芥川賞をとらぬまま芥川賞の選考委員になった、色好みで知られる男性作家が、文学賞の授賞式に参加するとかならず女性作家たちの手首を確認すると書いていた。誰もがそこに傷があるのだという。病院の待合室でその文章が載った文芸誌を開きながら、例にもれずじぶんの手首にも無数のためらい傷があることを思い、美咲は苦笑した。つまり、このときは苦笑できる心持にあったということだ。
こんなものは、文学の問題と無関係だ。
美咲はそう思った。じっさいにそれは、無関係というほかなかった。衝動が来て、カッターナイフで自分の手首に刃をむける行為には一筋たりとも文学のはいり込む余地がない。燃える痛みも、文学ではない。気持をしずめるために飲むいくつかの錠剤も文学でもなんでもない。美咲と文学の間には一切の紐帯が存在しない。それならそれでよい、と美咲は思った。そもそもわたしは文学がやりたいわけではないのだ。ただ、男を好きになっただけなのだ。それがはじまりであって、まだわたしははじまりにいるのだ。
美咲が芥川賞を受賞してから六年の月日が経った。そのあいだに、美咲が惚れた男は美咲のまえから姿を消した。そのとき男は二十歳をすぎたばかりで、大学生だった。それが、ある日とつぜんに姿を消した。男は、美咲に惚れた男に脇腹を刺されたことがあり、その男もゆくえをくらませていた。しかし、そのこととは無関係に男は姿を消した。アイルランドに留学するとのことであったが、美咲からすれば、ある日とつぜん、目のまえから姿を消して、きょうに至るまでの五年間、一度も連絡がないのだから、これはどうしたって留学ということばとは無関係としか思えなかった。美咲は、男の写真を捨てた。デジタルデータももれなく消した。自分が女であれば、それであたらしい恋に進めると思ったのであった。
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