそ摂れないものの、胃に直接餌や水を流し込めば消化をして排泄もするし歩行機能に障害もなかったらしい。飼い主の農夫は胃に管を通して餌をやっていた。マイクは見世物小屋の人気者になり、農夫は月に4,500ドルを荒稼ぎした。4,500ドルは現在の価値で5万ドル以上だそうだ。

僕が今日、晋哉を連れてきたのは美鈴に晋哉のことをきっぱり諦めてもらいたいからだった。兄さんはもう人間の形をしていない。生きてはいるが、それは生命維持機能が保たれているだけで記憶を司る海馬も、思考や言語を司る新皮質も、完全に失われている。顔もない。それはもう晋哉じゃないのだ。

「私、もう帰るね」

美鈴はいたたまれない様子で、言った。これは想定の範囲内だ。そう簡単に晋哉のことを諦められないのはわかる。晋哉は生物学的にはまだ生きているのだ。だけど美鈴だっていつまでも立ち止まっていてはだめだ。晋哉のことは早く忘れて、先に進むべきだ。

「じゃせめて、送らせてよ」

美鈴は顔を上げ、僕と晋哉の顔――かつて顔があった場所――を見比べた。

「もちろん兄さんも一緒だよ」

美鈴は拒否しなかった。したところで僕が何かと理由をつけて三人で帰るように仕向けるのだと知っていたのだろう。晋哉とヘルパーさんをあとに従えて駐車場へと歩く道すがら、僕は右手を美鈴の左手に伸ばした。小指同士が触れるか触れないかの刹那、美鈴はすっと左手を引いた。

「美鈴」

僕は宥めるように言った。

「わかってるよ。俺はどうやっても美鈴に嫌なことを思い出させるに違いない。でもさ、それだけだと美鈴も、俺も前には進めないだろう。俺だって辛い。毎日兄さんの食道に通した管に流動食と水を流し込んでさ、溜まった粘液をスポイトで吸い取って、下の世話をしてさ。だけど幸せにならなきゃいけないんだ。美鈴も、俺も」

美鈴は左手を寄せてきた。僕はその手を握り返す。

「だから、毎年誕生日には必ず食事に誘うよ。いつか美鈴が、あのサックスにパールのワンピ着てきてくれるまで」

美鈴がはっと顔を上げた。その目には深い哀しみと戸惑い、拒絶、受容、救いを求める光がない交ぜになり、ゆるゆると銀座の灯りを照り返していた。

僕はそんな美鈴がたまらなく愛おしくなり、腰に腕を回して引き寄せた。

その時。

背後でヘルパーさんの悲鳴が聞こえた。その声に振り向いた周囲の通行人も、例外なく叫び声を上げる。

「兄さん!」

僕はパーカーを剥ぎ取られた晋哉の上半身を必死に隠そうとする。その勢いで「義顔」が外れ、カラー舗道のうえに乾いた音を立てて転がった。

晋哉の首から上が露わになっていた。顔や頭があるはずの部分には、何もない。頸椎から後頭部にかけての骨と肉がささくれ立った切り株のように屹立しており、垂直からちょうど十五度の角度に突き出している。断面の質感はよく写真で見るハワイの火山から流れ出る溶岩みたいで、真ん中に食道と気道が束ねられた穴がぽっかりと口を開けている。

「なんでフード取ったんですか!」

僕はヘルパーさんに詰め寄ったが、ヘルパーさんは「取ってません、自分でやってるんです!」と泣きそうな顔で言った。

そんなバカな、と僕は晋哉を振り返った。

晋哉は腕を振り回し、めちゃくちゃなステップを踏んで歩道の上を暴れ回っている。さらに多くの通行人がそれを見て、ある者は悲鳴を上げ、ある者は呆然と口を開けたまま動けず、ある者は歩道の上にゲロを吐いた。晋哉が移動するとその先にいた人々は逃げ惑い、押されて倒れる人もいた。

間違いない。晋哉は自分の意思で動いているのだ。

あり得ないじゃないか。晋哉に残されたのは、最低限の生命維持機能を司る脳幹だけで、自由意思なんて持っていないはずなのに。

僕は美鈴に駆け寄った。美鈴は突っ立ったまま晋哉の姿を信じられないといった様子で見ている。

「とにかく車で病院に連れて行く」

そう言って晋哉を捕まえようと駆け出す僕の腕を、美鈴が引いた。ものすごい力だった。僕はがっちりと腕をつかまれ、身動きができなかった。

「ううん、晋哉、うちに連れて行こう」

今度は僕が唖然とする番だった。本気か、と聞く前に美鈴は晋哉に駆け寄り、暴れる彼の身体を抱いた。晋哉は急に大人しくなった。

「うちに行こう。帰ったら、私、あのワンピに着替えるね」

美鈴に抱かれた首なしの晋哉は腕をだらんと美鈴の背中に垂らし、美鈴は彼の肩に頬を押し当てて笑っていた。触角ヘアが十五度に切り立った晋哉の延髄を撫でた。

周囲のパニックをよそに、抱き合う二人の顔は銀座の灯りを受けてスポットライトを反射するように、照り映えていた。

 

