其れは「ぬちぐすい」と云う沖縄料理を出す飲み屋であった。宮崎氏はカウンターで呑んでいたのだが、何時からともなく、気付けば隣に「その客」は座っていた。
「あんちゃん、逃げても仕方無いよ。」
其の嗄れ声で、宮崎氏は「その客」の存在を認めた。照明の赤黒い光を水面の如く湛えたスキンヘッドと、不自然な程に黒い瞳を有したその男は、「人間らしくない」と云う強烈な印象を宮崎氏に与えたが、兎も角は人間だと云う事にしてしまえば、歳としては六十程に見えた。建築系の作業着に身を包んでおり、その胸ポケットには煙草の箱が収まっている。それでいて手元にはピンク色のカクテルが置かれているのだから、どうにもチグハグであった。
「逃げる、とはどう云う事ですか。」
宮崎氏はそう問うた。警戒すべき処ではあったが、不眠が祟ってあらゆる事に現実感が無く、幾分かは、妄想に話しかけている心地であった。
「いや、俺はね、知らんよ、あんちゃんの事は。ただ、なんとなくおもった事を口にしただけだ。悪いネ、気にしないで下さい。」
「しかしその『逃げる』と云うのは、急所を突いています。」
宮崎氏は己に言った。
「何か悪い事したの。」
男の黒い瞳が氏を射貫いた。宮崎氏は、
「悪い事など何もしていません。少なくとも僕は其のつもりです。」
「なのに逃げているのかい。」
「変な話ですがね。」
「事によっちゃ、警察に突き出さなきゃいけないな。」
と言って「その客」は、ピンク色のカクテルが注がれたグラスの隣に置いた久米仙のボトルを開けた。そして其れを宮崎氏のグラスに注いだ。
「呑みなさい。とことんまで呑むんだ。」
宮崎氏は頷いた。
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