〽屋根まで飛んで 壊れて消えた
ビルが幾多も並ぶ。眼下に流れる数多もの群を分類するならば、然として同じ方向にのみ行く車と、多種多様の色彩 の蠢く上の黒点となる人。行く者、来る者の混ざり合う不気味な川には風がなく、この近年の我々を模しているかのようにただただ惰性で動き続けている様を見 れば、ゆったりとした流れも、本流であった激流から生ずるは些かの疑問もなく、それは当然なことなのかもしれない。
その川の上を行く我は、彼らのことを何一つ言えない程にひどく不安定な格好で、ただただ惰性でのみ漂う。
さて、もう少し眺めてみることにしよう。
水面には泡、洗剤のように消えぬ泡や流れに揉まれて弾ける泡。虹色にギラツク泡はアスファルトのような黒い水底を映す。ただひとつ、どの泡もたいていは今 にも割れそうで、これ以上膨らむことがけっしてない言わんばかりに身を小さくして、割れぬよう壊れぬように縮こまっている。身を寄せ合う泡は小粒となり連 なり、合わさり、交じり合い、互いに割れる外気に触れる面を一生懸命減らして身を守っている。
今や泡は蜘蛛の糸にもすがりて、遠くの泡と連ならんとして互いの必要なときに互いを認識し、糸の振動によって懸命に存在を認め合い、繫がりを保ち、あわよくば交わらんと欲している。
時には、蜘蛛の泡に飲まれて消えるものもあり、より一層同じ泡どうし集まろうとする。それにも関わらず、あまりにも弱くすぐに割れてしまいそうなものだから、かつての激流である本流に揉まれれば、手当たりしだいに自ずから弾けるのである。ぱちんぱちんや。
そんな泡々を眺めてから、高層ビルを覗けば、己を泡と忘れた泡がブヨブヨと小さな泡を押し、大きな泡に諂いしている。そんな窓がたくさん並ぶビルが幾重にも見える空を我はただただ漂う。
途中、強い風に出会った。この風は新たな時をつくるような風ではなく、この近代をさもしかりと言いたげな輩の戯風でしかなく、風にも関わらず潮と呼ばれるは、その辛さが故であろうか。
などと考えていると、風に揉まれるようにして我もまた虚空の彼方に消えにけり。
手足もげ、身体散りてなお、我ここにあり。それが死だ。それが詩だ。
風々吹けば、壊れて消えた。我、ガガンボなり。
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