「それで、マイクはどうなったんですか」

僕が尋ねると、医師はタブレットを置いて言った。

「十八ヵ月生きました。見世物小屋の巡業先で、餌を喉に詰まらせて窒息死したそうです」

隣に座っている晋哉の右手首から先が、ぴくっと動いたような気がした。僕は気のせいだと思い、医師に礼を言うと、晋哉を支えて立ち上がらせ、手を取って診察室を出た。

2023年3月17日公開

© 2023 河野沢雉

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"ラザロの曙光"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2023-03-22 20:39

    推敲なしとはとても思えない出来です。首なし鶏マイクと晋哉を重ねる効果がすごく良いです。不気味だけどそうかもしれないと思わせて。三人の関係のたまらなさ加減といい、口がきけない晋哉も含めてそれぞれの思いが伝わってくるのもまたまた良くて。映画にしてみたい作品です。

  • 投稿者 | 2023-03-22 23:35

    いやぁこれは鈴木さんの話の中で一番好きかもしれません。
    首なしマイクの人間版がいたら……とは思いますが、それを上手くゾンビ・パニック・ロマンスというお題になぞらえて調理できているように感じました。
    案外一発書きのほうが上手くいくもんなんですかね。私も前回一発書きだったので……。

  • 投稿者 | 2023-03-23 04:56

    面白かったです!
    「親指だけになってしまった姫を愛し続けられるのか」みたいな話を作れないかなと考えていたことがあるのですが、全然できず、なるほどこんな風にうまくまとめられるのかと感心しながら読みました。さらに一発でさらっと書かれたとはおどろきです。

    多くの生物、特に哺乳類は頭部に顔と脳という二つの機能が集約しているから頭がないと怖いのでしょうかね。顔面の力ってすごいなと思いました。

  • 投稿者 | 2023-03-24 09:26

    担当医が晋哉の状態を説明するのに「首なし鶏マイクを知っていますか?」なんて聞くのがグロテスクで、その後の展開を予想させます。
    統哉の身勝手さに対する晋哉と美鈴の反応が気持ちよかったです。
    あと触覚ヘア、見てみたい。

  • 編集者 | 2023-03-24 17:56

    ラザロ徴候、初めて知りました。新約聖書の復活と掛けているのも面白いですね。首なし鶏マイクの話と絡めるあたりも上手いと思います。

  • 投稿者 | 2023-03-26 19:04

    ヘルパーさんも大変ですねえwww
    信じられない所まで駆り出されて、信じられない場面に立ち会って、詰め寄られて。辞めちゃうかなあ。いや、こんなことは普通なのかな。顔とかが無いだけで。意外と寝たら忘れちゃうのかなあ。

  • 投稿者 | 2023-03-26 22:57

    いやあ素晴らしかったです。時間の流れをぶった切らないで、医者のコメントのシーンを最後尾に置くあたり、好きな演出です。僕も映像で見たいです。

  • 投稿者 | 2023-03-26 23:43

    とても良かったです。首無し鶏マイクのエピソードが生きていて強烈な印象がありました。ものすごく細かい、本当にどうでもいいような話すると「ある者は歩道の上にゲロを吐いた」の一文だけが少し浮いてるような気もしましたが、そんなのは些末な事で見事な作品だと思いました。自分も難しいこと考えずに興の赴くまま一発書きでやればいいのかななどと考えました。

  • ゲスト | 2023-03-27 00:57

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  • 投稿者 | 2023-03-27 17:53

    色々と配慮が必要な表現だとは思いますが、あえて率直な感想を言うと、食べた直後に読むんじゃなかったという気分です。

  • 編集者 | 2023-03-27 19:56

    首なしマイクの単語見た時、嗚呼これはヤバイぞ、と思ったが、期待を裏切らない。晋哉だって人間なんだ、友達なんだ。

  • 投稿者 | 2023-03-27 20:36

    脳幹が生きていることで脳死にもならず、生と死のギリギリを攻めているところが秀逸。恋敵でありながらも、なんだかんだ兄を気づかって生かし続けている兄弟の関係にリアルさを感じた。

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